やぶくぐり様、今晩は。
17日は、「鬼山城」を目指しましたが数年前に健部町角石谷の寄城に行った帰りに、城跡と分からず山頂が切りはらわれていたので登ってみて城跡(陶磁器破片が有ったので)だろうと思って帰ってきたのを思い出し友人と苦笑して見てきました。その後「荒神山城」に向かいましたが当日、津山市生涯学習課主催のイベントに参加しての見学になりました。
天気も良く、充分見ることが出来ました。
有り難うございました。
やぶくぐり様は、作用に行かれたようですが「目高の築地」延々と続く土塁、南側のピークの土塁囲みの陣城いかがでしたか、二位山城から高倉山城間の尾根上には、堀切、土塁による遮断遺構が見られます。ただ高倉山にはこの尾根筋は遠く、私は南側の尾根を直登しています。高倉城の西側の尾根先(石井集落の上)は「高倉寺」の遺構のようで瓦片が散乱しています。
私は、5月の連休には再び岡山に行く予定ですが、「忍山城」の付城「陣山城」、「勝尾城(信倉城)」に付いて、遺構の状態、位置、登り口、等お教えいただけないでしょうか。
宜しくお願いします。
管理人様>
> 竹田の登り石垣はずいぶんと分かり易くなってしまった
> なと上から見て思うのですが
見方が悪かったのか、上からは全くわかりませんでした(泣)
管理人様から情報提供&激励を頂きましたので、今日リベンジしてきました。
下る尾根そのものは間違えていなかったようで、無事辿り着きました。
ただ、個人的には険しい道程でした。前回は軍手を車に置き忘れていたので
無理をしなかったのですが、その判断は正しかったです。はい。
管理人様がWebサイト内でお書きのとおり、撮影に難儀しました。何とかそれ
らしく撮影できたものを見てきた証拠(笑)としてお城さんマークにリンク
しておきます。
観音寺山城にも行きましたが、時間に多少余裕があったので猪崎城と福知山
城にも行ってきました。猪崎城は大きく綺麗になった安威砦という印象で、
何故か親しみが湧きました。福知山城は移築門を全て(ネットでヒットした
7つ)見てきました。そのため、余裕があったはずの時間がなくなり、高速
道路の渋滞に巻き込まれました・・・
ブレイズマンさん>
筒井順慶関係の城、私も見て回りたいのですが、今はせんとくんで道が混んで
いそうなので、様子見を決め込んでおります(汗)
個人的には、奈良県のお城は結構興味津々ではあります。あまり城巡りをして
いなかったせいもあり、行ってないところばっかりです・・・
それと、お父様は文筆業の方若しくは文筆業が本業ではないけれど関係する
本を執筆する方なのでしょうか。私は単なる事務職であるが故に「本を出版
できる人って、スゲー」とミーハーモードになります。
では、失礼いたします。http://picmate-club.panasonic.jp/p/20372/album/Ynioij_BhzAQ/photo/ohbacFYekRtQ/detail
ポリタンクさん、こんばんは。
竹田城の登り石垣、攻略おめでとうございます!
次は南千畳の南側にある畝堀と井戸跡なんていかがですか(^^
福知山城の移築門はあまり知りませんでした。
私も一度調べてみようと思います。
ありがとうございます。
霄漢さんから上月城周辺の情報をいただき今月の山城会は西播磨と決定。総員4名、晴天の中、上郡の白旗城に進む。赤松氏居館は寺、神社、広場になっている。苔縄城の石碑がなんでこんな所にあるか疑問。白旗城看板から進み橋の横に駐車。そのまま奥に進むと道を間違えて民家。少し戻ってゲートを開けて車道を進む。五輪塔のある屋敷跡地。近畿自然歩道を進むと谷底の岩道。尾根に出て左折。城域になる。縄張図を見ながら櫛橋丸の急登、堀切、二の丸、本丸、三の丸の土塁、堀切とじっくりと見物。小さいワラビ。登山者数人。さすがにでかい城だ。帰りは二の丸から石垣、井戸。足が笑いかけたが駐車場に戻って昼食。
駒山城の羽山登山口に到着。伸びた孟宗竹のタケノコが出迎え。ゆっとくと尾根道を登る。岩場。二の丸、本丸が見える。振り返ると上郡の街並み。良い道だ。縄張図片手に急登で本丸。大きな井戸郭、石垣が見どころ。三段の二の丸も周囲に石組。
ここで今日の山城会は解散。帰り道は佐用方向。上月城歴史資料館に駐車。登山口から急登。尾根筋に郭、堀切、郭、主郭と続く。供養碑。南の郭群。西へ郭を進むと二重堀切。下山道を下ると目地の築地への分岐。3時間半コースの表示。駐車場に戻り仁位山城へ。ゲートを開けて車で登る。縄張図のとおり、斜面に畝状竪堀の断面。畝状竪掘の上の郭は広い。アンテナ付近に駐車。郭を進み堀切、土橋。その先にも続いているみたい。道下の竪掘群も見逃せない。下り道で高倉山への取り付きを確認。やぶくぐりさん、こんにちは。
西播磨の城を攻め込まれましたか。
確かに赤松氏の居館跡に苔縄城の碑があるのは不思議
ですよね。
仁位山城の畝状竪堀はいかがでしたか。
岡山県の山城を熟知されているやぶくぐりさんから
見られて。
あそこからだと高倉山城にはほぼ平行移動らしいです
のでそれほど大変じゃないと私も聞いていますが、
1時間ほどかかるとか。
私は別途最短ルートからの高倉山城登城道を調べてる
のですが、また行かれる機会がありましたら教えてください。
お城巡りFAN、運営者様。
このページ楽しく拝見させていただいております!!
まだまだ行ったことのないお城ばかりです。
これまでは現存12天守はじめ、天守閣のあるお城をメインに廻っていますが、これからは城郭跡や縄張りを見る旅に出たいと思っています。
とりあえず今GWでは、白石城や二本松城あたりは行くつもりです。その周辺のいいお城・城跡にも行けたらと思っています。
またお邪魔します!!たこやきさん、はじめまして。
書き込みありがとうございます、「城めぐドットコム」
の管理人本岡です。
天守のあるお城の次は建物のない城跡や縄張りを
尋ねる旅ですか。
全然違った面白みが出てくると思います。
楽しんでくださいね。
福島県や宮城県には私も久々に行ってこようかと思ってます。ほとんど時間がありませんがいいお城に出合えれば
いいのですが。
また、面白いお城を廻られましたらその時のお話を
聞かせてくださいませ。
よろしくお願いいたします。
> 『城巡礼 盛者必衰 大阪48ヵ所めぐり』は既に購入済です
> (笑)
おーさすがですねー。
> 栗栖山砦については案内板&石碑にしか触れられていない
> のが残念なところです。せめて、案内板の真反対の山がそ
> れ、みたいな説明があればよかったんですが・・・。
まーその辺微妙な感じですよね。
あーそーそー、今日阪急ガーデンズのブック1stに行きましたが、な、なんとー、管理人さんの本が置いてあるじゃーないですか。いやー、うちの親父の本よりも売れているような気がしますね。
いい場所に置き直しておきましたよ。
さてさて、私の現在のテーマは、
・福井県
・奈良県
の城に行ってみたいです。奈良県は、筒井順慶関係の城をいろいろと見てまわりたい、福井県の城については、若狭武田氏関係と朝倉氏関係、北ノ庄 越前一向一揆関係に興味があります。
その辺にいっみよかなーと思っています。
では、では。
> 堀井城の件、また実行しましたら連絡させてもらいます
> ね。
いやー、めっちゃうれしいです。よろしくお願いします。
> 資料は手元にそろっているのですがなかなか行かないです
> ねぇ。
にひひひひひ、やっぱり日帰りはちと厳しいですね。
私は泊りです。お城さんマークに入れましたホテルは新しくてなかなか良かったですよ。
> また行かれた時の様子を教えてくださいませ。
了解しました。来週にまた行く予定にしていますので、帰り次第報告します。
今伊賀では5/5まで、忍者フェスタというのがやっていますので、忍者に興味ある人は是非行かれたらいいと思います。
私も忍者の格好したいのですが、天正の乱関係の城は、めっちゃいろいろあります。3-4ヵ所回ろうと思うと、さすがに忍者フェスタには参加できないかな。前回、忍術で雨を降らされてしまいましたが、予習はばっちりです。
にんにん。
続きがあります。http://www.hotel-grantia.co.jp/igaueno/
ブレイズマンさん、こんにちは。
めちゃくちゃ遅くなってますが、忘れてませんので(^_^;;
伊賀はやっぱり私には遠いです。
先日は同じく縁遠かった紀州に久々いけましたので
今度は行ってこようかなあ・。
管理人様
やぶくぐり様
こんばんは。
明日は、雨も上がり天気も回復しそうなので、津山周辺に行きます。有り難うございました。
霽漢様こんばんは。
岩屋城に3度も行かれているんですね。
管理人様の二番目のお勧めの「神楽尾城」は神楽尾公園駐車場が利用できる。東側登城口の杖の置いてある所から郭、土橋を通り概ね整備された城内になる。縄張図看板に描かれている範囲は半分程度。周辺のヤブ山も城域。
時間があれば津山市の北、旧加茂町知和にある「矢筈城(高山城)」もお勧め。神社の駐車場から尾根に登ると堀切。ここから2時間、標高756mの主郭まで約1.8キロの城が延々と続く。備中松山城とほとんど同規模。
途中の津山市堀坂の「医王山城」も岩尾寺からの道が整備され主郭まで30分。縄張図の看板がある。竪堀群がヤブに隠れているのが残念。
管理人様、今晩は。
お知らせいただきありがとうございます。
岩屋城には陣城も含め、3度行き調べました。
神楽尾城はまだです。
今、津山の荒神山城でも行こうかと考えています。
別件ですが、神戸市北区の「宅原城」周辺の開発が進む中、奇跡のように残っていました。
やぶくぐり様今晩は。
今度の、土曜日は友人と2名で津山周辺に遠征することになりました。
そこで厚かましいお願いですが、大阪からですので1〜2ヶ所しかいけないので、今までお知らせいただいた中でお勧めの城があれば、お教え下さい。お願いします。霄漢さん、こんばんは。
なかなか追いついてないので反応できてないのですが
個人指名だと申し訳ないので先に反応します。(^^;
私は岩屋城で十分楽しんでいただけると思いますよ。
岩屋で満喫したあとで陣城をさらに感動してしまうという
「これでいいのか?」感を味わっていただきたいと思います。
神楽尾城ももちろんいいんですが、あえて岩屋城で。
やぶくぐり様今晩は。
御返事、有難うございます。
近日中にきかいを作って行ってみようと思います。
上月城周辺の城ですが、有名な「二位山城」は別にして、毛利方のものと言われる「目高の築地」
「浅根山」(北西の尾根にも土塁囲みの陣城と思われる遺構が有ります)が見るべきものがありますが他は、明確に陣城と分かるものはないような気がします。まだ行っていませんが毛利(吉川)の本陣の
「宇根山城」も削平地のみ明確な遺構は無いようです。
陣城では有りませんが、二位山城の南、浅根山の東、絶好の場所にある「飯の山城」は畝掘りの城です。宇根山城の背後、杉坂峠にかけて陣城が無いかと思い皆田集落背後の「百々蔵城」に上りましたが、興味深い遺構が有りましたが毛利の陣城との確証は持てませんでした。
霽漢様こんばんは。
毛利系の陣城は訪問した範囲のみを紹介します。
上月城周辺は毛利と織田の陣城が沢山あるがほとんど未訪。
備中高松城付近の毛利援軍の陣城としては、「庚申山城」、「造山古墳城(土塁)」、「鷹ノ巣城(箱堀)」、「南崎天神山城」、「楯築陣城」、「長良山城」がある。
児島半島では、宇喜多の橋頭保の八浜城(二児山城)に対する「麦飯山城(登山道を登り切ると猛烈なヤブこぎ、隣の峰も城続き)」、「小丸山城(見所)」、「砂山城(峠横からずっとヤブこぎ)」。
高松城攻め前哨戦の備中忍山城に対する「陣山城(四駆軽なら横づけ)」、勝尾城(格子状の堀)、忍山相城(消滅)。
加茂崩れでの吉備中央町の備前勝山城(畝状竪堀)。
美作国の鬼山城に対する天神山城(山頂部を廻る切岸)。
美作岩屋城に対する年末城(田邉城、公園化)。
大寺畑城、小寺畑城に対する陣山(尾根のヤブこぎ、踏み跡を見失い疲労困憊)、茶臼山城(道無し直登)。
美作笹向城に対する金砕山城(谷のアプローチ長し、ヤブ)。湯原温泉の上の湯山城に対する大沼山陣(廃墟付近)。美作西屋城に対する西浦城(道無し直登)、小丸城(山側の堀切が道路化)。
などが挙げられる。
やぶくぐり様こんばんわ。
早速のご返事ありがとうございます。
ご回答の後段部分の毛利系の陣城についても、お教えいただければ幸いです。先日の10日は鳥取鹿野町の鹿野城に対する
毛利方の陣城といわれる荒神山城を見てきましたが、明確に毛利の陣城との確証を得ることができませんでした。鳥取、鹿野、羽衣石にかけて攻防があったと思いますが、他に上月城や高松城の毛利方の陣城にもあまり行っていないので、
お教えください、お願いします。
霽漢様こんばんは。
宇喜多系の陣城って難しいご質問ですね。美作国エリアでは津山市の旧加茂町にある毛利の主要拠点の「矢筈城(高山城)」攻めの室尾城、落合城(百々城)、佐良山城などは宇喜多氏と若桜城主の木下氏がかかわっているようだ。旧加茂町の資料では矢筈城の支城と攻守判別しがたい(両方に使われた)ように書かれている。
また、同じく毛利の拠点の津山市堀坂にある「医王山城」に対する鉢伏山城、末田城(烏山城、黒姫山城を加える意見もあり)も宇喜多系陣城。
鏡野町の「沖構」の毛利との取り合い関連で津山市戸島の下田邑局笠城も美和山城との位置関係から宇喜多系の陣城ではないかとの意見もある。
それから、津山市中島の「嵯峨山城」は織豊系として美作国エリアでは有名。
久米南町上二ケの「立畑城」も宇喜多の中継地の陣城。
宇喜多氏は毛利に離反してから岩屋城接収戦までの間、備前、美作の約100キロに亘る戦線での寸土を争う戦闘を繰り返してるので逆に毛利系の陣城もかなりあるように見受けられる。
先の投稿で書きました竹田城の登り石垣ですが、覚書として凡の位置情報の
URLをお城さんマークでリンクしておきます。
#参考文献: 西尾孝昌氏(1991)「竹田城の全山の縄張り調査 -総石垣周辺
#遺構の調査-」『但馬竹田城』(城郭談話会)
標高でいうと270m-280mの間になるようです。私が登り石垣と勘違いした
場所は標高300m付近と思われます。進入口ですが、これも私の勘違いでなけ
ればという前提がつきますが、獣道もどきがありますので、それを下れば
よいと思われます。進入口への経路ですが、遠回りになりますが大手口から
回った方が安全かもしれません。北千畳西側虎口からですと草木で覆われた
地面を下ることになりますので、帰り(上り)に利用する方がよいように
思いました。井戸曲輪から行くのとどちらが行きやすいかは比較していない
のでわかりません。どちらにしても滑落しないように用心して進むことに
なるとは思います。
以上、登り石垣見学経験のある方から補足や間違いのご指摘があると幸い
です。次回の訪問の際に活用させていただきたく所存です。(多分秋頃に
なるとは思いますが・・・)
最後に標高について(個人的に)悲しい事実をひとつ。次回に備えて標高が
わかるようなGPS装置が必要かなあと考えていたのですが、私が利用している
ポータブルナビ(SONY NV-U2)のシステム設定で表示する測位情報で高度が
わかることに今頃気がつきました。登り石垣との対面に必要な情報と機材は
今回の竹田城訪問時には既に手元にあったわけで、それらを有効利用できな
かった私の無能さを自覚することとなりました。とほほ。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
さっそくリベンジの準備が整ったようですね。
書かれている内容で大丈夫かと思います。
井戸を経由していくかはその時の草の状態で判断されれば
いいのではないでしょうか。
慎重に降りていってくださいね。
やぶくぐり様
お教えください。
織豊系の陣城を調べています。特に近年鳥取の帝釈山の陣城群を調べていく中で、その時間的後になる岡山の陣城にも幾つか行きました。高松の龍王山の南西の尾根の陣城、美作岩屋城の陣城、健部町角石谷の寄城などですが、いずれも宇喜多氏が関わっているようです、そこで先日の書きこみの中の「鬼山城」に興味がわきます、また他に宇喜多系の
陣城はありませんでしょうか、お教えください、
よろしくお願いします。霄漢さん、私も陣城は好きなので結構行くほうですが
宇喜多の陣城は何か特徴があるのでしょうか?
もしよかったらどういう点に注目されているのか
教えてくださいませんか。
本岡さんこんばんは、尾張の終わりです。今年の正月に姫路城を訪れた時にNHK大河ドラマの主人公に黒田官兵衛を推進するパンフレットを手に入れました。その内容はと言いますと、黒田官兵衛のゆかりのある史跡の紹介が載っていたりしています。また、石見姫路市長が昨年1月にNHK会長に大河ドラマ誘致の要望書を提出している写真が掲載されていました。これだけ見ていると本当に黒田官兵衛を主人公にした大河ドラマが実現するのではないかと思いました。また決まったら決まったらでこのサイトで黒田官兵衛役はどの俳優さんが演じたらいいか話し合ってみたいなあと思います。今のところ誰が黒田官兵衛役に適しているかは、皆目検討が着きません。今回はお城とは関係ないことを書いてしまいまして誠にスミマセンでした。こういう話題もたまにはいいかなと思いましたそれではまた。尾張の終わりさん、こんにちは。
NHK大河は影響力が強いので、地方活性のためにと
直談判するところもあるようですね。
私としては地元ネタが扱われれば嬉しいので黒田官兵衛
は大歓迎です。
お江のドラマがまだだというのに随分と早い話ですが(^^
ブレイズマンさん>
『城巡礼 盛者必衰 大阪48ヵ所めぐり』は既に購入済です(笑)
栗栖山砦については案内板&石碑にしか触れられていないのが残念なところ
です。せめて、案内板の真反対の山がそれ、みたいな説明があればよかった
んですが・・・。栗栖山砦がある山も私有地っぽい雰囲気は醸し出していた
(砦付近に所有者区分を示しているっぽい石棒があった)ので、配慮したの
かもしれませんね。安威砦のくだりは好感が持てました。
で、本題です。雲海目当て半分の前回は竹田城のみでしたが、今回は出石城
&有子山城にも行きました。
出石城は石垣がいい感じでした。ただ、先を急いでいたために左右の竪堀を
見損ないました。残念。因に、時間の都合上、出石そばは食べていません。
これまた残念。
有子山城は車道(通行してもよいのかは不明)で楽しようかと思いましたが、
「満喫するにはやっぱり出石城稲荷曲輪から徒歩でしょう!」という気合いで
臨みました。が、噂に違わずきつかったです。ただ、土橋を見ようと思ったら
このルートしかないわけで、結果的には目論み通り満喫できました。山上の
石垣も見事ですね。光の加減で昼以降の方が石垣観察に適しているかもと
思いました。本丸と千畳敷の間の堀切や千畳敷の先にある竪堀も見応え十分
でした。予定外だったのは、蛇との遭遇でした。もう徘徊しているんですね。
竹田城は花見客でごったがえしていました。花見客を尻目に、今回の訪問の
目的である登り石垣へ向かいました。山腹でそれらしいものを発見したので
「これかなあ?」と取りあえず写真を撮りましたが、帰宅してから管理人様
Webサイトの画像と比較するとどうやら違っていたようです(泣)
『但馬竹田城』(城郭談話会)で登り石垣の位置をある程度確認してはいた
ので、方角は多分間違えていないはずなのですが、残念。時間の都合上、
隣(北千畳の向こう側)の観音寺山城訪問予定を取りやめたので、次こそは
纏めてリベンジしようと思います。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
竹田の登り石垣はずいぶんと分かり易くなってしまった
なと上から見て思うのですが、どこを進まれたのでしょう?
私は1度は井戸を見ながら並行移動して北側へと移って
から降りたのと、もう1度は北千畳から降りました。
あのあたりは下草もないでしょうから、リベンジしてきてください。
桜吹雪のドライブ。美作市大町・馬形地区の5城攻略。
「高山城」は最近、吉備人出版が発刊された森本基嗣氏の「戦国山城を攻略する・・キャッスリング入門」に紹介され結構見所がありそうと最初に登城。井谷橋を渡り道脇の空地に駐車。高山城の標柱から直登。ヒノキ林は下草も少なく快適。約20分で南郭に至る。一段登ると両側に土塁のある郭。その上が広い主郭。南側に帯曲輪。東北に一段下がって堀切・竪堀。少し地山になり堀切・竪堀、南東に腰曲輪がある郭。箱堀。土塁のある郭と続く。東に曲がって三段。土塁、虎口、4っの連続竪堀。土橋。腰曲輪のある出丸。土橋。
次の「高畑城」は「高山城」の出城と記されている。
東側の池の北側の広くなっている所に駐車。城の北北東の段々の田圃から鞍部に進む。耕作放棄された段々畑。矢竹の猛烈なヤブだが踏み跡がある。鞍部からほぼ平坦な尾根を進むと小郭が前後にある郭。削平は甘い。浅い堀切を過ぎ、長郭らしき尾根を行く。急登になり郭群。資料にある土塁の廻る郭は見つけられず。主郭から東西に三〜四段。西に進み二つの竪堀。少し戻って長尾根を西に進むとここも長郭のよう。出丸らしきピーク。細尾根で一旦低くなり井戸跡のある小ピークの郭で終わる。帰りは来た道を辿って車まで。
県道を西に進んで大町多目的集会所付近に駐車。すぐ北側の小山が「星尾城」(別名、構え)。丘の先端の畑も郭らしい。竹林を登り三の壇。二の壇、主郭と竹を潜る。大堀切。郭、堀切。その北に二段目が墓地になった三段の郭。
車はそのままに、西の舗装道を歩いて5分で「別所城」のある神社の鳥居。ここも駐車可能。参拝道を北に進み石段、神社の境内。東に曲がると郭群。土塁、虎口、大竪堀。
神社背後の山には5箇所の丸石を平たく積んだご神体。ここが主郭。神社造成時に半分位切取られたようだ。
「星尾城」の100m東側にある平尾城は遺構見当たらずとあり、猛烈な竹ヤブなのでパス。
小学校東の工場から北上。道の左側の薪小屋から林道に入る。左折、左折で林道直進。尾根に至ると263mピーク脇を通る。車の腹をこすりながら約250m進むと林道分岐。ここに駐車して北側の峰に取り付く。「比久尼城」まで少しヤブこぎ。尼子氏の陣城らしい。棘の中に突然土塁の廻る郭。全部で5壇ある。城の西側は延々と土塁。比久尼城の標柱がある。尾根筋を搦め手(東方向)に降って林道に出る。ここは細尾根が道路になっている。堀切を探すも不明。山も、もう少しで葉が茂りだしそうな気配。
やぶくぐりさん、こんにちは。
その本買われたんですね。
岡山県の城行くなら必須だなと思い、私も持ってます。
高山城は散策しやすそうな感じですね。
あとは別所城くらいですか。φ(。。)
だんだん草が伸びてきて、選択肢が少なくなってきますが今期はせめて医王山城は行ってこようと思います。
いやー、ポリタンクさん有難うございます。
めっちゃ詳しい情報で助かります。
今度ぜひ行ってきます。
> このルートですと柵に気を使うことなく佐保城南西方向に
> ある石垣を拝むことは可能です。・・・が、道がややこし
> いので迷わないようにくれぐれもご注意ください。
絶対道迷います。栗栖山砦も、
越水城
↓
福井城
↓
栗栖山砦
という越水城起点の城めぐりのルールに合致しているから行ってみよかなー、と思っています。
『わがまち茨木城郭編』は知っていますよー。人物編もコピーがあります。
あと、
「城巡礼 盛者必衰 大阪48ヵ所めぐり」
という本も購入しました。栗栖山砦も少し掲載されています。
お城さんマークに入れておきましたので、チャックしてください。
では、では。
ブレイズマンさん>
栗栖山砦ですが、案内板&石碑の凡の位置をURLをお城さんマークでリンクして
おきます。職場の上司は案内板&石碑を発見するも、背後(南側)の山に砦が
あると勘違いしてしまったそうです。
進入口はお示しの位置であっていると思います。低い鉄条網を跨いでの進入と
なります。進入すると小道がありますのでほんの少しだけ歩いたら、左手にある
尾根を目指して登ると荊とかはましだと思います。最初に行った時は小道が無く
なるまで進んでから山を登り、斜面での荊との格闘となりました(泣)
尾根に到達するまでは少々斜面が急で且つ地面が滑りやすいのでご注意下さい。
尾根に到達したら所々にある黄色いビニールテープ(先人の遺産?)を辿って
尾根伝いに進むと砦につきますよ。(尾根を目指す際も大きめの木にビニール
テープがあったような・・・)
栗栖山砦の近くには他にも城跡が幾つかあります(管理人様Webサイトをご参照
くださいませ)ので、予め位置を確認しておけば纏めて見学できるかもしれま
せん。ただ、佐保城は最短距離で行こうとすると私有地に進入することになる
ようなので(佐保城はそれ自体が私有地かも)、佐保川の少々上流(上りの左
曲がりブラインドカーブ信号あたりにある橋)から進入する方がよいかもしれ
ません。このルートですと柵に気を使うことなく佐保城南西方向にある石垣を
拝むことは可能です。・・・が、道がややこしいので迷わないようにくれぐれも
ご注意ください。泉原城の土塁は学校の敷地内からでなく、学校北側にある
田んぼの畦道(プールそばにある畦道ではなく、もうひとつ向こうのそれ)を
伝っていけば到達します。
と、こんなことを書いていますが、私は佐保城には行ったことがありません。
そのうち行きたいなあと思ってはいますが・・・
なお、北摂霊園方面まで足を延ばせば、高山右近生誕地(大阪府豊能郡豊能町
高山)の高山城もあります。これも私は未訪ですが・・・
末尾にさらに余談ですが、大阪府茨木市界隈のお城を紹介した『わがまち茨木
城郭編』は茨木市役所若しくは市立文化財資料館で購入できます。特に後者は
土日も開館していますので、在庫があれば平日でなくても入手可能。資料館の
近所には沢良宜城もありますので、ついでに寄れますよ。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
詳しい情報ありがとうございます。
書いてくださったように、私有地への配慮は大事ですよね。
私は感謝しつつ(^^;、ありがたく登らせていただいております。
今日すこし時間がありましたので、前御紹介いただきました、栗栖山砦に行ってきました。
しかしですよ、全く場所が解りませんでした。
皆さんが見つけられている「案内看板」すら全く解りませんでした。
当初予測していた場所は全く別の山でした。
後でインターネットで調べたので解ったのですが、お城さんマークにある地点が登城の入り口で、この周辺に石碑があるということでしょうか。
ちょっと急に行こうかなーーと思った城で十分下調べしなかったのでこの有様。
次回チャレンジです。
では、では。ブレイズマンさん、こんにちは。
なかなか攻めあぐねてらっしゃいますね。
暖かくなると下草がつらくなってくるかもしれませんが
ぜひ再訪してみてくださいませ。
突然失礼します。
本日石山寺に花見に行きました。
その節瀬田川のリバークルーズした際に観光ガイドさんに瀬田の城の話を聞き、詮索したところこのHPに行き着きました。
さて本題ですが、
瀬田城あとの料亭ですが、現在はマンションになっています。
いく時流には勝てなかったとのことで数年前に料亭は閉店したそうです。
城の石垣の上にマンションが建って風情を見事に壊しています。
残念なことです。キノさん、はじめまして。
管理人の本岡と申します。
書き込みありがとうございます。
おっしゃる通り、瀬田城跡はずいぶんと変わってしまいました。
せめて城址碑だけでもと思っておりましたが、今やそれも
なくなってしまったのでしょうか。
岸和田古城もそうですが「ここに城があった」ことだけでも
残しておいていただきたいものですよね。
情報ありがとうございました。
管理人様
今日、約10年ぶりに神戸市北区の「宅原城」に行ってきました。
「宅原城」につてネットでいらべていたら、「茶臼山砦」の中で「宅原城」について一言コメントがありましたので久しぶり書き込みさせていただきます。
「宅原城」は確かに雑木林の中にありますが、歩けないような藪では無く、城(陣城)を囲郭する土塁は完存し充分見ることが出来ます。また以前は無かった城主の顕彰碑(石)が立っていました。周辺の開発(現実にすぐ北の丘が削り取られいます)がしんぱいでしたが、とりあえず安心しました。霄漢さん、こんにちは。
宅原城の情報ありがとうございます。
実は最近2度ほど前を通って、攻略を試みたのですが
駐車場所を決めかねて断念してしまいました。
書いてくださっているように、そばを開発中ですので
城跡が破壊されないうちに行かないとと思ってましたが
なんとか大丈夫なんですね。
また行ってみます。
ありがとうございます。
井原市に用事が出来、ついでに城めぐり。
井原市芳井町種の「備中・小屋の山城」は民家の裏の丘。送電鉄塔を目指す。芳井町史の縄張図のとおり見ごたえのある横堀が廻る。広い主郭と一段下がって氷川神社のある郭。延長約100m程度。
次に、近くの「城ケ蔵」へ。散歩していた地元の人に聞くと「何もないよ。」とのこと。急勾配の車道(4WDでないと無理)を歩いて登ると頂上は墓地。遺構らしきもの見当たらず。
三つめは井原市芳井町吉井の「正霊山城」。井原市役所吉井支所の裏。かなり刈払ってある。ここも芳井町史の縄張図を見ながら民家の間を通り登りつく。所々に郭。お堂のある郭が二の郭。急坂を登ると主郭。尾根先に竪堀と二重堀切。
総延長120m程度。
同じく芳井地区の「大仙山古城」に向かう。山頂まで車道。頂上は携帯電話のアンテナ群。ここも遺構見当たらず。
北に車を走らせ井原市芳井町川相の「中山城」に至る。川相小学校の先に駐車。ここも例の縄張り図を見ながら進む。看板がある。稲荷大明神の参道に入ると天神社のある郭。ここから雑木の中の道を進むと主郭の神社の境内に着く。神社の先に車道で半分つぶされた堀切一条。まことに素っ気ない。端から端まで150m程度。
更に北に向かい井原市芳井町下鴫の「井戸橋城」を訪ねる。延長150m程度だが北側斜面に畝状竪堀がある。径トラ程度なら主郭の神社まで登れる。フイットで強引に登ったがひや汗をかいた。西側の車道分岐のお堂からひがしに登ると郭が二段。堀切。切岸、小郭、二の郭、切岸、神社のある主郭と続く。石の標柱がある。下に腰郭。更に東に堀切、竪堀、土橋、郭が三段続く。
最後に井原市芳井町上鴫の「高原城」を訪ねたが、どうやら100m程隣の丘に登ったようで失敗。カルスト台地は石灰岩がゴロゴロしていて、ここはどの丘も石垣が廻る。やぶくぐりさん、だんだん暖かくなってきましたね。
お城(特に山城)への情報提供として、車でここまでいける
と何気に書いていて、ふと気付きました。
やっぱり車によって行ける/行けないがありますよね。
どう表現したらいいのか悩み中です。
ところでやぶくぐりさんは山城に行きやすいような車に
乗ってらっしゃるんでしょうか?
私は城攻め用にボロボロの軽を使うことが多いですが、
普通車だったら終わってたな、みたいなことがたまにあります(^^;
今回の山城会は小6参加の3名。朝、9:30に久米南町の道の駅「くめなん」集合。西側の山頂が「美作・草木城」500m程岡山方面に戻り北側の林道に入る。約700mで路側に駐車。道の反対側の堀切から取り付く。すぐ二つ目の堀切、切岸を登ると主郭、祠、帯曲輪。その先に三段の郭が続く。
車に戻って、仏教寺の横を通って国道53号と出会った広場に駐車。「美作・立畑城」への尾根道が続く。小6の方が元気。堀切、郭が二段、主郭。帯曲輪。主郭から二重堀切りに出る。振り返ると石垣。帰り道に春蘭の花。
3キロ程南西の久米南町山手の「美作・大植城」へ移動。民家の近くから入ると郭、堀切、土塁、郭と続きけっこう広そう。切岸、主郭に至る。フキの葉が目につく。会員から矢竹が生えていない城は珍しいとの話。
再び移動。土塁が廻っている城を見たいとの要望があり、誕生寺の「本丸城」と美咲町原田の「稲荷山城」を車中から眺めて美咲町上組の「美作・鬼山城」に至る。宇喜多系の城。団地の入り口に「鬼山城」の看板。川を渡り、鬼山城登山口の標識から登る。この城の縄張はアルファベットのBの字型になっている。折れのある鉄砲土塁が廻る。枡型虎口、帯曲輪、郭群。草が刈り払われて良く見える。一城別郭。
昼食は「美作・神楽尾城」にすることになり、「神楽尾城」の石仏峠駐車場に移動。雲行きがあやしいと話していると軽トラが駐車。挨拶を交わすと「神楽尾城を守る会」の方。4月18日に神楽尾城でイベントがあるとのこと。お城談義に花が咲く。神楽尾城の城域について貴重な情報を頂く。
石仏峠脇の溝が横堀との説明を頂く。堀底道が田邑往来、その南の尾根も遺構とのこと。旧、奥津町にある西屋城の登城道を神社から開設するのに手伝いに行き、10月までには完成する等々かれこれ30分も話し込んで三の丸に向けて出発。二重土塁、竪堀群、土橋と進み三の丸へ。急に雨が降り出し撤退決定。車中で昼食、道の駅くめなん駐車場に戻って14:00解散。やぶくぐりさん、こんにちは。
そのあたりは少し前に下見(結果的に)に行きましたので
イメージしやすいです。
草木城は行きやすそうだと思っていったのに場所が
わからず退散しましたが、やっぱりわかりにくそうですね。でも遺構は見ごたえありそうなので再度チャレンジ
したいと思います。
小学生の頃から中世山城は将来が楽しみか、途中グレて
近世しか行きたくないと言うようになるかもしれませんね。(どっちみち城好きにはなっててほしい)
うーん・・それだけのコースで14時解散ですか。
播磨からも無理なく遠征できそう。
雨でしたー。
全く城巡りできず。
悲しー。
又行きます。
では、では。なんと!
それはきっと伊賀忍者の術ですね。
次の機会を狙ってください。
ニンニン
初めまして。甲斐国在住の虎です。
昔から城、戦国時代、武将、合戦等々に興味があり、いつかのんびり「城廻り」なんてやってみたいなぁ〜、と思っていたのですが、会社勤め&子持ちともなると、自分の時間も持てずに、気が付けば37歳になっておりました(^^;
激務が重なったため、体調を思い切り崩してしまい、現在は
3ヶ月の自宅休養中です。
これを利用しない手はない!!と思い一念発起。2泊3日の単身車中泊旅行、続けて1泊2日の家族旅行で、いろいろな
お城を見てきました。
メジャーなお城ばかりですが、松本城、駿府城跡、掛川城、岡崎城、名古屋城、犬山城、岐阜城、彦根城、大阪城、姫路
城へ行ってきました。
石垣や建物を外から眺めているだけで、時間が経つのも忘れ
てしまうくらい、のんびり眺めいたくなってしまうのはなぜ
でしょうか??
やっぱりすきなんですねぇ(笑)
それと、お城めぐりには案外体力が必要なことを改めて実感
してきました。さすがに37歳ともなると、天守までの道程
が結構きついですねぇ〜。
ちなみに「甲信地方」でお勧めのお城といえばどちらになる
のでしょうか?ぜひ教えていただきたいと思います。甲斐の虎さん、はじめまして。
書き込みありがとうございます。
管理人の本岡と申します。
自宅休養中なのにお城って・・・すばらしい城人ぶりですね。
でも大丈夫ですか?
>甲信のお城
あまり行ってないので行きたいなぁと考えているのは
山梨ですと白山城、要害山城
長野だと松尾古城、真田氏本城、上田城(再訪)など
狙ってます。
めったに行けない場所なのでベストなシーズン、日程で
挑まないといけないのでしょうね。
またお城の話で情報交換させてください。
今後ともよろしくお願いいたします。
> 兵庫県内にあるお城(陣屋、台場含む)で国の指定史跡と
> なっているものが20あります。
はいはい。
伊丹城、黒井城、竹田城、明石城、赤穂城、八上城などではありませんでしょうか。
> 堀井城のほうをお望みでしたら、デジカメで撮った
> 画像としてどこかに置くのならできますが(^^;
えーほんとうですかー?
豊地城の資料はたっぷりあるですが、堀井城の資料がほとんどありません。城郭体系にもないんですよ。
お手すきの時にでもお願いできたら大変うれしいです。
> 小堀城も同じくらいの人が来てましたよ。
> ほとんど地元のお年寄りでしたけど。
にぁるほどー。
筒井城に方は、市街地ということもありまして、小学生の女子方も来られておりましたよ。男子は来ていませんでしたね。ここでも歴女ブームなんでしょうか。
> しかし写真で見ましたがでっかい堀だったみたいですね。
> 埋め戻してしまうのがもったいないですね(^^;
今回発見された堀は、筒井城では中クラスの堀だそうです。この区画に関しては、郡山市が土地を買い取ったそうで、地元の人とも密着していますし、将来筒井城公園なるものが出来るかもしれませんね。
さてさて、今回四国に続いて、伊賀にいってまーす。
忍者のお城ですね。管理人さんのホームページにはあまり記載が無いですよね。
天正の乱を中心とした城巡りをしてきたいと思います。
またどこかお勧めの城がありましたら、教えてください。
にんにん。
では、では。http://www.siromegu.com/castle/mie/momoti/momoti.htm
堀井城の件、また実行しましたら連絡させてもらいますね。
伊賀のお城はですねぇ・・資料は手元にそろっているのですがなかなか行かないですねぇ。
私にとっては和歌山と同じで行きにくい地域です。
また行かれた時の様子を教えてくださいませ。
ニン!
> 勝瑞城も行ってきました。ここは現在大規模な発掘調査が
> 行われており、いろいろと学芸員の人にお聞きすることが
> できました。この話は後ほどします。
ということで、先日四国に行ってきた時の報告ですが、勝瑞城、管理人さんの「敷地だけ見てますと規模はさほど大きいものじゃないと見えたのがちょっと拍子ぬけでしたが」とのコメントにありますように、現地を訪れた方は拍子抜けします。これが守護の城かー、ということで。
しかし、この時、学芸員の人に色々と話を聞くことが出来たのですが、この城郭部分は発掘調査から廃城間際に出来た急造の城で、勝瑞城とするには無理があるということでした。
お城さんマークを見てほしいのですが、赤い部分、もしくは黄色い部分全体が勝瑞城の全体と思った方がよいということでした。
そーなると、かなりの大城です。
現在も断続的に発掘調査が見つかっており、
・居館跡
・大池(この池の大きさは当時四国の最大級だそうです)
・会所跡
・枯山水庭
等など、おおよそ軍事施設とはまったく思えない優雅な城だったのだそうです。
今後の発掘テーマとしては、大手がどの辺にあったかが今年の発掘テーマらしいです。
今は勝瑞城として公園化を目指しているそうで、
私「いつ頃出来るのですかねー」
学芸員「20年後にまた来てください」
私「・・・・・えーーーーー」
という会話がありました。すべて完成するにはそれぐらいかかるということです。ディズニーランドでも作るのでしょうか。
ということで、四国を満喫できた旅行でした。
続きがあります。http://www15.ocn.ne.jp/~shouzui/shugomachishouzuitoha.html
ブレイズマンさん、こんにちは。
勝瑞城の情報ありがとうございました。
>この城郭部分は発掘調査から廃城間際に出来た急造
>の城で、勝瑞城とするには無理があるということでした
やっぱり現地での出合いは貴重なものですね。
いい旅をされたなと実感しました。
城の神様のおかげですよ♪
阿弥陀の住人さん>
やはり既に調査済みでしたか(汗)
しかし、古文書をきっちりお読みとは、学校で古典系がからっきし駄目だった
私からすると、尊敬に値します。まじめに勉強すればよかったと後悔・・・
管理人様>
> 帯コメントにお願いしたいくらいです(^^;
冗長的な文章しか書けない私がやると、帯で表紙が埋まってしまう恐れがあり
ますので、やめておいた方が無難かと(笑)
で、本題です。
先週に続いて利神城へ行ってきました。今回は会社の上司を拉致して同行を
お願いしました。通常の登城道から行きましたが、絶対にこちらの方が車道
経由よりも良いです。ゆっくり歩いても1時間もかかりませんし、景色を眺め
ながらの陽気な行程だと思いました。車道経由ではこうはいきません。
馬場の方や井戸の跡にも行きたかったのですが、上司同行という都合上やめて
おきました。次に行く機会があれば考えます。
前回意識して見なかった竪堀もきっちりと拝んできました。往時の登城道の
確認については周辺敷地へ入っては駄目っぽい雰囲気を醸し出していたので
断念しましたが、線路越しに見る分には薮がすごそうです。ついでに伝移築の
光勝寺山門も拝み、ホルモンうどんを食して帰りました。
上司の利神城の感想ですが、「整備されていないことで逆に味が出ていて、
見方によっては竹田城よりもいいかも。」とのことです。
では、失礼いたします。ポリタンクさんこんにちは。
なんと、上司の方と城址に、いやw
利神城にいかれたんですか!!
まさか仕事帰りとかでしょうか。
理解のある上司の方で素晴らしいですね。
今度は大手道をぜひww
こんにちは、出雲・夕景城に行ってきました
20日奥出雲町堅田別れバス停付近から南西に(700m)入って、As舗装終点に駐車。(35・06・42.44-133・02・41.35)
ぬかるんだ林道を南西に20分程行くと道は二手に別れる、左の谷道をさらに25分行き、そこから一気に直登して尾根に上がる
夕景城東の山頂まで1時間15分、そこから城跡まで15分で着く。
三角点近くの石の塊と、石段確認、井戸は分からない、土塁沿いに石列が少しあった。
眺望は木々の隙間から民家など見える、今日は風が強くこんなところに建物があったら吹き飛んでしまうくらいの風だ、
下山は北西の尾根を少し進んでから、北に行き作業道に合流、往復2時間40分かかった。
これで十旗すべて落城
taniさんご無沙汰しております。
尼子十旗制覇おめでとうございます。
私は一つも行ったことがありませんが、一番のお勧め
はどこでしょうか。
ちなみに今後は尼子の領内をめぐられるんでしょうか。
私は久しぶりに伯耆に攻め込もうと思ってますので
お近くを通ることになるかもしれません。
またアップさせていただきますね。
本を出版されたんですね!おめでとうございます。
ところで内容は、どんな感じですか?教えてください。
いきなりすみません。島津大好きさん、こんばんは。
ありがとうございます。
内容ですか。
http://www.shirofan.com/news/100223_motooka.html
お城めぐりFANさんのところに書きました内容が
わかりやすいんじゃないかと思います。
一番いいのは書店で見て頂くことなんですが、あまり
冊数もないのでそうはうまくいかないでしょうね。
拙い内容ですが、見かけることがありましたらご覧ください。
「備前・保木城の砦」は岡山市瀬戸町地区にある。JR万富駅の北、保木地区にある。登り口は一昨年夏偵察。期待して神社から登り付く。登城路は快適な山道。頂上に墓石一基。遺構は全く見当たらず。
次の「備前・南方城」に向かう。ビール工場を横目に見ながら瀬戸町総合運動公園第一駐車場(トイレ有り)に駐車。東に400m。西池の水門横(小さい車なら駐車可能)から中電巡視道に入りN0.鉄塔を目指す。30m程登ると神社の平坦地。郭か。快適な山道を登りNo.4鉄塔を過ぎて山頂の祠(天神社)の広場に出る。全く、城らしくない。祠の後ろから雑木林に突入。剪定鋏で道を作りながら尾根筋の南方に進む。
尾根の西側に帯曲輪みたいな段。妄想か。尾根先の小ピークに至るも遺構らしきもの見当たらず。やぶくぐりさんこんにちは
今回は寂しい成果だったんでしょうか。
そういう日もありますよね。
お疲れさまでした。
こんばんは
☆ポリタンクさん
印南ノ城の情報、ご親切にありがとうございます。
印南郡誌については調査済みなのですが、その記述内容が実は問題でして。
「大日山構居 伊保荘阿弥陀村:領主は蔭山右近清道別所長治の幕下なりしと。
編者曰く、播磨名所巡覧図絵岩尾山大日寺の条下に左の如くあり。
本尊大日如来、真言宗、昔は国分寺の東院なり。
兵火に亡びて後再建あり、時光寺の末寺となる時のことにや別所長治の幕下
蔭山左近寓居せしとぞこれを大日山の構といふ』(原文のまま)
これだけなら、右近と左近(誤記か別人か?)とか、
寓居(仮住まい)というのが少々変ですが?
ともあれ、いま大日寺があるJR曽根駅東北の大日山のことと思えます。
ところが、印南郡誌は、これに続いて
『阿弥陀村字香呂山の大日屋敷に大日山構居あり』
と記しているのです。
同じ阿弥陀村内ながら、字香呂山は大日山から北北東に約1kmばかり離れています。
更にややこしいことに、前の記述にあるように大日寺は播磨国分寺の東院として創建され、
この時の所在地は現在の大日山ではなく字西坂(字香呂山の北隣り)であったとされ、
兵火に罹った後に、場所を移して大日山に時光寺の末寺として再建されたと考えられています。
字西坂一帯は、高砂市文化財指定の西坂遺跡となっており平安中期の寺院の礎石建物や、
瓦などが出土しており、同じ域内に大日屋敷(大日構居?)の城跡遺構が重なっているのです。
字西坂にあった大日寺の前身寺院が滅んだとは、何時のどの兵火を指すのか…。
ちなみに地元の伝承では、字香呂山の大日屋敷に天正の頃まであった城は、
織田軍の神吉城攻めの時、兵火に罹って滅んだと言われています。
また、「風雲戦国史-戦国武将の家紋-」の印南ノ城の記述は存じています。
というより、その「01待機中」の記述をヒットして、
「印南ノ城…か、う〜む、どんな出典なんだろう」という次第でして。
記述内容としては、納得性のあるものとも思えるのですが、さて…?
お城マークは、印南ノ城?の主郭下にある大手虎口と思われる遺構です。
写真左から土塁・虎口の開口・帯郭の切岸。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/18/imga405e50ezikfzj.jpeg?t=20100317225101
阿弥陀の住人さんこんにちは。
地元ネタですが、そこまで詳しく興味をもったことが
ありませんでしたので大変勉強になります(^^;
ですので今は全然話題についていけません・・うーん・・
こんばんは。
久しぶりに山城へ登城してきました。
登城したのは、「井上城」「釣鐘尾城」「大野城」の3城です。
雨上がりということもあってか、結構ぬかるんでおり、帰る頃には泥だらけになってしまいました。
井上城は、円山応挙の襖絵で有名な大乗寺の裏山にあります。
吉野神社の境内から、標柱が本丸まで通じているので迷うことなく行けます。本丸からは日本海が望め、大変な絶景です。
残りの2城は…全くの未整備でした。
釣鐘尾城は、矢田川が山裾を流れる山にあります。
城内は未整備で、ぬかるむ地面で木につかまりながら登城しました。
遺構は3つの曲輪や竪堀など、見ごたえは十分あります。ただ夏には決して行けない城ですね。下りるのが大変でした。
大野城は、大野地区の裏の方にそびえる山にあります。
三角錐のような形をした山で、やっぱり未整備で何度もずり落ちそうになってしまいました。
本丸、二の丸、出丸が悌郭式に並んでおり、それぞれの曲輪の間に堀切があります。ただこの時期でも曲輪内は草が高いので歩きにくかったです。(二の丸は下草が刈られていました)
本丸の北側には小さな曲輪が15段も連続していました。
釣鐘尾城と大野城は、下山の際上った場所と全然違う場所に下山してきてしまいました。
まさしく、これが藪くぐりでしたね。
あと、3月中には由良台場には行けなさそうです。(T_T)
行くのはおそらく5月…でしょう。
その時に鳥取県の他の城郭も行ければいいのですが。
では、また。Soldierさんこんにちは。
マイナーなお城を紹介していただけるのはありがたいです。
って私が知らないだけですね。
拝見してるとなかなか危険な城攻めだったご様子。
でも中世城郭はそういうのも醍醐味なんですよねぇ。
気をつけて楽しんでください。
鳥取は私も5月に行こうかなぁと思ってます。
また最新情報があればご報告いたします。
笠岡市の御嶽山、四尋山(シビロヤマ)登山と併せて、笠岡市長浜の「長浜台場」、笠岡市神島(コウノシマ)の四城訪問。
登山後海岸線を東に走り笠岡市長浜の「長浜台場」訪問。
長浜バス停横に駐車。台場は岬に設けられているので分かりやすい。人家の横から台場坂に入ると小川の向こうに石垣。竹やぶを5m登り付くとすぐに細長い平坦地。畑に利用されていたようだ。ヤブ化して耕作放棄地になっている。
西に県道を戻り、笠岡工業高校裏の畑化している横島城を横目に神島大橋を渡る。
外浦の「大道城(オオミチジョウ)」に至る。海に向かって伸びる台地の先端が主郭のある青龍寺。この台地全体が城跡のようだが、半ばまで尾根筋が道路になっている。破壊された郭や切岸、竪堀が点在。道路端に駐車。青龍寺に至る参拝道は箱堀のようだ。ここから主郭までは参拝道で破壊。青龍寺の海側に小さな帯曲輪。
次はカブト南町横の福浦地区の「福浦城」。標高112m。県道横の公園駐車場に車を置き、集落奥の民家で登城路を尋ねると「去年も2人マニアが登ったが、ヤブこぎ直登しかない。」とのこと。尾根筋取り付きまで案内していただいた。
尾根を南に直登していくと、帯曲輪が下にある。虎口も見える。そのままどんどん南へ進むもダラダラした尾根。主郭もはっきりしない。北側に小郭。ここから比高約30mで鞍部になるも主郭の状態を見て堀切未確認。
戻り道で尾根を一つ間違えて登り口から50m西側の工場跡に出る。道下に郭らしき段々。それに沿ってへんろ道。根小屋か。集落の西端に出る。
三城目は神内小学校裏の「小見山城(神島内裏城)」。池の北側に駐車。集落を通り、主郭のある七面神社を目指す。途中遺構らしきもの見当たらず。七面神社は平坦地になっている。七面神社から西に尾根道を進み遺構を探る。250m程西側の送電鉄塔の辺りに切岸、片堀切。その次のピークも郭らしい。全長300mか。この城が神島最大の城域を持っているらしい。
四城目は美の浜にある「鳥越城」(馬越城)。「おかやま全県GIS」に村上水軍の城の一つとある。
石屋の向かい側の県道路側が広くなっている場所に駐車。
鳥越城1は海に伸びた台地。墓地と竹やぶの二段の郭が見える。郭の一部に建っている民家で登城路を聞く。郭の南側の道から尾根筋に入るも隣の屋敷のフェンスで台無し。この部分が港湾施設らしい。
鳥越城2はすぐ南側の山だが、竹やぶで入れない。案内図に従い西側にある池から迂回する。一旦海岸まで出て、西側の道路を池まで歩く。
池の土手を通り東に登り付くと水の手曲輪らしき平坦地が道下に帯曲輪状にある。尾根の一宮寺のお堂に出ると郭らしき雰囲気。箱堀、土橋、切岸、二段の主郭。その東に志度寺のお堂のある郭。ここもへんろ道になっている。
道横に無人販売所。柑橘類を土産に帰途に着く。
やぶくぐりさん、こんばんは
なんと村上水軍に関連したお城があったんですか。
かなり遺構も残っていて、見ごたえありそうですね。
今回、長浜台場だけは行ったことがありましたので
その時の様子を思い出すことができました。
ブレイズマンさん>
> なかなか険しい道のようで大変ですね。準備をして僕もいつかいきたいと
> 思います。
私が今回選択した道が険しかっただけで、一般的な南からの登城道はましかと
想像します。小学生らしき方でも来ることができていたので、準備をすれば
問題ないかと思います。準備といっても、軍手と登山靴があればとりあえずは
大丈夫だと思います。写真撮影に関しては、今の季節であれば正午過ぎに城内
到着を予定すれば逆光撮影が減ると思います。余談ですが、「16世紀末 全国
城郭縄張図集成 下」掲載の縄張図によると、往時の登城道は麓のうわがみ門
方面から蛇行して登るものになっています。その道の西側に竪堀もあるよう
なのですが、これらが今も現存しているのかは今回確かめていません。
登山靴に関しては管理人様の本の情報が役に立ちました。遅ればせながら、
この場をお借りしてお礼申し上げます > 管理人様
あと、筒井城現地説明会の情報をご紹介いただき有り難うございます。とても
良い雰囲気だったようですね。参加できなかったのが残念でなりません(泣)
阿弥陀の住人さん>
印南ノ城について、文献資料も位置情報も知らないのに反応するのも申し訳
ない話なのですが、Googleにて「伊奈美野城」をキーワードに検索しますと、
トップに「風雲戦国史-戦国武将の家紋-」というWebサイトの「待機中01」と
いうコンテンツがヒットします。(直接リンクを張ってよいかが不明なため、
URLの紹介は控えます。)
当該コンテンツにお書きのことと同様の記述があります。ひょっとすると、
当該Webサイト管理人様が何らかの情報をお持ちかもしれませんので、駄目元で
照会されるもの一考かと思います。
あと、素人の山勘で申し訳ないのですが、「印南郡誌」とかに記述があるやも
しれません。
#書いたことについて既にご存知もしくは調査済でしたらすみません m(_ _)m
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんばんは。
>登城道は麓のうわがみ門方面から蛇行して登るものになっています。
そうですね。
数年前からここを使ってあがってみたいと言っている
のですが、なかなか実行に移せません。
遠目に見てすごい藪みたいなのと、智頭急行が横断している
ことからあまり真剣に考えずに諦めてしまってました。
あんな急な道をほんとに使ってたんでしょうかねえ(^^
> 福住氏宗家のほうは大坂陣で郡山城を落とされた責任をと
> って自害し滅亡しております。
うぎゃーそーだったのですか。その話は聞いたことあります。徳川さんも与力衆36名しか与えなかったので、責任を追及されることも無かったと思うのですが・・・
筒井兄弟だけではなく、福住氏もだったのですねー。
> 郭と帯郭から横矢が効いてて攻め手には難所ですね。
そーそー、あそこって大手から主郭まで5m以上ありますよね。土塁、帯廓、主郭に弓兵がずらーと並べば、めっちゃ怖い、と思いました。
> 昭和30年代の植林事業のときに郭の切岸を補強する意味で
> 石を積んだそうです。もちろん城とは関係ありません。
あらーそーだったんですか。主郭を農業になるほどー。コクジンさんのホームページには、「主郭の周縁部には窪みがあり、おそらく塹壕だったのではないかと見られます。」とあり、あーそんなんだと思いましたが、これも農業関係だったかもしれませんね。
> 参考文献として入ってるのが全てでしょう。
了解しました。
> お役に立てなくてすみません。
いやいや、そのようなことは全くありません。めっちゃ役立ちました。有難うございます。
個人的な意見としては、福住中定城は古いタイプの城に、近代的な城のイメージもありましたので、戦国時代に大幅改修され、福住井之市城のニ城使っていた可能性もあるのではと思いました。
今回はえらい勘違いで「福住中定城」に行きましたが、今度は「福住井之市城」に行ってみたいと思います。楽しみだなー。
では、では。
> おーそーなんですかー。となると福住氏と関係あるですか?
家は福住氏本家の末で、天正年間まで「新城」つまり福住井之市城に居たといい、その後福住を出て尾張国に移り、江戸時代まで福住を名乗ってました。福住氏宗家のほうは大坂陣で郡山城を落とされた責任をとって自害し滅亡しております。
> > 室町期以来の居館(中定)を「室屋敷」
> ということですが、結構複雑な曲輪をしていますよね。とても室町時代とは思えないような。
「室屋敷」の「室」は室町時代のことではなく、主郭部分のことを代々「室」と呼んでいたのです。室は「館内」という意味らしいです。
> 特に大手から主郭に向かう道は壮観で、「うぁー、ここから矢が飛んできたら怖いな〜」とイメージしていました。
土塁で折れ曲がってる所ですね。確かに主郭と帯郭から横矢が効いてて攻め手には難所ですね。
> そーそー、あのお城石垣ありましたよね。城の石垣には見えませんでしたが、あの石垣何のためにあるのですか?
聞いたところでは石垣ではなく、明治の初めに城跡一帯を農地にしたときに土留めとして積んだのと、昭和30年代の植林事業のときに郭の切岸を補強する意味で石を積んだそうです。もちろん城とは関係ありません。
> それと、福住井之市城は沢山の文献があるのですが、福住中定城の文献は奈良県立図書館はあまりありませんでした。もし詳しい文献を知っていたならば、是非教えてください。
福住城に関する文献はほとんど無いです。「多聞院日記」が主で、あとは村田修三氏の連載記事のなかにあった文ぐらいです。「気分はコクジン」の記事にも参考文献として入ってるのが全てでしょう。あとは縄張研究のほうでいくつか図面が知られてる程度みたいです。
お役に立てなくてすみません。
> 実は私の先祖の城なんです。
おーそーなんですかー。となると福住氏と関係あるですか?
> 室町期以来の居館(中定)を「室屋敷」
ということですが、結構複雑な曲輪をしていますよね。とても室町時代とは思えないような。
特に大手から主郭に向かう道は壮観で、「うぁー、ここから矢が飛んできたら怖いな〜」とイメージしていました。
そーそー、あのお城石垣ありましたよね。城の石垣には見えませんでしたが、あの石垣何のためにあるのですか?
それと、福住井之市城は沢山の文献があるのですが、福住中定城の文献は奈良県立図書館はあまりありませんでした。もし詳しい文献を知っていたならば、是非教えてください。
では、では。http://homepage1.nifty.com/rekisi/narasiro/fukusuminakasada/fukusuminakasada.htm
ブレイズマンさんへ。
福住城へ行かれましたか。実は私の先祖の城なんです。家伝では室町期以来の居館(中定)を「室屋敷」、戦国期天文期に移った城(井之市)のほうを「新城」と記しています。ほかにも出城を二つ持ってたと伝えられますが、現在はどこにあるのか分かっていません。
写真も何枚も撮ったので、何枚かマップしようと思ったのですが、すでにブログにあげている方がおられましたので、そちらを紹介します。
お城さんマークを見てください。
大体私の撮った写真もこの方のホームページと同じものでした。
この写真で一番気になるのが、出土物がそのままな状態でアップになっているものですが、これが非常に意図的に整列された状態で出土したそうで、堀を埋める際には何らかの神事が実施した可能性があるということでした。
後は、『多門院日記』は恐ろしく正確に記述されているということすね。多門院英俊はなぜにそれほど情報収集能力にたけていたのか、ふしぎー、と思いました。
では、では。
こんばんは
相変わらず休日には播磨を中心にマイナーな城跡を訪ね歩いている私です。
近頃に訪城した幾つかを挙げますと、
姫路市の広峰神社から須加院に通じる中世からの古道に沿って、
観応の擾乱の時に赤松則祐が拠った弥高山城と未だ無名の城砦群。
同じ山系の姫路市砥堀にある蔭山氏の居城であった砥堀城(御館山城)と、
天正年間に別所孫太夫が居たと言われる岩屋構居。
御着城の小寺氏の重臣だった斎藤氏の居城と言われる姫路市御国野の斉藤山城など。
また、以前から高砂市阿弥陀町にある二つの大日構居の謎?
(JR曽根駅近くの大日山と市ケ池公園東隣の香呂山)の解明も、
性懲りもなく続けていたりします(笑)
これについて阿弥陀町阿弥陀字香呂山の城跡は、
印南ノ城(伊奈美野城)と呼ばれた城ではなかったかという説に出遭いました。
この説によれば、姫路市阿保の阿保構居に居た英保氏が、
黒田氏の姫路城入城の後に小寺氏領国の東の境目を守る印南ノ城に移り、
阿弥陀宿を監視する役を務めたが、天正期に神吉城攻めの織田軍の戦火に罹って滅んだと。
この説の出典は未確認のため、本岡さん、あるいはご存知の方がいらっしゃるなら、
ご教示いただければうれしく思います。
ちなみに、香呂山の城跡は比高20〜30mの丘城で、
城域は東西約100m・南北約300mあって、
削平された最高所に主郭を置き、山腹には腰郭と数段の帯郭があり、
主郭の北には堅堀が在ります。
また、大手と見られる土塁付き虎口が主郭東の公園墓地との境に残り、
登城路には土塁付き水濠・喰違い路・横矢土塁などの防御遺構も見られます。
城跡の北半分は伐採されて遺構散策が容易ですが、南半分は籔化しています。
また、近年になって遺跡調査が行われたらしい痕跡が見られ、
主要遺構部には、近頃の訪城でよく見かける赤いテープが木の枝に下がっています。
お城マークの写真は、今日訪城した多可町中野間の野間山城です。
マイナー城跡訪城の合間に、私的に好きな城跡の写真を撮り直し、
アルバムに整理する目的で、白旗城・置塩城etcと再訪・三訪しています。
久しぶりの野間山城でしたが、
国破れて山河あり 城春にして…などと
野間衆在田氏の落城の悲史に独り感慨に耽ったり(汗)http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/97/imgde84d25czikfzj.jpeg?t=20100314213014
阿弥陀の住人さん、こんにちは。
無名の城跡の探訪を愉しまれていますね。
その探究心は最近サボり気味の私としては是非とも
見習わせていただかなければ、と思いました。
ご質問の件、知識としては持ち合わせていませんので
いくつか資料をみてみようと思います。
久々に播州太平記を見ていたら、少し前の話題にあがった生石神社や石の宝殿が出てきていました。
いやぁ〜完全に乗り遅れてしまっていますね。
野間山城はほんといいお城ですよね。
県外にはあまり知られていない名城の1つだと思います。
春・・・急がねば山城に行きにくくなってくる季節ですね。
> 管理人様の本に触発されて利神城へ行く
> べく只今準備中です・・・。
あ、それ僕もそのページ関心持ちました。
> ぜひ行ってみたなーという城もありました。
と書いていましたが、その城も一つです。
なかなか険しい道のようで大変ですね。準備をして僕もいつかいきたいと思います。
で、せっかく奈良に来ましたので、もうひとつお城を回ろうかと思い、福住城に行くことにしました。
で、縄張り図を片手に散策したのですが、どーもおかしい。縄張り図の実際の曲輪が合っていない。
遺構は素晴らしく「おーすごい」と思いながらも、すっきりしない気持ちで、あっちこっちみながら、帰路につきかけましたが、やっぱりおかしいということで、帰り道奈良県立図書館によって調査しました。そーしましたら、
・福住中定城
・福住井之市城
と福住城ってニ城あるじゃーなですか。どひゃー。
それは合っていないわけだわ。福住井之市城の縄張り図片手に、私の行った城は福住中定城でした。どて。
「気分はコクジン」さんのホームページを見ておけばよかったー。お城さんマークに入れておきます。
では、では。
行ってきましたよん。
なんかこのお城テレビでも取り上げられていたみたいで、50名以上-100名未満の人たちが集まっていました。
詳細につきましては、Google ニュースで「筒井城」と検索したら、読売新聞や奈良新聞に掲載されていますので、そちらをご覧になってください。
大体新聞発表と同じ報告がありました。
で、書いていないことをいくつか書いておきますと、
1.当初は筒井順慶の居館跡を発掘しようと思っていたら、想定外の堀が発見された。
2.今回発見された堀は居館を守る為の堀跡だと思われる
3.筒井城の堀は、東西南北に正方位だが、今回の堀は正方位に比べて20度曲がっていて、更に東端では北に40度屈折している。これはいったい何を意味するのか?
で堀の場所なのですが、まずお城さんマークをご覧ください。
で、ここに「領主館推定地」とありますが、ちょうどこの領主館推定地にそって東西方向に堀が見つかりました。これは最終的に西側にある南北方向の内掘りへ連結しているということでした。
それ以外では耳ダンボ状態で教育委員会に質問しているを聞いていたのですが、
領主館推定地
↓
(ちっちゃい曲輪)
↑
東西方向の内掘り跡
があります。「ちっちゃい曲輪」は一体何の役に立つのか?なんで内堀があり、すぐ近くの居館横にも堀があるのはなぜか?という質問がありましたね。これに対する明確な答えはまだのようです。
今回の堀発見は縄張り研究の人には疑問があるよう思えました。
まーそんな感じでした。
続きがあります。http://www.m-network.com/tsutsui/img/01chosa_ichi760b.gif
ブレイズマンさん、こんにちは。
筒井城の情報ありがとうございます。
小堀城も同じくらいの人が来てましたよ。
ほとんど地元のお年寄りでしたけど。
しかし写真で見ましたがでっかい堀だったみたいですね。
埋め戻してしまうのがもったいないですね(^^;
連続投稿になりますがご容赦を m(_ _)m
利神城へ行ってきました。
佐用町への到着が予定よりも早かったので、先におまけとして考慮して
いた上月城へ先に行きました。管理人様のWebサイトの私見にて書かれて
いるとおりきれいに整備されており、非常に散策しやすかったです。搦手の
切岸は確かに見ごたえがありますね。城の規模は異なりますが、信貴山城の
思い出がふと頭を過りました。
次に本題の利神城へ。
道の駅周辺(枡形虎口、陣屋、本陣、その他城関係以外)を見たあとに、
何を血迷ったのか、車で強行・・・。しかし、途中で土砂崩れのために
否応無しに通行止(泣)。そこから徒歩となりました。強行した私が言う
のも何ですが、車道ルートは現在大変危険です。歩いていると石が転げ
落ちる音が頻繁に聞こえ、安心して歩けませんでした。また、そもそも
悪路なので、特にブレーキ操作(下り)に自信がない方が絶対にNGです。
轍を跨げば車を擦るほどではないかもしれませんが、石が散乱していて
大変難儀しました。また、本来の車道終点後に続く道も険しいために
補助ロープの連続です。私、次に行く時は間違いなく一般的な登城道を
選びます。はい。
で、肝心の城内ですが、いやー、見応え&スリル(崩れかかった石垣)が
満点です。高取城や竹田城でも思いましたが、ここでも「どうやって石を
運んだんだ?」と思いました。管理人様の本での城めグマのひとことが
よくわかりました。立地を考えると、ここの方が前二者よりも悪条件下の
ような気がします。私の場合は城内に辿り着くまでの道程が厳しかった分、
感動も一入でした。ただ、天守台に展望台によくある観光用双眼鏡がある
のはよいとして、その配管が石垣沿いに丸見えで、「なんだかなあ」と
思うところもありました。
城内では三世代同時登城(一番小さい子はどう見ても小学校低学年)という
微笑ましい姿を拝見しました。万が一がありますので、グループでの登城が
よいのかもしれませんね。あと、登山靴は必須かと思いました。
あ、重要なことを忘れてました。設置されているロープを利用の際は体重を
完全に預ける前に手応えを確認してください。私、体重を預けようとしたら
ロープが外れるという体験(城内)をし、冗談抜きで落ちかけました。
長文になってしまい、すみません。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
利神城行って来られたんですね。
1月の時点で裏の車道は途中の倒木の為進めない
と聞いていたのですが、それ以外にも石が危険
ですよね。
倒木のことがなくても自分の車じゃ行きたくないです。
ちょっと違いますが、近江の鎌刃城や玄蕃尾城の登城道
を思い出してしまいました。
利神城は「危険」と書くだけじゃなく、なにかできない
ものでしょうかねぇ。
といって素人が勝手に何かできるわけでもないですし。
そうそういつか大手道からあがってみたいなと思ってるんですよ。
ほとんど道が残ってないかもしれませんが。
しかし、無事で何よりでした。
今日初めて安土城へ行ったついでに近江八幡城に寄ろうとしたのですが、明日
まで地元で祭りがあるそうで、近くに駐車する場所がなくて断念しました。
愚図ついた天気だったのでロープウェイで上っても眺めは今一つだろうと想像
してしまい、市役所に駐車して歩くに足る情熱は失せました・・・
城目当てで近江八幡市へ行かれる方はご注意ください。
安土城はよいですね。できれば晴天の日に再訪したいです。雨もちらつく中でも
石垣のみの城郭にそれなりに客が来ている状況を目の当たりにして、少々驚き
ました。やはり信長さんの威力は絶大なのかもしれませんね。ただ、ほとんどの
人が大手道の両脇にある遺構や復元物を鹿十していました・・・。うーん、勿体
ない。
> ブレイズマンさん
明日筒井城の現地説明会ですね。私も筒井氏絡みは興味があって行きたいんです
けど、明日は天気がよさそうなので、管理人様の本に触発されて利神城へ行く
べく只今準備中です・・・。去年の鹿背山城の現地説明会は高取城行きと被って
行けず、どうも巡り合わせが悪いです(泣)
では、失礼します。ポリタンクさん、こんにちは。
ちょうど今日、八幡山城の麓にある秀次館をアップしました。
私が行った時はみんな適当に駐車していましたが、お祭り
だとダメでしょうね。
残念・・。
利神城はいいお城ですが、危険ですよ。(^^;
三木城の戦いのときに、
毛利と魚住が築いたという竜が岡砦(兵糧基地)
見つけました。
もう遺構はありませんけど。まるさん、こんにちは。
こつこつと活動されているようで、すごいですね。
また竜が岡砦のこと教えてください。
全然遺構がないのはまったく気にしません(^^
今晩は。
そして物凄くご無沙汰を。
「こんな城もあったんだ」拝読させていただきました。
あ、「BK1」ではなく「アマゾン」経由の購入でしたが。
拙サイトの場合には「怪しげなマイナー路線」でございます。
このため、ご著書との接点は「二本松城」、「山形城」(未更新)、「白河小峰城」、「弘前城」(12年前の訪問)、「鉢形城」「杉山城」、「武田館」(前を素通りして要害山城へ)、「川村城」(雨のため麓を素通り)の以上8か所だけでした(汗)
さて来春の定年後には、「王道路線三昧」をたくらんでおりますので、大いに参考にさせていただきます。
またその節には、宜しくご教示を賜れば幸いでございます。
今後のご活躍をお祈り申し上げます。http://www.geocities.jp/tsukayan0112/top.html
小頭@和平さん、大変御無沙汰しております。
なかなか小頭さんの領国に攻め込む機会がないので
関東のお城はおそらく御想像の通り、ちょっと弱いですね。
こちらこそ関東攻めの機会には小頭さんの情報を参考に
させていただきたいと思います。
私もマイナー城、大好きです(^^
> 了解しました。ぜひ行ってきたいと思います。
豊地城いってきました。
> 堀井城も行ってみないといけません。
でこちらの城も行ってきました。
このことについては後日詳しく書きましたね。
で「城めグマのつぶやき」にもありましたように、14日午前10時から現地説明会が開かれるようで、「お、行ってみよかなー」とおもったのてすが、
信長の破城、埋め戻された堀跡が出土
ということで、筒井城でも同日、同時刻に現地説明会があります。詳細をお城さんマークに入れておきました。
うーん、ここは越水城関係のゆかりが深い筒井城に行かなければなりません。
管理人さーん、筒井城の資料がありましたら貰ってきますので、堀井城の資料がありましたら、交換しましょ。
では、では。http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/wave/bosyu/syougaigakusyu/tutuijo/index.htm
ブレイズマンさん、こんにちは。
豊地城、間に合ったようでよかったですね。
14日は小堀城に行ってましたが、実はすでに友人から
筒井城の現説資料もいただいてしましました。
堀井城のほうをお望みでしたら、デジカメで撮った
画像としてどこかに置くのならできますが(^^;
こんにちは。
「こんな城もあったんだ」購入させていただきました。
まだまだ登城した城郭も少ないので、知っていた城郭も多く掲載されていた割には、大変興味深く読ませていただきました。
それでも、知らなかった城郭もあり、(九州に多い)さらに城郭への興味が広がったように思います。
最近は悪天候続きで城へ行く機会も少ないですが、3月中に鳥取方面へ探訪に行く予定があります。楽しみです。
その時は特に、由良台場を満喫したいという考えが強いです。前回行った時は行く予定が当初なくて下調べが不十分でしたから…
では、ここで。Soldierさん、こんにちは。
「こんな城〜」をお買い上げくださいまして、誠に
ありがとうございました。
由良台場、堪能してきてください。
橋津台場も少し前に、かなり見やすくなったよと
教えてもらっていてまだ確認していないのですが
よかったら橋津のほうもいってみてください。
それでは。
> 豊地城は3月中旬まで埋め戻されないようですよ。
> ブルーシートがかかっているかもしれませんが
> 行ってみてもいいかもしれませんよ。
了解しました。ぜひ行ってきたいと思います。
明日行ってきます。雨でなればいいんですけど。
> ですが次に行った堀井城はもっと素晴らしかったです。
そーそー、ばんたんが書き込まれているように、堀井城も行ってみないといけません。
あー、行きたい城いっぱいある。
それと、「こんな城もあったんだ」購入しましたよー。
> 末尾になりますが、今回の書籍発売をお祝い申し上げるとともに、このような
> 書籍に巡り合うことができたことを感謝いたします。
とポリタンクさんのような素晴らしいコメントは当方には大変難しいので、まずは簡単な感想を。
「こんな城もあったんだ」というタイトルのわりには、メジャーな城も沢山ありました。まーこれは城めぐりして楽しい、遺構のたくさん残っている城を選択されたのではないかと思います。
ただ、そーは言いながら、マイナーの城も掲載されています。関西の城で全く聞いたこともない城もいくつかあり、ぜひ行ってみたなーという城もありました。
城選定にあたっては結構バランスよく捉えているような感じがしました。あと、この手の本にしてはお値段が安いように思えます。
今度お会いできましたら、ぜひサインしてくださいね。
では、では。ブレイズマンさん、こんにちは。
「こんな城〜」をお買い上げくださいまして、ありがとうございます。m(_ _)m
御推察の通り、あまりにも独自路線を突っ走られない
事情もありまして、その落とし所に苦労しました。
堀井、豊地のほかにあの辺りはいいお城がありますので
ご紹介したら目移りするからやめておきます(笑)。
それでは楽しんできてください。
先々月の下旬に彦根市の佐和山城と、先月の6日に掛川市の高天神城に行ってきました。約2年ぶりに行った佐和山城は本丸跡周辺が綺麗に伐採されていて、本丸と西の丸の間にある堀切跡がはっきりと分かるようになり説明版も立てられていました。そのおかげでいままで行くのが困難だった二の丸跡にも行けれるようになりました。高天神城では御前曲輪跡にある顔出しには思わず目が点になってしまい「こ、これは!」と思わずつぶやいてしまいました。僕が訪れた日は風が強くて寒い日だったのにもかかわらず沢山の人たちが来ていました。(この日僕の住んでいる愛知県は午前10時ぐらいまで岡崎まで雪がふっていました。)僕が訪れた日は西の丸跡と馬場平跡から遠州湾が綺麗に見えることが出来ました。途中から横浜から来た人と一緒に高天神城跡を見て回り帰りは、その人が乗って来た車に乗せてもらい近くのバス停まで送って頂きました。僕は別れ際に何度も何度も頭を下げてお礼を言ってまたどこかの山城跡での再会を誓い合ってその人と別れました。山城めぐりをする人はいい人ばかりだなあと思いました。本岡さん本発売おめでとうございます。僕も本を買おうと思っていたのですが今月は私の愛車(軽自動車)の新しいノーマルタイヤの付け替えやエンジンオイルの交換なのでお金を使ってしまい今月はチョット買えそうにもないですね(泣)それではまた。尾張の終わりさん、こんにちは。
高天神は是非とも再訪したいお城の1つです。
陣城をいくつかセットにしてじっくり見たいお城です。
ここ2−3年のうちに行っていたらきっと「こんな城〜」
に入れていたと思います(^^;
佐和山は訪れる人が増えているんでしょうねぇ。
そういえば先週は彦根、長浜をうろついていました。
小谷城は雨だったのであきらめましたが、またチャンス
を伺いたいと思います。
津山市の「美作・神楽尾城」の西尾根には未整備の三段の郭群がある。馬場から主郭郭群に登る道の西側に井戸跡と書かれた小道がある。
この小道は主郭の西側を廻り込んで北側の土橋、郭から北東尾根の郭群や神楽尾城北方の見張所みたいな遺跡群に出るが、今回は馬場にある縄張図に従い、先述の井戸跡を通り、西尾根の道跡を20m程やり過ごしてV字型に歩き、主郭群の西側のヤブに入る。
小枝を剪定しながら下ると郭が三段。一番下の郭には土塁、二重竪堀、竪土塁、虎口があり、先ほどやり過ごした道跡に出る。
そのまま尾根を西に進むと土橋、広い郭。この辺りは縄張図に書かれていない。
更に進むと二重土塁の削平された郭らしき場所に出るが、南側の土塁がM字型の断面になっている。もしかして近年のものかと想像するも用途不明。倒木がうるさくなってきたので南側の谷にエスケープ。植林地を下ると勝負谷池右岸に出た。堰堤を通り田圃道に。ここで奥田邑集落とは反対方向の作業道を山の上にたどる。5〜6分で三の丸登城口の地蔵堂に出る林道に出会う。
今回の探訪で「神楽尾城」周辺の東西南北の全てに渡って城域が広がっていることを確認。
未訪の地蔵堂から三の郭、馬場の西側斜面も遺構を期待したい。神楽尾城マスターのやぶくぐりさん、こんにちは。
西尾根の三段の郭とは、現地の縄張り図にある西に張り出した
もののことでしょうか?
だとしたら郭の下には何も書かれてないですが、
やぶくぐりさんの書かれているような構造を想像すると
西側の備えもかなり堅牢になりますね。
いい情報ありがとうございました。
久しぶりに書き込みします。
豊地城、行ってまいりました。素晴らしい遺構と遺物でした。瓦がゴロゴロしているのは迫力ありました。ですが次に行った堀井城はもっと素晴らしかったです。草や竹が全て刈られて全域が見渡せます。ひし形に近い不整形の方形居館で空堀は見応えがあります。発掘調査は段階的にやっているようで、土塁がよく残っている主郭北西部から北側にかけてはまだ未着手のようでした。空堀内に降りて歩き回り、主郭土塁をぐるっと一周し、謎の城館の秘められた歴史に思いをはせてまいりました。帰宅後、感動の余韻のなかで衝動的にブログを初めてしまいました。拙い内容に終始すると思いますが、ひとつ笑って読んでやって下さい。http://bantan46.blog129.fc2.com/
ばんたんさん、こんにちは。
豊地城、堀井城と行かれたんですね。
豊地城ではやはり堀に圧倒されたのが一番でしたが
近代の石切り場があんなそばにあったというのも
驚きでした。
ブログ開設おめでとうございます。
覗きにいかせていただきますね。
また近隣のお城情報がありましたらよろしくお願いいたします。
管理人様、初めまして。
本、早速購入させて頂きました。
昔から城には興味があり近畿の名の知れている、城しか見た事が無いので、此処のサイトを見つけてからは、名前すら知らなかった城に興味が湧きました。
私は神戸市西区の『菅野城跡』近くに住んでいます。
18年位前に、田んぼの区画整備で、『菅野城跡』近くの私の所の田んぼも工事区画にかかっていたので土の撤去が行われていました。
土が取り払われた後を歩いていたら、黒い田んぼの土とは違う赤ぽい、素焼きの陶器が出てきました。
戦国時代劇に出てきそうな、茶碗みたいのがありました。
あそこの周辺は何かしらの建物があったかも知れません。
写真の出し方がわからないのでお教えください。ラズベリーさま、はじめまして。
管理人の本岡です。
「こんな城〜」をお買い上げくださいまして、誠に
ありがとうございました。
菅野城跡そばでひょっとすると大発見となるような
遺物が出ているんですか。
それはぜひとも拝見したいです。
写真を御紹介くださるのでしたら、どこか画像を
皆が閲覧できる場所(Yahoo等のサービスでも)に
アップロードいただき、そのURLをご紹介ください。
今後ともよろしくお願いいたします。
管理人様の「こんな城もあったんだ」購入しました。
岡山駅前の書店をめぐり三軒目。やっと入手。列車の中で一気に読ませていただきました。
これからの城攻めに大変役立ちますね。
津山市の「美作・津山城」の東側の密林が伐採され測量中。高石垣のはるか下に土の郭が見える。空堀終点の土塁らしきものもある。初見。
「美作・神楽尾城」の本丸周辺の桜の古木伐採。キャッチフレーズどおりの四周展望の城に変身。この山のフキノトウも伸びて終末期。
やぶくぐりさん、こんばんは。
なんと、やぶくぐりさんのような山城の猛者にも
ご購入いただけるなんて。
ありがとうございました。
岡山城は選定に悩んだ県の1つでした。
まだまだいいお城がありますし、そういう意味では
そんなに遠くにいかなくても兵庫、岡山だけでも
かなり楽しめてしまうんですよね。
津山にはこれからも何度かいってみるつもりです。
管理人様の「こんな城もあったんだ」購入しました。
岡山駅前の書店をめぐり三軒目。やっと入手。列車の中で一気に読ませていただきました。
これからの城攻めに大変役立ちますね。
津山市の「美作・津山城」の東側の密林が伐採され測量中。高石垣のはるか下に土の郭が見える。空堀終点の土塁らしきものもある。初見。
「美作・神楽尾城」の本丸周辺の桜の古木伐採。キャッチフレーズどおりの四周展望の城に変身。この山のフキノトウも伸びて終末期。
やぶくぐりさん、こんばんは。
なんと、やぶくぐりさんのような山城の猛者にも
ご購入いただけるなんて。
ありがとうございました。
岡山城は選定に悩んだ県の1つでした。
まだまだいいお城がありますし、そういう意味では
そんなに遠くにいかなくても兵庫、岡山だけでも
かなり楽しめてしまうんですよね。
津山にはこれからも何度かいってみるつもりです。
> 本郭東側に石垣があるようです。実際に現地で見てみます
> と、そこの石垣は城趾内の他の石組みよりも古いように見
> 受けられますので、当時からの石垣なのかもしれません。
福井城は現地に行ったことがありますが、なにかそーゆー石垣を見た覚えがあります。
もし、その石垣が当時のものならばすごいことですよね。1500年以前にお城で石垣が使われていたとすれば、福井城って伊丹城より結構すごいお城ですよね。
さてさて、
> 徳島でお奨めはやはり一宮城ですね。
ということで行ってきましたよー。いやー、めっちゃよかったです。
で、一宮城って私が入った時は、あらゆる遺構に、
・堀切
・竪掘
・曲輪の名前
と説明が丁寧になされていて、また所々に縄張り図が掲載されており、「まーーーなんと見やすいお城でしょう」とおもいました。
山道も整備されており、山城でここまで丁寧なお城は初めてでした。
ここも三好さんと関係ありということで、越水城起点は守られました。
で、勝瑞城も行ってきました。ここは現在大規模な発掘調査が行われており、いろいろと学芸員の人にお聞きすることができました。この話は後ほどします。
続きがあります。
こんばんは
今日は、加東市河高にあって永禄年間に丸山(河高)治部少輔長勝の居城だったとされる
河高構(河高城)について、私の探訪結果を書いてみます。
この城についてネットでは、いずれも遺構なしとされています。
たしかに、今の河高集落の中を歩き回ってみても遺構らしきものは見当たりません。
本岡さんの訪城記にも発掘調査の結果では南と西で堀跡が発見されたとあり、
その所在地も河高字構居と字名まで記されていますが遺構は見られなかったとか。
(他の人の訪城記では河高字中条というのもありました)
ただし、私的には以前からこの城について気になることがあったのです。
・ ・と言うのは、現在の河高集落の東には加古川の堤防がありますが、
永禄の頃には堤防などはなく河床の位置も現在とはちがっていた筈と。
そして要害ということから築城条件を考えると河高集落のある平地では、
どうもしっくりとこない・・。
要害性を考えながら現地をうろついた結果からは、
集落の北端にあって、現在は中国自動車道で集落と分断されている台地の先端が、
どうも怪しい・・なと(笑)
この台地の東側は、現在は加古川との間に道路があるものの、
城があった頃は直接に加古川の河床に接していた筈だろうなと。
この台地は南北の二分された削平地になっていますが、
北には忠魂碑が建ち南は神社跡になっています。
また、台地の西側は、これまたJR加古川線に分断され、
線路の西側は雑木林の台地が続いています。
この雑木林に入って見ると、幾つかの郭跡と見える削平地と、
登り土塁と見える先には主郭らしい削平地があって中国道に接しています。
また、雑木林台地の西裾には堀跡らしい形跡も。
この他にも、台地東南の線路との間の崖下にも水堀だったらしい形跡。
中国道を挟んだ南の圃場整理された田圃(かっての城域?)を挟んだ、
集落西北境の道路際に土塁の残欠遺構と見えるもの、
その傍にも土塁を伴う郭跡と見える切岸のある畑地など。
ただ、いま書いた範囲を全て含む河高構の城域は、
およさ東西100m×南北200mとかなりの広さ…。
圃場整備や新設道路などで、近年にかなり城域の地形が変わったようで、
いま残っているのは城の南西部と北東部のように思えるのですが・・。
お城マークの写真は、河高構の西南部の残欠遺構と見える土塁です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/10/imgf546f230zik4zj.jpeg?t=20100301195014
阿弥陀の住人さん、こんにちは。
河高構居は、発掘調査結果を見るまでは全然わかりませんでしたが
(といって「どこだっけ・?」な状態なのですが)
やっぱり圃場整備をされてしまったために、今はとても
「こんなところに造るかなぁ」という印象になるんじゃ
ないでしょうか。
でも阿弥陀の住人さんの攻城記を拝見して、改めて
想像力が必要な趣味だなと思いました。
これが城跡をめぐる楽しみですからね。
こんな城もあったんだ 楽しく読ませていただきました。石垣の残る城跡をさがして10年になります。まだまだ見つけてほしいと待っている城あとがあるのではないかと目をこら
しておりました。この本に出会って4か所ありました。本当にありがとうございます。三春様、はじめまして。
管理人の本岡と申します。
拙著をお買い上げくださり、ありがとうございます。
なんと10年も石垣に特化されていらっしゃるんですか。
石垣もいろいろありますが、なんでたかが石なのに
あんなに興奮するんでしょうね。
山の中で石垣を見つけただけで満足してしまう自分がいます。
メッセージありがとうございました。
少しもお役にたてましたようで、よかったです。
広島は備後、尾道ラーメンが名物の尾道を中心として城跡を調べている、城ビギナーズです。城とでも呼んでいただけたらと思います。私が今興味を持って調べているのは、村上水軍の一雄、因島村上氏が本拠島としていた因島です。特に海城あるいは水軍城と呼ばれる城跡の構造などが陸(本土)の城跡とは特徴が異なってるんじゃないかと調べてます。何か知っておられれば、御教授願いたいと思います。よろしくお願いします!城ビギナーズさん、はじめまして。
書き込みありがとうございます。
管理人の本岡です。
因島は意外と城が多くて驚いたことがあったのを思い出しました。
私もいくつか行きましたが、村上氏のお城だといっても山の上にあったり、海とつながっていなかったりでおや?
と思うことはありました。
でも、なかなか特徴となると難しいです。
長崎城のように船を停めるピットがあるのが1つだとは
思いますが・・。
すみません。
今月の山城会は2名で倉敷市水島方面に出撃。訪問予定の諸城の「縄張図」を準備。
倉敷市林の林公園付近に駐車。三重の塔を横目に、覚仁親王墓のある市場池を通って「備前笹間城」に登る。
入口は神社への石段、すぐに山道。山頂にほぼ単郭の平坦地。神社の境内になっている。下草も無い。尾根筋を一旦降って奥の峰に続く刈り払い道が続く。この奥に郭群と竪掘、堀切が記されているが今回はパス。北西方向に次の「備前鼻高山城」を望む。送電鉄塔が見えるので巡視路があるのを期待。
車で数分で「備前鼻高山城」南麓に移動。
「おかやまGIS」から1/2500でプリントした地図のとおり民家横から小道をたどる。山腹を廻る水路道から女神池。ずっと送電鉄塔まで刈り払い道。急登。切岸、主郭に出る。祠がある。総延長100m程度の城。木々の間から見晴らし良好。鞍部まで降って西側の郭らしき平坦地。北に降りると西方寺に出るようだ。
少し水島方面に向かい、種松山方向に右折。倉敷市広江の「広江城(川越山城)」を訪ねる。
城山の周囲をU字型に車道が廻り崖になっている。車道は路側帯が小さく(防犯上わざわざ狭くしているようだ。)駐車位置に気をつけないと交通事故の元になりそう。数百メートル離れた所に駐車。
東側の尾根筋から笹原の踏み跡に入る。切岸を枝につかまり急登。笹で畝状竪堀が分からない。郭に辿り着くと枯れた
ワラビと笹が茂っている。縄張図で障壁土塁の詳細確認。郭群はほぼ三段構になっている。西側の畝状竪堀も笹で見分けられない。
この城に登るなら縄張図は必携。水島工業地帯が良く見える。夜景ビューポイントだ。
倉敷市児島宇津間、塩生西の山の「備前本太城」に向かう。石油コンビナートの中に取り残された、総延長700m程度の水軍城と港を中心とした中世都市跡。
集落外れに駐車。天神ケ鼻の「本太城3」に向かう。土取場から切り立った細尾根をたどる。尾根の低い所が二重堀切のようだ。道なりに左に郭S3に入る。ヤブ化しているが石垣が続く。郭S2に入るも棘で退却。西側の帯曲輪から石垣に沿い、竪堀の頭を通って郭N2に入る。主郭の石垣の横を進み端に出ると大堀切が見えるが蔓がからまって進めない。大堀切の先の三段の郭はパス。
一旦、土取場に戻り、南に進み「本太城2」に向かう。段々畑だが郭群に見える。狭い舗装道。低い石垣が延々と続く。縄張図に従い竹林を直登。郭。西に進み鞍部の整備された神社。梅の花に蜜を吸うメジロが数羽。昼食。遊歩道を神社の西の峰に登ると櫓台、郭。100m程舗装道を東に進んで集落に降ると登城道の標識。途中に段々の平坦地、石垣。山の周囲は港津都市の遺構らしい。集落を西に進み「本太城1」に出る。記念碑。東の段々畑は郭。竹やぶに道路に沿って横堀が続く。
水島地区を倉敷方面に通りぬけ、倉敷市堀南、浦田の「備前黒山城」に向かう。ここは備前児島と備中連島(つらじま)の境。
廃屋脇の空き地に駐車。池田誠氏の縄張図を見ながら、戦争遺跡水タンクの看板脇から神社に登る。良好な山道。神社を過ぎると郭らしき平地。更に登ると切岸に出て郭。横堀。切岸。主郭に入ると高い土塁が全周。主郭の南に複雑な桝形虎口。下りると登り土塁の郭。大竪堀。大竪堀を上に登ると深い横堀になる。東側の土塁のめぐる郭が二の丸らしい。折れを上手く入れている。竪堀が三方へ。主郭の北東の帯曲輪に入ると二重竪堀。10mで浅い三重竪堀。他の方の訪城記に「土の芸術」と書かれていたが納得。こんな立派な城はめったにない。
隣の連島(つらじま)の「備中大平山城」に向かう。高橋大輔選手が子供のころ練習したスケートリンクのあったサンピア倉敷跡地近くの大平山トンネル手前を東に入る。細い舗装道をたどって駐車。
市民のハイキングコースになっている。
段々畑と石垣を抜けるとダラダラと続く平坦地。縄張図のとおりイワクラらしき岩場に出る。神社跡らしき石垣。港湾都市のあった酒津を望む。どうやら小屋掛け程度の見張場と想像する。
やぶくぐりさん、
あいかわらずすごい攻めっぷりですね。
ほとんどノーチェックのお城ですが、季節感のある
文章で雰囲気が伝わってきました。
本太城っていくつかあったんですね。
見てみます。
いつもありがとうございます。
> 福井城は結構古めのお城ですよね。その時期、さすがに石垣はないのでは
> ないでしょうか?
『日本城郭大系』掲載の縄張図によると、本郭東側に石垣があるようです。
実際に現地で見てみますと、そこの石垣は城趾内の他の石組みよりも古い
ように見受けられますので、当時からの石垣なのかもしれません。ただし、
現状では高さはあまりありませんで、段々の田んぼの側面に一部が少々
残っている感じです。
それとこの場をお借りして「安威砦(おまけ付き)& 鹿背山城」の補記を
させていただきたいのですが、安威砦については北から順にI郭、II郭、
III郭と記載しております。また、ネット上のブログで読んだ内容で裏は
取っておりませんが、鹿背山城については5年計画で発掘調査を進めている
らしく、訪問時に見た現場はその一環かもしれません。
なお、私も管理人様の本を予約しました。近所の本屋が取引している問屋
では出版社と取引がなくて入手に時間がかかるようだったのでアマゾンで
予約しました。到着が楽しみです。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
すっかり茨木の城が遠ざかってしまいましたが
懐かしく拝見させていただいております。
本は・・(^^;
ありがとうございます。
「本とオフ会」という密かなコンセプトで書いてみました
が、本をいざ手にするともう怖くて読み返す気がしません(^^;;
本岡さん、こんばんは。
前回書き込みのレス有り難うございました。
大仙山城、是非行ってみてくださいね〜
今日の読売新聞に、小野市の豊地城跡から、天正年間前半の櫓に使われたとみられる瓦が大量に出土(コンテナ70箱分!)し、
豊地城が本格的な櫓を備えた有力城郭だったことがわかる貴重な発見になったとの記事が載ってました!
播磨地域の城郭で、瓦葺きの建物が登場するのは、永禄〜天正年間以後とされ、県内では三木城や置塩城など5ヵ所。県立考古博物館では「豊地城はそれらと並ぶ本格的な城郭だった」としている。との記事も載ってましたので、
今日さっそく行ってきました(^^;;
整備中の県道の先で発掘調査が行われてましたよ。
ついでに近くの屋口城と小沢城にも行ってきました。
現地説明会が27日午後1時半からあるみたいです。
では、またー♪揚羽さん、こんにちは。
豊地城の現地説明会は行かれました?
年齢もバラバラでいかにもお城好きらしい雰囲気の方も
何人もいらっしゃったので、どこかに知り合いはいないか
キョロキョロしてしまいました。
私は事前に状況を説明していただいていたので一度
見せて頂いていましたが、改めて見ると大きなお城ですね。
来年以降も東側の調査ができるといいなと思います。
ポカポカ陽気に誘われて、「備前・小串台場」訪問。市街地の外れに駐車して南側の高明院から登ろうとしたが、人家に阻まれて、もう少し東側の恩稲荷大明神から入る。ヤブね段々の平坦地。帰りがけに不審者扱い(当然の報いですね。)。
上山坂の「高畠城」に廻る。荒神宮から参詣道を登って東出丸の金毘羅宮。土塁がある。馬場と通称されている尾根を進むと、切岸、郭。急坂を登ると三段の主郭。土塁が廻る。下に郭が見える。西の尾根に西の丸。主郭まで良い道があるので楽ちん登城。やぶくぐりさん、こんにちは。
小串台場は私も一度挑戦しましたが、藪であきらめた
ところでした。
気軽に地元の方に声をかけて登城したいところですが
そんなときに限って誰にもあわなかったりしませんか。
台場はずっと前に見学会もやったこともあったので
それなりに(?)それとわかる遺構があるのかなと
少し期待していたのですが、藪はそんなにひどくなかったでしょうか?
台場攻めに失敗したときのために高畠城やほかにも
行けそうなお城をピックアップして再挑戦したいと思います。
こんばんは
本岡さんの播磨の訪城録を拝見して、
神戸市西区の神出山城と神出城についてのお尋ねがありましたので、
この2城の私の訪城経験を書かせていただきます。
まず神出山城について、
本岡さんは神出神社を訪ねられ、遺構が見つからなかったようですね。
確かに現在の神社境内を見ると尾根の東側は駐車場で北側は車道と、
現代の工事のために、ずいぶんと改変されています。
しかし、社殿の南の旧参道(地道)を西へ行くと、
郭跡と見えるお旅所と更に西の摂社の削平地には、車道との間に空濠の遺構があり、
郭跡の南には切岸が、摂社のある郭跡の南には空濠が施されています。
また、郭間には土橋と見える遺構も残っています。
この他にも、斜面には何本かの堅濠が残っています。
私的には、社殿の正面の石段を降りた削平地も帯郭ではなかったかと。
次に神出城ですが、
この城の遺構は、雌岡山の西のなだらかな丘陵である茶山にあります。
北側斜面は、かなりの部分が果樹園になって遺構は消失したようです。
けれど、麓に山王神社や最明寺のある南斜面と尾根筋には、
城の遺構がかなり残っています。
中でも山王神社の参道の両側には土塁をもつ二重堀切と腰郭の切岸や虎口の遺構が、
かなり良好に残っていてお薦めポイントです。
山王神社の境内も郭跡と見られますが、
その奥の道を登る途中には何段かの郭跡や空濠跡が見られ、
頂上の忠魂碑が建つ約30×50mの削平地は、
南北の斜面に帯郭があり周囲に土塁が廻っており、
居館のある主郭ではなかったかと。
また、この主郭の南斜面は伐採されていて、
何段かの帯郭と、その東端の堅濠も良好に残っています。
主郭の東側の尾根筋にも郭跡は続き、
丘陵西端の、現在は楽農センターへの新車道が開かれている
搦手口と思われる階段ある道の南側には大きな堀切も見られます。
神出城へは、国道175号線「老ノ口」交差点から、
雌岡山南麓の車道を進み、山王神社を過ぎ、
「北条時頼ゆかり寺・最明寺」の看板を道の左に見て、
50mほど東の細道を左折すると薬師堂と集会所のある平地に駐車できます。
その東に右手に竹林を左手に伐採地をみながら主郭へ直登できる道があります。
北側の果樹園の東端から細いながら車道があり主郭まで行けるのですが、
入口に門柵があるため私的には遠慮しました。(笑)
お城マークの写真は、神出城の主郭を周る土塁です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/71/img9eea7024zik6zj.jpeg?t=20100223163054
阿弥陀の住人さん、
神出城の濃い情報ありがとうございます。
私が神出城の場所をあそこにしたのはなにを元にしたのか
見つけられません。うーん・・。
山城のほうは城としてちゃんと見に行ったことが
ありませんでしたが、阿弥陀の住人さんが書いてくださった
内容を見ると、すごい遺構があるなじゃないですか。
冬場だと見やすくなっているのでしょうか。
ちょっと様子を見に行きたくなってきました。
本岡さんも来ていたんですか。
ちなみに僕は右手窓際の一番後ろにいました。(結構離れていたようですね)
おそらく今回来ていた中で10代は僕だけだったのではないかと思います。
また講演会があれば参加したいと思っているので、その時は顔を合わせることが出来るかもしれませんね。
では、また。Soldierさんこんにちは。
まったく逆の位置関係だったんですね。
一応若い人を探してみたんですが、その場でもSoldierさん
の御顔を見つけることができていませんでした。
また養父市には攻め込もうと思ってますので、どこかで
お会いできるといいですね。
あの関宮町のお城、初めて聞いたお城ですが興味しんしんです。
ではでは〜
本岡さん、お久しぶりです。但馬の住民・Soldierです。
タイトル通り、八鹿ふるさと講演会に参加してきました。
最初の、西尾孝昌氏による「養父地方の城郭」の部では、「建屋城と能座城」、「養父神社を守る宮谷西・東城他」、「稲津地域の城郭」
などのテーマでの講演を聞いてきました。
もらった資料には、説明された城郭の縄張り図や各城郭の位置図も付いており、実際に訪れる上で大変役立つものを頂くことが出来ました。
次の、中井均氏による「但馬の織豊期城郭」の部では、有子山城、豊岡城、竹田城、八木城について講演を聞いてきました。
それぞれの城郭が持っていた歴史的意味合いも聞くことができ、今まで知らなかった新たな城郭史を知ることもできました。
また、但馬の陣城についての講演もありました。若水城、尾崎天王山城について聞くことが出来ました。
このような講演会に参加するのは実は初めてでした。しかし、大変興味深いことを聞く事が出来、大変本当に参加して良かったと思えました。
また行われた時は参加したいと思います。
また、帰りにも大藪陣屋、水上代官所を訪れてきました。
こちらは講演で出なかった城郭ですが(時刻の都合で山城へは行けませんでした)、両方とも石垣を残しており、特に水上代官所の石垣には玄武岩を使ったもの(玄武洞付近から運んだものか)と火山岩(神鍋山から運んだものか)を使ったものとがあり、石垣の石からも興味深いものを見ることが出来ました。
改めて、但馬の城郭史に深く興味を覚えた一日でした。
では、また。Soldierさんこんばんは。
行かれてたんですね。
私も行ってましたよ(^^
帰りに軽部城も登り易くなってるなぁ
とキョロキョロしながら運転してました。
あのあたりは山城がいっぱいあって目移りしてしまいますね。
遠いのでやめておこうかなと思ってたのですが
思い切って行ってよかったです。
いい情報を聞くことができました。
しかしあの部屋満員でしたね。
私は左手窓際の一番前に居ましたよ。
本岡さん、こんにちは。
揚羽です。
先日、岡山に行く用事があったんですが、場所が周匝・茶臼山城の近くだったので久々に立ち寄ってみようかと思って行ってみたところ…
茶臼山城の隣にある大仙山城がかなり整備されてました。
茶臼山城の模擬天守のあるところで頂いた資料によると、
かなりの規模の城跡で、こちらが本丸であったとの見方が有力なようです(時代が大仙山城のほうが古く、築城の戦略目的が違うようですが…)
もしまだ行かれてないなら、是非!行ってみてください〜
では、またー揚羽さん、こんにちは。
大仙山城、実はタイミングをうかがっていた城の1つですが、
なんと攻めやすくなっているんですか。
ありがとうございます。
あそこは遺構が良く残っているようですので、見ごたえあるでしょうねぇ。
昨日、鴨方あたりをぶらつかず(しかも城じゃないし)、
ちゃんと山城にいけばよかったです。
こんばんわ
阿弥陀の住人さま、お返事ありがとうございます。
生石神社のことは大体知っておりまして、
(鐘の話は、大谷吉隆で伝わっていましたっけ?)
神吉頼定とのつながりも承知しているのですが、
どうも石切山が気になってw
『石の宝殿の要害と申すは、本丸は石切山の東のほう、
東、南、北は峨々たる獄にして、西の面は平地なり。
櫓、塀高くして中々の堅固な要害』
と、ゴルフ練習場近くを連想させる位置がわかっています。
『家老の布村左金吾、村上重兵衛、藤本七之進、
そのほか雑兵兵卒も多かりけれども、不意に押し寄せられ、
上へ下へとうろたえ騒ぎ、防ぎ矢のひと筋もせず、
われ先に逃げ失せたり』
と、奇襲を受けて防戦できずに、落ちたことも摑んでいるのです。
石切り場ではないか、という話を拾ったのですが、
ご存知のように、山頂部分がきれいにないものですから……。
また暇ができたら調べようと思っておりますので、
なにかわかりましたら、ご報告させていただきます。
それまでに阿弥陀の住人さまが摑まれましたら、
ぜひともお教えくださいませ。
今回は、ご回答に御礼申し上げます。
> 佐保栗栖山砦には文献資料がないそうで、歴史的背景はわ
> からないようです。
おーそーだったのですかー。
結構大規模なお城のようですが、古文献にない城というのもあるのですね。
にひひひ、ガベノ城や甲陽園城もあるかもですね。
> 位置的に福井城に近いので関連があるのかもという推測が
> あるようですので、そうなるとお父さんの三好元長とは絡
> む可能性はあります。
おーそーなんですか。
しかし福井城は結構古めのお城ですよね。その時期、さすがに石垣はないのではないでしょうか?
お父ちゃん時代に石垣というのはあり得る話なのでしょうか?芥川山城の石垣からみて三好長慶時代によーやくという感じではないのでしょうか?と思ったりもしますが…
> 徳島でお奨めはやはり一宮城ですね。
了解です。勝瑞城は絶対と思っていましたので、両方とも行ってきます。
> あと千早城の天主台ってどこかにありましたっけ?(^^;
御承知の通り千早城は鎌倉時代のお城ですので、「天守」という言葉ありません。ただ、縄張り図をみると最長部にありましたよ。
お城さんマークに参照ホームページを入れておきました。櫓台のところですね。「周囲を石垣で囲まれているが、これはもちろん後世のものである。」とあるように、なんか不自然な感じをうけました。
> それと、以前中井均さんの御講演の機会があれば行きたい
> とおっしゃってましたよね。
はいはい、言っていました。
> 21日に「第17回八鹿ふるさと歴史講演会」が開催される
> 中でお話されますよ。お城マークに入れておきました。
がびーん、今日じゃないですか。
徳島行きますので、仕事を前乗りでやっておこなければならず、さすがに今日は無理でごじゃります。
また、このような機会がありましたら、是非教えてください。
それはそーと、アマゾンさんで、本注文しましたよー。今週末ですよね。楽しみにしています。またサインしてくださいね。
では、では。http://homepage2.nifty.com/yogo1394/oosaka/chihayaakasaka.htm
ブレイズマンさんこんばんは。
いや、そこって神域で立ち入り禁止のところじゃないのかなぁ・・と。(^^;
今日は西尾さん、中井さんのお話を聞いてきました。
いい刺激になりました。
あ、本を予約してくださったんですね。
ありがとうございます!
そういえばずっと前にここでイメージキャラクターを
作ったらという話がありましたよね。
あれ以来ずっとデザインを考えていて、まとまったのが
「城めグマ」でした。
印刷に回すと妙にかわいくなりすぎてしまってちょっと・・ですが。
これから城めグマもよろしくです。
こんばんは 皆さん
>本岡さん
管理人さんとは言え、あまり律儀にお考えにならず、
私的には、お暇な時にレスしていただけたら幸いと思っていますから、
どうかお気楽につきあって下さいますよう(笑)
福泊城の石垣は、前から気づいてはいたのですが、
今までは、石垣の手前を東へ民家の路地を抜けて城域の外へ出たものですから、
あの石垣が往時の大手口のものとは思わなかったのです。
このところの城めぐりで、往時の大手口や搦手口を探る癖がつき、
福泊でも、伐採鋏であの石垣の上の潅木やイバラを刈り払って見ると、
その先が岩盤を掘削した虎口につながっているのを発見した次第です(笑)
冬場でもありますが、石垣の写真撮影のために邪魔になる下草や潅木は伐採しています。
>まるさん
生石神社の社伝によれば、天正6年の羽柴秀吉による神吉城攻めの時、
秀吉軍の陣所として貸与せよとの要請があり、
時の神社の宮司が神吉城主(神吉頼定)の弟であったことからこれを拒んだため、
焼討ちにあって社殿も宮司の居館も全てが灰燼に帰したと伝わっています。
実際に焼討ちを行ったのは、秀吉靡下にあった高山右近であったとか。
お尋ねの城館ですが、思うに宮司の居館を指してのことではないでしょうか。
当時の生石神社の境内は、現在のような車道もなく、
今の神門に通じる階段の位置から神社南部も境内地であったとも考えられます。
また、戦国期のことであり神吉城主の弟であれば家臣をもつ武家で
その居館が防御機能を備えた構居(城館)であったのは、むしろ当然とも思えます。
ただ、おっしゃる通り神社の南の現状は、狭い敷地に民家が一軒ありますが、
そのすぐ裏は採石場の断崖になっていて、
かって宮司の居館が在ったとしても、往時の姿も規模も偲ぶ便がありません。
また、魚崎構居の対面(西側)の石切山ということなら、
私もウロついたことはありますが石切場と墓地造成などで地形が改変されています。
尾根部には、もしかしてと思える地形がゴルフ練習場の東と北に見られたものの、
縄張りを想起できるような状態ではなく「う〜む…」でした。
ちなみに、生石神社で焼け残ったのは、御神体の石宝殿と梵鐘のみで、
この梵鐘は戦利品として秀吉靡下の大谷吉継の手にわたり、
後に関ヶ原の戦いの大谷軍の陣鐘として使われ、
戦後に家康の命で美濃国赤坂(現在の大垣市)安楽寺の鐘となっています。
この鐘は大垣市文化財として今もあり、表面には生石神社の名が刻印されているそうです。
今日のお城マークの写真は、福泊城の岩を掘削した大手木戸と番所(写真右手)?
と思われる場所です。
(写真向こうに前回写真の石垣上の道があり、写真手前に岩を掘削した虎口がある)http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/58/imgdddf81d1zikfzj.jpeg?t=20100220235735
阿弥陀の住人さん、
伐採鋏で整備してくださっていたんですか。
これは再訪したくなってきましたよ。
あちこち目移りしているうちに播磨も気になるところ
がでてきましたよ。
近場情報は有難く読ませていただいております
古いものから順に反応しないとと思ってますと、全然リアル
タイムな会話ができないので先にこの辺で合流させてもらいます。
>ブレイズマンさん
徳島でお奨めはやはり一宮城ですね。
あと千早城の天主台ってどこかにありましたっけ?(^^;
それと、以前中井均さんの御講演の機会があれば行きたい
とおっしゃってましたよね。
21日に「第17回八鹿ふるさと歴史講演会」が開催される
中でお話されますよ。お城マークに入れておきました。
私も行こうかなと考えているところです。
>阿弥陀の住人さん
いろいろと反応したい話があったのに、古いものから先に
していかないといけないという自らのルールと忙しさのために
まったく参加できずに悔しい思いでいっぱいでした。
開きなおって、参加していくことにします。
福泊の位置はそういえばまだ修正してませんでしたね。
そういうの一杯あって大変です(汗)。
しかしこの石垣の写真は見事ですねぇ。
私は結構下草が生えている頃に行ったのでイメージが違う
なと思いながら拝見しましたが。
あと、27日は小野の豊地城で現説があるそうですよ。
私はこないだ作業されている方にいろいろ教えていただいた
際に直接うかがってきました。
なかなか見ごたえある堀がでていますから、時間のある方はぜひ!
こんばんわ。
名指しですみません。阿弥陀の住人さま。
ひとつお訊ねしたいのですが……。
阿弥陀の東に生石神社がありますが、
その南に、かつて城館があったという話があります。
竜山の魚崎構に面するように、その西の石切場あたりとのことなのです。
なんでも生石神社が羽柴軍におそわれたときに、
抵抗した城館だったようなのですが、
なにかご存知ではないでしょうか?
石切山と呼ばれておりまして、ゴルフ練習場の西の尾根か、
または石切場でなくなってしまった尾根だった場所なのか、
どうやっても答えが見えてこないものでして、
ご教示願いたいと思った次第です。
もし些細な情報でもお持ちならば、
なにとぞお教えいただけますよう、よろしくお願いいたします。
ブレイズマンさん>
佐保栗栖山砦には文献資料がないそうで、歴史的背景はわからないようです。
掲載している書籍もあまりなく、調査報告書(未所有)以外で私が確認して
いるのは、『わがまち茨木 城郭編』(茨木市教育委員会)、『図説近畿中世
城郭事典』(城郭談話会)、『城巡礼 盛者必衰 大阪48ヵ所めぐり』(東京
地図出版)くらいです。
私は歴史的背景にはあまり詳しくないのですが、書籍とネットでの検索を元に
ちょこっとだけ・・・
位置的に福井城に近いので関連があるのかもという推測があるようですので、
そうなるとお父さんの三好元長とは絡む可能性はあります。
『わがまち茨木 城郭編』には茨木市大岩地区出身らしい大岩氏の記述(豊後
岡藩「諸士系譜」)を参考として紹介されていて、暗に大岩氏の砦ではない
かという意見を表明しているように見受けられます。豊後岡藩「諸士系譜」
には三宅氏も登場する(リンクあり)ようで、同じ中川氏の家臣団となって
いるらしい点はおもしろいですね。三宅氏であれば三宅城が江口合戦で絡み
ますので、三好長慶が直接登場ですね。
#私の環境はIEを利用できないので確認できませんが、リンク先Webサイトは
#管理人様Webサイトと相互リンクをされるようです。
徳島ですが、私は行ったこことがないのでまったくわかりません m(_ _)m
三好氏ゆかりということでしたら勝瑞城あたりを抑えておくご予定かと推察
しますが、Wikipediaによると、清水寺の山門は勝瑞城か一宮城の城門を移築
したものかもしれないようなので、お時間があるようでしたらネタとして
訪問されるのもよいかもしれません。
では、失礼いたします。
こんばんは 皆さん
このところ、自宅(高砂市阿弥陀町)近場の城跡や構居跡を主に、
籔コキ覚悟で伐採鋏片手に城域全体を廻り遺構を探訪するのに嵌まっています(笑)
その中で気づいた面白い事実があります。
いままでの城跡めぐりは、主郭を中心とした主要部の遺構中心だったのですが、
少し視点を変えて居館や大手筋・搦手筋の遺構を探ってみると、
ネットなどの訪城記には出ていない遺構が残っているのに出会ったりします。
中でも播磨地域に多い比高の低い戦国期の丘城跡には、興味深い遺構を見ることがあります。
例えば、丘城では城域を囲む幅も深さもかなりの規模であったと考えられる水濠の残欠遺構を、
加西市の広原城・笹倉城・土器山城、神戸市の池上城などで見ました。
また、大手虎口などで丘城だからこそと考えられる工夫の遺構があったりします。
例えば加西市の土器山城の大手口と思える城跡南側の県道の横に、
土塁を伴う堀底道に並行する大堀切のある防御性を工夫した大手虎口が、
姫路市的形町の福泊城には、居館跡と見られる現在の小赤壁公園の山側(西側)に、
大岩を掘削して枡形虎口とした上、
懸門構造で跳ね橋をもつ番所付の門があったと考えられる大手口遺構が見られます。
これらは要害性が低く防御に難がある丘城だからこその工夫と思えるのですが・・。
お城マークの写真は、福泊城大手口で見られる、この城跡では唯一の石垣遺構です。
いま見たら、本岡さんの訪城記の福泊城(構)の位置修正がまだのようで…。
福泊城の位置は、公園になっている木庭山・姫御前山ではなく、
尾根続きの東端で福泊港に面した燈籠地山です。
頂上に土塁のある径30mほどの円形の主郭と帯郭の遺構があり、
大手筋は水軍出身の英賀衆らしく東の福泊港に、
搦手筋は北の福泊神社のある鞍部を経て赤坂山城へと、
また西の郭跡と見られる竹薮の削平地を経て姫御前山へもつながっています。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/52/img8403531dzikczj.jpeg?t=20100218162150
ポリタンクさん、佐保栗栖山砦の情報有難うございます。
いやー、すごいですねー。砦とありますが、非常に立派な山城のような感じがします。
この資料に石垣としては、
> 心理的な防御の役割
とありますので、単なる曲輪留めという以外の役割、安土城以前に山城で石垣が使われていた初めの頃ということだったのでしょうか。
資料には沿革が出ていませんが、やっぱりこの城は三好長慶と何らかの関係があるのでしょうかね?
いやーーーー、越水城起点の私としましては、非常に興味があります。
> 安威城ですが、竹をかなり伐採したようで、車越しでも
> 土塁が目視できました。
そーでしたかー。今度見に行ってみよ。
> ・千早城
> ・高取城
> をどっぷりと楽しんできました。
あれ、管理人さんも千早城に行ってこられましたか。あれって天守台が石垣になっていますでしょ。あれはいくらなんでも後からでしょうね。
さてさて、来週徳島に旅行に行ってきます。
で、やっぱり越水城起点の私としましては、三好長慶さんの生れ故郷に是非行ってみたいと思っています。
どっかお勧めのお城があれば是非教えてください。
では、では。
週末にいくつか巡ってきました。
【1】安威砦(大阪府茨木市)
薮が減っていて散策しやすかったです。II郭とIII郭の間の堀切は圧巻でした。
I郭とII郭は土塁も良好に残っています。特にII郭のそれは見事です。今後も
現状維持であることを祈りました。
是非ご覧になってください >管理人様
なお、途中で通過する安威城ですが、竹をかなり伐採したようで、車越しでも
土塁が目視できました。開発の準備?違うよね・・・
【2】佐保栗栖山砦(大阪府茨木市)
安威砦のおまけとして、前回訪問時に見忘れたI郭とII郭の間にある出入口の
石垣を拝むために再訪。ただ、虎口の形状は確認できましたが、石垣は見当たり
ませんでした。発掘調査からの時間の経過で再び埋もれたのかもしれません。
【3】鹿背山城(京都府木津川市)
前回書き込みました佐保栗栖山砦と同じく、職場の上司と一緒です(笑)
西念寺に設置されている箱から「鹿背山城跡配置図」(木津の文化財を守る
会)を頂戴してから入城。一部を端折りましたがだいたいは見て回りました。
I主郭とその西側の横堀で発掘調査が行われていました。多聞櫓跡で昨年話題に
なった櫓台も再度掘り返しているようです。昨年は高取城訪問(職場の上司と
一緒(笑))と日程が重なったので現地説明会に参加できませんでしたが、
今年もあるのであれば再訪できればと思います。西側の畝状竪堀群は見事!
来て良かったなあと見惚れていました。
総じて程よい整備がされていて散策しやすかったのですが、I主郭から水の手
へのルート等、一部ではありますが「ロープがあった方がいいでない?」と
思うところもありました。落ち葉が多いせいもあって、上司が少々難儀されて
いました。
では、失礼いたします。
美咲町(旧旭町)城(ジョウ)の「城小屋」訪問。萩丸城からそばの荘の案内看板をたどって旗から城地区に進む。手打ちそば屋のそばの荘のほんの300m先の両カットの側に駐車(この辺り道が狭くて、ここしか車がおけないのですぐ分る)。
西の尾根に登る良好な山道がある。尾根筋を進むと約300m位で曲がりくねった土橋。切岸、小郭、切岸、郭と続き、一旦降って登り返すと主郭、腰曲輪。延長250m程度。こんな山奥のマイナーな城なのでヤブこぎ必至と思っていたが良い方に外れた。三浦氏の城との伝承。
本岡さんこんばんは。尾張の終わりです。遅ればせながら書籍出版おめでとうございます。町の本屋さんで見かけたら購入すると思いますのでそのときはよろしくお願いします(笑)さて、本で思い出したのですが、この前話していたサンライズ出版の「静岡の山城ベスト50を歩く」という本を遂に手に入れました。先月約2年ぶりに彦根城を訪れた帰りに、彦根市内の本屋を見て回って探していたのですが、なかなか見つからなくて最後の手段として思い切ってサンライズ出版に電話を掛けて問い合わせしたところなんと僕の探していた「静岡の山城ベスト50を歩く」を用意してお待ちしていますと答えて下さったのでそのあと僕は本を取りにサンライズ出版に向かいました。サンライズ出版に辿り着き出版社の人が僕を二階の事務所に案内してくれてその事務所の中で1890円を払って「静岡の山城ベスト50を歩く」を手に入れました。そのあと出版社の人が言うには、今度は3月に「岐阜の山城ベスト50を歩く」と今年の9月ごろには「愛知の山城ベスト50を歩く」が刊行されるそうです。そのラインナップを見てみると犬山城、小牧山城、長篠城はもちろん、そのほかには本岡さんが訪れた大給城とまだ本岡さんが訪れていない古宮城、足助城、武節城などがありました。あと番外編として愛知の平城というのがありましてその中には清洲城、岡崎城はもちろんやっぱり尾張名古屋は城でもつで有名な名古屋城も掲載されるらしいです。今から発売日が待ち遠しいです。「静岡の山城ベスト50を歩く」にも同じようなものが掲載されていまして静岡の平城ベスト17とありまして浜松城、駿府城、掛川城などがありました。(諏訪原城が平城のほうに掲載されているのには正直おどろいた)詳しく知りたい方は滋賀県彦根市鳥居本町655−1TEL0749−22−0627サンライズ出版株式会社まで それではこれで失礼します。
こんにちわ。
加古川にある「たぶさ」とも「たぐさ」とも呼ばれる構跡に、
仕事仲間といってきました。
多久左山にあるとのことで、向かったまではよかったのですが、
登山道がまったくありません。
意気込んでいただけに、がっかり感は大きかったです。
あとで確認すると、高圧線の保守に使うけもの道が一本あるそうですが、
年中、マムシが出るようなので、見上げるだけが賢明かもしれませんね。
教育委員会の調査が入っただけの手つかずの山ですから、
登ればなにかあると思われますが、
マムシのせいで、その勇気が湧いてきません。
笑ってやってくださいwwww
では、また。
いよいよ体が空いたので、土日は城攻めしてきました。
土曜日はレンタサイクルで京都攻め
・御土居めぐり
・聚楽第の跡と遺構めぐり
・二条城(各世代)
ほぼ目的を達成できました。
でも雪が激しく舞う時間帯は地獄でした。
でも諦めていた北野天満宮の梅園がすでに開いていて、
御土居の排水遺構も見れましたし、たまたま昨日から
開催していた京都大学にある博物館で御土居絵図の
デジタル復元とそれを記念した講演会を見てくることが
できました。
仕上げは明石で旨い酒。
さて、日曜は
・千早城
・高取城
をどっぷりと楽しんできました。
昨晩からの冷え込みで金剛山は樹氷が綺麗にできている
のが遠目にもわかります。
2城とも久々でしたが、いいお城でした。特に高取は。
遥照山、竹林山(岡山天文台博物館見学。晴天、望遠鏡で太陽のプロミネンスを見させていただく。)、安部山の三山を車で頂上直下まで行きピークハント。
矢掛に降りて「伽藍山城」に向かう。この城は矢掛・茶臼山城から小田川を隔てて南西にある。
藤ケ峠のトンネルを西に抜けて山の西側の寺谷から登る。
集落の奥の西方院の駐車場に駐車。立派な登山道。約30分で八合目の尾根に出て道なりに左折。すぐに切岸、帯曲輪、切岸、小郭、そのまま山道を登ると竪堀、櫓台、三連の竪堀と続き、低土塁が廻る二の郭。すぐ帯曲輪、土塁、虎口のある主郭に着く。きれいに仮払われている。お堂の跡、瓦の山、桜の木。見晴らしは最高。北側にも郭が何段かあるらしいがササやぶ。
江良から浅海に出ると「浅海中山城(太郎丸城)」。山自体も小さい。県道脇の畑から登り付く。剪定鋏で軽く刈り払いながら進むと東の郭。尾根を西進、主郭。単純な郭の配置。
最後に、藤ケ峠を東に抜けて広石付近の船が迫城に廻る。集落奥の神社から左折、100mでおかやまGISに記されている道に入る。竹林の終わりでウラジロの群落。胸まで茂っている。今日も退散決定。岡山県南の山はシダのヤブが多くて難儀。
お久しぶりです!越前板前です!
早速ですが、1904のコメントは削除した方が良い様ですよ。
ここには関ヶ原以来ご無沙汰ですが、去年はETC装備の新攻城兵器タントカスタムに騎乗し、高速道路を駆けてました(笑)
まずは静岡、後北条氏の山中城跡、ここは凄かったですね!城巡りファン必見です!
次に韮山城跡、なんとここでは山頂で外国のお嬢さんに会い、青い目の歴女を初めて見ました(ラッキー!)
それから興国寺城跡、駿府城跡、蒲原城跡、小山城跡、田中城跡、諏訪原城跡、勝間田城跡、横地城跡、高天神城跡、横須賀城跡、久野城跡、掛川城跡、浜松城跡、二俣城跡と駆け足で回り3泊4日の静岡攻略は幕を閉じました。
次は新潟ですが、またの機会に。
あと、管理人さんの岡本様、書籍出版おめでとうございます!
連続投稿で失礼します。
投稿してから、ふと気付いたことがあります。
それは、この赤坂城と的形構と福泊構の地理的関係です。
的形構は、赤坂城から東北方向に直線距離で430mの尾根続きです。
(現在は国道250号線の切通しで分断されています)
また、福泊構のある燈籠地山とも直線距離で520m、
これも北側の鞍部で赤坂城の高坪山と尾根続きで、
途中の出郭(小ピーク)までなら直線距離で約300mです。
この二つの構居は、英賀一族の長尾兄弟(新藤次と新十郎)が城主であったと、
伝わっています。
二つの構居を居館とした詰の城が赤坂城であったとすると納得できる地理的関係では?
河野水軍を出自とする英賀一族は、はじめ赤坂城のすぐ西の恋ヶ浜城に拠り、
その後に英賀城に本拠を移したが、その領分は天川以西の海岸部であったと。
この赤坂城は、英賀一族領分の東の抑えとして築かれたものではないのだろうか?
福泊構は、播磨五泊を見張り、海上交易の拠点としての必要性もあったものでしょう。
しかし、標高53mの構居(燈籠地山)は、福泊港を眼下にし、
瀬戸内海通行の見張りとしては絶好の位置ながら、背後の山に遮られて陸側の眺望がなく、
防御性も十分ではありません。
的形構も低丘陵の北端に築かれ、東側の眺望はあるものの他の三方は丘陵に遮られ、防御性は高くありません。
赤坂城のある高坪山の標高105mと周囲の丘陵より高いため、
四方への見通しが利き、要害としての立地条件も持っていると思われます。
う〜む…、山城を訪ねていろいろ憶測を巡らすのも楽しいものです(笑)
お城マークの写真は、赤坂城主郭から西の眺望です。
(潅木と藪化のため現在の眺望はよろしくありません)http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/57/imga2ea8880zik3zj.jpeg?t=20100201204430
こんばんは
土曜日に訪ねた姫路市八家・木場・福泊にまたがる高坪山(105m)の
頂上に主郭がある赤坂城について、再訪のために少し調べてみました。
調べたのは、兵庫県立歴史博物館HPの文化財情報地図。
この地図はなかなかよくできていて、地図上で対象地域の拡大はもちろん、
例えば城域の距離や面積をポイントをクリックするだけで計算してくれる機能があります。
赤坂城の城域を対象にして計算させてみると、
東西の最長は240m・南北の最長は320mで、面積は49000uでした。
築城時期・築城者・城史もわからない山城にしては、かなりの規模と言えます。
初回訪城の結果から縄張りの見当をつけると、
東・西・北の斜面が急な山頂部に径約100mの楕円状の主郭を置き、
その周囲に幾段かの帯郭や腰郭を配して、
主郭南側の勾配が緩い現在は竹林になっている鞍部には、
梯郭状に数段の郭を置いた縄張りではないかと。
また、鞍部の南にある小ピークに出郭があったようにも思えます。
いずれにせよ、近い中に推測縄張り頭において城域を探索し、
遺構を確認してみたいと思っています。
お城マークの写真は、赤坂城主郭南の二の丸?の竹林にある石組みが残る井戸跡です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/07/img26f025a0zik8zj.jpeg?t=20100201184854
#連投(稿)ご容赦ください m(_ _)m
悩んだ揚げ句、烏帽子形城に行ってきました(笑)
各種資料等を読みながら悩んだために決断に時間がかかり、徹夜での強行軍
です・・・
#散策用に2008年12月の現地説明会資料(リンクあり ※pdf)を持参。
初めて行くので、説明会の前に散策しようと思いまして、10時には現地入り
しました。2時間ちょっとで見回ることができましたが、いやぁ、感じの良い
お城ですね。公園としての整備も程よくなされていて、好感が持てました。
手作り感満点の案内(「ここは堀切じゃよ」等)も思わず笑みが溢れます。
晴れた日に再訪したいものです。
小雨の降る中でしたが、そこそこの人数が見学に訪れていました。
現地説明会のポイントは2つあり、1つは横堀屈折部の障壁(説明会2008の
調査地と同地点)が想定よりも高かったこと、もう1つは東側土塁の切れ目が
自然崩落ではなく大手と思われること、です。教育委員会の方の説明はわかり
やすくてよかったです。
想定外の出来事は、前者の横堀にて、見学者のうちの1人のおっさんが教育
委員会の方の制止を無視して横堀の際(立入禁止区域)を通ろうとして、
不安定な地表面に足を取られて落ちそうになったことです。障壁も粘土質で
できていたらしいので、敵が雨天に攻めたらこうなるのかな?と、この目で
見ることができました。(滑った先に杭に足が引っかかってなかったら落ち
てだぞ、おっさん・・・)
来たついでに、電話で在庫確認をした上で郷土資料館にて「河内長野市城館
分布調査報告書」を購入し、帰路につきました。
さて、寝ますか・・・
では、失礼いたします。http://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/otherevent/h20/ebosi-gensetu.pdf
ご無沙汰しております。
管理人様、書籍出版おめでとうございます。たぶん購入させていただくと
思います(笑)
ブレイズマンさんの話題の中で登場している上赤坂城といえば、その出城に
あたる烏帽子形城で今日現地説明会がありますね。昼から雨みたいですので、
行こうか行くまいか決めかねています。
私はといいますと、大阪府茨木市の佐保栗栖山砦(リンクあり ※pdf)に
職場の上司とともに行ってきました。上司はその前の週にも看板までは
たどり着いたそうですが、看板の背後の山が砦だと勘違いされたそうで、
進入口がわからずに断念したとか。で、私が随行となりました(笑)
私も砦内に踏み込むのは初めてでしたので道選定で少々ロスをしましたが、
荊の攻撃に合ながらも何とか砦に辿り着きました。「茨木市だけに荊が多い
ですなあ」(「茨木」の語源は「荊切」)と二人でベタなことをいいながら
砦内を散策。この季節だとまだ歩きやすいですが、夏場だとどんな状態なの
だろうとは思いました。
I郭には礎石っぽいものも残っていますし、なかなか雰囲気のよい砦でした。
眺めもよろしくて、南には福井城趾という名の田んぼの連なりも視認できま
した。残念なのは、I郭とII郭の間にある出入口の石垣を見忘れたことです。
(気が向いたら、これを見るために再度行くかもしれません。)
I郭北側の竪堀は見事ですね。その先に進むのをやめようかと思うほどです。
折角来たので、ついでにI郭北側の竪堀を越えてずんすん進みますと、尾根と
尾根の間にコンクリート製の溝らしきものもありました。何の目的でそれが
あるのかは不明です。なお、I郭北側の竪堀は少ない足場を頼りにしながらも、
結果的には滑り落ちるように下りました。管理人様が足首を痛めたのがよく
わかりました・・・。(帰りはI郭の土塁が曲がったあたりへ迂回して登った
ので少々楽でした。)
では、失礼いたします。http://www.occh.or.jp/shuppan_shiryo/pdf/gensetsu/h10_034.pdf
おー、すごいすごい。
本の発売オメデトウございます。
> もし書店で見かけられましたら、暖かく見守ってやって
> くださいまし(^^;
と奥ゆかしー事言わなくても、買いますよー。
ちやなみに、
> なんと、2000もの城を攻略した、
> 本岡勇一さんが選びに選んだ120の城を
> ドドンと掲載した
とありますが、どんな「こんな城もあったんだ」を選択したのですか?
あっそーそー、私は今まで、
・越水城
起点で攻城していましたが、この戒律を破って
・千早城
に行ってきました。
まー100城に指定されているし、古いタイプの山城も見ておくのも今後の為になるかー、と思い行ってきました。
管理人さんのホームページは、
> 上赤坂城攻略後でしたのであまり感動もなく、
と残念なコメントがありますが、確かにシンプルな構造ですが、私は結構楽しかったですよ。
山城の基本的な部分がだいたい網羅されているように思います。
では、では。
本岡さん、ご多忙は著作中でしたか。
「こんな城もあったんだ」とは、面白そうなタイトルですね。
雲海に聳える天空の城(竹田城)の表装も仕上がって2月27日の発売とか。
まずは御出版のお祝いを申し上げます。
さて、今日の私は姫路市八家・木場・福泊にまたがる高坪山(105m)山頂に
主郭を置く赤坂城を訪ねました。
訪城前の資料調査では、「頂上に単郭の城郭遺構がある」とか、
「郭・石垣」の遺構があると言うことだが、
埋蔵文化財分布図で見ると、単郭にしては城域が広いような…。
ともあれ、ネット上では訪城記も見当たらないマイナーな城郭遺構で、
自分の目で確かめて見るしかないと。
南山麓の福泊神社境内の東奥から福円寺の墓地と石仏巡りの細道を経て、
送電線の巡視路へ。
途中で道の東側にある小ピークに寄り道をしてみると、
笹の茂る中に櫓台とも見える土盛りと、低土塁をもつ削平地があり、
北側斜面には、土留めの石積みも何箇所か見られたため出郭の跡かなとも。
巡視路に戻り高坪山との鞍部から道脇に石囲いの井戸跡がある竹薮を抜け、
頂上手前の送電鉄塔を経て主郭へ。
主郭がある頂上にも送電鉄塔があり、広さは目測で100m四方ほどかと見える。
主郭東側にある三等三角点との間には高さ0.5〜1mの土塁で隔てられ、
北東側には虎口らしい開口もあって単郭の縄張りではないようだ。
ただ、この高坪山の尾根筋はかなり藪化しており、
道を外れると笹だけでなく葛やイバラが茂って冬場の今でも踏み込めないところも多く、
遺構の確認には、かなり困難をともないます。
(刈込鋏と木刀持参で無理攻めもしたのですが…)
また、高坪山は、以前は頂上近くまで段々畑があったようで、
あちこちに雛壇式の削平地が見られるため、どこまでが城域なのか、
城の遺構なのか、ざっと見ただけでは…?
しかし、今日で大体の勝手が判ったので、
もう一度、主郭周辺からじっくり攻めてみようかと思っています(笑)
お城マークの写真は、頂上の主郭と東郭(仮称)を隔てる高さ約1mほどの
虎口近くの土塁です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/04/img3f27a01fzikfzj.jpeg?t=20100130193212
今年初めての山城会は、「岩屋城と天正12年の陣城群」探訪。山城会員4名、国道53号線河内田のパーキング集合9時。手始めに美和山古墳公園駐車場から「美和山城」訪問。この城は前方後円墳を切岸に利用して作られている。土塁、井戸。戸島の下田邑尼山城(陣城)とセット。
久米地区の「岩屋城」駐車場に駐車。北奥の舗装道から登る。12本の竪堀。幅5m、深さ2m。きれいに並ぶ。竪堀の上に炭焼釜か狼煙。二の丸から本丸へ。落とし雪隠、馬場、小分城、石橋砦、椿ケ峪砦と廻り龍神池へ。再び二の丸下から岩を掘り込んだ大竪掘を通り尾根の堀切、郭群を通って北側の陣城へ向かう。尾根の一番低い所に堀切。登りになると攻め手側の郭。急登を登ると「はって場陣城」が右側に続く。土塁線や縄張図にない郭が左右にある。二つ目の土塁の廻る陣所までで引き返す。
尾根を西に下って急登になると「梅ケ峠陣城」。周囲に郭が廻る。これだけでも一つの城。頂上から南側の二つの支尾根にも郭群。12時になったので「岩屋城」に戻り、大手を通って左右の慈悲門西砦、慈悲門下砦、新しく記載された慈悲門下砦の南側の砦を眺めながら階段道を駐車場に降りる。
遅い昼食。おにぎり、フルーツ、コーヒー、ケーキ。
一旦、車を移動して民家の横から東に入り、北上して「与右衛門ノ上陣城」に入る。二重土塁、切岸、陣所。南に降って「荒神の上陣城」。12ある陣城の中ではここが一番整備されている。説明札。横堀、切岸、土塁、大きな竪堀、織豊系陣城の見所が盛り沢山。
簡易郵便局前まで車を移動。「妙福寺上陣城」の北端に向かう。新しく作業道が出来ている。北端の堀切は作業道で破壊。この砦が攻め手の宇喜多勢の最高指揮所になっている。総大将は花房助兵衛。
土塁、郭を通ると、岩屋城に対してこの砦だけが縦深陣地になっているのが判る。自動車のある陣所。妙福寺裏の陣所(ヤブになっているが最高指揮官がいたらしい作り)を通り、西に道路を下りる。田圃を西に通って墓地下から新設の作業道を入ると「楽万の上陣城」の土塁線に出る。ここも通りやすく整備されている。221m陣所から東に土塁線をたどると、土塁線が下の田圃へ降っている。まるで登り土塁。
西に向かって232m陣所。ここも感動物。今日は毛利方の岩屋城を天正12年に取り囲んだ宇喜多(秀吉方)勢が築いた延長8キロの12の陣城の内、入りやすい6っの陣城を案内。
帰りに道の駅ガンダムに寄って岩屋城のパンフレットをもらう。以前から持っていた白黒コピーの縄張図と比べると往環の上陣城や
柿の上の陣城の陣所が増えている。岩屋城も駐車場の上の新しく郭群が書かれている。縄張図作成者の山形省吾氏はご高齢なのに再びパンフレット作成のために廻られたようだ。
本岡です。
なかなか反応できずにすみません。
今月は実は本の原稿を書いておりまして、毎日
必死にやってました。
あとは出来上がってきたものをチェックするだけですが
なんとか間に合いそうです。
もし書店で見かけられましたら、暖かく見守ってやってくださいまし(^^;
さぁ、城いくぞーー!
*お城マークにURL入れておきます。http://www.amazon.co.jp/dp/490437617X/
編集者が発売日までの日々の苦労話をリアルに
ブログに書いてくれています。
「こんな城もあったんだ 制作ブログ」
http://www.tobooks.jp/shiro/
よろしくお願いいたします。 m(_ _)m
総社市の幸山城の麓の「岡谷城」訪問。西池横に駐車。
すぐに郭と土塁。奥に向かうと民家の庭先。
旧・清音村の古地に駐車。登山道を登ると「軽部城(古地城)」。郭、堀切、切岸、郭と続く。更に登ると長曲輪、井戸らしき窪み。そのまま堀切無しで尾根筋を登っていく。500m位で「軽部山城」に至る郭、堀切、土塁のめぐる郭、堀切、主郭の切岸、櫓台、土塁と続き二段の郭が下る。平坦地に出て城域が終わる。けっこう立派な作り。「軽部城と軽部山城はセットになっているようだ。左に道を取ると軽部神社に降りるが、そのまま東に進み軽部山頂上に出る。道なりに進むと福山城に続く峠に出る。
峠の自動車道を下りて、北側の山裾を廻って3キロで駐車した古地部落に戻る。
高梁川を渡って旧・船穂町の「簗場瀬城」に着く。新設の小学校の前から左側の狭い道を車で登ると廃校になった小学校。城跡を示す石柱。奥の稲荷神社から登ると主郭。新幹線が見える。ヤブを進むと一段下がって郭。小学校で半分切られているようだ。
今日は、思いがけず土塁の廻る城に出会えて恵比須顔で帰る。
こんにちは
先日、小野市池尻町の池尻城を訪ねた時のこと、
囲み土塁跡が残る西北麓の大歳神社(居館跡)と、
丘上の櫓台のある主郭と掘切・土橋で仕切られた北の二郭を見た後、
説明標識には記されていないものの「どうも南尾根にも遺構がありそうだが…?」
と思い主郭と堀切・土橋で隔てられた南尾根を探索。
潅木が藪化し、荒れた削平地ながら土塁・空堀・堅壕などの城郭遺構が
丘陵南端まで200m余に渡って尾根筋に見られた。
「これは思った以上に城域が広いようだが…?」
また丘陵の西側中腹に南北に通る現在の道路の西側も、
今は段畑などになっているが、元は帯郭だったのではと?
その切岸裾の平地との間には居館跡から続く掘割跡と思える水路。
探索はまだだが、東側の竹薮となっている平地の中にも、
何か遺構がありそうな雰囲気。
池尻城の南に残る遺構を見るには、
大歳神社から100m余り南に行った東側にある
東山荘への車道を登ります。
東山荘の裏(北)に堅壕が残り、
登り切った尾根上は現在グラウンド状の平地になっていて駐車可。
そのグラウンドの北・南・東に土塁や空堀などの遺構が見られます。
お城マークの写真は池尻城の主郭と南郭?の間にある土橋付き堀切です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/21/img7196a5afzik2zj.jpeg?t=20100123095206
ごめんなさい
近江寺砦の二重堅堀の写真をアップしたつもりが、
妙見山城写真のままでした。
お詫びして再掲させていただきます。
ついでながら、妙見山城について、その後に判ったことを、
この場をお借りして書いてみます。
東山麓の居館跡と伝わる三段の削平地に現在見られる寺(無住の尼寺?)は、
吉祥庵と呼ばれる日蓮宗の寺です。
「城主の娘の碑」と伝わる墓碑も「妙法」の文字が女性戒名の頭にあり、
日蓮宗の寺であることを裏付けています。
日蓮宗は妙見信仰とつながりが深く、この城のある山の名も妙見山と呼ばれたのだろうと。
また、南山麓にも、この辺りでは珍しいものの、
日蓮宗と切り離せない神仏習合の三十番神を祀る三十番神社(三播神社とも)がありました。
明治維新の神仏分離令で祭祀が禁じられた神社なのですが、
ひっそりと残っていました。
ちなみに、この加西市谷口町の吉祥庵も三十番神社も、
ネットの寺社検索ではヒットしません。
妙見山城とともに、人知れずひっそりと残り、
土地の人の伝承にも残らない…、
そういうマイナーな存在に魅せられたりしています(笑)http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/51/imgbd7c345ezik5zj.jpeg?t=20100120102011
こんにちは
本岡さん
お忙しい中に美作まで岩屋城攻め、城好きならではのことですね。
おっちゃんさん
長水山城の東側登山道は、お寺の方が生活物資を運ぶために、
小型のキャタビラ運搬車を使われているようですよ。
あの道ならタイヤは無理でもキャタビラなら通行可能らしいです。
さて、私は休みともなれば相変わらず播磨を中心に、
藪に埋もれたマイナーな城郭遺構や居館跡などを求めて徘徊しております(笑)
その一つとして最近訪ねた神戸市西区押部谷町近江の近江寺砦(西盛城)ですが、
近江寺から西の尾根筋辺りにある4郭からなる城郭遺構の他に、
近江寺の背後から東にも城郭遺構らしく見える切岸・土塁・堅堀などの遺構を持った
郭跡らしい削平地を見つけました。
近江寺は鎌倉から室町期にかけて付近の太山寺や性海寺とともに僧兵を擁し、
南朝方として活躍したことが知られていますが、
三木合戦では性海寺と別所方に味方したため、近江寺も羽柴秀吉の軍勢に攻められ、
41坊といわれた全山が灰燼に帰し、後に徳川幕府によって再興されています。
この三木合戦の時まで近江寺に僧兵がいたとすれば、
西盛城や、現在の近江寺境内の背後から東側に見られる遺構は、
僧坊を兼ねた城郭であった可能性が高いのではないかなと考えたりしています。
また、そういうことなら西盛城が近江寺砦と呼ばれるのは文字通りで、
また三木合戦で炎上落城の城史が伝わりながら、
近江寺宗徒(僧兵)が守った城ゆえに、
城主や主だった武将の名が伝わらないのも納得できると考えたりしています。
お城マークの写真は、近江寺境内の最奥にある鎮守社の背後で見られた、
二重堅堀と見えた遺構です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/26/img1514460azik1zj.jpeg?t
本岡さん、阿弥陀の住人さんこんばんは
参考にしていただいてよかったです。
日生の児島高徳が砦を築いたとの伝説がある天狗山に登ったら池の横に帰化植物のビロードモウズイカのロゼット。
通る度に気になっていた消防署裏の「狐塚城」に登る。標柱横に駐車。立派な道が付いている。標柱に従い携帯電話電波塔へ。分岐。標識の案内で山頂の「狐塚城」の看板。遺構見当たらず゛。
次いで、和気大中山の「衣笠山城」探訪。
おかやまGISでプリントした1/2500地図に従い高速道路側道に至るもジャングル化。
南側の神社から左上中腹の送電鉄塔を目指してケモノ道に取り付く。剪定挟み活躍。
途中、木の間から約50m下に目指した送電鉄塔が見える。
そのまま頂上を目指す。尾根に出る。二か所の小さな岩場。
シダが胸の高さに一面密生している。泳ぐように藪こぎ。登山用の杖と剪定鋏みを失う。
ダラダラとした勾配の平地を山頂に向かうと二か所に段差。窪みがある。井戸か。明瞭な遺構らしきものは見当たらないが、街道を見下ろす見張所に最適な場所だ。北側の尾根続きは北山城。一旦、峠まで下って岩場を登り返すのは躊躇。登ってきた道より外れて南西に尾根を下るとテレビアンテナ。急こう配の刈払道がある。この道を下ると登りに目指した送電鉄塔を経由して民家の裏に出る。
今日は二城とも明瞭な遺構見当たらず。
こんばんは
本日、体に溜まった酒を抜きに長水山城に登城しました。
宇野の大手から登るか、五十波の搦手から登るかですが
迷わず五十波から(途中まで車でいけるから)
登ることにし林道の終点で車を止め、長水山城まで1k
登り始めたのですが、年末年始のお酒のせいで20分で
ヒイヒイハアハア汗をかきながら30分位登ると
上から犬の鳴き声がワンワン、上の寺院で飼われている?
とすれば、あと少しで頂上です。
しばらく歩いて見上げると石垣がドドーンと目の中に
飛び込んできて疲れも一気に飛んでいきました。
縄張図を片手に一通り散策し昼食、寺院の方が生活を
されているので、今まで行った山城跡とはチョット
雰囲気が違ったのは私だけだったのかなぁ〜と思いながら
下山しました。 何か物足りなさが残り兵庫県の資料を見
宇野の大手入口の方に寄ってみたのですが、伊水小学校の
裏に石垣の郭跡がいくつか並んでおり上には第一城門
第二城門跡があるらしいです。 こちらから登るのが正解
だった気がします。
長水山城に行かれる方は、宇野の大手入口をお勧めします
石柱に城跡まで18丁と書かれてあったので約2kですね
頑張って登ってみてください。
追伸
五十波の登山路に所々キャタピラのような跡がある 何でしょうか、キャタピラ付の動力車でも
あるのかな?登山路は一定の幅で段差が無い
チョット疑問に思いました。
皆さん、こんばんは
山城を訪ねる好適シーズンで、それぞれに頑張っていらっしゃるようですね。
尾張の終わりさん
置塩城を訪ねられたんですね。
三国守護の大名の本拠ともなれば、流石と言える規模の大きさで、
すべてを見て回ろうとすると、たっぷりと時間が必要ですね。
私も置塩城は11月末に3回目の訪城しましたが、西郭から大手門と、
藪コギしながら大手筋まで探してうろつくうちに丸1日費やしてしまいました(笑)
やぶくぐりさん
精力的に美作の山城を攻めておられますね。
今日、播磨妙見山城を訪ねた帰りに立ち寄った加西市田原町の千歳山城で、
主郭の搦め手口に津山城で教えていただいた懸門構造だったかと思える遺構に
出会いましたよ。
北東の腰郭へ抜ける3mほどの切岸に凹型の虎口があったのですが、
その幅3mほどの開口部は、高低差2mほどが垂直で、
主郭に跳ね下ろし式の木製階段を備えていたかも知れないな…と。
さて今日の私の訪城は、加西市福居町と谷口町の境にある妙見山(153m)に
あったとされる妙見山城でした。
ただ、この山城についてはネットの訪城録も見当たらず、
ウィキペディアなどで
『築城年代・築城者・縄張り等不明、現在、山麓の居館跡に城主の娘の石碑がある』
と、ちょっと納得できかねる内容、城史が不明で、なぜ城主の娘の石碑と判るのか…?
兵庫県遺跡分布図には「谷口城」の名で「山頂部に南北21m、東西29m」とある。
ともあれ、興味をそそられて本日訪城の結果は・・、
山頂部の主郭の切岸を持つ削平地の面積は、
遺跡分布図より目測でひと回り大きいように思え、東側に二段の腰郭が見られた。
また、主郭の西の尾根におよその目測だが南北10m東西20mの削平された郭が続き、
その北にも南北15m東西10m前後の郭があり、
その西北には搦め手口の堀底道に見える遺構。
つまり、山頂部(詰めの城)は、『鍵型の梯郭式縄張りと思えた。
山の北と西は急斜面で、東の緩斜面が登城路で山麓の居館跡(現在は無住らしい尼寺?)に。
この居館跡の狭い最上段に一つだけある石碑が城主の娘のもの?…らしい。
どうやら明治期に建てられた追善供養碑らしく複数の院号をもつ女性の戒名が刻まれています。
それで、落城した城主の娘が尼になって父の菩提を…言い伝えがあったのかもですね。
しかし、地元の人に聞いてみても「さぁ…山に城があったというだけで…」と。
でも、この妙見山城…南の緩斜面にほとんど垂直の見事な切岸をもつ郭跡と見える遺構?
が、数段重なって、全体では大小10以上も見られたのです。
その一つには、これこそ室町期のものと思える古い五輪塔の墓石が幾つもー。
その郭群と主郭の間には武者走りではと見られる道も…。
ちなみに、この山城のすぐ北には赤松家を再興し置塩城を築城した赤松政則の墓がある長円寺があり、
東2km弱には後藤又兵衛を生んだ後藤一族の拠点だった春日山城があります。
…とすれば、この城は南山田城や太尾城のように春日山城の支城で、
後藤一門が拠ったものか?
お城マークの写真は、東側(山麓に居館跡がある)から見た妙見山城です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/26/img1514460azik1zj.jpeg?t=20100117234910
今日は念願の美作岩屋城にいっていました。
久米の里でパンフをもらい、
岩屋城、
二の丸奥ずーっといったどんつきの陣城(名称不明)、
荒神の上陣城
妙福寺の上陣城
楽万の上陣城
(清水屋敷)
(仁反田屋敷)
(保田屋敷)
津山に移動しながらホルモンうどんを捜しつつ、美和山城
でも見つからず佐用でおりて、ホルモンうどん。
いやぁ、予想以上によかったです。特に岩屋城と荒神、楽万
やぶくぐりさん、情報ありがとうございました。
かなり参考にさせていただきました。
こんにちわ
野添の発掘、なにか出てくればいいですね。
できることなら、幻の阿閇城なら面白いのですが、
そうそう都合よくいかないでしょうね。
ご存知のように、播磨町には構(城と呼ぶべきか迷いますね)が、何ヶ所かありますけど、
阿閇城=古向城との説もあれば、「あえ」氏がいた鹿の川こそがそうだ、という意見もありますし、
阿閇神社に近いお堂で決定、と仰る方もいます。
中には阿閇庄のことを忘れて、別府町の天神を主張される方もおられます。
まぁ、それだけ幻ということなんでしょうけど、
私は「1200年以上の歴史がある とあるところの とある方」
(とあるばかりで済みませんw)
が言っておられた野添説に興味がありますので、
ぜひとも阿閇城発見につながってもらいたいものです。
追記――。
昨年、仕事で訪れた「あえ」氏の城館跡の話です。
現在は「あえ」氏はおらず、○○さんの個人所有となっています。
今でこそ、城館の面影は少ないですが、堀の深さ、幅、石垣、今も祭られる賽の神など取材できました。
近い将来、建物を取り潰す予定があるようですから、そのときに調査が入れないものか……と思っています。
なにはともあれ、最近、播磨町は面白いと思っていましたので、
野添の発掘は楽しみです。
では、では。
この前行った置塩城訪問についての感想ですけど、正直言って結構疲れました(笑)登城道から本丸までの時間が約1時間もかかるとはある程度自分なりに調べて分かっていたけれども、本当にかかるとは思ってもいませんでした(泣)さて、置塩城自体の感想はというと結構城跡の面積が広いのには正直驚かせられました。茶室跡、南曲輪群などを見ながら本丸跡を目指しますがそこまでの道のりが結構長かったです。本丸跡に着いて周りを見ていたら本丸跡と刻まれてる石柱が真ん中からパックリ割れていて近くの木にもたれかかっていました。本丸跡からだと天気が好くて空気が澄んでいるときだと、遠くに瀬戸内海が見えると聞いていたのですがその日は天気は好かったのですけど空が霞かかっていたので残念ながら瀬戸内海は見えませんでした。そのあと二の丸跡、二の丸北曲輪群、台所跡、三の丸跡をじっくり堪能しながら見て回っていました。南西曲輪群、大石垣を見ていてふと携帯電話の時計を見ていたら午後4時を過ぎていて日も落ちていて少し暗くなってきたので大急ぎで登山道に向かい置塩城を後にして麓まで下りていきました。西曲輪群や大手門跡が見れなかったのが心に残ります。今度来るときは、時間に余裕を持って置塩城を見学したいと思います。また、日本酒を持ってきて本丸跡で景色を見ながら一杯やりたいなあと思います。(なんかオヤジくさいなあ)。あと置塩城を訪城して思ったことですけど、滋賀県安土町にある観音寺城や愛知県豊田市にある大給城と見比べるとなかなか面白いですよ。なんか変なことを言ってスイマセン。それではこれで失礼します。
美作市の真木山登山のついでに、旧・作東町の5城訪問。
角南(すなみ)地区の尾越(おごえ)城は中腹にススキでいっぱいの使われていない林道がある。
ここから頂上へ直登するもヤブ。平坦地あり。郭か。イノシシ除けのネットが邪魔でほんの一部だけの見学。
「角南神社所在城」は頂上の神社と二の丸と思われるゲートボール場のみ。
国道179号に出て江見方面に向かう。
国道横に「松田城」。南側の旧出雲街道側の農道から登る。
二段の帯曲輪、墓地、東側が主郭。主郭の西に三重堀切。二の丸の郭、郭が二段。延長は300m位。川を渡り、大谷城を横目に見て兵庫県境の「杉坂の関」に向かう。石碑。
北に舗装道を日指(ひさし)に向かう。高原状の地形。
「日指田原城」は尾根先で畑になっている。畑と畑の段差が切岸に見えるのは妄想か。
江見に出て大原方向へ北上。
鯰城を横目に、岩辺の「越坂山城」に向かう。
「越坂山城」の縄張図を見ながら、岩辺集落から舗装歩道を登る。
猪除けの金網が廻る。扉の手前から舗装が切れ、西郭の祠への山道。農作業の老人に聞くと、年に二回は祭礼があるとのこと。
西郭から細い平坦な尾根道。土橋にしては長く100mはある。風が強く飛ばされそう。下の道が見える。堀切、土橋、切岸となり主郭に祠。段々の郭。竪掘。全体で延長250m。登って来た山道を戻り、駐車位置まで下りる。
どもども、ブレイズマンです。
あけましてオメデトウございます。
本年もよろしくお願いします。
さてさて、去年の後半は中国に行きまくりでしたので、なかなかこちらに書き込むことができず、また城巡りもちょっとお休みしておりましたが、最近また少し落ち着いてきましたので、また城巡りも復活してまいりました。
> なんども書いてくださっている方とは全然知らない人じゃない
> 気がして、一度お城に御一緒したいと思っておりました。
いやー、いいですねー。スケジュールが空いておりましたら是非参加したいと思っております。
ちなみに行くとしたら候補の城とかあったりしますか?
さてさて、実は気になっている城かどうかはまだ解りませんが、ひとつあります。
あれ、これって城ちゃうの?というのが一つあります。
越水城にはいろいろな支城があったと思われています。
・瓦林城
・鷹尾城
などがありますが、甲陽園にも城跡と思われる曲輪跡がありそうな所があります。
ただ、噂にもない城ですので、カン違いかもしれません。例えば古文献に一切掲載されていない城というのは、結構あったりするのかなー。
西宮の「字」名を調べてみるのも手かもしれません。
お城さんマークに、曲輪と思われる遺構跡を記載しておきます。
もし何か情報をおもちの方は、(たぶん誰もいないと思いますが)教えてください。
では、では。
阿弥陀の住人さんこんばんは
「津山城」に来ていただいてありがとうございます。
さて、今日は寒波到来。
雪が積っているのに登城。
兵庫県佐用町上石井は美作の国。
美作市大原地区を通って佐用に入る。
上石井字構の段に「上石井構(青木の構の段)」がある。
国道から見るといかにも館のありそうな丘陵地。丘をイノシシ除けのトタンの柵が廻る。
大原の竹山城主新免氏の家臣小守氏の構と伝える。
延長約200m。民家に一言挨拶してイノシシ除けのトタンの出入り口から登る。大きな平坦地と奥の堀切、櫓台、土塁、墓地点々。
大原に戻り、街はずれの「会下城」に向かう。
前回は不審者に見られたが、集落に人影なし。
民家の間から電気柵を跨いで西の谷間に入り、すぐ左側の墓地の横から尾根に取り付く。山道がある。
浅い片堀切が二つ。主郭手前の切岸を登り主郭に入る。左右に帯曲輪。そのまま尾根を進み二段の郭を下ると堀切、土塁。その先に郭。ぐっと下がって大堀切と鞍部に二段の屋敷地。その向こうは高い山になっている。この城も近くの小原山王山城や八幡山城と同様、遺構がきれいに残っている。
大原の赤田地区の「桂坪城」に向かう。塀高城のすぐ北側。
桂坪部落の北東の舗装林道から40番送電鉄塔に向かう。
峠の手前から左に入る山道。堀底道だ。すぐに軽トラが通れる鉄塔保守作業道との分岐。ここに駐車。すぐ先ほどの堀切。そのまま南にダラダラと鉄塔に至る。
ピークに向けて40m。小さな郭が二つと、それを繋ぐ土橋。周囲は帯曲輪が廻る。
今日、廻った中では「会下城」が一番お勧め。
こんばんは
昨日、前から気になっていた有明山城を訪ねました。
有明山城は、播磨一の古刹である増位山随願寺境内に続く有明の峰の周辺を城域とした山城です。
天正元年に随願寺領を横領した浦上久松と随願寺宗徒との紛争で、
久松の懇請を受けた三木城の別所長治が軍勢を催して、
信長の比叡山焼き討ちの播磨版とも言うべき焼き討ちで攻め、
30余坊の堂塔伽藍を誇り、寺侍300余と言われた随願寺全山を灰燼にしています。
この時の戦いで、随願寺地蔵堂の住職であり有明山城主でもあった
安芸法印・小寺休無(黒田休夢斎とも言い黒田官兵衛の叔父)も、
兄で姫路城主の小寺職隆から軍勢700の加勢を得たものの敗れて落城しています。
その後の随願寺は、天正8年に別所長治を滅ぼした豊臣秀吉の手で復興され、
茶道など文化人としても知られた休無は、秀吉の御伽衆になっています。
有明の峰は、元は随願寺の鎮守として伊勢両宮を祀る社があって、
古くから知られた月見の名所で、平安期に勅使として随願寺へ来た在原業平も訪れ
播磨路や糸の細道わけゆけば 砥堀に見ゆる 有明の月
の和歌を残しています。
(ちなみに、この伊勢宮の社は、今は香寺町犬飼の伊勢山城の麓に遷座しています。)
さて、有明山城ですが、現在は展望台になっている有明の峰を最高所の郭とし、
尾根筋周辺に幾つかの郭跡や切岸・堀切・堅堀・土塁・土橋と思われる遺構が見られます。
その境が、随願寺境内の端にある姫路藩主の榊原政邦夫妻の墓所と接していて、
私的には有明山城の郭跡を後に墓所として利用したものではないかなどと…。
と言うのは、墓と墓所そのものは江戸期の石工技術で造られたものだと
一見して判るのですが、その墓域(郭)はなぜか低土塁に囲まれて、
切岸には野面積の石積み部があったりするのです。
有明山城跡には随願寺からも行けますが、
砥堀集落の春川神社の左手から始まる姫路に残る最も古い道という「糸の細道(案内指標あり)」から登ると、尾根筋周辺に小規模ながら搦め手を押さえた砦跡とも思える城郭遺構が見られます。
お城マークの写真は、有明山城の切岸と石積です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/56/imga4544248zik9zj.jpeg?t=20100112185624
皆さん、こんにちは
やぶくぐりさん
そう言えば、去年の秋に津山城訪れた時、二の丸裏手で虎口らしい工事してましたね。
たしかに石段が半ばで途切れていましたが、懸門構造と言うんですか。
古い山城の虎口遺構などにも
「往時は木製の階段で取り外しができる構造だった可能性が…」
と思うものに出会うことがあります。
この3連休は相生の光明山城(初回)、姫路の庄山城(数回目)と有明山城(初回)
などを訪れました。
最近は郭を巡るだけでなく、
できるだけ城域全体を歩いて草木に埋もれた遺構を確かめたい、
多くは藪に埋もれている大手道や搦手道、できれば居館跡なども…と、
藪コギも辞せず徘徊しています。
冬場にしかできませんが、藪の中で石積や壕や登り土塁などの遺構を
発見した時の嬉しさ、私的にはけっこう嵌りかけていたりします(笑)
今日のお城マークの写真は、庄山城の藪に埋もれた石塁遺構です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/08/imgdac99aa2zikbzj.jpeg?t=20100112093608
「津山城」の本丸裏の二の丸から登ってくる「七番虎口」復元工事が大体終わった。近日公開予定。「く」の字構造の小さな隠し虎口だが、この虎口は古代屋島城と同様、虎口を登る石段の下部が途中で無くなっており、ここに木の階段が作られていたらしく、非常時には取り外して防御力を高める懸門構造。「津山城」来訪の節はお見逃し無く。
今年は「美作の中世山城連絡協議会」が津山市と組み、全国山城サミットを誘致して「山城の祭典」を開催する計画。
記念冊子として山形省吾氏の美作の山城縄張図180枚が入った解説書が出る予定。
詳細は「美作の中世山城連絡協議会」のホームページに順次掲載の見込み。
はじめまして。
お城を調べていたら辿り着きました。
小さい頃(小学生の頃)、お城に興味があって、城の本を読み漁っていましたが、いつしか興味も薄れていました。
ところが、西国三十三所を回っているとき、第32番札所の観音正寺を参拝した際、すぐ近くの観音寺城跡を通って、その石垣等の遺構を見て、幼いときの城への興味が再びうっすらと蘇って来ました。
色々城跡を訪れておられるんですね。すごいですね。
まだ、少ししか拝見していませんが、生まれ故郷の城が記載されていないのが残念です。
静岡県浜松市北区引佐町の井伊谷城と三岳城。どちらも石垣が残っています。井伊谷城は、井伊家の山城で、子孫には井伊直弼を配しています。(もっともその頃には彦根城に移っていますが・・・)井伊谷には、後醍醐天皇の皇子の墓もあり、中世には政治的に権威があったのかもしれません。
一度訪れてみてください。
ちなみに、今の実家は、石川県七尾市の小丸山城の跡地、御貸屋山に建っています。なにかと城には縁があるようです。
これからもじっくり拝見させていただきます。
本岡さん、遅ればせながら新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくおねがいします。新年の挨拶も終わったところで本題に入りますが、年が明けて、新年1月2日に念願の姫路城に行ってきました。ただその日は、昨年の大晦日から降っている雪の影響があってか(僕の住んでいる愛知県一宮市は積雪は約25センチぐらい記録していた。)新幹線のダイヤも影響して名古屋から米原間が上下線とも速度を落として運転していました。そのためか本当なら午前6時30分発午前9時01分に名古屋から姫路につくはずの新幹線が、10分遅れで9時11分に姫路に着きました。姫路駅、姫路市内を通り過ぎて姫路城の登城門を通り抜けて三の丸跡から見える姫路城の天守閣を見ていたら、ついに念願の姫路城に来れたんだなあという実感におそわれました。西の丸の化粧櫓の中を見学して、お菊井戸を見ながら姫路城の天守閣を目指しながら色々と見て周り歩いていきました。天守閣の中に入る前に備前丸跡から見た姫路城の大天守はただただ圧倒されるばかりです。天守閣の中に入り約1時間かけて見学して天守最上階にある刑部神社で無事に家に帰れますようにと御参りして天守閣をあとにしました。天守閣から登城門にもどるルートも見所がいっぱいあって凄く楽しませてくれました。菱の門周辺で来場者の人たちがデジカメや携帯電話のカメラで姫路城天守閣を写していました。僕も持っている携帯電話のカメラで姫路城を撮っていました。姫路城は別名白鷺城とか天守閣の白壁の美しさから例えて女性の城と言われる意味が実際自分の目で見てはじめて分かった気がします。あと、姫路城の素晴らしさは口でどう表現したらいいのか分かりませんね。そのあと昼からバスに乗り置塩城にも行きましたけど郭跡の遺構の保存状態は悪くはないのですけど、ただ広いだけでこれは凄いなという遺構がなかったのですこしがっかりしました。だけど、姫路城と置塩城もまた見てみたいなあと思いました。それではこの辺で失礼します。 追申 去年の諏訪原城訪問の書き込みで、小長井城の紹介をしましたけど小長井城は別名小長谷城ともいうらしのです。あと八幡平の城は御前崎市にあります。
本岡です。
皆様、弊サイトの掲示板をもりあげてくださり誠に
ありがとうございます。
さかのぼって順に反応させていただきたいところですが
なかなか落ち着かず(追いまくられておりまして・・)、
また書きなぐるみたいですが御容赦ください。
何も書けないのが一番つらいのでせめてこんな形で・・。
一番書きたかったのは「オフ会」の話題についてです。
いいですね!
なんども書いてくださっている方とは全然知らない人じゃない
気がして、一度お城に御一緒したいと思っておりました。
でも具体的なお約束ができないのですが(^^;;
あと、まるさんだとストライクなネタですが今日また聞きですが
播磨の野添城近辺で”城”がついた字名から城跡ではないかと
いうことで発掘調査をしているということでした。
新たな城館発見となれば嬉しいです。
最近、身近なマイナーなお城を丁寧に探求されている皆様
のお姿に改めてお城はいいなぁと感じております。
ありがとうございます。
ほんとに励みになります。
こんにちわ。レスありがとうございます。
さて、幻の魚住古城ですが……とうとう長年の成果が実り、
推定地域が絞り込めました。
周囲の伝承や近くのお堂の山号、つながる史跡、残る地名、
城門があったと言われる土地など十指以上の根拠があるので、
まぁ、ここが正解だろうな〜という感じです。
(なにせ、物証はないのですからw)
私も今、忙しい最中ですから、また時間があればいきましょう。
あと、だいぶ前に頼まれている砲台のことですが、
忙しさと諸々の事情で、もう少し待ってくださいね。
では、本年もよろしくお願いします。
こんばんは
ばんたんさん
私の説明の仕方が拙くて、ごめんなさい。
貴方の言われる「秀吉コース」からアクセスする
4群の城郭遺構(山田大山古墳8号墳付近)のことではありません。
山田大山古墳の1号墳〜?号墳の東にある構居遺構のことなのです。
私が持っている兵庫の城紀行(下)によると、
『山田構 太子町山田 永禄の頃、竹川主殿介が居城』と出ています。
太子町原にあったという黒岡構とともに、
楯岩山城の西郭(2・3群)・南郭(4群)と、
太田城?(5群:北山の城郭遺構)を探訪するついでに、
見つけられないかなと思い、付近を徘徊していて行き当たった次第です。
山田構へのアクセスは、
老人ホームへの車道を「秀吉コース」登山口と、その先右側の林道入り口を
通り越した車道下右側の地道の先、約3〜400mほどのところにあります。
途中の左道傍に山田大山1号墳と切り開きのコンクリート防火帯があり、
やがて右側に宅地造成地のあるところに左に登る分岐があって、
その突き当りに主郭があります。
お城マークの写真は、途中にあった案内標識です。
同好の方との訪城オフなどあれば、いいですね。
都合がつく時には、私も参加させていただければと思います。
今日は、相生市とたつの市の境にある光明山城へ行ってきました。
畝状堅堀で知られた城跡ですが、思っていた以上に大規模な山城で、
午後からの4時間では、詳細に全城域を探訪することができず、
再訪が必要だな…と。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/58/img1a19a881zik0zj.jpeg?t=20100110000415
阿弥陀の住人 様
>なかなか雰囲気のある構居遺構でした。
>ばんたんさんは訪ねられたことがおありですか。
山田大山8号古墳の標識がある古墳の周辺の遺跡のことであれば、
私の言葉で4群と言ったエリアが構居遺構に相当すると思います。
楯岩山城や太田城については情報がもともと少ないうえ、
ネット上での探索レポート内容も錯綜しているので、
頭の中で地形やルートを整理しながら注意して読まないと混乱しそうです。
城郭研究者の縄張図や探査資料ではまだ1群から3群までしか把握されておらず、
4群はどこかの報告書に図面があり、
北山の5群はどなたかの縄張図で見かけた程度なので、
まとめてみると楯岩山城や太田城についての調査そのものがまだ途上にあるのだと思います。
ひとつの方法として、これまでの研究者の成果をふまえ、
最初から全て探査しなおして全部の縄張図を作成したうえで、全体の構成と広がりを把握し、
そのうえで城名なども再検討したほうが混乱しなくてすみそうです。
私自身は、5群の縄張図を作ってみようかと思っていますが、
その前に北山エリアの遺構の範囲を把握するのが先決なので、
長期的にじっくり調べていこうと思っています。
現在は播磨の中世城館をまわるほうがメインなので、それが一段落してから、
また楯岩山城や太田城にアタックしてみようと思います。
とりあえず播磨の城を一緒に回ってくれる同好の士を探していますので、出来れば複数で探査にチャレンジしたいです。
本岡さん こんにちは
忙しい合間にも訪城されているんですね。
私もこのところ、休日のほとんどを訪城に費やしています(笑)
加西市の小谷城は、若い日の思い出多い城跡でもあり、
幾度も訪ねている城跡です。
昔は、頂上の主郭は熊笹が茂る他は立木も少なくて北条の町並などが一望でき、
眺望のいい城跡だったのですが、近頃では立木に遮られて、
視界はあまり望めなくなっています。
いつもは陽松寺東の居館跡郭群の傍の大手道から登って行くのですが、
12月に訪ねた時は、出丸(西小丸)のある西側から登ってみようと、
小谷集落の西の下若井に通じる峠道の左脇の水道配水池への道から
アプローチしたところ、配水地の北側にかなり荒れた廃道があり、
辿って行くと凄い藪に突き当り、しばらく藪こきしたものの、
イバラがびっしりで、あとわずかと見えながらも断念…。
(伐採鋏持参でないと無理だな…)という結果でした。
近いうちに伐採鋏持参で再挑戦してみようと思ったりしています(笑)
その他に最近訪ねた城跡は、姫路市の置塩城(3回目)・空木城・伊勢山城・須加院構居、加西市の小谷城(何回目か)河内城・岡城、小野市の来住城・阿形城・葉多城、加東市の三草山城・天神城、東条谷の依藤氏関連の小田城・屋口城・小沢城、加古川市の野村城などです。
豊地城は、いま発掘調査の最中でした。
どんな遺物・遺構が発見されるのか楽しみです。
お城マークの写真は、発掘調査中の豊地城(西北の掻上土塁付近)です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/97/img0b5fc698zik9zj.jpeg?t=20100108161805
ばんたんさん
さっそくの北山の城郭遺構の情報をありがとうございます。
やはり調査された方があり縄張図もあるんですね。
あの場所からして地元の教育委員会に問い合わせれば判る筈とは
思っていたのですが。
初めに訪れた時は西側の北山公園墓地の南端から
山の斜面を強行突破したのです。
獣除けのネットに添って登って行ったのですが、
あんな国道傍の小山にも鹿がいるんですね。
途中で一頭の牝鹿と出会ってちょっとびっくり!(笑)
やがて北山の南山腹の帯郭遺構や崩れ残った石積などが目に入り、
やはり城郭遺構のようだなと。
その後に頂上の櫓台跡?・削平地・西斜面の郭跡などを見て、
尾根に沿って北へ降りて行く途中では虎口らしい石積や堅壕の
遺構を見、出たところが楯岩山と北山の鞍部になっている
老人ホームへの車道でした。
その後、また北山へ登り返して、南東側の道を降りたのですが、
途中にも土塁や小郭跡らしいものが目に入りました。
また、鞍部車道の少し先の右側(南側)に状態のいい地道があったので、
地形的に居館遺構でもあるかも知れないと辿って見ると、
山田大山古墳群の先に山田構の遺構がありました。
この山田構は、その城域の先端の郭が宅地造成で削り取られて
喪失していました。
それでも櫓台・土塁・石積・切岸・郭の一部が残り、
そこから造成地の東を迂回すると、
主郭虎口の土塁や石垣があり、石積の残る土塁道の先には主郭の遺構が
ありました。
東には谷川を掘切にして、郭背後には二重の空壕跡や土塁も見られ、
楯岩山斜面からの土砂の流出によって荒れてはいますが、
なかなか雰囲気のある構居遺構でした。
ばんたんさんは訪ねられたことがおありですか。
お城マークをクリックした写真は、山田構に残る石垣遺構です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/72/imgebf70ff8zik6zj.jpeg?t=20100108152336
本岡さん
明けましておめでとうございます。
正月から加西・利神・鳥取と流石ですね(チョット見習わなければ)
私といえば忘年会から新年会と酒浸り
そろそろ山に登らねばと思っているのですが
この時期は日本酒がおいしいですからネ^¥^
今年も一年宜しくお願いします。ようやく落ち着きましたので、お酒も楽しんでます。
日本酒、特に熱燗がうまい季節ですねぇ。
おっちゃんさん、今年もよろしくお願いいたします。
本岡です。
すっかり出遅れてしまってましてすみません。
お察しの通り、今月も非常にタイトな状態になってしまいました。
個別に順番にレスをつけさせていただきたいのですが、
なかなか慌ただしくて・・申し訳ありません。
今年の正月は加西市の小谷城を満喫し、利神城の様子見、
鳥取の鹿野城とピンポイントで動いてました。
次は17日に美作の岩屋城周辺を狙ってます。
ううー、また改めて出てきますので、今年もよろしく(汗)
お願いいたしますーー!!
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
阿弥陀の住人 様
楯岩山城と太田城については私も近所なので興味を持って調べていますが、まず教育委員会に問い合わせましたところ、両方とも同一の城、というニュアンスで捉えているふしがありました。縄張図は村田修三氏が以前に置塩城について講演をされたときの資料に詳しいのが載っておりました。
その図を片手に現地をくまなく回ってみましたが、要するに城郭遺構は東西に三群あり、図面では城山山頂を1群、NHK中継所のあるピークを2群、その北西尾根のピークを3群とみなしていますが、それ以外に南麓の登山口(秀吉コース)から行ける古墳のある4群、東の北山山頂にかけての5群があり、阿弥陀の住人様がご指摘されているのは5群であろうと思いました。これは確か研究者のどなたかが探査されて縄張図を描いておられたはずで、自分は以前にそれを拝見したことがあるのですが、コピーをもらうのを忘れてしまい、今でも悔やんでいます。名前としては、楯岩山城や太田城の名前で言うと自分的には混乱するので、5群を北山城と仮に呼んでおりますが、この5群はまだ全域を見ていないのでまた調査に行こうと思っています。一人で行くのもいいですが、オフ会的に集まってみんなで調査したほうが別な見方が得られて面白そうだなと思います。
明けましておめでとうございます。
数年前に小堀城について書き込みした小堀です。
さて、今回も小堀城についてなのですが。
現在、竹薮の中にあった土塁が竹が切られ片側が露出しています。
竹を切るときに市の文化財課の方もいらしたので市が何らかの調査をするようですね。
それと、その横にあった屋敷跡なのですが、塀が取り払われ中が見れるようになっています。といっても、市が保護に向けて動いているようでフェンス越しですが。
屋敷内は平屋の建築物が現存しています。(廃墟でほとんど崩れてますが)
忙しいとは思いますが時間があればまた行ってみてくださいね〜。
あと八王子神社付近の城跡ですが、市の方によると調査する時間がないとのことでした。
ちなみに小野市のサイトでこんなのを見つけたのでURLの所に載せておきました。
これによると小堀城の下に弥生時代の遺跡もあるみたいです。
金鑵城跡のように昔からの拠点だったのでしょうね。。。
余談ですが、私の苗字が本当に小堀だったりします(笑)
といっても、小堀城跡周辺には小堀という苗字は多いのですが。私の家の周辺は10軒ほど小堀が密集しています。
あと堀井城、河合城も同じようにその周辺に堀井や河合という苗字が多いように感じました。
やはり城との結びつきが強いのかな〜と地元民ながら今更考えさせられました。
また何か動きがあれば書き込みさせていただきますね〜。
寒い時期ですが頑張ってください!
長文失礼しました。http://www.city.ono.hyogo.jp/~kokokan/bunkazai/kawaiiseki.html
小堀さん!ご無沙汰しております。
私もちょっと前に見に行きましたよ、小堀城。
近隣の名字まではチェックしませんでしたが、そうなんですね。
面白いですね。
私も地元ではよくある名字ですけどね。
楯岩山城と太田城の位置についての続きです。
楯岩山城へのアクセスは、本岡さんの城めぐにも書かれている通り、
老人ホームへの車道から、車の通行規制のある舗装道路を歩くか、
その途中から左折してお城もどきの小屋がある県の無線中継所の建物を経て、
主郭東端に至る道の他に老人ホームへの車道途中の北山との鞍部から左折して、
「楯岩城登山口・秀吉コース」から南郭群を経て主郭に至る3コースがあります。
ところで、この鞍部から左の登山口の対面に右折して北山への登山口があるのです。
この登山口には何の標識も出ていません。
その10mほど先には関係者以外侵入禁止の舗装林道がありますが、
この林道は北山の東側中腹を迂回して行止りです。
この北山登山口を頂上を目指して登ると・・、
細い踏み跡道の方は、やがて痩せ尾根道になりその左手の谷側には、
明らかに堅壕と思われる遺構が。
その先にも崩れかけてはいるものの虎口と思われる石積みがあり、
その先の西側の緩斜面には土留めの石積が残る帯郭や堅壕の遺構。
頂上部は不定形の削平地があり井戸跡らしい石組まで残っています。
これは、どう見ても城跡遺構にちがいないと、
なお歩き廻って見ると、山頂には壊れかけたNHKの中継アンテナがありますが、
その南側の土壇は櫓台とも見えます。
その南斜面にも土砂の崩落が進んでいるものの石積が残る帯郭が何段か。
もしかして、赤松則弘が築いたという太田城とは、
この北山に築かれたのではないのか…。
そして、鞍部を経た楯岩山の頂上に「詰めの城」として楯岩山城が築かれたのではと。
この北山の城跡遺構について、
ネットサイトでは一つだけ見つかりましたが、その人も戸惑っている内容でした。
どなたか、この太子町北山に残る城跡遺構についての情報を
ご存知の方はいらっしゃいませんか?
ついでながら、楯岩山を徘徊していて、南山腹から山麓にかけて遺構が残る、
「山田構居」も見つけてしまいました。
また、書き込みできればと思います。
お城マークをクリックした写真は、北山に残る城跡遺構の石積です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/91/img135dca62zikbzj.jpeg?t=20100107091848
かなり時間の差を感じます。
阿弥陀の住人さん、ありがとうございます。
私がそのあたりを徘徊しておりました時は兵庫の悉皆調査のあとをたどろうと思っておりましたので、よくわからないままということもありました。
最新情報をお伺いすることができ、また新鮮な気持ちで読ませていただいております。
(というか再訪して書き換えが必須のようですが)
明けまして おめでとうございます
本岡さん、新年になっても何かと忙しくされているようですね。
私と言えば昨秋あたりから、シーズン到来と近場の山城めぐりを続けています。
最近は山城跡めぐりも、藪こき覚悟で全城域の遺構を隈なく見てやろうと、
山の中を徘徊しているのですが、いろいろ面白い発見などあって、
少し嵌りかけていたりします(笑)
その中で、今日は姫路市に隣接する太子町太田の太田城跡にかかわることを書いてみます。
本岡さんが城めぐで書かれているように、
太田城は南北朝時代の建武年間に赤松則弘が築き、後に楯岩山城も築いたとされています。
この太田城と楯岩城の位置関係については、はっきりとした資料がないのが実状のようです。
ご存知の通り、楯岩山の頂上付近には楯岩山城大山構跡の標識があり、
古墳跡などの大石がゴロゴロしている主郭と見られる東西に長い削平地と、
南側に石積が残る郭跡らしい遺構が見られます。
また頂上から西に延びる尾根筋には、
NHKの中継塔がある広い郭跡と見える削平地には、
虎口と櫓台と見える一部に石垣が残り、
この郭から段々に下がって幾つかの郭があり、
北面に土塁か築地塀跡と思える遺構をもつ郭もあります。
この他に、老人ホームに向かう道路の北側に沿った、
頂上からは南になる尾根筋に、かなり崩落と荒廃が進んではいますが、
何段もの帯郭と石積や堅壕跡が見られ、尾根の頂上部には土台や石列の残る
削平地があり、その東端に石室が残る山田八号墳があり、
狭い尾根道を辿った先は、崩落した石垣?と見える石がゴロゴロしている
急斜面の帯郭?を経て頂上の主郭に至ります。
つまり、楯岩城跡は大山構跡の標識がある主郭と西尾根の郭群、
さらに南郭群の三つの郭群よりなる城であり、
そのいずれかが赤松則弘が築いた太田城かと思っていたのですが…。
お城マークの写真は、楯岩山城の南郭群の頂上削平地にある石列です。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/37/imgda604432zik2zj.jpeg?t=20100107103959
阿弥陀の住人さん
書き込みありがとうございます。
本岡です。
そこは難しいところだなと少し前から考えていた場所でした。
のちほど書き込みをしていただいておりますので、そちらにゆずるとしまして、
同じ兵庫の城好き同士、今年もよろしくお願いいたします。
本岡さん、遅ればせながら明けましておめでとうございます。
揚羽です。
超〜久々の書き込みになってしまいました(汗)が、城めぐは勿論!続けてますよ♪
近場の城は行き尽くした感があるので(実際はまだまだあるんでしょうが…)
最近は少し遠出したついでに城巡りって感じで、月イチぐらいのペースですが。
先日は北陸方面に行ったついでに丸岡城と金ケ崎城に行ってきました。
金ケ崎城は、早くも“来年”のNHK大河で盛り上がってましたよ〜(笑)
ではでは、今年も宜しくお願いします〜揚羽さんご無沙汰しております。
本岡です。
えーー、金ヶ崎城に大河の影響があるんですか(^^;
幟が立っているところはよく見ますが、でも大河のおかげで
整備が進むこともあります。
金ヶ崎もそうなっていけばいいですね。
今年もよろしくお願いいたします。
新年登城第二弾。岩屋城の西側の「往環の上砦」と「柿の木の上砦」を目指す。妙福寺の西側、楽万停留所より少し進んで国道横の歩道の広い場所に駐車。小川を避けて空家らしき家の裏から直登。郭三つのピークを進み、土塁の細尾根から「往環の上砦」に入る。作業道で主郭の217m陣所の東側破壊。西に下り尾根を進み堀切、土塁線。次のピークの手前から左にトラバース。南側の別尾根から取りつく。「柿の木の上砦」の301m陣所。ここから陣所が三つ続く。尾根が北側に曲がりそのまま直進。318m陣所。東に延びる派生尾根に入る。縄張図に無い陣所がある。そのまま尾根を進むとテレビ共聴アンテナのある大きなピーク、削平されている。一旦318m陣所まで戻りお茶。土塁線を「石蕨砦」の402陣所に向かうも尾根筋が荒れてくる。雪がひどくなり撤退決意。帰りは来た道を、設置した自分のテープ(地籍調査路は入り組んでいるのでルートを見失うかも)を頼りに戻る。
国道まで戻ると晴れ。車の中で遅い昼食。
国道を東に進み「姿山陣」に向かう。中国道のガードをくぐり、左手の山道に入る。すぐに出丸らしきピーク。半分高速道路に削られている。尾根を進むと郭らしき構造。だらだら平地を進み主郭。土塁。段々の郭。
登り口まで戻り、東側の「茶臼山陣」に直登。記念碑の台座。ここは遺構がはっきりしていない。だらだらと平坦地が続く。小学校側に下る。茶臼山古墳の看板。
さらに津山方面へ。
ゴルフ場内の「長者屋敷」。頂上が平坦地になっている。
「領家の城山」に廻る。南側の墓地のある峠から取りつく。山の勾配がゆるい。竹やぶを通り頂上へ。倒木帯。遺構見当たらず。下る道を間違えて東側の集落に出る。
かなり遅いレスですみません。
私も先日岩屋城にいってきたので新鮮です。
でも楽万まででしたのでやぶくぐりさんの行かれたところ
はよくわかりませんでした。
すみませんが、参考にさせていただき、次の挑戦につなげたいと思います。
ありがとうございました。
「美作神楽尾城」に新年登城。いつもの快適なハイキングコース。神楽尾公園経由の土橋道から二の丸、本丸と登り、三の丸横堀経由で三連の竪堀上を通り土橋を渡る。三の丸もかなり刈り払われて見通し良好。左にとって武者の道を下る。武者の道左側の広い郭の手前が新たに仮払われて変形四差路になっている。早速北進して谷に下りる。三連竪堀底の谷を通り、少し登り返すと谷筋に段々の郭群。下に四段下りると谷川。水が流れている。結構水量が多い。水野手曲輪群だ。木につかまって郭群を上に五段たどると三連竪堀の北側に出た。一旦、刈り払い道に戻って進む。尾根筋になり郭。そのまま尾根道を登ると三の丸北の馬場中間点に出る。今までそんな所に水の手曲輪群があったなんて知らなかった。武者の道登城口に出て、先ほどの水曲輪群の下流の池に向かう。この谷は、本丸の南東側にあり、両翼を三の丸と二の丸に挟まれた大手筋と推定される位置にある。池奥の林道終点が二股になっている。左の谷が先ほどの水の手曲輪に続いているようだ。新しい植林の奥がヤブで入れない。「おかやま全県GIS」縮尺1/2500図では右の谷を詰めると二の丸の中間点に出る道が書かれている。右の谷に入ると湿地となり足が沈む。残念ながら退散。やぶくぐりさん、こんにちは、
新年早々は神楽尾城でしたか。
昨年は岡山のお城をあちこちご紹介くださり、ありがとうございました。
今年もよろしくお願いいたします。
すでに書きましたが、念願の岡山県のお城に攻め込みます。
楽しみです。
本岡です。
長い間反応が悪くて申し訳ありません。
少し前からずっとある原稿を書いておりましてかなり
切羽詰まっておりました。
もうまったく時間がなくてとんでもない生活でした(^^;
いやぁ〜。心晴れ晴れ、ようやく城シーズンです。
ということでぼちぼちアップしていきますので(実はまた
仕事があるのでペースはまだ完全回復じゃないですが)
よろしくお願いいたします。
今年一年いろんな情報、書き込みありがとうございました。申し訳ありません。
解放されたといいつつも、すぐに次の月が納期の仕事が入ってきまして、ひたすら城原稿を書いておりました。
いや今も書いているんですが。(;_;)
みなさんこんばんは尾張の終わりです。阿弥陀の住人さんこの前の私の疑問について意見を述べて下さって誠にありがとうございました。置塩城と感状山城の読み方はどちらとも言えないのですよね。なんか馬鹿馬鹿しいことを言ってすいませんでしたね。これからもよろしくお願いします。さて、話は変わりますが先週の水曜日は天皇誕生日の日に勤めている会社も休みでしたのでそれを利用して姫路城と同じくらいに行きたかった静岡県島田市にある諏訪原城に行ってきました。私の乗っている軽自動車は、高速道路が走れないので電車を利用して行ってきました。JR金谷駅を降りて旧東海道金谷坂石畳を歩きながら行くとお茶畑が見えてきました。さすがお茶所静岡県だなあと思いながら旧東海道を歩いていくと目の前に諏訪原城跡の大きな看板が見えてきました。諏訪原城に入る前に手に持っている着替えの服が入っている手提げ袋を城跡の前にあるコーヒーショップ(お茶畑の中にコーヒーショップ?)のマスターに無理を行ってもらい荷物を預けてもらいそれから諏訪原城訪問にいきました。城跡の中に入ると目の前に12号堀と9号堀が現れてきてその堀の大きさにただただ驚愕するだけでした。そのとき私は人目も憚らず大きな声で叫んでしまいました。更に奥に進むと、諏訪神社がありましたのでお城めぐりと無事に家に帰れるように安全祈願をしてからさらに奥へと進みました。三の丸広さにまた歓喜の絶叫をしてしまいました。本丸、天主台地、搦手口の広さや遺構にただただ驚愕するばかりです。また、この日訪れたときは、二の丸跡の発掘作業の途中だったみたいで二の丸跡にビニールシートがかけられていました。あと、カンカン井戸と水の手の場所でこれもまたあまりの素晴らしさに、暫くの間その場所に佇んでいました。11号堀に来たときに、家族連れの人たちと挨拶をかわし、その家族連れの父親らしき人に諏訪原城の説明や見所を教えてその場を後にしました。そのあと、荷物を取りに諏訪原城の前にあるコーヒーショップに立ち寄り、店の主人に深々と頭を下げてお礼を言って諏訪原城をあとにしました。今年行った山城跡の中では1月に行った古宮城と甲乙つけがたいです。築城者が馬場美濃守信春で、彼は諏訪原城と同じ甲州流の技術を用いた古宮城も築城しているのです。また行く機会があれば何度でも行きたいです。そのときは、荷物を預けていただいたコーヒーショップでコーヒーを頂きたいなと思います。吉田城にも訪れましたが、諏訪原城のことで頭がいっぱいで今回は省略させていたします。どうもスイマセン。またこの島田市周辺には、小長井城か小長谷城という城跡や勝間田城、八幡平の城跡があるのでその城跡も行ってみたいと思います。それではこの辺で失礼します。尾張の終わりさん、こんばんは。
私も去年諏訪原城にいきましたよ。
私が訪れたときはちょうど発掘中でしたのであまり話かけられなくて悔しい思いをしましたが、いいお城ですよね。
でも小長井城や小長谷城は知りませんでしたので、確認してみたいと思います。
こんばんは
おっちゃんさん、早速行かれたんですね。
鯰尾大谷構は、一番奥の郭が崩れた土に埋もれかけ、
堀切に石垣が崩落していたりするものの、
往時の姿を彷彿とさせる佇まいを残した、いい感じの遺構ですね。
三方に石垣が残る一段目の郭の西側(奥)にある虎口に繋がる石垣道の端の、
堀切に架かっていた木橋跡の崩れかけた橋台の石積みなど、
私的に特に風情を感じるところです。
「お城マーク」で写真をアップしてみましたが、
堀底に崩れた石垣の石を覆った枯葉などで、ちょっと判りづらいかもですね(汗)
画面中ほどの右側に苔蒸した石組みが写っているのですが・・。
それはさて、鯰尾大谷構を示した案内標柱に、この構居を赤松政則の命で築いた
構主の須賀知方(赤松支族荻原氏の属流)が、“天正8年(1580年)”に京都の
舟岡山の戦いで討死したと記されているのは誤りです。
足利将軍家と管領細川家の内紛で舟岡山合戦があったのは、
天正8年(1580年)ではなくて、“永正8年(1511年)”です。
この年に須賀知方は、細川澄元に味方した播磨守護の赤松義村に従って
舟岡山合戦で細川高国と戦ったのでしょうね
同じ8年で天正と永正の年号が似ているから間違ったのでしょうね(笑)
でも、天正8年の播磨地方は羽柴秀吉率いる織田軍と別所氏との、
三木合戦があった年ですから、もし須賀知方がこの年まで存命したとしても、
90歳以上の老武者?になっていますから、戦働きなどできよう筈もなくです。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/48/imgd4d700edzikbzj.jpeg?t=20091225214840
阿弥陀の住人さん、いつもありがとうございます。
本岡です。
細かいフォロー感謝いたします。(^^;
いやぁしかし播磨ネタが増えてきましたね。
密かに喜んでおりました。
機会があれば播磨オフなんて企画してみたくなってきました。(^^;
阿弥陀の住人さん、情報ありがとうございます。
早速行ってきました、タロリン村を左に見て少し行くと
ありました目の前に石垣が、いや〜いいですね
一方の川は水が涸れて石垣の一部でしょうか川底に
散乱していました。自然には勝てないのでしょうね
奥は土で埋まってますが、私の知る限り夢前町で
一番の構居跡だと思います。
夏にタロリン村に人が来て構居跡が荒らされないことを
願いたいです。おっちゃんさん、こんばんは。
ここの掲示板で情報交換ができていることが
嬉しいです。ありがとうございます。
私もタロリン村を目指したいと思います。
2月には自由になれるのでそのときには・・!!
打吹城は堀や石垣が少々残っており、落城させられたこともあり色々な感情が伝わってきます。我ながら14歳になるのですが学校から下校すると直ちに打吹城跡に向かっています。
最近はうつぶきじょうにある備中丸や小鴨マ無の探索にあったています。heroさんはじめまして。
書き込みありがとうございます。
管理人の本岡です。
すっかりサボっていましたが、打吹城は更新できていませんでした。
慌てて正月に鳥取入りをしたのですが、鹿野以上西にいけませんでした。
すみません、また打吹城にいってみます。
それにしても14才でお城好きだとは素晴らしいですね。
今後ともぜひともよろし九お願いいたします。
打吹城はひそうですが、山城らしさが伝わりわたしはだいすきです。
皆さん、今晩は
おっちゃんさんがお尋ねの書写山・鯰尾参道の石垣ですが、
円教寺の塔頭寺院(大寺院の敷地内にある小寺院)跡のものと思います。
円教寺にある現在の塔頭寺院は、妙光院などわずか6院ですが、
最盛期には170院もあったとされています。
おっちゃんさんが見られた石垣は、鯰尾参道の摩崖仏「眠り地蔵」を過ぎて、
もうすぐ円教寺の奥の院に到着する少し手前にあったものですか。
あの石垣は比較的新しく状態も良いことから、
明治初期まであった塔頭寺院のものだろうと私的には考えています。
ところで、鯰尾大谷構の位置ですが、
鯰尾参道の登山口は地蔵堂の左を裏に廻った細い九十九折の登り道ですが、
そちらではなくて、地蔵堂の前を横断する幅員3mばかりの地道を左へ向かいます。
最近「書写アウトドアパーク・タロリン村」とか言うレジャー施設ができていますが、
その施設に添って山麓を谷奥へ向かう道です。
300mばかり行った突き当りが、鯰尾大谷構跡です。
遺構として、三方を5〜10m幅の掘切(谷川)で囲まれ、
三方を高さ2〜3m・長さ60mほどの石垣に囲まれた約30m×15mの郭跡があり、
その上にも崩れてはいるものの、二段の石垣で囲まれた郭跡が見られます。
一番奥(山側)は、山からの流出土でかなり埋まっていますが、
空壕跡と見られる凹地と、土塁跡と見られる盛土なども見られます。
私的には、三ツ星級の構居跡ではと評価しています。
一見の価値はありますよ。
ご参考までに、私が撮った鯰尾大谷構の総石垣郭の写真をアップしておきます。http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/19/0000473019/86/imgd03956ddzik4zj.jpeg?t=20091220195127
阿弥陀の住人さん、いつもありがとうございます。
タロリン村なんて初めて聞きました。
フォローありがとうございます。
また、勉強になりました。
雪花が散るのに高松訪問。朝からシティウォーク。
JR栗林公園駅近くの英明高校東、広昌寺付近の「藤井城」。完全消滅。
近くの資生堂横の天満宮に「雑賀城」ここも完全消滅。
錦町の若一王神社に「箆原城(のはらじよう)」。看板に少し説明。
「高松城」に向かう。
ぐるっと回り満足して帰途に就く。やぶくぐりさん、こんばんは。
珍しい高松なんですね。
でも高松城の扱いが・・いやいいです(笑)。
岡山からだとフェリーでしょうか
私も何度も使いました。
またその間にうどんをたべながら・・。
実はフェリー大好きなんです。
どこも厳しいのはわかってますので、せめてなくなってしまわないことを祈るばかりです。
東京に行ったついでに小田原城と陣城を訪問。背広・コート姿なので観光コース。
「中世小田原城」はJR小田原駅を降りて西側の山。住宅地を城山中学から南に曲がり、東曲輪の上を通過、旧本丸の住宅街を物見台下まで登る。一旦、城山中学まで戻り、西に進む。本丸八幡横を通り小田原高校に至るも立入禁止。障子堀跡見学はあきらめる。更に西に進み、貯水池・供養塔を過ぎると蓮船寺(小峰)の三重大堀切(一番の見どころ)。南に掘底を抜けて西に折れ小峰鐘ノ台。大阪城で言えば真田丸に相当し、惣構から西に突出した位置にある。もう少し西に進み、小田原厚木道路近くまで尾根筋を下る。広い自動車道路を東に向かい、相洋高校前を通過、二の丸惣構の堀を道横に見て南曲輪の住宅地。更に東に向かい、「近世小田原城」に入る。入場料を払って一巡。武者の衣装着付けをしている。
歴女や若いカップルが多い。近くの蕎麦屋でソバを食べる。
タクシーを捉まえミカン山を「石垣山一夜城」へ。二の丸、本丸をめぐる。ここにも同好人多し。天主台、井戸曲輪。三の丸(北曲輪)は未整備で立ち入らず。西側の太閤林道を進み大堀切を抜ける。堀端から西に進み出曲輪の下に至る。
こんな山の中なのでタクシーは拾えず歩いて約3キロを小田原駅方面に下ることにする。ミカン一袋100円の無人販売所。
早川を渡り、街中の惣構早川口遺構。大きな二重戸張、水路。保護地の南に土塁が続き、その上に沢山住宅が建っている。
近世小田原城の南側の水堀横を通り小田原駅へ。
少し時間が余ったので、小田急線で箱根方面、風祭駅下車。駅中かまぼこ屋改札を出て東側約600mの「富士山陣所」に向かう。ここは細川忠興の陣城。遺構がそっくり残っている。
駅から小田原方面に歩き、小田原厚木道路下の踏み切りを渡り、道なりに登る。小田原厚木道路のトンネルの上を通り、城の北側に至る。二台程度駐車可能な交差点から左折。すぐに道横の農家の横からミカン山に取りつく。ミカン畑を二段ほど登ると帯曲輪、横堀、土塁。切岸。織豊系陣城だ。浅間神社。主郭。背広・革靴なので二郭、三郭、竪堀には至らず。
ここからは、今朝ほど行った小田原城鐘ノ台が指呼の距離。
他の遺構は残念ながらあきらめる。
やぶくぐりさんこんにちは。
たまに遠征されてますよね。
私も先月に小峰鐘ノ台は行きました。
あそこを見るのと見ないのとでは小田原城への印象が
まったく違いますね。
あと小田原城の天守の最上階にあるお土産物売り場にも驚きですよ。
ものすごく武将ブームに乗っかってました。
まぁそれはおいといて、近世小田原城もよく整備されてきましたよね。私もそばを食べましたが、観光とお城がうまく融合されているように思いました。
1850の続きです。
目の前に高さ2m幅60mくらいの石垣が見えました
しばらく歩くと書写山円教寺の境内でした結局
参道を3kmほど歩いて円教寺に行っただけでした。
あのすごい石垣は何だろう(昔の宿坊跡か誰かの構跡か)?
しんどいだけの一日でした
どなたか情報をお願いします。
急に寒くなりましたが皆様お体に気おつけて城めぐりをしてください。
本岡さんにお尋ねしますが?
webページのメッセージで『貴殿に丹後守の宣下が下りましたぞ』と表示されましたがどんな意味があるのですか
話は変わりますが、先日夢前町の鯰尾大谷構に行ったのですが、地元の人がこの道を登って行ったら石垣があるで
の一言で書写山えの裏参道を登り初めて40分で
目の前に高さ2m幅60mおっちゃんさんこんにちは。
あーその件どこにも書いてませんでしたね。
すみません。
何度も訪問してくださる方には感謝の意をこめて、
上記メッセージで再訪をお伝えしていたのです。
鯰尾大谷構もまた懐かしい名前です。
なんとあそこに行かれたんですね。
ありがたく参考にさせていただきます。(^^;
仕事、仕事、仕事…。
で、ごぶさたしています。
ご報告。
ライフワークの魚住古城探し――完結です。
あと、大蔵院の移転前の場所を見てきましたが、
城にまつわるものは残っていませんね。
現在の大蔵院が城館跡でないことがわかっただけでも、
今回は収穫として、次回がんばりますw
では、またふらりと立ち寄ります。まるさん、ごぶさたです。
魚住古城やその他近隣ネタ、またよかったらお聞かせ
ください。
なかなか地元に根差したフィールドワークが出来ていないことを反省してます(^^;
城の勉強もままならない今日この頃です
トップページの『城関連ニュース』コーナーに何故かサッカー関連ニュースが…
どうやら、検索条件の「城and発掘」に自動的に反応したようです
思わず和んでしまいました^^河内人さん、こんにちは。
はははは。
たまにありますよね。
変なのがヒットしないことを祈るばかりです。
↓の読みに反応させてください
おひさです板主さま
城の板ですので、城の話で
中世城館では、城はしろでなく殆ど口碑では「じょう」です
多くの城の呼び名で
「じょうやま」がなまって「じゃやま」とよばれ
蛇山城とたどり着いた場所を幾つか知っています。
縁あって最近その一つを手に入れました。
織豊城郭の一つで方形土塁を持ちます。幸田屋さん、ご無沙汰しております。
手に入れられたとは・・ひょっとして山城跡をもつ
山を入手されたとか?。
しかし確かに蛇山城と言うと思いつくお城がありますね。
「じょうやま」だと教えてくれる地元の方が城跡だと
知らなかったというのもたまにありました。
呼び名も大事ですね。
下の追記です。
山と書いて訓読み(日本語の発音)では「やま」ですが、
中国語にちなむ音読みでは二通りあって漢音では「さん」と発音し、
呉音では「せん」と発音するのだそうです。
ついでに「さん」や「せん」と音読みで発音される山は、
富士山とか白山など信仰の対象にされたた山に多いのだとか。
しかし、立山など例外もありますから、一概には言えません。
日本語は難しいと言うことでしょうか(笑)
本岡さん、しばらくのご無沙汰でした。
冬になって山城を訪ねやすくなりましたね。
休日にはあちこちしはじめています。
尾張の終わりさん
はじめまして
ちょっと目にとまったものですから私的意見を書き込みさせていただきます。
私的には、どちらが正しいということではないような気がします。
置塩城は、別名が藤丸城の他に小塩(おじお)城とも呼ばれました。
地元地名の現在の呼び方は「おきしお」です。
感状山城の名は、太平記の由来によれば、
赤松円心一族が白旗城とこの城に篭って新田義貞軍を足止めして、
九州から東上する足利尊氏軍を援けた功により、
尊氏から感状を与えられたことに因んで付いた名だということで、
地元集落などに同じ地名はありません。(山の名は感状山ですが)
地元での感状山の呼び方は「かんじょうさん」または「かんじょうざん」で、
「かんじょうせん」とは呼ばないようです。
ただ、感状山城の呼び方には「かんじょうせんじょう」と呼ばれることも
確かにあるようです。
山と書いて「せん」と呼ぶのは中国山地で氷ノ山や大山などの例がありますね。
ちなみに比較的近い山の那岐山は「なぎさん」とも「なぎせん」とも呼ばれます。
これは、どちらが正しいというのは当たらないかも知れません。阿弥陀の住人さん、こんにちは。
私は忙しくなってまったく何も手がつけられない状態でした。
少しずつ心身ともにリハビリ中です。
感状山城と置塩城のフォローありがとうございました。
本岡さんこんばんは。尾張の終わりです。誠に私事で恥ずかしいのですが、置塩城と感状山城の読み方ですが一般の読み方だと置塩城だと(おきしお)で感状山城だと(かんじょうさん)という読み方ですけど学研から発行されている全国に存在する有名な山城跡を掲載している本を町の本屋さんで手にとって見ていたら、置塩城は(おじお)と掲載されていて、PHPムック新版名城を歩く姫路城ですと、感状山城は(かんじょうせん)と掲載されていました。これは、どちらが正しい読み方なのでしょうか?なんか子供じみた馬鹿馬鹿しい質問で申し訳ないです。私が行った山城跡のお話は今回は掲載してなくてどうもスイマセン。またそのうちに山城跡の登城話を書き込む予定ですので、期待しておいて下さい。それでは失礼します。尾張の終わりさんこんばんは。
感状山城については私は「かんじょうせん」と呼んでましたが、「かんじょうさんじょう」もOKなんだろうと思いますよ。
くわしくは知らないのです。
また置塩城はたしか数年前の現説で「おじお」と呼ばれだしたことからその呼び方が広まったのではないかと思います。当時はそう聞いて「へぇ〜そうなのか」と思ったのを記憶しています。
でもこれまた詳細を調べることがなかったので今日に至っています。
すみません、有用なことがいえなくて。
お城の呼び方はほかにも悩むことがありますね。
備前児島の東部。玉野市胸上から番田にかけて海岸の丘の四城と少し川を遡った平地に一城訪問。
最初の「胸上城(古城山)」は胸上漁港の西にある。長さ250m。漁師町で駐車場所に苦労する。城北側の町はずれに駐車。お地蔵さんの所から登ると畑の跡みたいに段々の曲輪。竹やぶになっている。数十メートル突入するも棘で敗退。街並みの狭い路地を港の方に向かう。南東端近くに金毘羅宮に登る道。ここから登ると竪堀が見え、すぐに二の丸の平坦地に金毘羅宮。
少し参拝路を戻って西に入る。二の丸と本丸を切る箱堀。
小さな郭もある。本丸はヤブ。最近まで畑として使用か。三の丸、馬場にはひどいヤブのため、たどり着けず。
駐車位置まで戻り小串方向に向かう。
二つ目の「番田城」は丘の上が完全に削平されて住宅団地化。家が4〜5軒建っている。
三つめの「相引城(おおびき)」は長さ120m
。登り口から主郭までコンクリート階段の参拝路がある。車は県道のゴミステーション前のゼブラゾーンに駐車。帯曲輪に水道施設。段々の郭。主郭に祠。祠に参拝するためのコンクリート階段と納得。踏み跡を西へ松林。30m位平坦地。平坦地の中央に境界土塁。松の倒木。道が消えてUターン。堀切は確認できず。
四つ目の「杭田城」は四段の帯曲輪と長方形の主郭。径60m程度の円墳みたいなイメージ。
横の家のおじいさんに聞くも「ここが城ですか」と逆に問われる。
五つ目の下山坂の「丸山城」は長谷川の南側。海岸から500〜600m川を遡る。低い崖が廻っているとの「おかやま全県統合型GIS」の記述だが川岸の堤防沿いに土盛みたいな壇が二段あるのみ。住宅や耕地で消滅か。
「丸山城」と「胸上城」の間にある「梶岡城」はゴルフ場で消滅した模様なので今回はパス。やぶくぐりさん、こんばんは。
この辺は台場探しできたことがありましたが、結構
遠いものですよね。
またなかなか苦労させられそうなのがよくわかりました。
お城に行ってきましたという情報は公開できても、
いったんだけどこんな状態でいけなかったという情報
はなかなかないものだなと気付かせていただきました。
いつもありがとうございます。
恋の浜という地名で最も有力説が見つかりました。
相当大昔の事ですが、
今現在の白浜の砂浜での出来事で、大昔一人の若い女性が砂浜で倒れていた時、たまたまその砂浜を通りかかった『筑紫の火国』の男性がその若い女性を助け、その男性の助けがあって若い女性は命拾いをし、その若い女性は男性と一番最初に出逢った場所でその男性に恋をし、後に二人は恋愛から結ばれます。
その出来事が、恋の浜という地名になった様です。
『筑紫の火国』とは、筑紫方面で火国(火の国という名前)の子孫の事の様です。
(正式名を書き写す事を忘れていました)
その事が、播磨鏡や播磨風土記等の書本に物語的な感じで載っていました。
現在の灘地域より北側にある『継(つぎ)』という地名は、この男女二人の事に関連します。
若い女性が介抱された場所か…命を繋ぎ止めらた場所か…男女二人が結ばれた場所か…その男女二人の子孫が生まれた場所か…等…と伝えられている様です。
因みに、恋の浜城の外掘(外壕)に東は八家川から西は妻鹿市川の様です。
又、内堀(内壕)には東は宇佐崎(旧名、歩射崎)の川から西は松原の川までの様です。
その間に、現在遺る『城の元』という城(館)や城の堀(館の堀)があった様です。灘のけんか祭りさんこんばんは。
やはり恋の浜というからにはロマンチックなエピソードで
まとまってくれないといけませんよねぇ(^^;
でもそれが城の名前になるのがすごいですが
結構地元の方だけが知っている伝承(ほんとかどうかは別にして)
も楽しいですよね。
機会があったら聞いてみたいと思います。
ありがとうございました!!
数日前より中島構跡を探していたのですがわからず
姫路市教育委員会に問い合わせていたのですが
昨日メールに25年前県が調査した資料が添付され届きました。『兵庫県の中世城館・荘園遺跡緊急調査報告書』
その中に中島構の縄張図と現状が説明してありましたので
今日行ってきました。
県道三木・山崎線前之庄交差点を西に600m位
左に見える中播消防署に向かって左折し中国縦貫をくぐり
すぐに左折します。
ちょっと登ると墓地の駐車場があります
墓地に上がる手前右に細い山道があり
左斜面の上に削平地があり縄張縄張図よると20.2m×32m28.5m×21.2mとなっています。 杉と竹が生えていますが、すぐに削平地とわかります。
猪が出るのか罠が仕掛けてあったので奥まで入れず断念
帰る道の斜面に石が見えたのでステッキで石のそばを突くと
コンコンと音が、チョットずらして突くとコンコン?
まさかと思い土を掘ると石垣が出てきたのですビックリ!
幅1m高さ30cmくらい掘ったのですがまだ左右にあるかも
知れません。
教育委員会にこのような物が出たと報告をすると本日中に
確認に行くとの返事、ひとまず帰宅
夕方に電話があり市が把握していた場所と違っていたらしく
今後どうするか検討しますとの事
以上報告終わります。おっちゃんさん、こんばんは。
兵庫県の中世城館・荘園遺跡緊急調査報告書』は姫路の城郭センターでも閲覧できますが、図書館の奥にある
修正城館調査報告書集成でも同じものを見ることができますよ。
石は私も思い当たる場所がありますが、それとは別かも
しれませんがよく掘られましたね(^^;
でもそのあと教育委員会さんに連絡されたのはさすがです。
今後の展開が待ち遠しいところです。
ひょっとして新発見だったり?