過日秀吉の土塁として新聞記事を紹介したのですが
森林公園とっとり出合いの森(ホームページあり)として県立の施設内に
尾根の道として整備された遊歩道(ホームページに散策マップあり)が
ほとんどそのまま土塁です。
車を公園内に駐車するには入園時間内でないとだめですが
近隣公共施設の駐車場なら駐車できる場所があります。
霄漢さん紹介の倉見神社のある尾根の西の尾根
今朝行って来ました、出合いの森の続きのようです。
総延長が長いのでやはり秀吉の仕業なのでしょうか幸田屋さん、こんにちは。
追加情報感謝いたします。
夏場でも行けそうですね。
鳥取城の巻き石垣(写真でみたらものすごいインパクトがありました)と、セットで見に行くのが楽しみです。
> 4〜5m間隔で溝が切られています。以前は破城の跡と言
> われもしましたが、私にはよくわかりません。
そーやったんですかー。私は切られていたことすら気づきませんでした。
さてさて、ここでも話題になっていた椿井城ですが、お城さんマークにある記事にも指摘されているように、
> 南側の広範囲で立ち木を伐採し、9か所に表示板を立てる
> などした。このため、専門家らから遺構が壊れる危険性も
> 指摘されていた。
とありましたが、県教委文化財保存課によりますと、
「適切な手続きを踏まなかったことは遺憾。遺構が大幅な損壊を受けた印象はなかった」
との見解を明らかにしました。
専門家の調査では「遺構が大幅な損壊を受けた印象はなかった」とのことですので、遺構が壊れる危険性というは小さいとの判断だと思います。私がコメントしていた、
> 破壊があまりにもひどいのであるならば、
というほどではなかったようです。また、町経済建設課は、
「現在、整備構想を立案中で、発掘調査も検討する」
とのことで、発掘調査も行っていただけるとの事で、正直ホッとしております。
しかし、今回の件、見やすい城を安易に喜んだり、下草や倒木の整理程度ならともかく、遺構が破壊される危険性がある立ち木の伐採したボランティアを称賛する行為などは、慎重にすべきである、という事を学んだような気がします。
特に山城の観光化ちゅーうのは難しいなー、という印象を今回の事件で改めて思いました。
まだ行ってませんので、早めに行ってみたいと思います。
では、では。http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20120616-OYT8T01050.htm
ブレイズマンさん、こんにちは。
もう椿井城はいかれましたでしょうか。
城好きには一気に知られるようになったようで
毎週多くの方が訪れているのではないかと思います。
私は幟が・・、いやもういいですね(笑)。
今後、ほかのお城での整備に一役かってくれることに
なればいいなと思います。
お久しぶりです
地味に城めぐしております
三重の田丸城や津城
兵庫の播磨新宮の香山城
岡山備前の三石城・金川城
滋賀の多喜山城・水口古城山・水口城
(18切符使用)
あと、本日やっと京北『周山城』へ行ってきました
ちゃんと、道ありました(笑)
小姓丸(4郭)の先に堀切2本あって
さらにその奥に『土の城』があるっていう
情報がありましたが、なんせバス移動なので断念しました
とりあえず、堀切は見てきました
そうそう、奈良の椿井城!
ポリタンクさんの画像見させて頂きましたが
びっくりしました。
私も、椿井城行きましたが(モニターツアー前)
木々が生茂っている状態でした
あそこまで、伐採する必要あるのかな?
たしかに、木々が邪魔だな〜って感じることはあるけど
ちょっと、がっかりしたみんぴかさん、こんばんは。
広範囲に活動されていて、うらやましいです。
でもどういう基準なのかとっても気になってしまいます。
私もポリタンクさんと一緒に椿井城にいきましたが、
まさに現地説明会状態で、とてもわかりやすくていい
のですが、言われているように今後雨風にどれだけ
耐えられるのかが心配にはなりました。
それよりも私からしたら幟がうっとおしいんですよね。
何本もたててましたが、写真に入ってしまうのがとても
嫌で(^^;;
ぜひ今後の扱いに検討いただきたいです。
ではでは。
「豊岡市の城郭集成I」の出版情報が以前ありました。
同じ丹後でも京丹後の城に関する情報です。
京都府では現在、中世城館調査を行っていますがその結果の
第一期の丹後編として「京都府中世城館調査報告書 第一冊」が刊行されました。
残念ながら、販売は行われないようです。
いずれ、京都府の図書館や国会図書館関西館で閲覧できるようになると思います。
京丹後市、与謝野町、宮津市、舞鶴市、伊根町、福知山市の一部(大江)の城が縄張り図付きで紹介されてます。
この地区は、城郭情報が乏しい地区でした特に、旧丹後町、旧大宮町、伊根町は私自身全く城館についての知識を持っていませんでしたが、調査に同行したところ驚きの連続でした。
特に、大宮町の「延俊(向山)城」は、空堀、竪堀を多用し
非常に見どころある城でした。
尚、舞鶴市及び大江町の城に関しては、2010年に出た「舞鶴の山城」の内容が反映されたいます。霄漢さん、こんばんは。
京都で城を網羅したものがなかったので、京都府中世城館調査報告書の存在はとてもありがたいです!
売り物じゃなくても気づいたら古書で出てるという
こともありますので、ひょっとして・・と軽く探して
しまいました。
明石の県立図書館か、姫路城裏の図書館にあれば見やすいのですが、また機会があれば拝見したいと思います。
貴重な情報ありがとうございました。
霄漢氏やT氏から津山市天狗寺山城(天狗寺山831.8mの南600m峰)情報を頂いて、津山市大篠奥谷から加茂に抜ける下茅峠南のヘアピンカーブに駐車。
ここから新設林道が「天狗寺山城」のある600m峰をU字形に巻くように延びている。
歩き始めて約200mで道の半分が陥没。
そのまま進むと右下の谷への作業道だが、ここは直進。
すぐに右への分岐。
丁度、天狗寺山城の二重堀切の南下の谷の位置になる。
右に入ると760m峰の砦の下の作業道につながる。
ここも直進して道なりに登ると、Uカーブして「天狗寺山城」の二重堀切の鞍部に廻り込む。
西南へ登ると見所の二重堀切。
テープを付けながら主郭の先二段まで進んで戻る。
鞍部からしばらく尾根筋を登ると、急登のヤブ。
GPSと選定挟み、テープ活躍。
標高720m付近で突然、烏ケ山城、760m峰砦、天狗寺山(831.8m)の縦走路に出る。
縦走路を右に下って760m峰砦との鞍部の土橋。
右手に見える作業道へ降りる。
作業道は「烏ケ山城」の南の鞍部まで続いているのを確認。
半分戻って西に下る作業道にはいる。
そのまま分岐せずに進むと前述の天狗寺山城西下の谷の分岐からヘアピンカーブの駐車位置に戻る。
二つ目は湯郷温泉の西、下大谷の「大谷城」。
小さな橋を渡って右手にトラックの荷を積む箱で作った建物の脇に駐車。
小道に入ると祠。テープ設置。
ここから谷筋を北に詰めて右手の尾根に登り付く。
急登に選定挟みとテープ。
途中から左手に廻り込み土橋。
西に登ると、二重堀切。
郭段々。240.7mの主郭。
西に4段降りるも堀切は判別できず。
戻って、南の古墳を探すも、見つけられず。
テープを足しながら駐車位置に戻る。
三つめは湯郷温泉東の「三倉田城」。
川沿いの道脇の駐車可能場所に駐車。
倉田コミュニティハウス脇から神社を経由して登り付く。
下りには使えそうもない急登。
尾根に出ると岩場が点々。
左に巻いて、這い上がる。
しばらく進むと細尾根に小郭らしき平坦地。
縄張図にあるような立派な郭ではない。
主郭手前二段から郭らしくなる。
主郭から北に降りると郭段々。
土塁の廻る郭。
その下に土塁と横堀が廻る。
横堀東端の虎口から縄張図の道の記しどおりに畆状竪掘に出る。
鞍部を登るとS字の土橋道になっているが、左手(西側)の谷道を降る。
最後の約100mはものすごい笹ヤブ。
道脇の墓地に飛び出す。
やぶくぐりさん、こんにちは。
今回はいつにも増して大変な道のりの城攻めのようですね。
あ、私から見たらですので・・。
おそらく数人で挑まれていると思うのですが、ご無事で
何よりでした。
少し前に備前の山城をいくつか上りましたがせいぜい
200メートルでしたが、きっと世界が違うのでしょうねえ。
お疲れ様でした。
管理人様初めまして。
先日千葉県の師戸城と臼井城へ行ってきました。
城めぐでは臼井城が★★★ですが、師戸城は記載がありませんね。
臼井城からその支城の師戸城までは徒歩でもすぐ行ける距離にあり、何よりも師戸城の方が遺構がはるかに多く残っていて、是非訪れて城めぐに記載してあげてほしいと思っています。見学されればきっとお気に召すこと請け合いです。
(既に登城の機会をうかがっていらっしゃったら失礼しました。)
今後も日本のお城の紹介よろしくお願いします。平まさか度様、はじめまして
管理人の本岡です。
書き込みありがとうございます。
師戸城は残念ながらまだ行ってないのです。少し前も近く
を通ったのですが、時間の都合上スルーいたいました。
行きたいところが多くて困りものですが、ぜひとも訪城
をしたいと思います。
ありがとうございました。
石落とし用の土塁の切り込みと他のサイトで書かれているものは、以下のことを言われていると思いますが、
柏原城と壬生野城が顕著に見られますが、柏原城では北側の土塁上面が
4〜5m間隔で溝が切られています。以前は破城の跡と言われもしましたが、
私にはよくわかりません。
柏原城と壬生野城ともに、天正伊賀の乱で伊賀勢の拠点になったところですが、壬生野城では最終的には近くの春日山城に籠ったようです。霄漢さん、こんばんは。
柏原城の追加情報ありがとうございます。
私は未訪ですので、書籍から縄張り図を確認してみよう
と思いましたが、城郭体系じゃよくわかりませんでした。
4〜5m間隔で溝があるというのはやはり意図的にやっている
のでしょうね。
下草のない季節に確認しにいきたいものです。
それでは。
> 村々の背後の低丘陵上に単郭の土塁囲みの城が分布してい
> るような画一的なものでなく、
> 上野盆地の東西、名張地区でそれぞれ特徴があると思って
> います。
おーーーなるほど、伊賀国内でもいろいろあるちゅーことですな。
> この辺のところは、最近刊行された「伊賀市史 第一巻通
> 史編古代・中世」に詳しく書かれています。
おー、いい情報有難うございます。早速取り寄せたいと思います。
お勧めの城では、丸山城程度しか行ったことが無いですね。
出来れば行く前に教えていたたければ…
ただ、いろいろ情報有難うございます。めっちゃ参考になります。
今度は甲賀の城も含めてまた行きたいと思っております。
あっそーそー、
> 石落とし用の土塁の切り込み
ってどんな土塁かもしご存知ならば教えてください。ネットで調べたところでは、よく解りませんでした。
それはそーと、伊賀には「伊賀忍者研究会」という団体があるんですって。もし県外の人も入会可能ならば、私も入会しようかなー。
では、では。http://www.city.iga.lg.jp/kbn/00638/00638.html
ブレイズマンさん、こんにちは。
伊賀市史や伊賀忍者研究会ですか。
伊賀にすっかりご執心ですね。
でも素晴らしいです。
いつしかその成果を見せてください。
水蜘蛛の術とか(^^;;
ではでは。
管理人さま今晩は。
柏原城の内部の伐採整備については、私が書き込みさせていただきました。
伊賀の城はこの数年かけて調べましたが、以前言われていた様な、
村々の背後の低丘陵上に単郭の土塁囲みの城が分布しているような画一的なものでなく、
上野盆地の東西、名張地区でそれぞれ特徴があると思っています。
この辺のところは、最近刊行された「伊賀市史 第一巻通史編古代・中世」に詳しく書かれています。
お勧めの城は、土塁という面から伊賀市「別府朝妻の城氏城」「青山町下川原 冨増伊予城」「青山町岡田 小鴨氏城」「川上 川上出羽城」「上林 山村氏城」「大山田町出後 永井氏城」などが行きやすく比較的薮も少ない城です
上野盆地東では「阿山町河合 田矢伊予守城」
名張地区では「神屋 北畠具親城」「奈垣 下山甲斐守城」「比奈知 下山甲斐守城」
山城では「伊賀市長田 比自山城」「石川 楽音寺城」「川東 春日山城」この春日山城付近には壬生野城をはじめ沢山の土塁囲みの城が集中しています。
織豊城郭の有名な「丸山城」「桜町中将城」
天正伊賀の乱に関連して筒井勢が柏原城を攻めた時の「短野 短野城」などの陣城が名張西部の高地にあります。
織田信雄の進行ルートには「矢鉢山城」「行者山城」等が関連するのではないかと考えています。
他に大山田地区には「轟城、轟西城」
「伊賀市比土 龍王山城」は山上に四の土塁囲みの郭が田の字形に配置されています。
峻嶮な山上にある山城は少なく、低丘陵なので一日に数か所訪れることも可能な城が多い反面、竹藪になっているところが少なくありませんが、
見どころのある城がたくさんあります。霄漢さん、こんばんは。
あぁ霄漢さんでしたね。
失礼いたしました。
「伊賀市史 第一巻通史編古代・中世」の件、そして
お奨めのお城を紹介していただき、ありがとうございます。
まずは伊賀市史で整理してから訪れてみたいと思います。
素晴らしい情報に感謝します。
> 比延前田遺跡については弊サイト内のページをご覧くださ
> いませ(^^;。
はいはーーーぃ。お城さんマークですね。
> すでに埋め戻されましたが、平地居館で堀内障壁を持つ
> ものと考えればなかなかすごい存在なんですけどね。
そーですよねー。
> すべて発掘時の写真でしか確認できないのがほんとに残念
> ですが、
と書かれていますが、写真見た印象、烏帽子型城の堀内障壁の相違点とかありましたか?
> 城によりますね。
> 一通り見て回って満足したら次に向かいます。
> その結果が10くらいだったり、3つほどだったりバラバ
> ラですね。
10?仮に1城1時間としても、移動時間なしで10時間ですよね。いやー、やっぱり達人は違うなー。多分私の今までの最高は4城だと思います。柏原城で言いますと、70枚程度写真撮っていましたので、2時間半はかかったと思います。
> そういえば伊賀攻めしたお城ネタを全然アップせずに
> 眠らせていたことに気づきました。
管理人さんページは伊賀国の城が少ないですよね。ぜひUPしてください。日本の城郭史の中でも、かなり特殊な形態をしていると思います。
にんにん。
> 整備されたよとどなたかがご紹介くださったような・・・
> (遠い記憶)
おーそーでしたか。現在はかなり見やすく、お勧めの城となっております。伐採された木は、新しい印象はありましたので、最近ではないかと思います。
> ブレイズマンさんのテンションが伝わってくる気がします
> よ(笑)
写真見てもらえれば解りますように、下の土と根っこの土が完全に同化していたので、「堀内障壁」だと思いました。
騙されました。
柏原城は基本、方形居館で深い空堀、高い土塁で構成されていますが、空堀の四隅部分、4つの角部分が少し落ち込んでいるように思いました。隅と隅の中間部分が一番高く、そこから隅方向に歩いていくと、なだらかに下っているように思いました。
烏帽子型城も空堀に2mも土がかぶっていましたので、見た目だけではよく解りませんが、ひょっとしてこの辺も伊賀の城の特徴かもしれません。
では、では。ブレイズマンさん、こんばんは
数が多い日はそれだけ見応えのない平城ばっかりだった
ということですよ。
ちなみに過去最高は99城というのがありますが、
あまりやれるものじゃありません(汗)
やはりメインとサブをいくつか、あとデザートみたいな
のがいいなと最近は思いますよ。
> 実は、日曜日に管理人様と椿井城に行ってきたんです(大
> 汗)
> ニュースを見て再訪を思案していたところに、管理人様の
> つぶやきを拝見したのでお誘いしました。別のお城にもつ> いでに寄っているのですが、それは日を改めて書きます
> (汗)
ありゃー、また私を無視して、なにやら楽しい事実施していますね。
まま、今回はあまり楽しくない事ですが・・・
> 付近の斜面も地表面が乾燥していたので、大雨だと流れる
> かもしれません(泣)
おーーーー、これはこの1枚の写真で判断するわけにはいきませんが、ひどいですね。えらい、無茶するなー。
これ、堀切の下の岩が所々見えていません?もし雨で岩が崩れたりしたら、堀切が破壊しませんかね。
いやー、こわい、こわい。
> また城郭研究会の学生さんががんばって測量されてまし
> た。
と管理人さんのツイッターにありましたが、ニュースにありました、
> 県教委文化財保存課は「破壊の有無を調べ、対策が必要か
> 判断したい」としている。
にある、「破壊の有無」を調査しているという事になるのでしょうかね?
破壊があまりにもひどいのであるならば、早急に発掘調査を進めるのがよいと思います。発掘調査はある程度、遺構の破壊も伴います。それ以外になにかいい方法は思い浮かびません。
> 訪城されるなら梅雨入り前をお奨めしたいところです。
えーーー!そんなにひどい状態ですか?千田教授はご立腹のようでしたが、一方、
> 岩崎万勉町長は「整備は、遺構の保護に留意しながら進め
> ており、伐採は森林法に基づく県の許可を受けた」と説
> 明。
という事ですので、ごく一部という感じもしておりましたが・・・
しかし、折角のアドバスですので、近日中に伺いたいと思います。
むーーーーーーーー。
まー遺構破壊の件とは別に、記事で気になるのは、
> 瓦の破片4点が現れるなど
この瓦がどの辺りから現れたのか、という点が記載されていませんが、椿井城に瓦葺の建物があった可能性があるという事ですかね。
龍王山城の南城、二の丸にも瓦葺建物があり、東大寺の瓦が使用されていた可能性があるという事です。東大寺の瓦は、多聞山城にも使用されていたようですので、瓦を詳しく調査したら、この辺のネットワークが明確になるかもしれませんね。
観光整備に山城を使う場合、いろいろと安全上配慮しなければならず、そのためには遺構の破壊のキワキワを行ったのかもしれませんが、千田教授などのベテランご意見をよく聞いて整備されてはと思います。少なくても、柏原城ではそれが出来ていたと思います。
> 町は今年1月、1500万円かけて工事に着手
> 今年度も1100万円で整備を続ける方針
と合計2600万円に整備にかけても、十分回収できるような観光資源ではないと思います。
あまり無茶な事せず、地元のボランティアのお力もお借りし、セミナーや冊子作りなど、スローで時間をかけた共感を得る資産作りが大切だと私は思いますけどね。
つづきがあります。
取り急ぎ...
ブレイズマンさん>
実は、日曜日に管理人様と椿井城に行ってきたんです(大汗)
ニュースを見て再訪を思案していたところに、管理人様のつぶやきを拝見したので
お誘いしました。別のお城にもついでに寄っているのですが、それは日を改めて
書きます(汗)
南郭群は現地説明会と見紛うばかりの禿っぷりです。アングルは異なりますが、
同じ堀切のビフォーアフターを参考までにご覧ください。
モニターツアー時 -> p.twipple.jp/z0JN4
今回の訪城時 -> p.twipple.jp/wqBRI
付近の斜面も地表面が乾燥していたので、大雨だと流れるかもしれません(泣)
訪城されるなら梅雨入り前をお奨めしたいところです。
北郭群は適度な感じですが、階段上の窪みが数箇所で確認できました。代表して、
大堀切のものをご紹介しておきます(リンクあり)。また、大堀切が斜面を下る
あたりに伐採した枝を積んでいたため、下る様子が観察できなくなってしまって
います。
なお、モニターツアー絡みの私の書き込みは、No.2453,2455,2459あたりになり
ます。モニターツアーのアンケートでは、「整備は現状で十分、PR方法の検討を」
といった感じのことを書いたような気がするのですが、まさか、あのような報道で
周知されることになろうとは...。モニターツアーでは「訪城行為そのものが遺構
破壊になりかねないので慎重な行動を」というご助言もあったりしたので、現状の
ようになろうとは想像もしていませんでした。とほほ。
遺構を現状で保つ方法があればなあと思うのですが、悲しいかな、私は思いつき
ませんでした(泣)。Twitterで「岩盤部以外なら法面緑化の手法で草を生やして
保護できたりするのかなあ」とつぶやいたりしましたが、それはそれで破壊に
なるかもしれませんし...
では、失礼いたします。ポリタンクさん、この日は大変お世話になりました。
そんなにがっつり城攻めする気じゃなかったのに
結果的にはなかなか濃い1日となりました。
私が見た柏原城というのも、ある程度整備が行われていました。藪はきれいに取り除かれ、倒木は伐採されていました。
私の、「レス色々」のお城さんマークの写真の後方に
倒木の伐採された木の残骸があると思います。
柏原城は個人の土地で、椿井城とは状況が違うかもしれませんが、少なくとも柏原城は表土がむき出しになるような整備は行われていませんでした。
確かに移動しやすくなってはいますが、倒れていた木を除去し、本丸部分の藪を取り払い、最小限度におさえられていたような印象があります。
整備が進んでいる城を見ると、「いやー見やすいなー」など私は無条件で喜んでおりましたが、実は整備の仕方にも色々あって、「観光整備のため町が遺構破壊」という指摘もある以上、無条件で喜んでいる場合とちゃうやん、という気持ちにさせられました。
椿井城もどのような整備が行われたのか、ちゃんと確認しないといけませんね。
時間が出来た時に一度訪問したいと思います。
整備の仕方についてもいろいろ考えされる出来事でした。
では、では。ブレイズマンさん、こんばんは。
観やすいのは訪れる者にとっては大変ありがたいのは
間違いないのですが、史跡保存が一番にあっての話
ですよねえ。
あちこちにみられる城跡公園だと、どこがお城なの?
とよく分からないものも多いですが、かといって遺構
を露出させるのも・・と悩ましいところなのでしょう。
とにかく城好きである我々は訪問し、その感想をアウトプットする
というのが大事なのではないでしょうか。
> 今日はニュースで話題の椿井城に行ってきました
と管理人さんのツイッターにあったのでへ?、ニュース?「なんかあったんかなー?」と思って検索したら、お城さんマークのような指摘があったのはびっくりです。
たしか、ここでも話題になっていましたよね。まさか、こんな事態になっていたとは想像もしていませんでした。
記事にありますように、
> 山城跡は厚さ10センチ前後の表土に覆われている例が多
> いが、専門家らは「立ち木の伐採で表土が流出し、遺構ご
> と失われる恐れがある」と心配する。
確かに未発掘の城を整備するのには、慎重にしなければなりません。
私も、地域活性化と城の観光を組み合わせるのは、とてもいいことだと、コメントした覚えがありますが、
> 遺構内に通路を巡らせるため、数か所の表土を階段状に削り取った
> 4月上旬、瓦の破片4点が現れるなど影響が出始めている
と記事の指摘通りだとすると問題あり、私のコメントも大変浅はかであったと思います。
下草を刈る程度は問題ないと思いますが、遺構の破壊となると話は違ってきますよね。
千田教授も「遺跡の保護を無視した工事で、憂慮すべき事態だ。将来的な展望を持って慎重に整備・活用してほしい」とご立腹の様子。
十分な調査を行う前に、遺構が破壊されるのは少し問題があり教授ご指摘のように「将来的な展望を持って慎重に整備・活用してほしい」というのは100%賛成です。
大変びっくりした記事でした。
では、では。http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120528-OYO1T00834.htm?from=main2
ブレイズマンさん、こんばんは。
私も行ってみて驚きましたが、ほんとに消滅する直前
の現説みたいな状態の整備?状況でした。
観やすくていいのですが、ポリタンクさんによれば
昨年は階段状にはなってなかったといわれる個所も
いくつかあり、やややりすぎた感は否めません。
西側の道なき道状態だった登城ルートを整備された
のはよかったと思うんですけどね。
我々は逆の方角から直登して楽をしてしまったので
よく知らないのですが(笑)
津山から国道429号線を南下、黒谷ダムを通過して岡山市北区福谷の「東山内所在城」を目指す。
車は福谷スポーツ広場上の立派な懸幡神社に駐車。
狭い舗装路を西北に進み、二つ目の切通し(堀切は消滅)から右手の山道に入ると郭らしき段。
少し登って甘い平坦地。
下って小ピークを登り返すと石の灯篭。
神社跡地らしい。
どうも、ここが主郭。
東に尾根を下ると郭のようだが、ほとんど城らしき加工は見当たらない。
最初の切通しを南に登ると、旧福谷村役場跡と忠魂碑。
二つ目は粟井温泉近くの「サガジョウ」。
舗装市道を北に登って尾根の付け根付近に駐車。
道路の北側に堀切の残骸らしき溝。
平坦な尾根が続くも遺構らしきもの見当たらず。
三つめは更に南下して大井トンネルを潜って大井中学校脇から大井宮山自然林への道に入る。
ここも頂上に立派な神社。
昨年は神社裏から北東に尾根筋を進み大井トンネルの北側まで進んで敗退。
再度の挑戦。
広場に駐車して神社手前から北西に下る山道を直進(途中右手に下ると民家)。
竹林の細尾根に堀切、大切岸、主郭。
大井宮山城(大井所在城)だ。
左手に腰曲輪段々。
そのまま下って二段の切岸を進むと二の郭とその先の小郭。
今日、廻った3城で城跡と断言できるのはここだけ。やぶくぐりさんこんばんは。
今回は美作国の山城からの訪問ではないようですね。
おかやまGISでしょうか。
情報もほとんどない城ばかりの未開の地を切り開く
ように攻城していただき、ありがとうございます。
大井宮山城はメモらせていただきます。
I'm extremely inspired along with your writing skills and also with the layout for your weblog. Is this a paid subject or did you modify it yourself? Anyway keep up the excellent high quality writing, it¨s rare to look a great blog like this one nowadays..褒めていただくことに慣れていないので、置いておきます(^^;。
実態はECサイトへの誘導のようでしたので、URLだけ
消しておきました。
悪しからずご了承くださいませ。
いやーーーー、これを見た時心臓バクバク状態で、ぎゃーーーと思いまして、段々近づいて行き、烏帽子形城の堀内障壁のポリタンクさんの写真のように、頭頂部がうねうね状態じゃないですか。
「これは間違いない!」
と思い反対側に回った瞬間、ひざから転げ落ちました。
木の根っこでした。
なーーーーーーーーーーーーんだ。
倒木が根ごと空堀に落ち込み、堀内障壁のようになったみたいです。新聞は夢となりました。
ただ、今は写真右側が道のようになっていますが、やっぱりこれを乗り越えるのは大変だと思いました。堀内障壁って威力ありますね。
ひょっとして、堀内障壁を考えた人も、私のように木の根っこが空堀に落ち込んだのをみて、考え出した防御施設かもしれませんねー。
てな感じでした。
柏原城は伊賀国の城でも比較的、規模の大きな城になると思います。城郭としては、かなり古いタイプの城になると思いますが、それでも石落とし用の土塁など、忍者の出現とセットで考えるとなかなか面白いと思います。
> ベタですが、また上野城をべったり1日過ごしてみたい
> なと思っております(^^;
とありますように、藤堂さんが作事した、近世城郭もいいと思いますが、伊賀、甲賀の城めぐりもお勧めです。
では、では。
柏原城は、天正伊賀の乱、最後の城としても有名です。
柏原城は、名張市赤目地区という集落の西側の高台に位置しています。
これは、実は伊賀国の城の典型で、集落の中心部にあるのでなく、少し外れた高台に作事するというのは、行政能力の中心地ではなく、パニックルーム、避難場所としての役割が大きいと思われます。
お城さんマークに柏原城を紹介記事を入れておきますが、こちらに、
> 残念ながら主郭内は藪状態
とありますが、ここは確かNHKでも紹介されたこともあり、現在は整備が進んでおります。主郭部分には、現在は藪はまったくありません。井戸も石組井戸で、これも伊賀国の城郭の特徴だと思います。井戸も見やすくなっております。また、写真は空堀の中に倒木がありますが、現在倒木はまったくありません。非常に見やすい城に変貌しました。
その他、紹介文には、
> 東側にある二重の空堀はこの辺では城としては一見の価値
> があります。
とは全くその通りで、これには正直びっくりしました。伊賀国の空堀は非常に底が深く、その空堀が二重になっているのは、かなり防備を意識していると思います。一見の価値ありです。
> 石落とし用の土塁の切り込み
えーーーーそんなんあったの?全く解りませんでした。石を落すため土塁に切り込みがあったりするのでしょうか?さすが忍者の城ですね。
> 主郭虎口には石垣の痕跡
虎口しっかり見ましたけど、石組みってあったのかなー?私にはまったく解りませんでした。
世紀の大発見ですが、レス色々のお城さんマークの写真を見てください。な、な、な、なーーーーんと、空堀に堀内障壁があるじゃないですか。
おーーーー、やったー、これで新聞に私の顔写真入りで掲載されると、テンションあがりまくりです。
伊賀忍者と豊臣政権が実はつながっていた、物的証拠です。
通津魏かあります。http://www.geocities.jp/buntoyou/f2/m-f1122kashiwara.html
おお、柏原城って随分前にもここで話が出たお城
だったような気がします。
整備されたよとどなたかがご紹介くださったような・・・(遠い記憶)
えっと・・写真はどこのものを見ればよろしいのでしょうか?
1つ前に投稿くださったURLだと思うのですが、
残念ながらうまく開けませんでした。
と思ったらIEではだめで、クロームならOKですね。
ブレイズマンさんのテンションが伝わってくる気がしますよ(笑)
お疲れ様でした!!
> そういえば兵庫の比延前田遺跡にもたしか見つかっていた
> と思います(^^;
おーーーー、比延前田遺跡というのは、なんとかという中世居館があったんですよ。堀内障壁が比延前田遺跡でも見つかったんですか。発掘調査でもあったのかな?
> 泊まりで行くとなるとかなりの数を攻略されてこられる
> んじゃないですか?
あっそーそー、皆さん1城どの程度で攻略します?私は大体2時間半程度です。となると、移動時間もありますので、1日目は1城程度。2日は午前1城、午後1城と計3城程度になってしまいますね。
> 伊賀のお城と聞くと小規模な居館のようなものを想像
< してしまいます。
全くその通りですね。しかし、数がものすごく多いですね。下手したら300m先にも城があるという感じで。
このような小規模な城が沢山あるというのは、大規模な戦闘を行うのではなく、小規模な戦闘が多数あったと思われます。
これが、特殊能力を持った忍者の出現と密接に関係していると、私は思っております。
> また面白いお城を見つけられましたら教えてください。
にひひひひひひひひ。
実は私世紀の大発見をしました。それは柏原城です。
続きがあります。http://docs.google.com/open?id=0B453rNL7UjOtMVppcm5KbzlId3M
ブレイズマンさん、こんにちは。
比延前田遺跡については弊サイト内のページをご覧くださいませ(^^;。
すでに埋め戻されましたが、平地居館で堀内障壁を持つ
ものと考えればなかなかすごい存在なんですけどね。
>1城どの程度で攻略します?
城によりますね。
一通り見て回って満足したら次に向かいます。
その結果が10くらいだったり、3つほどだったりバラバラですね。
そういえば伊賀攻めしたお城ネタを全然アップせずに
眠らせていたことに気づきました。
とほほほ・・。
全然消化できません(^^;;
むむ・・続きですと?
いつも、サイト情報を活用させていただいています。
近場のマイナーな城跡めぐりで大変助かっております。
さて、城めぐTOUCHの件ですが、現在iPhoneだけの対応のようですが、アンドロイドには対応予定はないのでしょうか?
城跡めぐりにはとっても役立ちそうなので、ぜひ使ってみたいのです。
甚だ勝手なお願いかとは思いますが、ご検討のほどよろしくお願いします。かきのたねさん、書き込みありがとうございます。
管理人の本岡と申します。
城めぐTOUCHのご要望ありがとうございます。
アンドロイド対応もやりたいのですが、現状ではなかなか手が回ってません。
もしよかったら ipod touch なんていかがでしょうか?
(^^;;;
失礼いたしました。
どなたかアンドロイド対応版を無償で協業していただける業者さんいませんかーーー?(笑)
ほんと、なんとかなればいいなと切に願っております。
霄漢さん、ご無沙汰です
昨日から高校総体で現地近寄りがたいのですが何とか今日早朝現物見ました。
現地直ぐ東側が県立の総合グラウンドで昭和60年ごろの国体会場です。
今から30年以上前、大学生時代にひと夏地元で遺跡発掘のアルバイトをしたとき、現在のグランドがある場所に天神山城に連なる武家屋敷群が見つかったが、一乗朝倉遺跡よりはるかに規模が大きいにもかかわらず削ってしまったと悔しそうに話した教育委員会職員を思い出しました。
位置的にはその直ぐ西で遺構の現状観察と今までの知識を導引すると
秀吉の遺構ではなく、因幡山名が但馬山名の配下にあり
主が誠通と名乗っていた頃の遺構かなと感じました
後に尼子に迎合、名を久通と改めるのですが、、ただ、記事にある虎口見てないのでもう一度良く必要があります。幸田屋さん、こんにちは
あの立派すぎるグラウンドは国体が行われていた場所だったんですか!
へぇ〜。あそこだけがものすごい施設なので回りとのギャップが不思議だったんです。
と本題じゃないところに食いついてしまいましたが・・
なるほど、秀吉の鳥取攻めの際のものじゃなく
山名時代のものではないかということですか。
全然知らない状態なのですが、山名の同時期に造られた遺構は他に見られる場所はあるのでしょうか?
ますます興味がわいてきました。
やぶくぐりさん>
> 「藪漕ぎ専門倶楽部」に出ていた山城研究家は小生です。
当たりでしたか!
「薮漕ぎ専門倶楽部」ブログ記事を今見たら、やぶくぐりさん明記に変更されて
いますね(汗)
で、本題です。
いつもは行かないレンタル屋にいった時に歴史読本2012年6月号を目にし、帰宅後
読んでいたら高槻城が取り上げられていました。行ったレンタル屋は奇しくも
高槻城のそば。「これは高槻城が俺を呼んでいる!」と勘違いして行ってきました。
実は、いままで高槻城に行ったことがなかったのです(汗)
最寄りのホームセンター駐車場を利用させていただき、歴史読本の記事を参考に
反時計回りで移動しましたが、高槻中心部に近い住宅街でカメラをぶら下げて闊歩
している姿の怪しさは半端ではないようで、ちょこちょこ「何しとんねん、こいつ」
目線に遭遇(泣)。巡回パトカーが通るときは大袈裟に歴史読本の内容を確認して
自衛しました。
堀跡に沿う用水路(リンクあり)を見ながら、「筒井城もそうだったなあ。でも、
あそこでは子供たちがすすんで挨拶してくれたりして、今日みたいな思いはしな
かったよなあ(泣)」と回想...
しろあと歴史館で展示物を見学してから移築門のある本行寺へ向かいましたが、
お城の鬼門にあたる部分のせいか、堀跡沿いの道路も折れています。城跡公園に
行く途中に永井神社にも寄り、移築門との話がある唐門を見学。神社の説明板には
そのことが書かれておらず、はて?と思いながら去りました。なお、本行寺の門は
説明板つきでした。
p.twipple.jp/7tqsa(接頭辞省略)
しろあと歴史館でチラ見した『摂津高槻城−本丸跡発掘調査報告書−』の中に、
石垣転用のことが記載されており、上宮天満宮の写真が載っていたので現地へ向か
いました。報告書のものと似たようなアングルで撮影してみましたが、なんか、
石が小振りで積み方が綺麗すぎます。石垣の石を加工して使っているのかなとか、
参道沿いに並んでいる厳つい石の方が雰囲気あるよなあとか妄想。レンタル屋から
そう遠くない距離の下田部高札場の傍にある移築伝承のある蔵も見学。
上宮天満宮石垣 -> p.twipple.jp/DgRlo(接頭辞省略)
移築伝承蔵 -> p.twipple.jp/pUfR0(同上)
余談ですが、上宮天満宮の近くに三好義興さんのお墓がある霊松寺さんがあり、
お墓の傍には「徳島が生んだ戦国の天下人 三好長慶」という説明板があります。
「戦国古城跡(徳島・近畿)」としてお城の凡の位置を記していますが、明石城を
戦国に含めていいものか、現場で見ていてちょっと悩みました。
では、失礼いたします。ポリタンクさんこんにちは。
私も以前城めぐTOUCHのネタ集めのために、高槻城の
石垣を求めてさまよいましたよ。
上宮天満宮にも行きましたが、やっぱり参道脇の不揃いな巨石がそうなんでしょうかねえ。
私は全然違うものをイメージしていたのであそこは
自信がなくて使えないなと思ってお蔵入りにしました(^^;
幸田屋さん、久しぶりです。
桂見土塁については、鳥取県教育文化財団調査報告書46
主要地方道鳥取鹿野倉吉線道路整備事業に伴う発掘調査報告書
「鳥取県鳥取市 西桂見遺跡・倉見古墳群」
1996年発行
で報告があります。
私は、県立図書館で見ました、
私たちは、倉見神社のある尾根の西の尾根を新しい道の
切り通しの崖から上るとすぐに土塁があり、
42.4mのピークまで続き陣跡と思われる削平地があります。
62.5mのピークまで再び土塁が続き、陣跡がまたあります。
新道から北には土塁を見ることができませんでした。
後日、鳥取少年自然の家の天文台から南に向かって、
尾根を歩きましたが、やはり土塁は見ませんでした。霄漢さんこんにちは。
登城ルート大変参考になりました。
次回挑戦したいと思います。
ありがとうございました。
本日の地元紙によると、鳥取市桂見で2キロにわたる土塁が発見とのこと。
www.nnn.co.jp/news/120525/20120525003.html
1581年に羽柴(後の豊臣)秀吉が鳥取城を兵糧攻めにした際、毛利軍の進攻を防ぐために築造した可能性が高いことが、鳥取市教育委員会の調査で24日までに分かった。戦国時代の直線状の土塁としては例のない長大さで鳥取平野が一望でき、秀吉の壮大な戦略がうかがえる。
との記事。
青少年自然の家が以前は立っていた場所で、社会人になってから何度かオリエンテーリングで歩いた場所だが、全く気が付いていない自分が情けない。
今日は雨が降っているが、明日は天気が良いようなので、乾くのを待って明日午後行こうかとも思う。
場所はこのあたりと思われる www2.wagamachi-guide.com/pref-tottori/map.asp?itp=3&ttp=3&mtp=3&mst=3&mpx=134.170964&mpy=35.492314&mps=4000&sly=2,5,7幸田屋さん、こんばんは。
情報ありがとうございます。
この桂見の土塁は、鳥取城調査年報4号に載ってましたので、以前北側の湖山池からまっすぐに南に延びる道
から近づいたことがありました。
当時は侵入できず諦めましたが、同資料には調査を
継続されるようなことが書いてありましたのですが、
それがこれなんでしょうね。
楽しみです。
次回またそちらに伺う際には土塁から見て、南側
から近づけばいけるんでしょうか。
チャレンジしてみたいと思います。
ポリタンクさんの書き込み拝見。
「藪漕ぎ専門倶楽部」に出ていた山城研究家は小生です。
図らずも、ルート開設者とお会い出来て感激。
単独行で「梶間城」「760m峰」「烏ケ山城」と縦走。
「梶間城」まではテープに従い2.5時間ロープや木に摑まりながら岩場を登るハードコース。
「梶間城」から「760m峰」を経由して「烏ケ山城」まで1.5時間。
「梶間城」〜「760m峰」(堀切、切岸、土塁、烏ケ山方向に下ると石組らしきものもある。無名の砦のようだ。)までは、尾根筋の踏み跡で目印無し。
GPSのお世話になる。
「760m峰」を少し下ると見はらし良好の伐採地。
「烏ケ山城」までの山道もきれいに刈払ってある。
#連投稿ご容赦を m(_ _)m
先週、多聞山城移築門がある奈良県の安堵町へ行ってきました。目的は中家住宅
(リンクあり)の見学です。退職された元上司と呑んでおりましたら、元上司の
口から中家住宅の名が出まして、それならご案内しましょう!と急遽決定。
下調べをしていなかったため、敷地内に入るには予約がいることを現地で知り、
とりあえず周りを1周して外堀を見学。敷地内は諦めて帰ろうかという段に
なって幸運にも家の方が戻ってこられ、お願いをしたところ見学させていただ
けることになりました。無理をきいていただいた家の方に、この場をお借りして
お礼申し上げます m(_ _)m
家の方が居館等の説明を丁寧にしてくださり、大変有意義でした。屋敷の奥に
ある内堀の最も幅が狭いところは敷地内に入らないと見れませんので、予約の
上で訪問されることをお奨めします。
p.twipple.jp/UlAvq(接頭辞省略)
バタバタと用事を済ませてからの行程だったので、デジカメを持って行くのを
忘れたのが悔やまれます(泣)
ついでなので、慈光院(茨木城移築門あり)と大和郡山城に寄って帰りました。
私はともに複数回訪れていますが、元上司がいったことがないとのことでした
ので。両方とも「素晴らしい!」とおっしゃっていただいたのでよかったです。
茨木城移築門 -> p.twipple.jp/XDxXm(接頭辞省略)
多聞山城移築門 -> p.twipple.jp/gLYlf(同上)
#昔撮影した画像で、現像時に律義に透かしを入れていた時期のものです(汗)
では、失礼いたします。http://www4.kcn.ne.jp/~ikaru-i/spot3/nakakezyuutaku.html
ポリタンクさん、こんばんは。
中家住宅は環濠屋敷ですね。
あそこですと私はつい多聞城の移築門に目がいってしまう
のですが、写真で拝見してますと、趣があってよさそうですねえ。
慈光院の移築門も素晴らしいです。
ちょっと写真が難しいんですよね。
お疲れ様でした。
幸田屋さん>
「鳥取城跡『巻石垣』復元のお知らせ」を有り難うございます。
先日私が鳥取城に行った時はまだ作業中だったのでしょうね。ただ、作業
自体に気がついていませんでしたけど(泣)
太閤ヶ平が未訪なので鳥取城にも再訪したいと思っているのですが、これは
楽しみが増えました。また、「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備基本計画」
(リンクあり)の行程を拝見しますと、第2段階で調査研究結果によっては
御三階櫓の復元が検討されているとのこと。とわくわくしますね。
やぶくぐりさん>
「梶間城〜烏山城ルート開設情報」を有り難うございます。
医王山城はまだまともに観察できておりませんので、また行きたいなあとは
思っているのですが、周辺情報をいただくとその気持ちが増します。
いただいた情報をキーワードに検索したところ、「薮漕ぎ専門倶楽部」なる
ブログがヒットしまして、拝見したところ、医王山城をも繋ぐルート開拓に
尽力されていることを知りました。(霄漢さんのコメントもあります。)
yaplog.jp/hagewahage/archive/339(接頭辞省略)
当該ブログの5/19の記事を拝見すると、「山城研究会」ご一行が登ってこら
れたとのこと。こちらでの投稿の翌日だけに「ひょっとして、やぶくぐりさん
ご一行?」とか妄想してしまいました(笑)
行くなら秋口かなあと思っていたのですが、開拓されるルートがそこまで
持ちこたえているかが気掛かりではあります。
では、失礼いたします。http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1190889131835/index.html
ホームページ「岡山県の山を歩きましょ」に津山市の医王山城関連の梶間城〜烏ケ山城へのルートが開設されたとの情報がアップされました。
関心のある方はご覧下さい。やぶくぐりさん、こんにちは。
医王山城は未踏でしたので、一度覗いてみます。
ありがとうございます〜
備中忍山城を攻めた毛利氏の陣城訪問。
岡山から県道72号線を西北に進むと「備中・忍山城」の真下の上高田トンネルを潜り抜けて二つ目を左折して草谷池付近に駐車。
草谷池の東の「備中・上高田草谷陣城」が見える。
とりあえず池の北側を通る道を進み民家奥の切通しを目指す。
細尾根の鞍部で南へ。選定挟を使いながら前進。
平坦地、切岸、三の郭。東に腰曲輪。
切岸、二の郭。二の郭は中間に約30cm程度の段差。
陣城にしては大きな切岸。
左右は全周する帯曲輪。
左側(東)の帯曲輪を進むと中間に竪堀?。
ここから主郭へ登ってみる。
主郭の北端に祠。
南端に烽火穴。
主郭の西の竹林中に張り出し尾根があるので郭がありそう。
砦の全長約100m程度だがほぼ完存。
*現在「忍山城」の南側の谷が土捨場になっていて埋め立てが進行中。
やぶくぐりさん、こんにちは。
上高田草谷陣城 は書いていただいている内容を見ますととても立派なものですねえ。
烽火穴というのはあまり聞いたことがありませんでした。
興味深いお城ですねぇ。
メモらせていただきます。
忍山城もメモメモ・・。
はじめまして。近場でいける城跡がないかと探していたら、
城めぐにたどり着きまして、金ヵ崎城跡に行ってまいりました。ありがとうございました。今後も参考にさせていただきます。
では。むのじさん、はじめまして。
書き込みありがとうございます。
管理人の本岡と申します。
金ヶ崎城のお近くの方ですか。
もしご興味があればですが、あのあたりは幕末の台場
がいくつかありますよ。
私もまだまだご紹介しきれていませんが、一度ご覧に
なってみてください。
また疋田城なんかもよかったですね。
今後ともよろしくお願いいたします。
> 今後どうするのかは全く考えていませんけど(大汗)
まー取り敢えず、2008?09?の写真は結構ありましたが、2010年の写真は殆ど見たことがないですね。
なにか検索に引っかかるようにしておいてもよいかと思います。
> こういった想像がお城巡りの楽しみの一つですよね。
そーそー。
特に大和国には、大型の横堀構造を持った城が沢山ありますよね。その中にあり、福住井之市城はひょっとしたら、堀内障壁を持った可能性が高い、と私は勝手に思い込んでおります。
さてさて。
大和国と言えば、筒井順慶さんが有名ですが、筒井順慶の歴史をいろいろと調べていくと、忍者の存在が見え隠れしてきます。勿論、筒井順慶さんの味方の事もありましたが、敵だったことも多かったと思います。
で、以前、何度か忍者の城にチャレンジしましたが、雨だった時が多く、断念したことも多かったのですが、満を期して泊りで再チャレンジしてきたいと思います。
伊賀国の城は、日本の城郭史にとっても独特で、他地域とあまり情報交換がされなかった、独自の城郭技術が多数あります。
また、行きたいと思っておりますので、どこかお勧めのお城があったら教えてください。
よろしくお願いします。
では、では。ブレイズマンさん、こんばんは。
すでに伊賀攻めをされているかもしれませんね。
いつもながら遅い反応でごめんなさい(;_;)。
伊賀のお城と聞くと小規模な居館のようなものを想像
してしまいます。
ベタですが、また上野城をべったり1日過ごしてみたい
なと思っております(^^;
泊まりで行くとなるとかなりの数を攻略されてこられる
んじゃないですか?
また面白いお城を見つけられましたら教えてください。
鳥取市のHPによると
「国内唯一の「巻石垣」
このたび、史跡鳥取城跡天球丸において「巻石垣」の復元が完了しましたのでお知らせします。この「巻石垣」は、天球丸の石垣崩落を防止することを目的に、江戸時代の終わり頃に築き足されたものです。同様の目的で築き足された石垣は国内各地の城跡で確認されていますが、いずれも角を持った石垣です。しかし、鳥取城跡天球丸のように角を持たずに、外形が球面または曲面の石垣は、国内では確認事例がなく、国内唯一の大変珍しいものです。鳥取城跡にお越しの際は是非ご覧ください。」
との事。
鳥取城には幼稚園から45年以上通っているが、球面の石垣を見た記憶が一切ないので、それ以前に崩れたものだと思われる。
6/9.10は近畿、中国、四国のB−1グランプリが三の丸で開催されるので避けたほうが良いかも、幸田屋さん、情報ありがとうございます!
ようやくここまでたどり着きました(汗
なんども工事中の様子を観に行っていましたが、ようやく
完成したのですね。
これは行かないといけません。
先日ニュースになっていた桂見の土塁と合わせて訪れたいなと思います。
巻石垣って規模の差こそあれ、あちこちにあってもいいんじゃないかなと思うのですが、国内ではほかに例がないんでしょうかねぇ。
岡山城にも近いものがあった気もするのですが・・
単に孕み防止で積んでるものとは違うということなんでしょうけれど。
前にご紹介([2561] 『豊岡市の城郭集成I』刊行)した書籍が今週の頭に届きま
した。ぼちぼち読んでいるのですが、期待を裏切らない良書でした〜!
明日は山名氏城跡保存会(お城さんマークにリンク)主催で海老手城、森津城
及び伊賀谷城を巡る催しがあるようですが、残念ながら別の用事があって参加
できないので、縄張図を見ながら脳内で訪城しています。
では、失礼いたします。
以前([2332] 木津)、霄漢さんから情報提供をいただいた木津城ですが、
ネットで「木津中央 木津城址公園実施設計 特記仕様書」(お城さんマークに
リンク)なるものを見つけました。最終頁に平面図があるのですが、雰囲気と
しては、霄漢さんからのご提供どおり堀はなくなってしまいそうですね(泣)
では、失礼いたします...http://www.ur-net.go.jp/orders/west/pdf/order_3183_4.pdf
ポリタンクさん、こんにちは
木津城は以前連れて行っていただいた時に周囲の開発ぶりに
ただただ圧倒されたのを覚えています。
かなり状況が変わってしまいそうですね。
ううう・・
ブレイズマンさん>
ブレイズマンさんの情報を見て確認したのですが、私が行ったのは2010年1月31日
ですが、その前は2008年12月14日ですね(汗)。前のパソコンに残っていた河内
長野市Webサイトのpdfファイル(2008年現説チラシ。今はリンク切れ。)でも
確認しました。すみません m(_ _)m
> どこかに今回の貴重な写真をネット上にUPすると、今後の城ファンにも有益な
> 情報になると思えます。
「貴重」とか言われると、なんか、こそばいですね(苦笑)
河内長野市には資料が豊富にあると思いますので、貴重かどうかはわかりませんが、
今のところは「ついっぷるフォト」で置いていますので、自由に閲覧できます。
今年の初めからTwitterを始めておりまして、適当なことをつぶやいています。
iPhoneで使い出したクライアントが「ついっぷる」だったので、画像の連携には
そのまま関連サービス(お城さんマークにリンク)を利用しました。今後どうする
のかは全く考えていませんけど(大汗)
> 掘り返してみたら堀内障壁が発見!なんてことになったら結構びっくりします
> よね。
福住井之市城って発掘調査はされてなかったですよね。調査したら何が出てくる
かは「蓋を開けてのお楽しみ」ですが、こういった想像がお城巡りの楽しみの
一つですよね。
では、失礼いたします。
> 多分2009年のものじゃないかなと思います。
たぶんそうだと思います。
> 私が参加した現地説明会は2010年ですが、「前年に掘った> ら出てきたので、さらに掘ってみた」みたいなことをおっ
> しゃってましたので。
おーーー、なんと2010年にも現地説明会があったのですか。それは知りませんでした。
写真を見た感じたでは、ポリタンクさんの写真の方が発掘が進んでいるようには思えました。
> この写真だけ見ただけでは、正直私には「穴」程度にしか
> 理解できません。いったいこれのどこが「堀内障壁」なん
> でしょうかね?
としているように、ブログさんの写真は穴にしか見えませんでしたが、ポリタンクさんの写真は確かに堀内障壁に見えました。
解りやすい写真有難うございます。
私が検索した範囲では、2009年時の写真しかありませんでしたので、どこかに今回の貴重な写真をネット上にUPすると、今後の城ファンにも有益な情報になると思えます。
> なお、烏帽子形城の場合がどうかはわかりませんが、堀内
> 障壁には敵の導線を限定して、鉄砲等で攻撃しやすくする
> 効能もあるようです。
なるほどー、烏帽子形城に関して言えば、本丸からの攻撃になるわけですね。
やっと思いをして、横堀手前の土塁を乗り越えたとして、そのまま堀中に滑り落ち、堀内障壁を乗り越えようと、一旦動きが止まったところで、鉄砲、弓矢で、ズドーンということはあり得る話ですね。
ただ、確かに敵にとっても厄介ですが、本丸部分の兵力は問題ないにしても、土塁上にいる味方兵力にとっても堀内障壁はやっかいではないかなー、と私は思います。
今回の堀内障壁は、2メートル掘り下げたところ、2か所で、堀と直交するように高さ約1・2メートルの堀内障壁が発見されたそうです。
つまり、発掘が行われていない城で、横堀構造がある比較的新しい城、もしくは改修された城では、堀内障壁がある可能性があります。関西で、烏帽子形城と大坂城だけではないと思います。
で、福住井之市城の箱堀構造も機能そのものは似ています。福住井之市城にも横堀があり、掘り返してみたら堀内障壁が発見!なんてことになったら結構びっくりしますよね。そうなれば福住井之市城の位置づけも、単なる筒井氏の隠れ里ではなく、豊臣政権と何らかの関係があった城かもしれませんねー。想像が膨らみます。
> 突然の電話は気が引けるということでしたら、メールでや
> り取りされてはいかがでしょう。
まー電話番号の記載がありますが、いきなりは気が進みませんので、まずはメールでやり取りしてみます。
では、では。http://netmo.seesaa.net/article/111209961.html
ブレイズマンさん、こんにちは。
確かに、掘ってみて初めて分かるということも少なくない
ですから堀内障壁もどこかで見つかるかもしれませんね。
愛知や三重に多いんだったっけかな・・。
そういえば兵庫の比延前田遺跡にもたしか見つかっていたと思います(^^;
連休初日に津山市に行ってきました。
院庄館 -> 荒神ノ上陣城 -> 岩屋城 -> 妙福寺上ノ砦 -> 神楽尾城 -> 荒神山城
どのようなご報告しようか悩みましたが、地元のやぶくぐりさんが話題にされる
地域なので、下手な説明はやめておいてツマミ報告にします m(_ _)m
【院庄館】
思っていたより広くてびっくりしました。
【荒神ノ上陣城】
いろんな方が「お奨め!」とおっしゃっていたのは嘘ではありませんでした。
岩屋城に行ったら、陣城の中でもここだけは最低セットで訪れるべきかと思います。
#って、別に疑っていたわけではないのですが(汗)
【岩屋城】
「てのくぼり」での攻め手目線の画像をどうぞ。(お城さんマークにリンク)
場所はGPSログ上で「てのくぼり」とあるピンの右側のピンです。
-> p.twipple.jp/X7Ovn(接頭辞省略)
芥川山城での記念撮影画像を見せた知人に、「今度も何かやってきてください」と
言われたため、「おとし雪隠」利用をイメージして記念撮影。(顔はモザイクして
ます、汗)。芥川山城のは石垣の大きさとの対比という意味がありましたが、今回
のはほぼネタでしかありません(大汗)
#こんなことしてたら、「Twitterで馬鹿発見!」とか言われるんでしょうか...
-> p.twipple.jp/fSZoG(接頭辞省略)
【妙福寺上ノ砦】
簡単な経過を示したログを紹介しておきます。堀に便器の残骸を見て、あちゃちゃー、
とは思いました。
ログ -> p.twipple.jp/fkIcn(接頭辞省略)
便器 -> p.twipple.jp/UPoAZ(同上)
【神楽尾城】
北側の畝状竪堀はさすがに草が茂っていて確認が困難でしたが、全体的にはこの時期
でも見学しやすかったです。二の丸下の谷筋で造成工事らしき風景がありましたが、
何をしているのかは存じません。
【荒神山城】
地元の方から「途中まで車で行けるけど、うーん。」と言われましたが、語尾が気に
なったので素直に公民館に駐車して歩きました。転回可能な場所があるので、確かに
車でいけないことはないですが、うーん。
-> p.twipple.jp/OchwE
金蔵の段へ行く道に倒木があり、そこと北の段の見学は諦めましたが、虎口の痕跡を
見学できたりだなんだで全体的には良い感じです。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
往復の移動を考えると1日でこのコースはかなり大変
だったんじゃないでしょうか?
岩屋城の周辺の陣城は本当に見応えがあって、楽しいですね。
Zガンダムがいる道の駅でパンフがもらえますので
それを持って回られるといいですよ。
(以前私が行った時は「あれねぇ・・どこだったかな」
とかなり探してもらいましたので、すぐに見つからないかもしれませんが)
あとは楽万の上陣城ですね。
まだご覧になってないようでしたらぜひぜひ。
追記です。
主郭下の曲輪から見下ろした目線の画像もご紹介しておきます(お城さん
マークにリンク)。
では、失礼いたします。
ブレイズマンさん>
> ひょっとして現地説明会も行かれたのですか?
生憎の雨でしたが、暗い環境でISO値を低くしつつもブレないように標準的な
画角ながらも明るさ自慢の単焦点レンズで武装した結果、広角側が足りずに
撮影に苦労したという想い出が蘇ります(笑)
烏帽子形城堀内障壁の個人様ブログの画像ですが、多分2009年のものじゃない
かなと思います。私が参加した現地説明会は2010年ですが、「前年に掘ったら
出てきたので、さらに掘ってみた」みたいなことをおっしゃってましたので。
私の想像どおりであれば、個人様ブログの画像は私の画像では手前の棒あたり
かもしれません。棒の印の高さ(地表面からの深度)も同じっぽいですし。
なお、烏帽子形城の場合がどうかはわかりませんが、堀内障壁には敵の導線を
限定して、鉄砲等で攻撃しやすくする効能もあるようです。
>> 268ページで送料込1500円って、お買い得ですよね(笑)
>
> いやいや、本当ですね。お買い得です。
> 私も申し込もうと思ったのですが、これってどーやって申し込むんだらいい
> のでしょうか?電話番号しか書いていませんが、いきなり電話してもいいん
> だろうか?
私はいきなり電話しました(笑)
事務局様の方に電話しましたが、住所等はFAXで送ってほしいとのことでした。
私はFAXがないので、保存会のメールアドレス宛に電子メールを送ることで
FAXの代用としました。
突然の電話は気が引けるということでしたら、メールでやり取りされてはいか
がでしょう。保存会Webサイトトップページ(お城さんマークにリンク)の下の
方にメールアドレスのリンクがあります。
#って、私が勝手にこんなこと書いていいのかな...
やぶくぐりさん>
> 「豊岡市の城郭集成」発刊情報ありがとうございます。
私も教えてもらった身ですので(汗)
では、失礼いたします。
> 現地説明会での画像をお城さんマークにリンクご紹介して
> おきますので、雰囲気だけでもどうぞ。場所は最内周横堀
> の南東部でした。
おーーーー、すごい。ぱちぱちぱち。
これは私が紹介した写真より解りやすいですね。ひょっとして現地説明会も行かれたのですか?
これを見た感じ、頭頂部はうねうねうねと、波うっているようになっていますね。
お城さんマークに資料入れておきましたが、こちらの解説によると、
> 空堀の堀底に土手を堀残した堀内障壁で堀に対して並行に
> 設けたものをいう。
とあるように、横堀に対して竪に残土を残し、横移動を出来にくくするということですね。
なるほど。しかし、これでは堀に敵が入った時は多少時間を留めることは可能ですが、逆に横堀を使って味方が素早く移動することも出来にくくなりますね。
あーーーーーーー!
> 隣の箱に移動する場合は、土塁を乗り越えて移動しなけれ
> ばならず、逆に進路妨害です。
これって福住井之市城の箱堀構造とめっちゃ似てますやん。
いやいやいやいや、
烏帽子形城 堀内障壁 ⇔ 福住井之市城 箱堀構造
という関係式は成り立ちませんか?烏帽子形城と福住井之市城ひょっとして、なんか関係あるかもですよーーー。
にひひひひひひひひ。
> 千早赤阪村の帰りに寄りましたが、現在売り切れています
> (泣)
どて、そーでしたか。
やっぱりこの手の本は人気ですなー。よく、売り切れが多い。
情報有難うございます。
では、では。
一応、当時の烏帽子形城の「堀内障壁」の写真が個人のブログにありましたので、お城さんマークに入れておきます。
この写真だけ見ただけでは、正直私には「穴」程度にしか理解できません。いったいこれのどこが「堀内障壁」なんでしょうかね?
基本、私の城丹念が足りん、という事なんですけどね。
> 本物の虎口は確か1つだけでしたよね。
恐らくそうだと思います。が、西側が崖になっていますね。今の公園の西側にも出入り口が出来ていますが、ひょっとしたら、あの周辺に緊急脱出路があったかもしれません。流石に虎口1つのいうのは、どーなんだろー、という気がしております。
> たぶん、東側の堀の雰囲気のせいでしょうね。
あの辺が唯一中世城郭の雰囲気がありますね。しかし、今回行ってみて解りましたが、よくもあれだけ深い堀が掘ったものだとびっくりしております。
池田城の最終形は大城になりました。烏帽子形城のような複雑な縄張りではありませんが、惣構えの初期段階、大きくすることで防御力を増したと思われます。特に史料には頻繁に登場するのが池田城ですね。
> 268ページで送料込1500円って、お買い得ですよね(笑)
いやいや、本当ですね。お買い得です。
私も申し込もうと思ったのですが、これってどーやって申し込むんだらいいのでしょうか?電話番号しか書いていませんが、いきなり電話してもいいんだろうか?
では、では。
> 今は埋め戻されており「堀内障壁」の遺構を見ることは出来ません。
現地説明会での画像をお城さんマークにリンクご紹介しておきますので、雰囲気
だけでもどうぞ。場所は最内周横堀の南東部でした。
>> 最初に河内長野駅そばの観光案内所に顔を出してくださ
>> い。そこで販売されている烏帽子形城の冊子(500円)
>> が実によくできています。
>
> ぎゃー、買うのを忘れていました。
千早赤阪村の帰りに寄りましたが、現在売り切れています(泣)
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
やっぱり現地説明会はいいですねぇ〜
現在の地表面と比較してその高低差はすごいものですね。
もうちょっといろんな角度で観たかったです(^^;
前々から国指定史跡になったこともあり、烏帽子形城には行ってみたいなー、と思っておりました。
管理人さんも、登城日:(2012.01.21)に行かれたようで、私とそれほど変わらない時期に行かれたようです。
で、烏帽子形城は行く前のイメージとしては、
> 正成によって築かれたと伝えられています
という事ですので、まー古いタイプのお城かなーというイメージでした。
で、実際に行ってみると、まず驚くのが「横堀」ですよね。おー、めっちゃでかい、という事で驚きます。この横堀の大きさを見ると大和国にある、豊田城を思い出します。で、ポツポツ歩いてありますと、「うん?この城新しいなー」という印象でした。城内の曲輪の配置や、堀の複雑さなどから、かなり工夫をしている印象があります。管理人さんのホームページにも、
> 幅がまちまちなのは適当に造っているような印象を受けま
> したが、堀底の高低差には堀内障壁などを設けた実に計算
> されつくした築城術だったのですね。堀底を歩いてみると
> その特徴的な構造がよくわかりますのでおススメです。
とあります。堀底の高低差は正直私はまったく気がつきませんでした。しかし、この後
・歴史発掘 おおさか
の文献に、「堀内障壁」の記述を見つけてびっくりです。実は私はまだこの「堀内障壁」実物を見たことがありません。この本には、「堀内障壁」は関東の北条氏の城に多く、敵が堀底を伝って容易に移動するのを防ぐ、と書かれており、関西では例が少なく、大坂城かこの城程度らしいです。
つまりです。横堀の特徴としては、掘底道を使った通路を兼ねたプランで、鉄砲を持って広範囲に防御できる特徴があると思います。しかし「堀内障壁」を作ってしまったら、せっかくの横堀の特徴が自ら殺してしまう事にならないのか?という疑問が出来ます。
ただ、今は埋め戻されており「堀内障壁」の遺構を見ることは出来ません。
またこの城の後、近つ飛鳥博物館に行きまして、この城から発掘された瓦を見ました。この瓦、非常に重厚な作りでした。どの部分の曲輪から出土したかは書かれていませんでしたが、この城に瓦葺の建物が建っていた可能性もあり、ひょっとしたら瓦葺の櫓、もしくは天守に相当する建物があったかもしれませんね。
まー、しかし烏帽子形城、名前からもかなり古い城と思われがちですが、巨大な横堀構造、堀内障壁、瓦葺建物などから、城の最終形は、桃山時代の城郭技術がふんだんに盛り込められた、重要な城だと思われます。
唯一残念だったのが、
> 最初に河内長野駅そばの観光案内所に顔を出してくださ
> い。そこで販売されている烏帽子形城の冊子(500円)
> が実によくできています。
ぎゃー、買うのを忘れていました。
私のような失敗をしないためにも、管理人さんのホームページは事前によくチェックしてください。
続きがあります。http://www.siromegu.com/castle/osaka/ebosigata/ebosigata.htm
ブレイズマンさん、こんにちは。
烏帽子形城は雨の中での登城でしたので、十分な散策が
できなかったのですが、それでも夢中になって駆け回っておりました。
ブレイズマンさんも新しいと感じておられるように、城の改修が見られますよね。
私がうかがった時はちょうど観光案内所に、この冊子
をまとめられた郷土史家の方がおられましたのでいろいろ
とお話しをうかがうこともできました。
またのぞいてみてください。なんだか時々お茶しておられる雰囲気でしたよ。
それでは。
ポリタンクさんの「豊岡市の城郭集成」発刊情報ありがとうございます。
早速注文します。
中村城訪城の際に縄張図や機関誌の記事で勉強させていただいた、山名氏城跡保存会
(お城さんマークにWebサイトトップページをリンク)会長様が書かれた書籍が刊行
されたことをTwitterで教えていただき、早速注文しました。『豊岡市の城郭集成I』と
いう書籍です。
リンク先のトップページに「城郭ファン 待望の「城郭集成」完成!! 大注目の西尾
孝昌氏が著者なり」として書籍紹介のリンクがありますが、来年には『豊岡市の城郭
集成II』も刊行予定とのこと。まだ手元に届いていませんが、到着が楽しみです。
268ページで送料込1500円って、お買い得ですよね(笑)
では、失礼いたします。http://www5.nkansai.ne.jp/users/yamana1/
ポリタンクさん、いい情報ありがとうございます。
私もNさんに電話をしてすぐ入手いたしました。
豊岡市は同じ兵庫県といってもなかなか行きにくい
ところなので、新鮮です。
ここんところ朝来市よりも北へ行ってないなぁと反省です(^^;
GW前半に岡山県津山市と大阪府千早赤阪村で城巡りをしてきました。
訪問順と逆になりますが、月曜日に動いた大阪府の方から...
土曜日徘徊の津山市の方はまだ何を書こうか纏まっていません(汗)
#「いつも纏まってないやろ!」というツッコミはご勘弁を m(_ _)m
楠公誕生地 -> 下赤坂城 -> 上赤坂城 -> 千早城
有名どころオンパレードなので、最も印象深かった上赤坂城についてのみ書き
ます。というか、他のところはご報告すべき目立った事象がなかったです。
季節柄の状況として、そろばん橋の画像をお城さんマークにリンクしておきます。
見てのとおり草が茂ってきていますので、ぼちぼち見学が厳しくなるかもしれま
せん。ただ、定期的に草刈りがなされている可能性もありますので、実際はどう
なのかは初訪城故にわかりません m(_ _)m
天候が今一つだったので、雨が降る前にとお目当ての二の丸周辺の見学を優先
しましたが、いやー、見応え十分でした。代表して、北側の二重堀切の画像を
ご紹介しておきます。
-> p.twipple.jp/vr9vy(接頭辞省略)
横堀、竪堀、切岸のいずれも良い感じでして、ウハウハしながら徘徊してしまい
ましたが、見学ポイントは漏れなく足元が不安定なので、登山靴が無難かと思い
ました。
本丸からの見晴らしも良くて、これで天気がよかったらなあと思いながらも、
暑くないからいいか、と本丸南側の堀切を見学してから車に戻りました。当該
堀切へ至る切岸には虎ロープが設置されていますので、比較的下りやすいです。
帰路では切岸を登らずに東側の山道を目指して堀切の先を降りましたが、折れた
枝などで足元が少々不安定だったため、慎重に歩きました。
城内には国見山城等への道標もあり、出発前まで城塞群に限定して行こうか思案
しながらもやめた心残りが燻りました。次は城塞群巡りとして訪問できればと
思います。
--
以下、この場をお借りして少々...
「[2555] レス等いろいろ」にて「岩尾城」とあるのは「岩屋城」の誤りですので
訂正いたします m(_ _)m
ブレイズマンさん>
>「あー、池田城ってこんなんやったんや」と勘違いしてしまいます。
本物の虎口は確か1つだけでしたよね。模擬のオンパレードである池田城ですが、
何故か私は好きです。たぶん、東側の堀の雰囲気のせいでしょうね。歩いていて
妙にウキウキしました。
津山市の話は改めて書き込みます m(_ _)m
では、失礼いたします。ポリタンクさんこんにちは。
お写真を拝見しておりますと、まだまだ藪の心配がなさそうに見えますよ。(^^
ロープが用意されているってことはそこまで降りていいよっていう状態だったのでしょうか?
山城遺構を近くまで行かせてくれるなんて素晴らしいです。
私の記憶にはそういうのはなかったので(単に見落としていたのかもしれません)
次回は金剛山への登山がてら国見山城へもチャレンジしてください(他人事ですが笑)
ではでは。
4月25日、西粟倉帰路に美作市楢原のビングシ山砦へ。
美作国の山城から縄張図コピー。
美作市楢原浄化センター付近に駐車。
東南東方向に進む谷側沿いの山道。
小さな峠。堀切は見当たらず。山頂への尾根筋は倒木多数。
山裾を巻いて楢原神社へ。
神社裏から選定挟みで道を作りながら直登する。
縄張図にある下二段の郭は見当たらず。
山頂近くでやっと郭に取り付く。
砦は縄張図に書かれているよりサイズが小さい。
約2/3程度か。全長150m程度。
美作インターに近いから北山城とセットで攻略すると良いかも。
やぶくぐりさん、こんにちは
美作国の山城との違いを確認しながらというのも
楽しそうですね。
しかし倒木や藪によって観察の難易度が高そうなところ
のようですね。
アドバイス通り北山城もあわせてチェックしてみることにします。
さてさて、今さらながら池田城に行ってきました。
ご承知のように、池田城は現在公園化され、模擬櫓はあるは、白壁があるは、鉄砲狭間もあるは、中世城郭でありながら、結構無茶な復元をしています。
多少私はようやくお城にも詳しくなりつつありますが、少し前ならば、「あー、池田城ってこんなんやったんや」と勘違いしてしまいます。
そんな池田城になぜ興味が出たのかと言いますと、
・歴史発掘 おおさか
という本があり、2007年より第57次の発掘調査の内容が纏めており、大変多くの出土物が出たそうです。
お城さんマークにその時の現場の写真などが記載されています写真がありましたので掲載しておきます。
その本によりますと、本丸より200Mも南に位置した場所に中国磁器、国産陶器、瓦などから、なにか極めて特別な施設が建っていた可能性があるとのことです。
また、出土物からは、ふいごの羽口と坩堝も発見されており、金属生産が城内で行われていたとのことです。
まーこれも近くにある多田銀山となんか関係するかもしれませんね。
私現地に行きましたが、現在は綺麗に埋め戻されていました。このように、本丸から離れた部分でも多くの遺物が発掘され、池田城は大城と思えるようになってきました。
で、ふと思ったのですが、摂津国には、
・越水城
・伊丹城
・池田城
・茨木城
・高槻城
・石山本願寺
等など、平城、もしくは、平山城の大城が数多く点在するなー、と印象を改めて持ちました。高槻城はその後近世城郭へ発展していきますが、当時はまだ中世城郭であったと思われます。
中世城郭でありながら、平城、もしくは、平山城で城が巨大化するというのは、摂津国にはそれなりの財力があるという部分と、平地でいかに防御力を高められるには、強大化していく事が重要になっていったのではないかと思われます。
このような城郭思想は、摂津国独特の物かもしれませんねー。
これは後の近世城郭に大きな影響を与え、それが具体的な形として現れたのが、豊臣大坂城ではないかと思ったりします。
池田城を観察していますと、いろいろな妄想が深まります。無茶な復元をしている池田城ですが、能勢街道をわざわざ城内に走らせるなど、規模の大きさをもってしても、すごいと思いますし、是非公園部分以外のところの方が、面白かったりしますので、地理的にも奈良に比べると行きやすい身近な城として一度訪れてみてください。
では、では。http://www.gensetsu.com/070825ikeda/photo1.htm
ブレイズマンさん、こんばんは。
池田城は随分前に一度行きましたきりで、なかなか
足が向かない城の1つです(^^;
私も「歴史発掘 おおさか」を拝見してみようと思います。
ありがとうございます。
あそこは民俗資料館とセットで行かねばと思っていた
時期もあったのですが、完全にその存在を忘れ去っておりました。
管理人さんもいろいろと城めぐりされているご様子ですが、私もめぐっています。
で、昨日行っていたのが、
・多田銀山
・池田城
です。
多田銀山は、4億両を超える金塊が眠っているといわれ、また豊臣政権の屋台骨を生野銀山ともに支えたと言われています。
新名神高速道路の橋脚建設に伴い、今回の調査で新たな坑道が発見され、ひょっとしたらという期待もあるそうです。
ただ、生野銀山、そして多田銀山両方を見ましたが、安土・桃山時代の鉱山開発は基本、露天掘りが圧倒的で、坑道があったとしてもそれほど深くは掘れない印象があります。
また「大坂城に残っていた朝鮮出兵の軍用金4億5千万両を多田銀銅山の21カ所の坑道に埋めた」という伝承があるそうですが、両の単位って江戸時代の話で、桃山時代に両の単位ってあったの?という疑問もあります。
お城さんマークに「多田銀銅山に探査ロボ」という記事を入れておきましたので、そちらもご参考にしてください。
お城で申しますし、新田城、山下城などが多田氏関係の城としてこの周辺を収めておりました。ちょうどお城さんマークにある多田銀銅山の範囲に両城も含まれます。また多田銀銅山には銀山城というかなり古いタイプの城があるようですので、私はこちらの方が興味があり、また登城してきたいと思います。
続きがあります。http://www.asahi.com/national/update/0822/OSK201108220038.html
ブレイズマンさん、こんばんは。
多田銀山の新発見で景気回復!となればいいですねぇ。
冗談はさておき、金山・銀山などを守る役割をはたして
いた城は意外と面白いなと思うことがありますので
きっと期待していいんじゃないでしょうか。
がんばってせめてきてください。
> また別件のお話も楽しみにしております。
あ、甲陽園城の事ですね。
少しだけ進展があり、また専門家の方にいよいよお手紙書こうかという話も実施するため、一度資料を整理し、画像UPします。もうしばらくお待ちください。
> 奈良の城はまだまだこれからですので、ぜひとも訪問予定
> の1つに入れさせてもらいます。
近くにある福住中定城とセットでみるといいかもしれません。
私も奈良、大和国の城はこれからですが、それでもいくつか回った範囲内では、複雑で規模の大きい、新しいタイプの山城が多いという印象があります。これも城名人であった松永久秀の影響が強いのかなー、という印象があります。
> 箱堀は塹壕や掘底道を使った通路を兼ねたプランだった
> かもしれませんね。
おそらくそんな感じです。わたしもそこまでの知識はまだないですので。
ただ、箱堀構造だけで申しますと、掘底道では逆に分断している印象があります。近くにあります、横堀は横移動が極めて容易になり、特に鉄砲で防戦する場合は、すばやく移動でき防御の兼ね合いもあり、とても有益ですが、箱堀構造の場合は箱の中での移動は容易ですが、隣の箱に移動する場合は、土塁を乗り越えて移動しなければならず、逆に進路妨害です。
その横堀と箱堀が隣同士にあるというのも、この城の結構ユニーク所だなーという印象があります。
> 私はお奨めしたものの、実は未踏ですのでぜひ参考に
> させていただこうと思います。
えーーーーーーまじっすか。
てっきり行っていたものと思っていました。
高嶺城は、縄張りは、竪堀や喰違虎口などはなく、わりと素直な縄張りではあるものの、山城で瓦葺、高石垣と近世城郭に繋がるお城でした。
> 交野市は、保存に向かって進めていくようです。
> とりあえず、調査の為の予算が付いたようで一安心です。
> 具体的な保存に向けて進むように見守っていきたいと思い
> ます
おーそーでしたか。それは良かったです。
大阪府内の平城で明確に遺構が残っている城としては貴重な存在で、天守らしきものもあった可能性があるわりには、明確な史料が少ない城としても有名です。
またなにかいろいろと保存過程でなにか発見があればいいですね。
続きがあります。
やぶくぐりさん>
土曜日、ついに岩尾城や神楽尾城に行くことが出来ました!
ご紹介いただいた矢筈城とかは今後の課題ということで(汗)
みっちゃんさん>
大阪城ではここ数年、文化の日くらいに公開していることが多いので、大阪城
天守閣Webサイトとかで確認してから行かれるといいですよ。
霄漢さん>
私部城の情報有り難うございます。
昨年訪れた時は以前より開発が進んでいたので今後を心配しましたが、保存に
向けて進んでいく感じで何よりです。
管理人様>
[2546] お城巡り in 紀伊(今年第二章)
> (お声掛けいただいたのに、いけませんでしたが・・)
いえいえ、急な話でしたので気になさらないでください。
都合がつく機会があれば宜しくお願いいたします m(_ _)m
--
連休中は前述のとおり岡山県津山市に加えて大阪府千早赤阪村を徘徊しており
ました。近々こちらで報告いたします。(たいした報告はできませんが...)
では、失礼いたします。
私の居住地の交野市にある「私部城跡」は、近年周辺の宅地
開発が進みその破壊が心配していましたが、交野市広報によれば、
交野市は、保存に向かって進めていくようです。
とりあえず、調査の為の予算が付いたようで一安心です。
具体的な保存に向けて進むように見守っていきたいと思います。霄漢さん、こんにちは。
私部城が今後保存、整備されていくのですか。
発掘調査で何か新しい発見があることを想像するのも
ワクワクしてきますね。
貴重な歴史資産としてうまく現在の生活と共存した
整備が進むことを望みます。
昨年から少しペースダウンしながらも、ちょっとずつ廻っていました。
津城址と岸和田城、そして地元の大阪城の金蔵公開と二の丸の公開にたまたま見学する事ができました。
大阪城には子供の頃から何度も行ってますが、何だかかなり展示が変わってましたね(~_~;)
と、言っても初めて大阪城に行ってから40年近く経ちますので、そりゃあ何かと変っていて当然の話ですが^_^;
そして、またしてもGWなのに今度は四国訪問を企画し、高知城と丸亀城を見に行く予定です。
昨年同様、並ぶ事になるかも知れませんが。。。
また報告したいと思います。みっちゃんさん、こんばんは。
大変遅い反応でごめんなさい。
大阪城は私もちょこちょこ行ってます。
あそこを今以上に観光地にしようとするプランも出ていますので
またしばらく目を離していますと、変貌をとげてしまうかもしれませんよ。
四国攻めから無事戻られましたらまたその時のお話を
お聞かせください。
それでは楽しいお城めぐりを
そろそろイバラも延び始めて山城シーズンも終盤に近付いた感じる
今回は、真庭市垂水地区から西へ城廻りを計画。
「美作国の山城」から縄張図をA4拡大コピー。
最初は真庭市垂水の「注連山城(しめやま)」。
車を役場前の旭川河川敷に置く。
垂水の市街地の北側の山なので、東側の本覚寺から西側の仏土寺へ抜けるルートを選択。
本覚寺に参拝し、寺の奥様から教えていただいた山道を登る。
鳥居、妙見宮の郭。
選定挟みを取り出して尾根を辿る。
ほぼまっすぐな山道。
祠のある郭に出る。
この郭の東側には横堀とあるが、見つけられず。
ここから西南に尾根筋を進む。
イバラ、倒木の連続。堀切は見落としたようだ。
急登を詰めると石仏、三角点の郭。
主郭群だ。
点々と石仏がある。
石仏を祭ったお堂の郭。
ここから歩きやすい山道になる。
段々に下がる郭。
縄張図に土橋と書かれた狭い尾根。
ここで山道から離れて堀切、小ピークに南の郭群の主郭。
東に下って先ほどの山道に合流。
どんどん下ると墓地の上の緩い傾斜の尾根になる。
下へ分岐する道があるが、そのまま草地を通り、仏土寺の庭園の裏側を進む。
堀切、お堂のある郭(平坦地)。
麓の居館に思える。妄想か?
仏土寺の駐車場に車を置いてもよかったかなと思いながら垂水の街を河川敷へ。
二つ目は国道313号を西に進んで、鹿田(かった)にある「石ケ城」。
上畆から「老朽化のため4t車以上通行止」の表示のある旧国道の橋を渡った所に駐車。
南東方向に入る林道。イチリンソウが咲いている。
約300mで左に分岐。
谷川を渡って林道を左に分岐。
ゆるやかに登っていくと小屋が二つ。
奥側の小屋から山道に左折して谷に入るとしいたけのほだ木。
ここから左手の小尾根に登り付くと南郭と主郭の間の鞍部。
剪定挟みを使いながら主郭、東の二の郭、西の堀切と廻る。
ここから元来た道を辿って最初の林道入口から約300m地点に戻る。
縄張図にあるように、すぐ北側の山が三つめの「真木山城」。
林道を東の方へ進んで、縄張図にある点線の登城路を探すも見付けられず。
ここはグーグルでチェックしたとおり、そのまま東に林道を辿り、遺構の有無が明らかでない十六城のある375.3mピークの山腹を西に戻って石ケ城の北東に至る林道(縄張図の堀切の北側の道)(約1.5Km遠回り)を辿る。
林道の陽だまりにシートを広げて昼食。
気になった石ケ城東隣の270m峰に寄り道。
遺構は見当たらず、堀切にでる。
急登すると低土塁の廻る主郭。
城から北西に下る小尾根に小郭群。
西に一段下がって低土塁の郭。
石垣。
二の郭との鞍部に作業道。
この辺りは機械で整地されている。
作業道は左右の谷筋に続いているようだ。
西に進んで二の郭。
この城の縄張図は落合町誌の方が正確のようだ。
南に細尾根を進むと左手はまっすぐ落ちた崖。
南端に小郭。
下を見ると、下生えの少ない植林地。
ほぼまっすぐに下ると林道に飛び出した。
石ケ城と真木山城の間の林道入口から約270m地点だ。
四つ目は、さらに国道313号を西に進んで、栗原地区にある「栗原城」(延長約600m)。
簡易郵便局付近から余河内の橋上に駐車(変形の橋で駐車可)。
縄張図のとおり、古市場の田圃の十字路を通り、低い尾根の北端の山道に入る。
猪避けのトタンを跨いで、赤テープを設置しながら進む。
低い尾根に登ると段々の平坦地。
横堀と書かれた浅い溝部分。
縄張図だと居館部になっている部分だ。
山道を辿って尾根筋を登っていくも途中の郭群は見つけられない。
選定挟みで時々枝を落としながら進む。
かなり登ってから山道が右に折れて山腹を巻く。
尾根に出ると西の出丸との間の282.8m郭の下に出た。
一旦、西の出丸に行ってから明瞭な282.8m郭に登る。
この郭から南へ尾根の方向が変わる。
堀切は不明瞭。
298.9mの主郭。更に南へ。
土塁は見当たらず。
296mの郭。
縄張図だと城域はここまでだが鞍部を通って南へ。
鞍部の上に人力で作られた短い溝。
その先は、ピークまで遺構は見つけられず引き返す。
この城の居館部は、落合町誌では登りついた位置から約100m西になっているが今回未確認。
やぶくぐりさんこんばんは。
注連山城の図面を見ていますと、効率よくまわろうと
すると自転車を反対側の登城口に置いてから回り込む
のがよさそうですね。
次の石ヶ城、真木山城での登城ルートを迷ったり、気になるピークへ行ってみたりとされている行動はとても
よく伝わってきました。縄張り図を見ながらですので
なおさら自分が歩いているかのようです。
また4つめの栗原城は、堀切で郭が分断された構造の
お城で、私の好みの山城のようです。また北側の遺構
も目にしたいなと思いました。
今回も素晴らしい攻城レポートありがとうございました。
米子城 -> 鳥取城
日曜日に職場の同僚と行ってきました。といっても、米子付近では別行動でして、
同僚はゲゲゲの鬼太郎目当てで米子から電車で境港に行きましたが...
両城とも超メジャーなので詳細は割愛しますが、ちょこっとだけ。
米子城とは直接関係ない施設ですが、米子城大天守を模した「お菓子の壽城」にも
寄りました(笑)。最上階に入ることができたので一応上がってきました。
鳥取城ではちょうど1年くらい前にここで管理人様と幸田屋さんにご教示いただいた
二の丸西側及び山上の丸(の三の丸)東側にある登り石垣をしっかり見学してきま
した。代表して、後者の画像をお城さんマークにリンクしておきます。
桜が満開だったのでお客がたくさんいましたが、(山上の丸斜面見学のためですが)
軍手をしているのは私だけでした...。天球の丸の下側はまだ工事中のようです。
太閤ヶ平に行く時間はなかったので、次回までお預けです。(って、また行くんかい、
私。)
今回の2城訪城で、子供の頃に憧れたお城には一応全て行ったかもしれません。その
頃持っていたネタ本は『城なんでも入門』と『城郭と城下町』の近畿、山陰、山陽
(すべて小学館)だけなので、知っているお城自体の数が少なかったですけど。ただ、
やはり感慨深いものはありますね。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんばんは。
米子と鳥取を1日に行くのは大変でしたでしょう。
壽城はライトアップが素晴らしいのですが、昼間に見ますと
やっぱり・・ねぇ。
鳥取城近辺はよく行くところですので、もし太閤ヶ平
など行かれるのでしたらご一緒しましょう。
最近の鳥取城は新しい発見や話題に事欠きませんので
何度行っても楽しいところだと思います。
あと、長年の目標が達成されたご様子。
お気持ちはよく分かりますよ。
次はネタ本を何にされるのでしょうか。
長時間ドライブお疲れ様でした。
真庭市久世の「陣山」で失ったTグリップのステッキを霄漢様が拾われたなんてすごい事です。
管理人様、勝手ながらまた個人的な通信に使わせていただきます。
毎年ステッキの紛失は3〜4本ありますが、拾っていただいたのは初めてです。
今度、美作国に来られる時、お会いできたらと思います。
小生の仕事のホームページにメールアドレスを公表しています。
「中山労働安全コンサルタント事務所」でキーワード検索すると出てきます。
サラリーマン・リタイヤ後の不定期な仕事なのでタイミングが合えばいいなと思います。
よろしくお願いします。やぶくぐりさん、驚きですよね。
この導かれるような素晴らしい出会いに感動いたしました。
後日お会いになられた時に山城話で盛り上がられている
ことでしょうね。
もしご一緒される機会がありましたら、私もつれていってください(^^
それにしてもステッキを年に3−4本って・・
なくしすぎです(笑)。
管理人様、またもや超マイナーな山城の情報です。
4月15日真庭市久世の「陣山」を地元の方の案内で行ってきました。
毛利氏が宇喜多氏方の大寺畑城と小寺畑城を攻めた時の陣跡が尾根上に1.5q以上にわたって残っています。
以前、やぶくぐりさんが掲示板に書かれていた記事も参考にさせていただきました。赤いテープ印を辿るルートで418mのピークから折り返し、縄張り図を描きながら約5時間、三分の一しか書けずに再挑戦を思いながら帰途につきました。
やぶくぐりさま、掲示板にあった「Tグリップのステッキ」
反射板の次の登りで見つけて来ました、黒色のSOLTTERAでしようか、
とりあえず持って帰ってきましたが、どうしましょう?
ご連絡を。霄漢さん、こんばんは。
反応が遅くてすみません。
ちょうど同じ時期にそのあたりに行かれてた知り合いがいるんですけど、ひょっとして共通の知人がいたりして・・。
陣城遺構も気になるのですが、それよりもやぶくぐりさんのステッキを見つけられたというのが面白いですね!
霄漢さん、ご連絡ありがとうございました。
吉備中央町の本宮山登山のついでに美咲町江与味の2城訪問。途中、フキノトウ、ワラビ、ユキノシタ、ミツバ、タラノメ。
今夜は山菜のてんぷらを期待。
最初は江与味集落の北にある伊賀氏の「江与味城」。
江与味八幡宮まで自動車で登れる。
江与味八幡宮から少し戻って縄張図に書かれた点線の山道を辿る。
鞍部に土橋。
この城は三重堀切と畆状竪掘が見所。
どちらかというと毛利氏の番城的イメージが強い。
城の西側の縄張図にある「郭か?」に至る。
郭らしい削平地。
更に西に進むと平坦な尾根。
駐屯地に使えそう。
鞍部に民家。
元の土橋を渡って城の北側にある作業道を進む(北側は超急勾配の斜面)。
作業道は北の郭群の三段目を潰している。
ここから南の主郭へ進むと主郭に凹部。
烽火のようだ。
東へ段々の郭群。
切岸が二か所高くなっている。
主郭に戻り、南側の畆状竪掘を見る。
縄張図では同一の高さに6本あるが、東側の2本は斜面を下った所から始まっている。この辺の描写は旧旭町の資料の方が正確。
西に進んで三重堀切。
西の郭群。
南西の作業道に入って駐車位置に戻る。
二つ目は更に西に1km程進んで左手の独立峰に見える「祇園山城」。
江与味城の出城か。
城の北側の尾根から直登。
急斜面に伐倒木がそのまになっていて、掴みながら登る。
赤テープを付けながらシンドイ目をして山頂に出るとほぼ単郭の二段の平坦面。
記念碑、桜の園地。
南側から山道が来ている。
気を取り直して、周囲を見渡すと二段になった主郭の周囲に低土塁が廻っているようだ。
遅い昼食。
コーヒーで花見気分。
南に下ると二か所に墓地。
帯曲輪か。
ずっと下って鞍部に堀切。
山道はすぐに左下の舗装町道につながっている。
堀切から南に地神の碑のある郭。
その南に土橋で尾根筋の作業道になっている。
今日は、ちゃんとした道が付いている山城だった。
やぶくぐりさん、こんばんは。
江与味城もよさそうなお城ですねえ。
中腹の八幡宮まで車で行けるのも素晴らしい。
三重堀切と畝状竪堀がとても分かりやすそうです。
美作国の山城を見ると藪のように思えたのですが
それほどでもなかったのですね。
祇園山城のほうは土塁が巡らされているのですか。
面白いですね。
こちらは美作国の山城に見つけられませんでしたが
大変イメージしやすかったです。
ありがとうございます。
徘徊の友となっているiPhoneアプリの"FieldAccess"が航空写真に対応したので、
手取城の書き込みの中で記載した「通行を妨げない路側帯」の様子をお城さん
マークにリンクしておきます。心持ちですが道幅が膨らんでいるのがわかります
でしょうか。車の横幅を賄うことができる路側帯です。
ついでに、鞍賀多和城の航空写真もアップ(接頭辞省略)しておきます(汗)
-> p.twipple.jp/9RyJb
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
写真拝見しましたが、これではちょっと難しいような(汗)・・。
和歌山に攻め込んだ際には必ず参考にさせていただきます。(^^;
行程は次のとおりです。1週間前に天気予報を見て予定を立てました。
鹿ヶ瀬城 -> 鞍賀多和城 -> 手取城
管理人様が手取城未訪っぽかったのでお声をかけましたが、急な話だったために
ご都合が合いませんでした。残念。職場関係にもちょっと声をかけましたが、
結局いつもどおりの単独行となりました。
【鹿ヶ瀬城】
『近畿図説中世城郭事典』(城郭談話会)掲載の縄張図が特に参考になります。
車は金魚茶屋駐車場にとめました。3台くらいは駐車可能です。
大峠手前から登って、中央の曲輪の南東にある離れた曲輪の見学ついでに小峠に
下りました。 ログはこちら(接頭辞省略 )です。
-> p.twipple.jp/0o0Ci
北の曲輪には石垣が残っており、当該曲輪と中央の曲輪の虎口には石積の痕跡が
あります。後者の痕跡はいかにも虎口という感じでよかったです。
西の曲輪はかなり低木が茂っており、端まで行くのはやめました。
熊野古道残存度最長の石畳を歩くのは風情があってよいのですが、メタボな私
には足に堪えました...
【鞍賀多和城】
『図説中世城郭事典』(新人物往来社)掲載の縄張図と山城甚伍様ブログ記事
(接頭辞省略)を参考にしました。
-> blogs.yahoo.co.jp/jyamasiro/14368960.html
駐車場所は基本的にありません。私は幸運なことに雨司神社への道を尋ねた方の
土地に駐車させてもらえました。この場をお借りしてお礼申し上げます m(_ _)m
手取城への移動しようとした時に道沿いに「1日駐車***円」みたいな看板を
見かけましたが、訪城後だったので詳細を尋ねておりません。
詳細は前述ブログ記事に譲りますが、お城さんマークに私のログもリンクして
おきます。予定では「参道があるならその方が楽だろう」と往復ともに雨司神社
経由のつもりだったのですが、谷筋からすぐ逸れる参道を見落としてしまい、
谷筋から行く羽目になりました。ただ、今回の経験から申し上げれば、参道は
一部流水道っぽく削られていたりしてあまり掴むものもない箇所があり、登り道
としてはあまりお奨めできません。体力は使いますが、行きは谷筋の方がまだ
ましかもしれません。帰りに尾根筋に合流した地点を過ぎて雨司神社へ向かい
出してすぐに右(谷筋)へ下る道がありましたが、今回は無視しました。
この際なので、行程についての勝手な妄想をついでに...。雨司神社の南側に
東へ回り込むっぽい地形がありましたので、雨司神社への道は他にもあるのか
もしれません。また、鞍賀多和城の西側尾根にも道っぽい痕跡がありましたので、
ひょっとすると、雨司神社のある尾根の南の尾根筋から直接城域に至ることが
できるかもしれません。
【手取城】
『近畿図説中世城郭事典』掲載の縄張図と余湖様管理のWebサイト記事(接頭辞
省略)を参考にしました。
-> homepage2.nifty.com/yogo1394/wakayama/hidakakawamati.htm
車道が城内まで続いていますが、前述Webサイト記事でも書かれているとおり、
軽で通るのが関の山です。5ナンバーでも不可能ではないですが、車両感覚に
自信がないとか、夏場に茂る草木が気になるとかだとやめた方がよいでしょう。
軽トラがそれなりに行き来してましたので、なおさらです。私はといいますと、
登り口を過ぎた先にある通行を妨げない路側帯(3台程度のスペース)に駐車
して歩きました。登り口からお城へ至る途中に新設されたっぽい4台程度駐車
可能な場所がありましたが、後から何も考えない人が適当に駐車すると車が
出られなくなりそうな構造でしたので、あまりお奨めしません。
一通り徘徊しましたが、堀切や横堀の見事なこと此の上ないです。特に主郭の
北にある最初の堀切は圧巻。一応画像をリンク(接頭辞省略)しておきますが、
全く雰囲気が伝えることができておりません m(_ _)m。未訪の方は現地で体感
されることをお奨めします。
-> p.twipple.jp/WIi7h
他にも烽火台のある曲輪の北と西、東の曲輪の先の一つ目の堀切とかも見逃せ
ないポイントかなと思います。堀切に夢中になり過ぎて、主郭西側の石垣を見
損ねたことが悔やまれます(泣)
時間があれば亀山城にも寄るつもりでしたが、手取城で予定以上の時間を費や
したのと、熊野古道の石畳と鞍賀多和城での行程を経ていて足にガタがきていた
ので諦め、高速に乗って帰りました。帰路では運転時としては初めて足が攣りま
した(泣)。地道だったら洒落になっていなかったかもです...。今日は全身の
筋肉痛と腰痛、膝痛と戦っています。とほほ。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
和歌山県はなかなか行かないので羨ましいです。
(お声掛けいただいたのに、いけませんでしたが・・)
手取城は特に素晴らしいですよね。
全身の筋肉痛がそれを証明してますね。
お疲れ様でした。
今月の山城会はオジジ3人。
美作国を案内。
最初は津山市の「神楽尾城(かぐらおじょう)」。
神楽尾公園に駐車して山形氏の多色の縄張図配布。
高谷池から西へ進み、南側の郭群から城域に入る。
土橋を渡り三の丸。
連続竪掘、横堀、馬場。
主郭の西側を巻いて北側へ。
土橋を渡って北へ入って三連の竪掘。土橋まで案内。
ここから城域は尾根筋を北へ1.5km程続くが、今日はここまで。
主郭群の北斜面を直登して土塁囲みの郭。
主郭、櫓台。
津山城に桜見物(咲き初め)の人波が見える。
泥田堀脇の土橋を通って二の丸の切り通し。
切岸を登って左右の郭群。
大土塁。
東へ長い土橋を下って神楽尾公園の駐車位置へ周回。
二つ目は、神楽尾城の西の山にある「局笠山(つぼねかさやま)城」(延長約500m)。
戸島神社に駐車して谷筋を2020年の森を目指して登る。
縄張図は「美作国の山城」から拡大コピー。
小屋左の道を進むと221m郭(愛宕様の碑)からの土橋途中に出る。
主郭と235.8mの郭へは、ヤブのためパスして刈り払ってある武者走りを227.8m郭へ進む。
竪掘、横堀、土塁、土橋、土塁囲みの郭。
227.8mの郭は記念植樹エリアになっている。
三つめは鏡野町下原の「目崎(めさき)城」。
縄張図は「美作国の山城」から拡大コピー。
南北200m、東西300m、見所の畆状竪掘群が三か所。
珍敷(めずらしき)神社脇に駐車。
神社とその西側は下郭群。
偽木の階段道を登ると下郭群の西側の尾根筋に出る。
尾根に縄張図にない土橋と小郭。
登っていくと、少し平坦な場所。
目崎城から東に三段延びる郭だが、縄張図程はっきりしていない。
偽木階段を登り詰めて祠と東屋、展望台。
花見の準備でライトアップできるようにしてある。
ここから東を見渡すと、宇喜多方の神楽尾城塞群、局笠山城、嵯峨山北城、洲前城、嵯峨山北城のラインが南北に連なる障壁になって見える。
これに対峙するのが毛利方の桝形山城、葛下(かずらのした、くずげ)城と、この目崎城ライン。
この下に畆状竪掘17連があるが(入れそうな踏み跡あり)次の機会に。
東屋で遅い昼食。
ザックを置いて、西から来ている四駆林道に入り、竪堀の上から直登すると南郭と主郭の間の土橋。
赤テープを点々と設置していく。
南郭は主郭側に土塁。
土橋から西に下って竪掘19連に至る。
感動もの。
切岸を登って主郭の南側を通って、先ほどの祠と東屋。
北側の竪掘10連は次の楽しみに。
最後は、岩屋城攻めの延長12kmの陣城群の一つ「荒神上の陣城」。
ここは、いつ来ても素晴らしい。
きれいに刈り払っある。
延々と続く土塁線、竪掘、横堀で囲まれた土塁囲みの指揮所が三つ。
横矢掛りの折れ。
来る度に標識が増えているようだ。
やぶくぐりさん、こんにちは。
いつもながら駐車情報を含め、詳しい攻城記をありがとうございます。
まずはやぶくぐりさんの”庭”状態の神楽尾城ですね。
次が局笠山城ですか。結構大きな城なんですね。
その次の目崎城は「美作国の山城」をみてビックリしました。
これは素晴らしいお城ですね。
美作はこういうお城がゴロゴロしてるんですねぇ・・。
段々山城シーズンじゃなくなってきてる今頃になって
美作へ行きたくなってきました。
ではでは
ブレイズマンさん>
福住井之市城の追加情報、有り難うございます。
草木が生い茂る時期と降雪時期を避けようと思います。
高嶺城、石垣がいい感じですね。
以前、萩城への道程ですぐ傍を通過しているにもかからわらず、後の行程の
都合上スルーしてしまいました(泣)
そういえば、錦帯橋に行った時も岩国城に寄らなかったなあ...
流石に気軽に行ける距離ではないので、山口県に行く機会ができたら、何とか
訪問先に組み込めるよう努めてみます。
では、失礼いたします。
霄漢様、ありがとうございます。
ルートが大体判りました。
吉見集落北尾根ルートは、昭和13年の「津山30人殺し事件」の時に、犯人が山越えして吉見集落に来るかもしれないとの憶測で、猟銃を持った自警団が723mピークに登ったとの話を自警団の孫の方から聞いたことがあります。
それが城跡だったなんて。
梶間山にいつか行ってみたいです。
重ねてお礼申し上げます。
成安からの橋を渡って登る林道をアスファルト舗装が終わる
所で車を止め、舗装がコンクリートに変わるが登っていくと
やがてコンクリート舗装もなくなリ、道が天狗寺山の北斜面を迂回するように方向を変えてしまう。
本来はこの付近に、天狗寺山と760mピークとの鞍部に道があるはずだが見つけられない。以前烏ヶ仙から天狗寺山と760mピークとの鞍部に歩いた時は確かに下る道があったのですが。
先ほどの地点から少し戻ると、760mピークの斜面を削って山仕事の道があるので登る、
760mピークから降りてきた尾根と、723mピークとの鞍部が見えてくるので道を外れて斜面を直登して鞍部に出る。左側の斜面を登ると、723mのピークから北北西に延びる
尾根上に出るので右に進むと空堀、畝掘に出会います。
烏ケ仙城経由天狗寺山登山道760mピークからの尾根ルートは、厳しいかも、地元の情報では吉見集落北尾根筋ルートは近く地元の方が登られるようです。
梶間の情報は、美作の中世山城連絡協議会のホームペジの管理者の方からいただきました。
尚、私の作った縄張り図はこの方に送っています。
梶間(仙々山城)の位置情報ありがとうございます。
どうやら小生も烏ケ仙城経由天狗寺山登山ルートにある760mピークと思い込んでいたようです。
いつか機会があったら登りたいと思います。
ところで、登城ルートですが、
1)烏ケ仙城経由天狗寺山登山道760mピークからの尾根ルー ト
2)吉見集落北尾根筋ルート
3)旧加茂町の成安からの林道ルート
のいずれを使われたでしょうか?ご教授下さい。
で、山口県の城の話をひとつ。
前回、大内氏館跡に行ってきましたが、管理人さんご推薦の高嶺城にも行ってきました。高嶺城というのは、平城であった大内氏館に対して、高嶺城は詰めの城、山城という位置づけです。
大内義長が1556年に築城を開始したが、翌年に毛利氏の侵攻により、未完であったといわれています。しかし、その後毛利氏により改修が行われ完成しました。
1569年、大内輝弘が高嶺城を奪回の為、攻囲したが、その時の城主であった市川経好が留守の為、妻が甲冑を着て指揮を執り奮戦したと、なかなかユニークな歴史を持つお城です。
で、今回登城してみますと、大きく分けて3つ。
テレビ塔 下
テレビ塔 上
本丸周辺
があります。テレビ塔 下とテレビ塔 上部分につきましては、おそらく大内義長氏時代のものが、それほど大きく変わらず使用されていると思われます。
しかし、本丸周辺になるとがらりと雰囲気が変わります。非常高い石垣があり、この曲輪周辺では、現在も瓦が山積しています。本丸周辺部分は、瓦が使用された建物があり、石垣の積み方は初期型であるものの、近世城郭の初期ではないかと思います。安土城の築城が1576年ですので、1569年前後にはこのような城が完成していたとすると、なかなか大したものだと思いました。
登山道もしっかり整備され、幾度が発掘調査も行われているようで、とても見やすい城ですので、山口県に行かれる方はお勧めです。
では、では。http://homepage2.nifty.com/mizuki55/yamaguti/yamagutisi.htm
ブレイズマンさん、こんにちは。
高嶺城を満喫されたご様子ですね。
私はお奨めしたものの、実は未踏ですのでぜひ参考に
させていただこうと思います。
> お城めぐりされてますねぇ。
にひ、されていますねー。
> ポリタンクさんとご一緒した時にもブレイズマンさん
> のお話が出てたのですよ。
> (ということで話題だけ登場したということで今回はご容
> 赦を。汗)
こらこらこら、こらーーーー!お話に出たーーー、話題にしているなら、普通誘うでしょ。
> ただ、何よりも印象深かったのは、住宅展示場でお得な物
> 件を紹介する販売員並の城内説明をしていただいた千田教
> 授のお姿でした(笑)
という話を聞かされれば誰でも行きたいと思うでしょう。今度は是非住宅説明会に参加させてください。
上狭川城は行ったことがないので、今度行ってみます。
ただ、やっぱりこうやって見ると、大和国って結構最新型の山城が多いですよね。
> 福住井之市城はなかなか面白いお城のようですね。
そーなんですよねー、今回一番びっくりしたのが「箱掘」構造です。掘をなんで箱状に区切らなければならなかったのか?が不思議です。
> ここのところすっかり暖かくなりましたので
まー、まだ大丈夫だと思いますよ。そんな急には成長しないと思いますので。ちなみに私が行った時は雪降って、所々積もっていましたよ。
> 次の晩秋あたりかご紹介いた
> だいたブログの時期(1-2月)が無難かもしれませんね。
晩秋はいいと思います。しかし、1-2月に雪が積もれば、危険ですので、やめておいた方がいいと思います。
あ、そーそー、福住井之市城のU曲輪の主郭部分で、やぶもひどいですが、倒木もあります。倒木は、根の部分から土が盛り上げて木が倒れていました。で、その根の部分を観察すると、表面が平らな石をいくつか見つけ、その周りには炭化層と思われる炭を発見しました。
私は専門家ではありませんが、これはひょっとして、U曲輪には礎石跡、建物があり、で、その周辺で戦闘があり、焼き落ちたかもしれません。
石や炭はあまり触らずそのままの状態にしておきましたが、自然崩壊するかもしれません。
続きがあります。http://www.geocities.jp/buntoyou/f11w/na-f2170fukuzumiinoichi.html
管理人様
先日は、情報入手のため掲示板使わせていただきありがとうございました。
おかげさまで今日(4/1)梶間山「仙々城」に行くことができました。
お礼に変えて情報お伝えします。
昨年出版された「美作の山城」は編集段階でかなり混乱があるようで、P128の梶間山は「仙々城」とするのが正しいようです。
また、縄張り図は津山市最高峰の天狗寺山の南東の760mのピークに書かれていますが、
(地元では梶間山という名前の山は存在しません)
このピークから北東方向の尾根続きの723mのピークが正しい位置です。
(地元ではここを梶間と呼んでいます※梶間山ではありません)
城は、山形氏の縄張り図とは形はやや異なりますが、
土塁囲みの郭と、北側には東側に7本、西側に最大10本の
畝掘があり比高500m近い山上にありながら非常に興味深い遺構が残っています、
医王山城を巡り毛利、宇喜多氏の戦いの中で医王山城防衛のため、
毛利氏により、築かれて城がこの「仙々城」だと考えられます。霄漢さん、こんにちは。
山形さんの縄張り図でしか知りませんが、「仙々城」は
素晴らしい遺構が残っているのですね。
比高500メートルの山上はなかなか一人ではいけませんが
ものすごく惹かれます。
この掲示板ではほんとに悶々としたものがたまります(笑)。
無事ご帰還されて何よりでした。
お疲れ様でした。
管理人様>
[2527] 奈良市内でお城三昧
> お一人で行かれるのもいいですが、だんだんと城仲間と連れだっていく
> 城攻めもいいもんでしょ?(^^
単独行が大好きというわけではなく、周りに同行してくれる人間がほとんど
いないというだけでして...(汗)
また機会がありましたら宜しくお願いいたします m(_ _)m
[2528] お城巡り in 紀伊
> 新宮城もおまけ扱いなんですね(笑)
おまけというか、ご推察のとおり日帰りでして、訪城時間が確保できるかが
不明だったので予定にきちんと組み込んでいなかっただけです(笑)
泊まりにしていたら2日目のメインになっていたと思います。あの辺りは未訪城
ばかりなので、また行くことがあれば新宮城にも寄るつもりです。(松の丸枡形
付近にあるらしい土塀の痕跡を見逃した&二の丸付近未見学のため。)
なお、あとから調べたところ、水の手への道は台風の前から立入禁止になって
いたみたいです。
振り返ってみますと、私がお城巡りで宿泊したのは、鹿児島、熊本、宇和島
(萩・津和野経由)、弘前くらいですねえ。松本城界隈ですら日帰りでしたし、
熊本も2回中1回はJR乗り放題利用で日帰りです(笑)
もったいないかなあと思うこともあるのですが、直近の天気予報を見てから急遽
決めることがほとんどなので(汗)
では、失礼いたします。ポリタンクさん、
こちらこそよろしくお願いいたします。
熊本に日帰りなんてとんでもなく贅沢ですね(笑)。
貧乏性の私にはとてもまねができません。
もっと電車の中での活用法を身に着けないといけないんでしょうね。
ではでは。
真庭市中の総社宮下の道路わきに駐車。
最初に「中村陣屋」まで歩く。
田圃の中に30m角ほどのほぼ方形(一部折れ)の小規模な陣屋跡。
碑と看板がある。
二つ目は総社宮(奈加神社)の上にある「手谷城(月澤城)」。縄張図は旧落合町誌からコピー。
総社宮裏から植林記念碑を過ぎて少々ヤブ。
30mほどで疎林。左手堀底道。郭が数段。
二重横堀。
主郭群。
左手に横堀。
尾根筋の二重堀切までが縄張図に記載。
その先に小さなお宮(稲荷)と月澤城の石碑のある小郭。
堀切。
堀切にはどうやら木橋があったようだ。
郭〜土橋で終わり。
尾根筋は金砕山城に続く。
この城は訪城三回目だが織豊系を思わせる横堀が魅力的。
三つめは久世の上ケ市の「陣山城」。
毛利の軍勢が大寺畑城と小寺畑城を攻めた時に尾根筋に延長1.7Kmの陣を張ったとの伝承地。
久世神社駐車場に車を置き、久世神社右手奥から山道に入る。
最初は笹がうるさいが、すぐに快適な尾根道。
赤テープを設置しながら進む。
小郭二段で送電鉄塔。
尾根筋の北側(大寺畑城、小寺畑城側)は切岸が続く。
一部に武者走り。
郭が点々。
土橋。
ピークを巻くと虎口が上に見える。
郭群連続。
道は尾根筋を外れて南側の山腹を通って、もう一つの送電鉄塔にむかうが、ここで尾根筋の土橋、郭の連続するヤブ道に入る(入口の赤テープ)。
急な斜面を登ってマイクロウェーブ反射板。
反射板から土橋。
小ピークの郭群が二つ続いて間は土橋(1/25000地形図ではほぼ平坦な尾根)。
土橋を渡って右側に竪堀。
郭が6段。
ここから縄張図にある陣山城エリア(縄張図だと延長280m)。
ここでTグリップのステッキを失う。
縄張図にある堀切が見当たらない。
土橋、郭群。
主郭に出て櫓台。
主郭には低土塁がめぐっている。
大寺畑城から見たらここから西側の尾根筋にも包囲網の陣城が続いていてもおかしくないと妄想。
主郭から更に459.2m三角点を目指す。
土橋、小郭、土橋と降って鞍部。
赤テープ100本がもう無くなってしまった。
枝を点々と折り曲げて帰りの目印。
登って6段の小郭。
ピークに郭。
土橋。
土塁のある郭。
鞍部。
土橋。
7段の小郭。
土塁、堀切、郭。
459.2mピークの三角点も郭になっている。
ここまで久世神社から直線で1.7Km。
ほぼ連続した陣城群が続いている。
ここで山道は南に折れて水力発電所の調整池と朝日神社方面に下っているようだ。
西への尾根続きは勝山城へつながるが道が無いのであきらめる。
久世神社まで戻って3時間半。
やぶくぐりさん、こんにちは。
中村陣屋は随分立派な碑があるようですね。
手谷城は堀切が見事ですねぇ。比高もさほどなさそうで
手軽に山城遺構を楽しめるいいお城みたいです。
陣山城は「美作国の山城」では地形の高低しかわかりませんので、助かります。
ものすごく見応えある城なんだとわかりました。
ここでステッキを落とされたのですね。
なるほど・・。
> 管理人さんですよ、管理人さん。私にも、そーゆー、めっちゃいい情報は
> 流して下さいよ。
私が鹿背山城等へお誘いした話の延長上みたいなものなので、ご勘弁しておく
んなまし〜 m(_ _)m
#師匠等のオフタイムでの行動という状況で大人数にできない事情もあったで
#しょうから...
で、本題ですが、福住井之市城の状況を有り難うございます m(_ _)m
本日は人間ドックで午後から空いているので、「やぶはひどいですが、行くの
ならば恐らくこの季節しかないと思いますよ」と言われますと、「ならば、
今から!」とか思うのですが、下剤のせいで外出が怖いため断念...
ここのところすっかり暖かくなりましたので、次の晩秋あたりかご紹介いた
だいたブログの時期(1-2月)が無難かもしれませんね。
では、失礼いたします。
岡山に出る道中脱線して久米南町と旧山陽町の山城各1城訪問。
最初は久米南町草木にある草木城支城の「美作・西草木城」。
津山から国道53号線を南に進んで道の駅手前から仏教寺方向(西)に登る。
1/25000地形図を見ながら仏教寺を過ぎ。
310.9mピーク脇を通って左へ(南)大西構や草木城に向かう下り坂に約100m入る。
分岐に駐車して久保谷林道を約700m進むと林道終点。
左手に横堀と土塁に見える?地形。
南に直進すると道跡みたいな幅1m長さ15m程度の低い盛り上がり。
西側にコの字型に低くなった部分。
小屋掛けの跡かと妄想。
低い段差。
降っていくと郭二段。
下の国道とコンクリート二次製品工場が見える。
見張場規模。
二つ目は赤磐市(旧山陽町)由津里の「備前・小屋谷城」。
風夢氏の「落穂ひろい」から縄張図、案内まっぷをプリント。
由津里集落北の分岐から北北西に舗装道を入って分岐に駐車。
小屋谷池方向に軽トラが通せんぼ。
車の主のじいさまに登り道を聞くと「直登しなさい。」とご教授。
直登しかけたが、猪のペットから上がシダのジャングルで敗退。
ここは、風夢氏の書かれたとおり小屋谷池から送電鉄塔保守道に入り、尾根を南に下った方が正解。
ヤブこぎも無く「小屋谷城」に辿り着く。
主郭のピークに向かって左側に竪掘二つ。
右側は少し離れて竪掘三つ。
狭い主郭に登ると直径10〜15cm程度の角礫の小山が二つ。
つぶて石のようだ。
やぶくぐりさん、こんにちは。
西草木城は、「美作国の山城」にP.346のやつですね?
縄張り図が載っていないところもフォローされてるんですねぇ。
小屋谷城ではステキなおじいさんがいらっしゃったものですねぇ。
普通なら「何もないから」と帰されそうになりますが、直登しなさいとは凄い。
でも直登や藪コギしなくてよかったのはいい情報です。
ありがとうございます(^^
始めまして、備前在住の山城好きです。よく拝見しています。掲示板をのぞいたのは今回が初めてで、もっと早くと激しく後悔しています。
そもそもは、後のオールスターが登場する備中高松攻めいう大イベントに魅せられ、境目の七城・織田方の陣城を訪問したのが山城好きのきっかけでした。
宮路山城は数年前になりますが、地元の友人などに聞いて、山の東側の足守川右岸、大井の集落の南行き止まりあたりのお墓に上がっていく登山道から上りました。途中直登りになりますが、適当に木があり30分程度で往復できます。下りる時に気がついたのですが、私のテープとは色の違う白や黄のテープに、こんなマイナーな城にも随分登る人がいるんだなと感心した覚えがあります。
ところで、何にびっくりしたかといいますと[1628]のやぶくぐりさんの過去ログの津山市中世城跡等配置地図(作図:仁木正視氏)という一文でした。私の伯父です。聞いたこともなかったので随分驚きました。
今度訪問がてらに、美作地域の山城も少し訪問しようかと考えています。高松の苔さん、初めまして。
管理人の本岡です。
書き込みありがとうございます。
備中高松城攻めはおっしゃる通りオールスターが集まる
一大イベントですね。
私も3回ほど行きましたが全然行きつくせません。
伯父さんの件では随分驚かれたことでしょうね。
私もびっくりです。
このステキな出会いを機に今後ともよろしくお願いいたします。
それでは。
> あ、すみません(汗)
> たまたま話の流れでお声がかかったもので(大汗)
いやいや、ポリタンクさんは誘われた方ですので、Okなんですよ。管理人さんですよ、管理人さん。私にも、そーゆー、めっちゃいい情報は流して下さいよ。
> 薮が酷いひどいとかの情報を見て
> いて臆していたのですが、何とかなりそうですかね。
いやいや、やぶはひどかったですよ。
もともと、この城、実は3回目でようやく達成できた城なんですよ。一度目は、大雪で断念。二度目は場所が違い、虎口を発見できた時は、PM5:00で断念しました。今回3度目の正直です。
しかし、やぶはひどいですが、行くのならば恐らくこの季節しかないと思いますよ。熱くなってきますと、クモや蚊で、すごいことになると思いますので。
下記にあります、お城さんマークにありますブログにあるような状態です。この方のブログに「今回の登城ルート」というルートも可能と思いますが、一応私は、「伝大手道」で登城で出来たと思います。
で、この城の特徴は、T曲輪を中心に複雑な防御施設があります。まずは、横堀ですね。大和国には比較的多い横堀ですが、横堀というのは鉄砲の出現と深い関係があると言われています。その横堀が、今回は二重に横堀がある点が特徴です。で、もう一つ、箱堀ですね。ひょっとして、同地域にもいろいろあるのかもしれませんが、私は今回初めてこの箱堀構造を見ました。箱堀はもともと水堀に使用されるという事ですが、なんでこんな山の中にあるのか、よく解りません。
それに比べ、U曲輪、V曲輪は、比較的オーソドックス、摂津国の山城でもよく見られる構造をしていました。U曲輪とV曲輪の間は、大きな堀切で分断し、曲輪間の連携が取りにくく、V曲輪の南側は断崖絶壁の切岸となっております。
もし行かれるのならば、私も入り口を探すのに苦労しましたので、登城口をチェックしてみてください。
では、では。ブレイズマンさん、こんにちは。
福住井之市城をお奨めくださり、ありがとうございます。
奈良の城はまだまだこれからですので、ぜひとも訪問予定
の1つに入れさせてもらいます。
箱堀は塹壕や掘底道を使った通路を兼ねたプランだった
かもしれませんね。
それでは。
ブレイズマンさん、お久しぶりです。
> 期せずして管理人様から「当日の午前中に師匠や千田教授
> とお城に行くのですが、一緒にどうです?」とお声がかか
> り、厚かもしくも同行させていただきました。わーい!
>
>> な、なんですとー、私を差し置いて何を楽しそうなイベントをしているんですか。
>> そうゆう時は私も是非誘うもんですよ。
あ、すみません(汗)
たまたま話の流れでお声がかかったもので(大汗)
福住井之市城にはいずれ行きたいと思っています。薮が酷いひどいとかの情報を見て
いて臆していたのですが、何とかなりそうですかね。薮がひどそうで臆しているのは、
奈良県内でしたら澤城もですけど...
また、「甲陽園城」のお話を含め、ご報告を楽しみにしております。
では、失礼いたします。
帰路で県道62号線から国道311号線へ入る手前に「川瀬城址」という石碑が
見えたので急停車。-> www.mapion.co.jp/m/33.8562136111111_135.97915_8/
「京城へ行く時は視界に入らなかったなあ」とか思って見てみると、石碑の
上に赤い矢印が彫ってあって、県道を挟んだ小山がそれっぽいです。
家に帰ってから手元の本で調べてみましたが、同名のお城はなし。ネットで
検索したところ、唯一ヒットしたのがゆかえもん様の移転前のブログでした
(リンクあり)。石碑と小山の位置関係がわかりやすい画像が掲載されてい
ます。
別名があるのかなあ、気になります。
では、失礼いたします。http://blog.goo.ne.jp/shunshun02/e/15b5956823fa3d7483271675ed566d96
ポリタンクさん、こんにちは。
川瀬城のことはわかりませんでした。
別名で知られているのかと思いましたが、御浜町川瀬
でも手元の資料には見つかりませんでした。うーむ。
自治体に確認したほうがよさそうですね。
こういう誰にも知られていない城が案内にあるのは
嬉しいですが、全然見つからなくて現地で時間がかかって
しまいますね(笑)。
> 期せずして管理人様から「当日の午前中に師匠や千田教授
> とお城に行くのですが、一緒にどうです?」とお声がかか
> り、厚かもしくも同行させていただきました。わーい!
な、なんですとー、私を差し置いて何を楽しそうなイベントをしているんですか。
そうゆう時は私も是非誘うもんですよ。
まーそれはともかく、私も精力的に城めぐりをしております。
本日も、じつは福住井之市城に行ってきました。
この城結構変わっていまして、私の私見ですが、お城さんマークの縄張り図にありますように、
T曲輪 比較的新しく、かなり複雑な防御施設があります
U曲輪、V曲輪 古いタイプ、単純な構造
という感じがしております。特にT曲輪に関しては、雰囲気が近隣の福住中定城とも似ております。U曲輪、V曲輪は別の城と思えるほど、構造が違って見えました。
あっそーそー、この前の大内氏館以外にも城めぐりしており、その報告もまだですし、例の「甲陽園城」少しだけ進展がありました。
また、それも含めまして後日報告致します。
では、では。http://blogs.yahoo.co.jp/jyamasiro/25447529.html
ブレイズマンさん、ご無沙汰しております。
お城めぐりされてますねぇ。
ポリタンクさんとご一緒した時にもブレイズマンさん
のお話が出てたのですよ。
(ということで話題だけ登場したということで今回はご容赦を。汗)
福住井之市城はなかなか面白いお城のようですね。
藪が気になりますが、ぜひとも攻略したいお城です。
また別件のお話も楽しみにしております。
よろしくお願いいたします。
行程は次のとおりです。天気予報を見て急遽決めたため、調べに手間取り徹夜です...
赤木城 -> 京城 -> 鵜殿城 -> 新宮城
【赤木城】
今回のメインです。
地元の方が草刈りをされる日だった(リンクあり)ようで、4/11放送の「歴史秘話
ヒストリア」で当城が紹介されることを教えていただきました。
有名なお城なので下手な説明は省略しますが、一応北尾根の堀切も確認しつつ石垣を
堪能しました。(新宮城からの帰路でも再度寄りました。)
【京城】
今回のサブです。
日本城郭大系掲載の縄張図には東側(居館北側)に一条の石垣が載っていたので見て
みたかったのですが、薮が酷くて近づけず(泣)。南側の曲輪も見ようと道標がある
ところ(墓地に至る坂途中の西側)を無視して斜面を直上するも、曲輪の際の状態が
不安定で登りきれず、すったもんだの末に主郭東側に取りつきました...
主郭の中はこれまた薮で観察には適さず、取りあえず南側の堀切とその先を観察。
その後に堀切西側から斜面を降り、北に移動すると登り石垣が〜!ここで上下して
しばし観察。わかりにくいですが、一応画像のURL(接頭辞省略)を紹介しておきます。
-> p.twipple.jp/MrUFq
登り石垣の上には岩を立ちきった堀切があり、これまたお見事です。
帰りは当該堀切から続く本来の見学道と思しきところを通って道標まで戻りましたが、
これはこれで薮化によって辿りづらい状態でした。
【鵜殿城】
折角なので足を延ばしてみました。
最上部の土塁がよく残っています。詰城と思われる飯盛口城にも寄りたいところで
したが、時間&体力の都合上省略しました。
【新宮城】
折角なので足を延ばしてみました。(パート2)
石垣がよく残っていますが、赤木城で感じたワクワク感はなかったです。何故だろうと
考えてみましたが、一部が垂直に近い角度(小松城天守台チック)だったせいかもしれ
ません。南東面の石垣はなかなかいい感じですね。
台風被害のせいかと思いますが、出丸の西側あたりの斜面に土砂崩れの跡(青ビニール
にて覆われている)があります。この影響でしょうか、水の手へ至る道は立入禁止と
なっていました(泣)
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
赤木城まで行くのはなかなか大変だったでしょ。
でもあんな場所に石垣造りで気合入ったお城が造られていたのは驚きですよね。
京城は知りませんでしたが、新宮城もおまけ扱いなんですね(笑)
確か2011年5月に行ったときにはすでに水の手
へのルートは立ち入り禁止となっていましたよ。
台風の影響もどこかに出ているのかもしれませんが
あの時はほんとものすごかったですからね。
ニュースや新聞で見たことしかしりませんが・・・。
ところでひょっとしてこれらは日帰りだったのでしょうか。
なんとなくそんな気がしましたが・・
それでは。
春分の日に奈良大学「春のオープンキャンパス」のイベントとして、春風亭
昇太師匠による『落語会&お城談義の会』があったので行く予定にしていた
のですが、期せずして管理人様から「当日の午前中に師匠や千田教授とお城に
行くのですが、一緒にどうです?」とお声がかかり、厚かもしくも同行させて
いただきました。わーい!
予め管理人様と待ち合わせ、奈良大学ご一行様(師匠を含めて3名様)との集合
場所である奈良ホテルへ向かいましたが、時間に余裕があったので管理人様と
西方院山城へ。二重の空堀があって見応えがありました。その後、全員集合で
レッツらゴー。上狭川城へ行くとのことでしたが、その前に狭川東町公民館横の
十三重石塔を見学。日本城郭大系ではこのあたりを館跡ではないかと推定して
います。
上狭川城の縄張図は予め見てはいたのですが、現地で遺構を目の当たりにした
時は予想以上のいい感じに「すげー」と叫んでしまいました。土橋から本郭へ
至るあたりで特に話が盛り上がり、「あそこから狙われますねえ」とかいろいろ。
本郭の周りの土塁も特に西側はなかなか見事な残りっぷり。師匠もご満悦でした。
ただ、何よりも印象深かったのは、住宅展示場でお得な物件を紹介する販売員
並の城内説明をしていただいた千田教授のお姿でした(笑)
上狭川城の後に柳生方面も足を延ばしていただき、疱瘡地蔵と柳生陣屋を見学
しました。陣屋は東側斜面の傾斜っぷりが印象的。イベントの準備がある奈良
大学ご一行様とは柳生の後は別行動になり、時間的に間に合いそうな下狭川城へ。
下狭川城へは道程は中墓寺を目標にすることくらいしか調べていなかったため、
到着にちょっと手子摺りましたが、お寺の東側に駐車場(ちょっと泥濘み状)が
あったので、そこに車を停めました。その先にもお墓参り用の数台駐車可能な
場所がありましたが、道が狭いので小型車以外は進入しない方がいいです。
地元の方に方向が間違っていないことを確認し、前述狭い道を通り、お墓を右に
見ながら進みますと、いかにも城っぽい堀が見えましたので、管理人様の金魚の
糞になって城内へ。2人とも学食目当てになっていたため、急いで周囲の堀や
石碑を見学(笑)
#後からきちんと調べたところ、南東に下ると馬場跡に出るらしく、そこから
#さらに南東に進むと藤尾城にいけるっぽいです。
奈良大学に着いて目的(?)の学食ランチを食した後にイベント会場へ。落語と
お城談義を楽しみ、奈良での1日を謳歌。帰路では、管理人様が位置をお調べに
なった木津川口台場の跡にもご案内いただきました。遺構は残っていませんが、
橋の歩道から跡地を見下ろして妄想(笑)
取り留めのない文章になりましたが、1日の行程はこんな感じです。
管理人様、この場をお借りして改めてお礼申し上げます m(_ _)m
また、飛び入り参加の私を快く迎えていただいた関係各位にも、この場をお借り
してお礼申し上げます m(_ _)m
では、失礼いたします。ポリタンクさん、1日お付き合いくださいまして
ありがとうございました。
お一人で行かれるのもいいですが、だんだんと城仲間
と連れだっていく城攻めもいいもんでしょ?(^^
師匠が下狭川城に行けて羨ましいとおっしゃってましたよ。
また機会がありましたらよろしくお願いいたします。
「ズリ」ですが、鉱山から掘り出した「廃石」です。
業界用語でご迷惑をおかけしました。
山状に積み上げるとズリ山になります。やぶくぐりさん、こんばんは。
業界用語だったんですね。
ありがとうございます。
「廃石」をズリと言うんですか。
使ってみようとおもいます。
[2524]で報告した真庭市(旧落合町)河内地区の「高山城」「土器尾城」「逆巻城」の尾根筋周回コースは、延長3KMの巨大馬蹄型城塞群ではないかと妄想。
「高山城」延長1.5KM。
「土器尾城」〜「逆巻城」間1.0KM。
未訪の「高山城」南端の乗国からの林道終点から土井谷林道終点から南の乢の土橋まで約500m〜600m。
この間に城塞遺構があれば巨大馬蹄型城塞群の存在が証明されるのだが・・・・。
どなたかチャレンジされませんか。やぶくぐりさん、こんばんは。
面白いですね。
でも気がついたら、ささっとやぶくぐりさんが
行かれてしまってませんか?(笑)
いろんなものが目覚める春ももうすぐです。
ちょっと焦ってきました(あ、私だけかもしれません)
フキノトウを求めて真庭市(旧落合町)の城廻り。
真庭市下河内の県道にある郵便局脇に駐車。
おかやまGISに城とのみ記されている田楽城関連遺構に向かう。
中国道のボックスカルバートを潜り北東側から登り付く。
すぐに郭一段。
仮に「下河内城」としておこう。
登ると尾根先に腰曲輪の付いた郭。
先に進むと主郭。
頂部を削り残して郭が廻る。
西北に出郭。
見張場規模。
二つ目は「田楽城」。
麓から2本のアンテナが山頂に見える。
東側の谷筋の林道から切り開きを登ろうとしたが、材木切り出し中でアウト。
北側の牧場は立入禁止。
川筋道を登って久保谷集落へ。
田圃で作業中の方に登り道を聞くと林道入口まで案内していただく。
1/25000地形図の久保谷のヘアピンカーブの川向こうの谷になるようだ。
「この谷筋の林道の奥で木を出しているから、作業道を直登したら」との仰せ。
お礼を言って林道に入る。
キャタピラの付いた作業車が5〜6台。
ジュルジュルの泥道。
尾根の20m下まで作業道がある。
畳み二枚程度の郭。
その上は細尾根に白口山からの林道が来ている。
どうやら土橋だったようだ。
道はピークを巻いてアンテナの平坦地に出る。
林道に出た所に戻って尾根を平坦地方向に登ってみると切岸から先ほどの平坦地。
下りは熊よけ鈴と笛の合奏。
三つめ〜五つ目は、「高山城」「土器尾城」「逆巻城」の周回コース。
5〜6時間はかかりそうとGPSのスイッチを入れる。
お寺の奥を左折して約200m。中国道を潜って谷筋に向かう林道わきに駐車。
小川を渡って「高山城」に向けて直登開始。
尾根筋に小郭。
このまま尾根筋の半分消えかかった山道を進む。
平坦地がある。
1/25000地形図にある道は尾根に出ているようだ。
このまま尾根筋を進むと郭が点々。
1/25000地形図の林道出会いに出たが廃道になっている。
そのまま尾根筋を外さないように進むと広い郭。
土橋、山道、郭群。
前城のようだ。
尾根を進むと中城のような郭群。
更に進むと郭群、山道、郭、土橋、郭群、土橋。
どうやら442mピークが主郭群。
下り道になって土橋、郭、土橋と進むと乗国からの林道終点に飛び出した。
ここまで城域は気持1.5kmはあったようだ。
ここから西に下る山道に入ると道の下の土留が石積みになっている。
昔の乗国から土井谷に出る生活道路跡らしい。
ずんずん降ると道下に大きな岩。
更に降ると土井谷林道竣工記念碑の30m下に出た。
ここから土井谷林道を登って(フキノトウ大量にあり)終点へ。
林道終点から一旦南に向かう乢に入る。
土橋の途中に出て右折(西へ)。
道の両側にテープ連続。
二の郭群に登る。
郭、土橋と進み中の谷山三角点(450.9m)。
「土器尾城」だ。
次いで西の主郭群。
GPSでチェックして逆巻城に向かうテープの山道。
降っていくと土橋、郭群、堀切が連続。
出郭はモルタル吹付けの崖の上なので今回はパス。
そのまま右の谷に出るように進む。
水道施設工事現場に降り立つ。
駐車位置まで戻る道路の遠いこと。
やぶくぐりさん、こんにちは。
今回はかなり大変なコースのようですね。
毎回毎回頭が下がります。
今回は田圃で作業をされている方が実にいいアドバイス
をしてくださっていますね。
驚きです。
こないだはたまたま道を聞いた方が地主さんに直接
交渉して城域への立ち入りを許可してもらったという
非常に面白い経験もしました。
やはり常に挨拶、声かけは大事ですね。
ということで、他の城の情報はいつか近くを訪れた
際のためにφ(。。)
先日夕方から体が空いたので、信貴山城北麓の先から石垣に行くことが
できるか見に行ってきました。
以前石垣を見た時([2475] 信貴山城北麓)に尾根先を途中まで降りたの
ですが、水が流れる音とともに湿地帯が目に飛び込んできたため無理だと
思ったのですが、「甚の山城日記」様の記事(リンクあり)掲載縄張図に
橋が架かっているのを思い出し、それを確認しようと思った次第です。
で、結論ですが、橋はありました。水路を跨ぐ格好の小さな橋です。
場所のGPS画面は次のとおり(接頭辞省略)です。
p.twipple.jp/r1fjI
突然行ったので足元が山城モードではなかった&日が暮れてきたので、
橋を渡って奥まで行くのはやめましたが、こちらから城域に入れるので
あれば、石垣見学に特化すれば近道になるかもしれません。
ただ、周辺に駐車スペースはありませんし、近づくにしても道が細いため、
付近まで車で行くという判断をするのが難しいです。というか、車で近づく
のはお奨めしません。これ以前にも一度同じ場所付近まで夜行ったことが
ありますが、転回する場所すらなく、方向転換できる場所までバックで戻り
ました(泣)
#同行してくれた車好きの友人、有り難う!
では、失礼いたします。http://blogs.yahoo.co.jp/jyamasiro/22758832.html
ポリタンクさん、こんにちは。
細かい調査報告感謝です。
(というかこのお話、直接お聞きしましたね)
高安城の探索もまた考えましょう。
家から歩いていつもの「神楽尾城」。
今日は登城路一宮コースを選択。
神楽尾公園駐車場を起点にGPS。
原爆慰霊碑横からハイキングコース。
杖の置いてある登城口から城域になる。
出郭、長い土橋を登って二の丸を切る堀底道。
そのまま泥田横の土橋を渡って縄張図の看板。
今日は主郭群に登らず、主郭群の西側の巻道に入る。
水場、竪堀群を通過して主郭群の北側の尾根筋。
ここから北へ土橋、郭、土塁、竪堀群、土橋、郭、土橋、郭と連続。
土橋と左右に現れるピークはすべて郭。
いよいよ縄張図の北の端の郭に出て、西に313.9mピークとそこまでのカヤの土橋を望む。
ここで城域は終わりかと思ったが、さにあらず。
ここから北東に本光禅寺方向に進む尾根筋に土橋、竪堀、削平地が次々に現れる。
左右の竪掘群でくねくねと曲がった土橋も何か所かある。
本光禅寺裏山に続く分岐に立入禁止の看板。
本光禅寺も登山者に困惑しているようだ。
ここは直進して本光禅寺西の谷筋を下る。
ここまでで城域は2kmを超えている。
すぐに池への作業道。
右に折れて東にむかうと一宮郵便局脇に飛び出た。やぶくぐりさん、こんにちは。
何度目(何十回?)かの神楽尾城登城ですね。
しかし毎回新しい情報を書いてくださっているので
神楽尾城の奥の深さを感じずにはおられません。
また春の収穫物もあったのでしょうか(^^
実はやぶくぐりさんの旬の食べ物の話題も気になってます。
管理人様今晩は。
3月17日(土)13時30分より
綾部史談会では、「将監城と大槻氏」を考える会を行う様です。
一般(私もですが)も参加可能とのこと。
場所は、以下のいずれかです何れも同じ敷地内にあります。
綾部市天文台パオ
綾部市資料館
中丹中丹文化会館
すみません不正確で。
もし気が進めばお越しください。霄漢さん、こんにちは。
ああ・・これまた遅い反応ですみません。
当日はどのような内容だったのでしょうか。
将監城も大槻氏についてもほとんど聞いたことない
お話ですのでとっても貴重なものだなとは思っていたのですが。
最近はなかなかタイトなスケジュールでして、残念なことが多いです。
また何かありましたら教えてくださいませ。
神戸西区の福中城の本丸自動車横の木が伐られてましたね!
私は中央区に引っ越したので現状は分からないですが
あそこが本丸跡だったのでしょうか?
木を伐っては駄目な理由がありましたよね?
あそこから家が近かったので気になってました!
失礼しますklさん、こんにちは。
福中城のあの木が伐採されたんですか!
それはそれは・・。
以前知り合いの工事業者さんから聞いた話では
祟りがあると恐れられている様子でした。
地権者の方にとってジャマになった存在だったのかも
しれませんが、何もなかったらいいんですが(怖
また見に行ってみますね。
ありがとうございます。
klです。覚えていますか?
どこに行ったのか忘れましたが、あれから全国の色んな城にいきました!
今年にテレビ大阪の番組で本岡さんを観てビックリ!
竹田城などに行ってて楽しく観させて頂きました!
また遊びにきます!klさん。
ご無沙汰しております!
かなりあちこち行かれていることでしょうね。
また何か情報がありましたら教えてくださいませ。
あ、極旅2をご覧くださったんですね(^^;
ありがとうございます。
ご無沙汰です、次の週末
土曜日は中井均さんが講師で講演会
日曜日も同一講師で
現地説明会です。太閤ケ平に臨時トイレ設置とのこと
最初からは人数制限ありますが、太閤ケ平だけなら11時現地集合とのこと。
拙も中止にならなければ、日曜日は11時に太閤ケ平に登ろうと思っています。希望の方がおられましたら、下りながら(鳥取市歴史博物館)まで、包囲網の案内します。http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1330479878441/index.html
幸田屋さん、
あぁああ!!
ほんとにすみません。
完全に出遅れました。
でもこのイベントはチェック済でして、すでに踏査して
いたあたりなので改めて行くのはいいかと思ってました。
でも幸田屋さんがいらっしゃるならいろいろと教えて
いただきたかったので貴重な機会を逃すことになってしまいました・・。
鳥取城関連の陣城はまだまだ行けてませんので
今後もしまたチャンスがありましたら、ぜひとも
お願いいたします。
「秋小屋城」の記事で、左折は右折の間違いでした。
訂正します。
ついでに、「秋小屋城」の延長は100m程度の小規模な城です。了解しました。
ご丁寧にありがとうございます。
寝坊して時間がなくなったので、普段のドライブコース沿いを徘徊しました。
行程は次のとおりです。
余野本城(余野城の一瞥を含む) -> 杉原城 -> 止々呂美城(通過)
-> 高安城(下見)
時間があったら犬甘野や野間あたりもセットにできたんですけどね・・・
余野本城は横堀と竪堀の組み合わせが素敵で、東中央部と南東部が見応えがあり
ます。西側には畝状竪堀群もあります(リンクあり)。
なお、道路を挟んだ廃校の位置に余野城がありますが、遺構はないらしいので
道路越しに眺めるだけに留めました。
杉原城は現地説明板画像をご紹介しておきます。
-> p.twipple.jp/A8yKs(接頭辞省略。アップロード設定の加減で荒いです。)
新名神建設に伴う埋蔵文化財調査をしているらしい止々呂美城はこんな感じです。
-> p.twipple.jp/5wuE1(接頭辞省略)
調査後に破壊するのか否かは現時点では把握しておりません。
夕食後、車好きの悪友に電話して「マイナーな道を走るけど、行く?」と誘って
高安城へ。山頂付近まで車で移動し、懐中電灯を頼りに山頂へ。暗いのでお城と
しての観察はできず、枝が邪魔で夜景は今一つでした。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
一瞥とか通過、下見って・・(笑)。
しかし高安城については松永の城と、古代山城の外郭線
めぐりはやろうと思っております。
もしまたご都合がつくようでしたらご一緒してください。
外郭線めぐりだけでもかなり時間使いそうです。
畑和良氏のホームページから「蓮華寺城」の鳥瞰図、案内まっぷと1/25000地形図をA4プリント。
最初に案内まっぷの上の方に書かれている「秋小屋城」訪問。
JR弓削駅から西に向かうと七面山御瀧への標識。
舗装路なりに谷を進んで右折、七面山御瀧の無住の寺の舗装駐車場。
入口のチェーンをまたいで境内へ。
建物脇から左手の石仏小屋。
小屋の左手に山腹へ向かう踏み跡。
すぐに刈り払われた山道になる。
倒木をまたいで緩い坂道を道なりに進むと下弓削住民会の札が点々。
道が左折して切岸。
トラバース道の下に郭。
尾根先から段々を登ると山頂部の郭。
ヤブが濃いので尾根の反対側には出ず引き返す。
切岸は低く、村の逃げ込み城規模か。
二つ目は「蓮華寺城」。
記事のとおり広い駐車場。
民家のおばあさんに挨拶。
谷筋の踏み跡を登る。少しヤブ化している場所あり。
谷頭は擂鉢状の切岸になっている。
尾根筋は、高低差の少ない平坦な状態。
1/25000地形図の304m三角点から鳥瞰図のとおり西へ進むと切岸と堀切2つ、尾根先の郭。
三角点から北西の細尾根に向かうと切岸、郭、堀切、郭と尾根先の郭(ここら辺りは案内記事に無し)。
下に砕石工場。
小松城があった小丸山のアンテナが見える。
三角点から東に切岸二段下がって、平坦地、切岸二段上がって郭。
郭の先に低土塁が廻っている。
帯郭の脇の尾根に櫓台と間違えた坑口とズリ。
この先は幅広の尾根が続いているようだ。
やぶくぐりさん、こんにちは。
畑さんのページは綺麗に情報がまとめられていて
観やすいですよね。
今回も簡潔な攻城記ありがとうございます。
やぶくぐりさんの文章を読んでいるとだんだんと
その景色が出てくるようになりました。
うーん・・ズリ・・不勉強です(^^;
今月の山城会は案内係を仰せつかり、オジジ4人で金川方面出撃。
9:00金川市街地のホームセンター集結。
徳倉城の登城口を脇目に見ながら、岡山空港から西端から県道岡山賀陽線を北上。
最初に上高田のトンネル真上の忍山合戦で有名な「備中・忍山城(信夫山城)」を目指す。
トンネルを抜けて、道の北側の路側に駐車。
甚の山城日記から鳥瞰図の拡大コピー持参。
作業道を詰めて比高約40mの山腹直登。
図にない小尾根に郭と堀切・竪掘。
更に登ると西の丸(標高298m)らしき祠のある郭に到達。
ここから本丸、二の丸へと郭、堀切、土塁を見ながら約400m進む。
二の丸先の小郭。
下を覘くと岩場の下に急勾配の切岸。
西の丸から先の尾根筋は図には書かれていないが約150mに渡って切岸、堀切、郭、堀切、郭、堀切、郭と続く。
1/25000地形図にある寺からの道跡に到達。
寺に向かう道横にも郭らしき段々。
由緒ありそうな寺の駐車場から車に戻る。
二つ目は忍山城から谷を隔てた「勝尾城(信倉城)」。
勝尾峠の路側帯に駐車。
観光農園の小看板から良く刈り払われた作業道を登る。
山頂(標高322m)近くの尾根は自然地形のようだか、目をこらすと溜井、郭、烽火穴がある。
西に進むと戦乱の空間第3号の縄張図のとおりの二重横堀と目の字型の堀セット。
三段の主郭に入ると石碑。
障壁土塁、竪掘。
主郭南側の約30m下方には郭らしき平坦地が見える。
忍山城は眼下に広がる。
三つめは勝尾峠から県道を北へ、鎌倉山砦の下を進んで、紙工(シトリ)地区にある「天満所在城」。
天満集落の入り口に駐車。
集落を抜けて天満神社を目指す。
ここの山道は地元の方々の手入れがなされて快適。
道脇に炭焼き窯跡点々。
尾根鞍部の神社から右に堀切、テレビ受信アンテナの郭。
神社から左に切岸、イワクラの郭、二重堀切。
県道を隔てて南側の山に金高古城、前回見付けた金高新城がほぼ同じ標高で見える。
四つ目は同じ紙工地区の宮脇にある「城の段」。
進学校で有名な朝日中学校先から川を渡りお宮に駐車。
御津の山城からコピーした「城の段」の案内図、縄張図のとおりの二郭と搦め手に土塁、虎口、堀切セットの小城。
五つ目は下って城の段の西麓にある屋敷跡。
ぐるっと新池の東側の郭を廻る。
新池の西端までで郭もお終いと思っていたが、新池の奥に「伐らずの森」と書かれた石碑発見。
石碑から西の谷筋に段々の切岸が見える。
砂防堰堤工事道を進むと、けっこう広い方形の削平壇が四段。
最奥には堀切が無い。
両側は谷川を利用した堀になっている。
館城の造りだ。
どうやら、こちらの方が本城で{城の段}は詰めの城のようだ。
仮に「河原館城」としておこう。
六つ目は同じ紙工の久保にある「久保館砦」。
ここも御津の山城から資料コピー。
倉庫脇に駐車。
舗装道を東に歩いて八幡神社。
神社から尾根先方向に刈り払い道を進むと堀切、土塁、郭が三段。
ここまでで本日の山城会は散会。
帰りに時間が余ったので七つ目に旧建部町土師万の「土師万城」を初めて訪ねる。
国道53号線の鹿瀬から旭川を渡り、竹枝小学校を経て土師万地区に入る。
城下の民家付近に駐車。
民家の方に聞くと妙見宮のある妙見山とのこと。
尾根先の墓地から猪避けの柵の扉を開けて進むと直ぐに笹ヤブ。
剪定鋏で左に刈り払い道を造る。
赤テープを点々と設置。
ヤブの中を尾根を外さないように進む。
小郭。
ここから左に山腹をトラバース。
猪の糞が点々。
大分登った所から直登。
剪定鋏で枝を切りながら赤テープを付けて道を失わないように進む。
突然瓦散乱。
妙見宮の郭。
建物はすでに失われている。
台座跡の石積み。
赤テープの残り1本。
ここから尾根筋を進むと、堀切、郭、堀切、郭、堀切、小郭、郭と続き広い主郭をC字型に囲む帯曲輪。
主郭に最後の赤テープ設置。
更に進むと大切岸、途中に小郭、右に竪掘。
大堀切〜竪掘。
右に竪掘。
ここから伐採木点々。
ほぼ自然地形の起伏の少ない幅広の尾根筋を約100m。
郭と小切岸。
約150m進むと浅い堀切。
ここで引き返して妙見宮の郭。
左手に参道らしき山道。
少し辿るも消滅。
赤テープを頼りに駐車位置に戻る。
今日は備前2城を新たに攻略。
備前訪城200城達成と満足。
やぶくぐりさん、こんにちは。
忍山合戦の舞台ですね!
これまた行きたいところを書いてくださり、悔しい
といいますか、いやぁ羨ましいです。
駐車場の確保ができるのはいいですね。
それにしてもものすごく濃い1日ですね。
備前200城も長い道のりだったと思います。
お疲れさまでした。
私はまだ岡山県約100城ですので頑張らないと。
「左手に向かうと堀切道っぽいところ」とあるのは「左手に向かうと空堀道っぽい
ところ」の誤りです m(_ _)m
法貴山城のGPSログ中の所要時間は、職場からの緊急連絡を尾根筋あたりで受けて
メールや電話で対応した時間を含んでいます(苦笑)
では、失礼いたします。
連投稿ご容赦を m(_ _)m
管理人様が私の提案に乗ってくださり、ご一緒できる機会に恵まれました。
行程としては次のとおりです。
木津城 -> 鹿背山城 -> 信貴山城 -> 多聞山城移築門 -> (おまけ)毛馬城
管理人様から「木津市役所に鹿背山城の模型があるらしい」という情報をご提供
いただいたので市役所に寄りましたが、展示場所が確定申告の待合場になった
ようで移動しているみたいでした。
休日にもかかわらず、突然の質問にも快くご対応いただいた市役所職員さんや
受付の方に、この場をお借りしてお礼申し上げます m(_ _)m
お城の詳細はいずれ管理人様が記事にされると思いますので、私が下手に書く
のはやめておきます(汗)
今回個人的に印象に残ったことをちょっと書きます。
全般的な感想としては、状況を勘案した効率の良い見学をされていました。本来
なら、訪城経験のある私が城内をご案内するところなのですが、私が管理人様の
後に続いて行くという状態に...(汗)
小雨の中で傘をさしながらの訪城となったのですが、鹿背山城で何の躊躇もなく
斜面を登り降りされる管理人様のお姿を拝見し、「足元が悪いかもなあ」という
私の心配は杞憂であることがわかりました(笑)
信貴山城は雌嶽も含めて遺構の主要部を踏破しています。石垣がある尾根筋から
松方屋敷がある尾根筋まで、雨の中で谷筋を横断して移動するという選択をされ、
「すげー」と感心しながら金魚の糞になってついていきました。残念なのが、
私が信貴山城訪城3回目であったために油断し、今回のGPSログをとっていなかった
ことです(泣)
移動する車中でも管理人様からためになる情報をいろいろ伺うことができ、私には
大変実りある経験となりました。この場をお借りして管理人様にお礼申し上げます。
今回の私の案内はグダグダで申し訳なかったですが、機会があればまた同行させて
ください m(_ _)m > 管理人様
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
なかなか行くチャンスがなかった鹿背山城や信貴山城
をご案内くださり、ありがとうございました。
信貴山では霧の中でしたのが残念でしたね。
また攻城記を書きますので、何か間違いがありましたら
ご指摘ください。
ありがとうございました。
「有給かなり残ってるから、休めそうな時に取っときやー」という職場のお言葉に
甘え、昼から休んで亀岡市にある法貴山城へ行ってきました。
明智の戻り岩標識付近に駐車。道路面のアスファルトと駐車場所の段差がちょっと
大きく、愛車の顎が当たる寸前。顎を気にしたせいでアクセルをあまり強く踏めず、
駐車時の切り返しで乗り越えることが難しくて難儀しましました。
GPSログをお城さんマークにリンクしておきます。
入山場所の判断を誤った行程の説明は省略し、無難と思われる行程の説明をば。
ログ中に「良さげな入山場所」とあるフェンスの右側の隙間から入山します。
場所の画像はつぎのリンク(接頭辞省略)です。
p.twipple.jp/74ikm
排水パイプの先に排水溝が続いていますので、それに沿って歩きます。そのうち
排水溝が左に曲がりますが、そこからは排水溝を無視して曲がる前の進行方向に
気持ち左気味に登っていきます。しばらくすると右手に大きなU時上の谷筋が見え
ますが、そちらには行かず、左手に向かうと堀切道っぽいところ(麓付近では
流水道になっている筋の延長上)に出ますので、そこをてくてく歩きます。
左手に小川が見えるあたりで道が分岐しますが、私は小川沿いを選択。ちょっと
進むと薮がありますが、先が見通せるのでそのまま直進しました。薮を抜けた先を
ちょっと登ると水が流れる分があるのでそれに沿って進んで植林地へ向かいます。
(途中に雪解け水が溜まったぬかるみがあります。)
植林地をひたすら登りますと開けた部分に出ます。そこで右に進路を変えますと
土橋っぽい道がありますので、そこから城域へ。
今回の訪城にあたっては、次のブログ(接頭辞省略)を参考にいたしました。
「甚の山城日記」様 -> blogs.yahoo.co.jp/jyamasiro/16636214.html
「山城賛歌」様 -> ktaku.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_9c9c.html
城域へは、最初の竪堀手前まで進んでから斜面を登ると楽です。
詳細は前述ブログに譲ります m(_ _)m
私は二重横堀と竪堀が交わる先の曲輪まで行って引き返しましたが、横堀&竪堀
フェチな方には是非行っていただきたいお城です。ただし、軽装厳禁です。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
横堀&竪掘フェチな本岡です(笑)
大変分かりやすい登城口の情報までつけていただき
ありがとうございました。
それに駐車時の苦労もよく伝わりました(^^
午後に有休をとってふらりと行かれたところにしては
手ごたえある山城のようですねぇ。
最近は平日がいい天気で週末は雨というパターンが多いので天気をみながら休みをとるというのはいいですねぇ。
お疲れ様でした。
やぶくぐりさま。
ありがとうございました。
山形さんの図面の等高線が250m付近になっているのに引きずられて、高塚古墳の有る場所と勘違いしていたみたいです。
工場の焼け跡からすれば、真東の尾根上が嵯峨山南城の位置みたいですね。
近いうちにもう一度見に行きたいと思いますが、
州崎城は、檜林のため背後の堀切、縄張り図の横堀等よく見れましたが、
あの薮の状態では、遺構の確認は難しそうですね。
今回のように山形さんの図面では、位置の誤りが多いようですね。
以前に連絡しました「梶間山城(仙々の城)」も位置が間違っており、ようやく位置がわかりました。
雪がなくなれば、再度挑戦を期しています。
霄漢様、多分「嵯峨山南城」を通過されたものと思います。
鰻田池南の墓地から東北東に林道を通り、焼けた工場跡から東に直登されたとのことですので、点々と焼け跡のある山中を歩かれたことと思います。
1/25000の地形図だと、焼けた工場跡から南の谷に作業道が登って左折すると標高200mラインの乢(タワ)がありますが、ここが城域の南端になります。
高低差1m程度の切岸になっています。ここから北に自然地形になってヤブがひどく撤退。
一旦、焼けた工場跡まで戻り、工場東の焼けた木が点々とある尾根に取り付き、直登すると標高220mの主郭らしき平坦地。
主郭の西側の端の焼け跡の点在する斜面を北上すると縄張図の三重堀切の竪掘部通過、畆状竪掘風に見える。
別ルートで主郭部から郭部を北上すると三重堀切が有るのが無いのか判別困難な状態です。
いずれにしても、土工量はあまり多くは無く縄張図程には立派には見えない状態です。
そのまま北上すると嵯峨山の288.8mの三角点に至る倒木点在のダラダラ尾根。。
標高200mの乢から南の尾根に取り付いて南下したが南側の258.9mピークまで遺構は見当たらなかったです。やぶくぐりさん、こんにちは。
ありがとうございました。
きっと私もその情報はいつか使わせていただくと思います。
先にお礼を申し上げておきます。 m(_ _)m
管理人様>
> 詳しい日程はTwitterのDMででもやり取りいたしましょう。
> よろしくお願いいたします。
了解しました。
後ほど取り急ぎのご挨拶をDMでいたします。
では、失礼いたします。
管理人様、
掲示板お借りします。
申し訳ありません。
やぶくぐりさん、教えてください。
今日、嵯峨山南城に行ってきました。
山形さんの縄張り図と、国土地理院の二万五千分の一をプリントアウトして、やぶくぐりさんが依然書いておられたことを、
思い出しながら、火事跡の工場にたどり着き「左側の作業道路」がわからず、
とにかく無理やりに東に向かって尾根をあがり240mのピークの平坦地を北に向かいマウンドあるところたどり着く。
結果、私自身は縄張り図の横堀(州前城と同じ)、三重堀切など確認できませんでした。
家に帰りついて調べると(岡山GISで)マウンドは高塚古墳とのこと。
どうも位置を間違えたような気がします。
地形図の258.9mの三角点のあるピークのような気もします。
如何でしょう、よろしくお願いします。
フキノトウ採取のついでに美作国・岩屋城方面出撃。
国道から北に入り「妙福寺の上砦」東側の「岩屋城」駐車場方向に向かう。
清水屋敷跡付近に駐車。
少し戻って西側の民家脇の作業道を辿り「妙福寺の上砦」北東側の谷を進む。
「妙福寺の上砦」の竪掘が2本。
程なく砦北側の堀切。
ここから北に尾根筋に入ると郭、土橋で「妙福寺上の砦」が終わる。
少し急登。
道の左右に立ち入り禁止のテープ。
長郭風に削平された小ピーク、土橋、郭。
少し下って土橋。
急登になるとハの字の竪掘。
更に登ると見晴らしの良い作業道に出会う。
どうやら「楽万の上砦」と「妙福寺の上砦」の間の農道から左に入り、右折して北上した作業道の続きらしい。
作業道の上部から尾根筋を「岩屋城椿ケ峪砦」方向に更に200m程進むも、お目当ての縄張図に書かれた三つめの土橋は見つからず。
もう、ほんの少しで砦だが、ここでUターン。
昼食に間に合うよう転がるように山道を下る。
やぶくぐりさん、こんにちは。
私もやぶくぐりさんの影響を受けてフキノトウ採りを
してみたくなったのですが、もう遅いかもしれませんね。
岩屋城の付城ですか。いいですねぇ
妙福寺の上砦はものすごい藪こぎをしたのですが
やはり今も変わらないのでしょうか。
一方それとは真逆な楽万の上砦には感動したものです。
あぁ、ここの付城群をコンプリートできるのはいつの日か。
またお出かけになられましたら情報を教えてください。
ありがとうございました。
管理人様>
> 鹿背山城まで徒歩で行くのがちょっとな・・とか
ちょこっとネットで検索しましたが、レンタサイクルはJR加茂駅から西へ1kmほどの
ところにある予約制の店くらいしかないですね・・・
前回諦めた鹿背山城再訪はそのうち実行したいので、日程調整可能で且つ高槻あたり
まで電車で来ていただけるなら車出しますよ。まじで。ただし、私と愛車に関して、
次の項目に我慢していただく必要がありますけど・・・
・鈍足&体力不足
・巷で「荒い」と評判の運転
・車内の狭さ(愛車が小さいもので・・・)
・車内の煙草臭(非喫煙同乗者がいる時は吸いませんが、日頃の蓄積が・・・)
管理人様の移動時間そのものはオール電車の方が短いでしょうから、そのあたりも
考慮されて、気が向いたらお声をかけてくださいませ。
#JR木津駅付近で待ち合わせて、現地で私が愛車にて移動手段を提供するという手も
#あります。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんばんは。
大変ありがたいお申し出に感謝いたします。
助かります。
また道すがらいろいろお話させていただけるのも
嬉しいです。
詳しい日程はTwitterのDMででもやり取りいたしましょう。
よろしくお願いいたします。
田原城 -> 木津城 -> 北田原城
最初と最後は近所なのに連続して訪城しなかったのは、帰路での渋滞回避のため
です。
◎田原城
月泉寺さんの駐車場を利用させていただきました。
井戸郭を三方から囲む縄張なので、城域に入った時点で脳内で瞬殺されました。
管理人様Webサイト内記事でもご指摘のある主郭に至る堀切道でもまた同じです。
二の郭から連続する郭を突き進んで西側の堀切道に合流しましたが、降りる際に
木の根っこか何かに足を取られて堀切側面に激突しそうになりました。
井戸郭の真西最外周の曲輪には石像がありました。いわれはわかりません(汗)
城域そばまで開発が進んでいますが、いい感じで遺構が残っていますね。この
まま維持していただきたいと願いました。
◎木津城
現状確認のための再訪です。当初は予定に入れていませんでしたが、車でなら
田原城からさほど離れていない距離なので、ついでに行きました。鹿背山城も
再訪しようかと思いましたが、未訪の北田原城を優先して諦めました(泣)
駐車場所へ向かう踏切待ちで目に飛び込んできた光景(リンクあり)に少々
唖然。前より削られてるよ〜(泣)
今回も東山墓地の駐車場(かな?向陽台集会所東側の駐車場)を利用させて
いただき、開発で削られた斜面を下って登って城域へ。郭の東側を除いて闊歩
しましたが、西側にある土橋の先の尾根筋が消滅しています。その下も更地
状態・・・ -> p.twipple.jp/PaL1n(接頭辞省略)
南側同様の斜面成形だったので、これ以上は削られないとは思います。ただ、
霄漢さんの情報(No.2332)「山頂部は緑地帯として残すが、空堀は無くなる
とのこと」を思い出してしょんぼり。
◎北田原城
駐車場所は管理人様Webサイト内記事で記載のある墓地へ至る車道の終点に駐車。
お墓参り用若しくは関電整備用かは不明ですが、数台駐車可能です。
縄張図は主に笑路城(No.2133)と嵐山城(No.2257)の際にもお世話になった
山城甚伍様ブログを参考にしました。
yama46.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-6a05.html(接頭辞省略)
概ね山城甚伍様と同じルートを辿ったのですが、次の点が異なります。
・南西隅まで行った後に土橋まで戻って帯曲輪経由で櫓台に行った。
・櫓台から斜面を直上して最高所に戻った。
・管理人様を参考に最高所北の堀切を越えて尾根筋から駐車場所に戻った。
GPSログとしてはこんな感じです -> p.twipple.jp/1woML(接頭辞省略)
道程の半分が関電関係経路だったせいか、関西電気保安協会のCMメロディーが
頭の中でヘビロテしました(笑)
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
北田原城を攻められていたのはTwitterでちらりと見た気がしておりました。
(あちらはTL全部に目を通すのは無理ですね。)
田原城もちょっと気になっていたのですが、とりあえず
間違ったことは書いてなさそうなようですので後回しに
することにします(^^;
それにしてもとうとう木津城が・・・。
以前に鹿背山城とセットでいく予定をしていたのを
延期としてしまったのが悔やまれます。
ありがとうございます。
是非とも行ってこないといけません。
鹿背山城まで徒歩で行くのがちょっとな・・とか
思ってしまう軟弱モノになってしまってましたが、
反省します。
昼食後、家から4時間コースで山城ハイキング(全て再訪)。
最初は「美和山城」。
美和山古墳群の前方後円墳で公園になっている。
トイレ、駐車場、東屋完備。
刈り払われた公園内を進み古墳に取り付くと織豊系の低土塁囲み。
北に降りると郭跡。
小さな砦規模だが形状が面白い。
おばあさんが園内の掃除をしている。
二つ目は、西北方向の「美和山城」の詰めの城ともされる戸島の「下田邑局笠城」。
戸島へ中国道のガードを潜り戸島神社の石段を登る(神社南側の舗装道を入って戸島神社に駐車可)。
戸島神社の奥から舗装道に出て北東へ。
すぐに道は細くなり車は通れない。
堆肥小屋脇から谷筋。
分岐に2020年の森への折れた看板。
2020年の森経由だときれいに刈り払われた山道だが、今回はそのまま笹の茂った尾根道を進む。
道なりに進むと郭四段で愛宕大権現の出丸。
南東へ尾根道を進むと土橋、郭。
更に進んで主郭群と2020年の森の小屋からの道に合流。
左手に郭群のヤブを見ながら武者走り。
竪堀、横堀、土橋、その先は2020年の森植林地。
植樹記念の標柱が点々。
帰りは2020年の森の小屋経由の刈り払い道を降って土橋。
三つめは津山市中島の「嵯峨山北城」。
嵯峨山城登城口には駐車場。
墓地脇から山道に入り五差路を山頂方向へ右折。
道筋に俳句札が付けられている。
女性ハイカーと出会う。
ここも城自体は公園で刈り払われている。
東屋でコーヒータイム。
碑や見取り図看板のある主郭。
ここも織豊系の低土塁囲み、横堀が見事。
一旦、城域下まで降りて主峰との間の鞍部まで刈り払い道を進むと城側に竪掘群。
さらに鞍部に土橋。
ここから南側の主峰への道は笹が繁茂。
ヤブこぎはやめることとする。
多分、先には竪掘群と、その上の遺構の無い稜線部。
この嵯峨山城塞群は主峰部に城郭遺構が無く、北に嵯峨山北城、西に州前城(ここも織豊系)、南に嵯峨山南城を配し、東に帯曲輪を置いている。
毛利との最前線から少し離れているので宇喜多の兵を集める駐屯地か兵站基地に利用されたかなどと妄想。
フキノトウは後10日程かと雪花が散ってきた山道を降る。
やぶくぐりさん、こんにちは。
久々に私が行ったことのあるお城が出てきてほっとしています。でも最初の城だけでした。
大変参考になりましたので、近くを訪れた際は使わせてもらいます。
そういえば先週は備前の城を久々に攻城しました。
藪藪を2つも攻略することになるとは意外でしたが
いい収穫でした。
また別途アップして報告させてもらいます。
ありがとうございました。
自分のイメージを問われるのは少々困惑します。憧れるイメージで「知略と現場力」を兼ね備えた真田幸村を挙げてみました。今の日本に必要な人材と感じられます。よろしくお願いします。よろしくお願いします。さんぽにん うろちょろさんこんにちは。
書き込みありがとうございます。
管理人の本岡と申します。
お城は歴史の単なる1パーツだという方もいらっしゃいましたし、
武将好き、合戦好きという方がお城にも興味を持たれることもあります。
お城に興味を持たれる方が少しでも多くなればいいなと思っています。
たしかに今の日本に幸村がいたら活躍してくれそうなワクワクがありますね。
今後ともよろしくお願いいたします。
管理人様今日は。
最新情報です。
三重県名張市の柏原城(滝野十郎城)
天正伊賀乱の最終激戦地です。
郭の内部が倒木などにより薮化しており内部の観察も困難な
状態でしたが、直近に伐採が行われ非常に見やすくなっています。霄漢さん、こんにちは。
柏原城(滝野十郎城)は未踏でしたので、Webで検索してみました。
なるほど確かに”藪”というワードが必ず入っているお城ですね。
城跡として整備されようとしているのでしょうか。
貴重な情報ありがとうございます。
私はなかなかいけない場所ですが、きっと喜んで
ご覧になられている方がいらっしゃるはずです。
去年の九月に岐阜県の小倉山城の話をしたものです。
<長のご無沙汰の理由>
友人と武田信玄小田原包囲戦行軍路ツアーをしていた途中、
神奈川県の三増峠合戦場跡で後方不注意の車にぶち当てられ
あばら骨・左大腿骨を負傷し戦線離脱していたため。
それと復帰後、すぐに友人の郷土史研究に付き合い奈良とか
平泉やらに出かけていたため。
申し訳ないです。いずれ、めぐった城の思い出など書いていこうと思います。トモさん、ご無沙汰しております。
本岡です。
小倉山城をお奨めくださっていたことは覚えておりますよ。
それにしても事故で怪我を負われていたのですか。
今は回復されているご様子ですが、無事回復されて
ほんとによかったです。
お城めぐりはやはり体力勝負ですし。
またお時間がある時で結構です。
トモさんの視点でお城やその周辺もあわせて楽しまれた
ご様子を拝見させてください。
今後ともよろしくお願いいたします。
管理人様>
No.2475『信貴山城北麓』
> それにしても平群町史の安売りぶりには参りました。
> (中略)
> 中身はいかがでしたか?
お城関連の部分しか読んでません(汗)
お城は30ページほどで、所在がおとされた地図もあります。また、10ページほど
武将に割かれています。1050円での購入なので良しとしています。郷土史研究を
されている方には明らかにバーゲンプライスではないかと。
No.2494『近場のお城を散策』
> ポリタンクさんの熱意を前にして、城好きへと変わっていくことを楽しみに
> していますよ
残念ながら、私に対する変人扱いに拍車がかかっただけでした(泣)
「山城に三脚を持ち込み、セルフタイマーに急かされながら石垣へ走る姿」は
写真から思い描けたようで、笑いはとれましたけどね(苦笑)
みんぴかさん>
No.2496『ご無沙汰です』
> 堀切にあるロープが途中で切れて危うく堀切の底へ落ちそうになったり
無事で何よりです。
椿井城へは再訪する予定なので、ご提供いただいた危険情報を生かそうと思い
ます。
> 次は、どこへ行こうかなと
雪が溶けて倒木がなければ、周山城へのリベンジというのはいかがでしょう?
No.2451に私のリベンジ内容を記載しています。ついでに、お城さんマークに
その際のGPSログをリンクしておきます。参考になれば幸いです。
大野南淀さん>
No.2498『管理人さま、ボリタンクさま、コメントありがとうございました。』
> 廃城であっても、畏敬の念をもって
佐保城(大阪府茨木市)付近でも、道の脇とかにお墓があったりしましたので、
何か理由はあるのかもしれませんね。
お墓ではありませんが、筒井城(奈良県大和郡山市)本丸中心部が宅地になって
いないのは、「殿様の住んでたところに家は建てられん」という気持ちが続いた
結果みたいです。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
なるほど平群町史を買ってもおそらく本棚のいい肥やしにしてしまいそうです(笑)。
いやいつか要る時がきっと来るはずと思いながら買う
んですけどね、いつもは・・。
え、山城にセルフタイマーで撮影とは!
それは我々がmixiで「セルフ撮影部」として
己を解放した人々が活躍している姿そのもの
じゃないですか。
素晴らしいです。
ボリタンクさん>
>東から訪城した際に堅土塁へ至るちょっと手前に確かにありました。奥には
大きなのもありますね。他人様のお墓をまじまじと見つめるのも失礼かしらと
思って子細には見ておりませんが、享保という文字があったので江戸時代の
ものかと思います。最初の段のものは確かに名字は一緒っぽかったです。
わざわざ丁寧にお答えいただきありがとうございます。
そうですか。享保年間でしたか。ということは、かなり新しいですね。
そもそも、あの辺は、「城山」という地名ですし、江戸時代も、付近の村人から、廃城であっても、
畏敬の念をもって見られていたのかもしれませんね。
なかなか、ロマンと恐怖が混ざりあった気になります。
それにしても、江戸時代においては、大坂夏の陣の大坂方の武将が、
幕府の朱子学者から、かえって主君へのその忠義を、称揚され、幕藩体制イデオロギーに回収された、というような話を聞いたことがありますが、
こうした、廃城等に対する公儀の扱いはどうだったか、気になるところです。
また、遊びにきまーす。
よろしくお願いいたします。
写真は、天下の名城、観音寺城です。大野南淀さん、こんにちは。
何気に見落としてしまいそうなポイントを細かく
チェックされている姿勢にはいい刺激をいただきました。
また現地の様子を見てご自分の解釈をお持ちなのも素敵ですね。
それを城好き同志で語り合うのがいい酒のつまみになる
んですよねぇ(^^
失礼しました。
また遊びにきてください。
よろしくお願いいたします。
居住地が『北海道』となってますが
『近畿』の訂正です
ごめんなさいですご丁寧にありがとうございます。
お気になさらずに。
こんばんわ
なかなか、ご報告しに来れませんでしたが
城めぐしてます。
奈良椿井城へも行ってきました。
堀切にあるロープが途中で切れて危うく堀切の底へ
落ちそうになったり、
最近では、貝塚市にある『根福寺城』へ行ってきました
説明板のある右手に階段があります。
一番上まで上がらず、途中から竹林の中を無理やり
よじ登りました。
まあ、想像通りの草薮でした。
道を確保するために、草木を切らせて頂きました
↑すみません
でも、だいたい見てまわれたかな〜
正直、藪が原因でいまいち納得してませんけど
まあ、心のこりは『北郭』にあるであろう石積みを
確認できませんでした。
あとは、淡河城、萩原城へも行きました
萩原城にある木製の案内板もお墓?に放置されたままでした
次は、どこへ行こうかなと
模索中のみんぴかです
今年もよろしくお願いいたしますみんぴかさん、こんにちは。
椿井城や根福寺城などなかなか攻略が大変な山城を
攻めておられますねぇ。
私も先週は背よりも高い藪をひたすら漕いでましたので
鎌やなたがあれば・・とほんと思いました。(^^;
根福寺城はまだ未踏ですがこの季節でその様子なのですね。
それにしてもどんな基準で攻城先を選ばれているのか
興味津々です。
まだまだ山城オンシーズンですので、寒いですが
がんばってくださいませ〜
無事帰ってきました。
雪も降ってきたりしましたが、まーなんとか、行動を妨げるほどではありませんでした。ぎりぎりセーフという感じでした。
で、今回メインの大内氏館ですが、形状としましては「方形居館」方式です。四方を土塁で囲み、その外側には濠があり、中心地には居館があります。扇状地の中心地に建ち、農業には適していない土地で、農業地区の中心にあった監視する城ではなく、もともとより都市国家を形成する城であったと思われます。
管理人さんのホームページでは、
> いつの日かここにも庭園が復元されるのでしょうか。
とありますが、現在は綺麗に池が復元されています。関連記事をお城さんマークに入れておきました。当時の面影というより、近代的な公園のようになっていますが、真ん中の島には橋が架かっていたと思われ、城とは思えない優雅さがあります。これは、阿波国守護の城、勝瑞城と似た部分があります。枯山水や池を伴う庭園があったりする部分が酷似しています。
池泉庭園の南東部分には、建物の礎石跡があることから、隅櫓のような建物があったと思われます。
池泉庭園は、大内義興時代、前将軍足利義稙がこの城にかくまわれていた時、足利義稙の京への慰めとして作られた可能性があります。
山口県に来て解りましたが、大内文化というのが存在します。応仁の乱の時に、京を逃れた文化人がこの地で花咲かせます。この財源となったのが、貿易であったと思われます。発掘調査より、町人屋敷にも、中国磁器が多数出土しており、また大内氏館には、この時代、日本では他に類を見ない中国磁器が出土されており、中国でもかなり高いクラス人からの贈り物が大内氏に届けれられた可能性もあり、莫大な財産を持っていたと思われます。
歴史深い大内氏ですが、大内氏館の城郭そのものには、珍しい防御施設などはありませんでした。
古いタイプの方形居館をそのまま使い続け、大規模な改修はせず、城の形状は淡路国にある養宜館にも似ています。
実は「毛利戦記」という本があるのですが、「大内氏館」の復元イラストがあります。これには西門が大手門のようになっておりますが、これは間違いの可能性があります。西門はあくまで西門で、南側にある門、現在の山門ですが、これが大手門の可能性があります。
他にもいくつか城めぐりをしてきましたが、それはまた別の機会という事で。
では、では。http://www.city.yamaguchi.lg.jp/dannai/soshiki/kyouiku/bunkazai/yakata/tisenteien.html
ブレイズマンさん、こんにちは
随分楽しんでこられたご様子ですね。
雪もあったということでしたが、十分な成果をもって
ご帰還されたようで何よりです。
綺麗に庭園も整備されたのですね〜。
春や秋に訪れるのもいいでしょうね。
お疲れ様でした。
千早赤阪村をぶらりとしようと思いましたが、千早城の管理人様記事を拝見すると
季節的にまだ雪が残っているっぽいのでパス。(板金あけでコーティング未済な
車塗装を労るため。)
そのうち行こうと思いながらも放置していた山崎城へ行くことにしました。ついでに
とある目的のために芥川山城へも再訪です。
◎山崎城
管理人様の情報を元に宝積寺まで車。道が狭いのは構わないのですが、JRの踏切が
酷い。あれじゃ車高が低い車は底を擦ります。下手したら亀さん状態かも。
図説中世城郭事典掲載の縄張図を携行して城内を見学しましたが、遺構がわかり
づらいので、資料なしですと想像力を働かせるのがしんどかったかもしれません。
井戸や石垣、横堀を見学して取りあえず神社まで戻ります。
本来の登城道は三枕宮の右側っぽいのですが、柵があって入れません・・・。ただ、
厳島宮の先からですと特に柵はないので、そちら方向から入るのは可能かもしれま
せん。
ハイカーさんが多かったので妄想モードにはなりづらかったですが、天下分目の地
から合戦場を見下ろすことができたりもして、気分的な満足度は高かったです。
◎芥川山城
前述の「とある目的」が何かといいますと、大石垣での記念撮影です(汗)
昨年訪城時に撮影した大石垣の写真を周りの人間に見せたら、「大きさがわからん」
等で今一つ。私の身長(6フィート)はあると説明すると数名「えっ?!」という
反応だったので、私が比較対象物となるべく、煙草のようになってきました。
(画像をお城さんマークにリンク。ただし、顔は修正・・・)
かくいう私も、事前に見た写真よりも現地では大きく感じたので、たまにはこんな
写真もありかなと思った次第です。ただ、山城に三脚を持ち込み、セルフタイマーに
急かされながら石垣へ走る姿は、もし他人が見ていたら滑稽な印象を持たれたろうと
思います・・・
と、それだけではあまりにもなので、前回徘徊しなかった東尾根を目指すことに
しました。堅土塁付近に進入可能な扉があったので、そこから柵の向こうへ。
堅土塁とその周辺をまじまじと見学しつつ、えっちらおっちら進みますと、多分
石垣であろうと思われるものにいくつか出会いました。そのあと、登って戻るのが
面倒なので、大手筋方向へ適当に進みましたが、この判断がちょっと失敗でした。
途中にいくつも柵があり、進行を妨げます。なんとか大手筋麓の石垣らしきところ
へは行くことができましたが、二度と同じルートを下ろうとは思いません・・・
大野南淀さん>
> 本丸に至る道に途中ある二の丸(?)のような箇所に誰かのお墓が
東から訪城した際に堅土塁へ至るちょっと手前に確かにありました。奥には
大きなのもありますね。他人様のお墓をまじまじと見つめるのも失礼かしらと
思って子細には見ておりませんが、享保という文字があったので江戸時代の
ものかと思います。最初の段のものは確かに名字は一緒っぽかったです。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
千早城は(めちゃくちゃ暑いでしょうけれど)夏場でも
散策できますので後回しでもいいかもしれません。
山崎城、芥川山城のお写真も拝見しました。
以前目にした記憶がよみがえってきました。
ご友人の方の反応はなかなか厳しいですねぇ・・。
でもすぐにポリタンクさんの熱意を前にして、城好き
へと変わっていくことを楽しみにしていますよ。
いやぁ、お疲れ様でした。
めちゃめちゃ久しぶりに訪問しました。
ここに来るのも小学校以来(8年ほど昔(^_^;))
今日高校の日本史最後の授業で三木城や淡河城など地元の城に関する問題出してきました。
もう幾年も城巡りから遠ざかってましたが、かつての記憶で難無く解答することができました。さすがに先生も驚いてました(o^∀^o)。
と嬉しかったので報告さしてもらいました。受験終わったら地元の城中心に再び探索してみます。そのときにまた利用さして頂きます(^O^)。長々と失礼しました。某顕さん、ものすごくご無沙汰?ですか。
学校の授業で三木城や淡河城が出てくるなんてすごいですね。
「出してきた」というのがよく分かっていませんが、
お互いに問題を出し合ったりするのでしょうか。
受験が控えておられるようですので、ぜひとも無事終えられてからお城に戻ってきてください。
またその時はよろしくお願いいたします。
本岡様へ、
始めまして、みっちゃんと申します。
「伊予松山城」の記事を探してネットサーフィンしておりましたら、本岡様のサイトがありましたので、訪問させていただきました。
伊予松山城の事をわかりやすく説明してくださっていて有難うございます。
地元として、非常にうれしいです。
それにしましても、【歴史】、【資料】、【私見】 と分けての説明が流石です。
特に、松山城の【私見】は、地元の者でも感じ取れないような雰囲気まで説明してくれているようでした。
いろいろなお城を見られているから、わかるのでしょうか?
これからも、時折サイトを拝見させていただきます。
今後も更新を楽しみしております。みっちゃんさん、こんにちは。
書き込みありがとうございます。
管理人の本岡と申します。
過分なお言葉感謝いたします。
やっぱり松山城がそれだけいいお城だから書かずにはいられない
というのが大きいと思います。
3〜4回行っていますが、いまだ行き足りないと思って
いますし、何より加藤嘉明の像を撮れていません。
再訪しますので、またよかったらご覧ください。
雪大丈夫でしょうか?
では、では。http://www.siromegu.com/castle/yamaguti/ooutiyakata/ooutiyakata.htm
(^−^;;;;
すぐにという訳ではありませんが、もう間もなく山口県に出発します。
大内氏館
を中心に城めぐりしてきたいと思っています。
大内義興は、細川高国に呼応し、山口県から京に攻め上り、織田信長より前に、京都に御旗を立てることになります。
その後、細川澄元らと船岡山合戦、越水城の戦いで駆逐し、大内義興の天下となります。
そんな大内義興はどんな人物であったか、いろいろ調べてきたいと思っています。
また、戻ってきましたら、大内氏館を含め、いろいろ報告させて頂きますね。
では、では。http://www.siromegu.com/castle/yamaguti/ooutiyakata/ooutiyakata.htm
ブレイズマンさん、こんにちは。
山口遠征楽しんできてください。
お気をつけて〜
今年最初の山城会。備中国分寺南駐車場9:00集合。
オジジ4人で井原、芳井方面出撃。
最初に芳井・川相の「中山城」。
川相の交差点を西に入るとすぐに城の看板。
登ると、出郭に神社の舞台。
更に登ると、山頂の主郭に神社。切岸、堀切。ほぼ単郭。
二つ目は小田川を下って井原市役所吉井支所のすぐ北の「正霊山城」。下の市街地外れに駐車。
良く刈り払ってある。
縄張図に従って登ると二の郭に神社。
主郭の北に二重堀切。竪掘。延長100m程か。
三つめは「大仙山古城」。
山頂まで車の通れる道があるが、二年前とは大違い。
道に木や草が垂れ下がり、登るに登れず、下るに下れず。
ハサミとナタで道路整備。
山頂に二つの電波塔。
遺構は無いので引き返す。
四つ目は、トンネル手前から国道313号の旧道を富士ベークライト工場方面に左折。
小田川を渡ってすぐ左へ。
郵便局に駐車。三つのピークが見える。
橋近くまで戻って西端の神社参拝路の石段を登る。
すぐに神社。
そのまま尾根筋を直登。岩にイワヒバが付いている。木々があまり茂っていなく通過しやすい。
最初の頂上の細尾根は郭のようだ。
少し下りになるとその先は倒木帯になっている。
初訪で残念だが、主郭群と東郭群を目前に撤退を決意。
五つ目は井原の市街地西にそびえる「横手山城」。
手抜きをして、経ケ丸キャンプ場への道に入る。
山道を登って、東端のヘアピンカーブ付近に駐車。
東側の畑に入り尾根を約200m進むと主郭らしき平坦地。
搦め手の堀切は見当たらない。
少し下って神社の郭。その先にも郭段々。
六つ目は井原市下出部の「戸木荒神山城」。
井原鉄道いずえ駅裏の公園前に駐車。
今日の最大の見所の城だ。
縄張図のとおり、墓地横から谷筋の作業道(キャタピラ作業車の通行に使われているので歩きやすい。)を登ると左に三連の連続竪堀。右に五連の連続竪掘。
右に曲がって五連の連続竪掘のある曲輪に入る。
道の東側の郭(6)は薮。
北に向かって最近手入れされたような遊歩道が続く。
櫓台の郭(5)、堀切、岩場の郭(4)、浅い堀切a、主郭(1)の祠と石碑。
その先は腰曲輪(2)、石垣、小郭(3)で終わっている。
延長約200m弱か。
主郭から周囲を見はらすと城の400m西側の二つ目のピークの上が切り飛ばされたようになっているのが見える。
ひょっとすると出城か。
七つ目は井原市街地東側の「青影城」。
井原中学校正門脇の看板から登る。
腰曲輪点々、祠の郭、アンテナ群のある主郭と石碑。
その北側は舗装道路。
ここは搦め手の堀切が道路で破壊されている。
集合場所に戻って15:00。
皆、満足顔で散会。やぶくぐりさん、こんにちは。
実に効率よく回られている様子ですね。
半分以上神社なのもいいです。
破壊もあるでしょうけれど、あがるには楽なのがいいですね。
そのあたりまでいくとどうしても広島に行きたくなって
しまいますが、やぶくぐりさんのおかげで情報がたまって
きましたので、そろそろ出かけてみようかと思ってます。
でもその前に備前をちょこちょこと・・。
管理人様、お疲れ様でした!
リンク頂いてます
城郭写真記録の成田三河守で御座います。
旅番組が好きでいろいろ見ていますが、
録画しておいた「極旅2」見ていたら、
何処かで聞いたことある名前が…
残念ながら遠景の「竹田城」は見えませんでしたが、
まだ訪ねたことのない城跡で、
「松江城」と合わせて行きたくなりました。
いつも地元の愛知県ばかりですが、
遠征、いいですね〜。http://www.geocities.jp/shiro20051212/
成田三河守さん、こんにちは。
そういえば愛知も放送されていたのですね。
全国ネットの恐ろしさ(笑)を改めて実感いたします。
松江城はきっと「シンプルに天守を楽しもう」と言っていたと思います(笑)が、復元された二の丸の櫓群を
観たり、石垣の違いを細かくチェックしていくのも
楽しいです。
あとは堀川めぐりですが、ボートの右側一番手前
(私が乗っていたポジション)が一番お城を観るには
最適ですので、機会があればお試しくださいませ。
私も拝見しました。
竹田城の説明は「ありえへん∞世界」の時と違って、端折りぎみながらも
テロップに赤松広秀の名前が出ていたので、テレビ局さんにちょっと感謝
です。
> 雪の竹田城は素晴らしかったんですけどね。
そういえば、冬にはまだ行ったことがありません。気象条件によっては、
2月あたりに行こうかなあとは思っています。秋になると雲海目当ての
職場の仲間に頼まれるのですが、何だかんだで実現しておりません・・・
> 管理人さんスマートですねー。
確かに。私とはえらい違いです(苦笑)
石川啄木ではありませんが「じっと腹を見る」のがつらい・・・
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
赤松広秀の名が出たのですか。
全国的には「誰それ?」だと思うのですが、きっちりと
紹介しておかないといけませんね。
あと、テレビは細く映るのですよ(^^;
管理人さん、お得意の竹田城です。
テレビ大阪です。
がーーーーん、竹田城、拝めず、残念。
雪の竹田城は素晴らしかったんですけどね。
にしても、管理人さんスマートですねー。
お得意のスーツ姿でなくて残念。
お、今度は、松江。
おーーーー、松江城始めたみた―。
なるほど、瓦はそーゆー役割があるのか―。礎石代わりと思った。
と思ったが、松江城の堀めぐりしたことありますので、ひょっとして行ったことあるかもしれません。
いやー、なかなかの移動距離でしたので管理人さんも大変でしたね。
ご苦労様です。
では、では。ブレイズマンさん、見てくださったのですね。
ありがとうございます。
そういや皆さんから「竹田城は残念だったね」という声をいただきましたが、放送をちゃんと見ていない私としては
どういうことだ?どういう編集を?(笑)と思ったりしますが、よしとします。
実は姫路でもっといろいろやってるのですが、やっぱり
4つもお城を紹介するのは大変でしたね。
もし機会があれば天守のないマイナーなところもやりたいです。(^^
見てまっせ――――。
続きがあります。ありがとうございます。
リアルだと恥ずかしくて反応できませんでしたw
こんばんは。二回目の書き込みです。
休憩中に書いてます。
去年から城郭研究の夢が微燃して、
大晦日に実家の近くにある芥川山城に初登場いたしました。
素晴らしかったです。
いやー、小学生の頃、あれだけ、城好きだったのに、
実家が15年以上、近所にありながら、
参内しないとは、そりゃ、三好政権にも愛想をつかされたはずです。
本丸からの眺望、堀切、素晴らしいですね!
ところで、
もしご存知の方がいらっしゃったら、教えていただきたいのですが、
本丸に至る道に途中ある二の丸(?)のような箇所に誰かのお墓が並んでいました。
いたく感動したのですが、みかんがどの墓にも供えられていました。
この墓は誰の墓なのでしょう?何かどこかの一族の墓に見えるのですが…
ウィキペディアをのぞくと、芥川山城の最後の城主は和田惟長(惟政公の墓所裏が実家なのです…)となっておりますが、その後、誰か近隣の方が建てた墓なのでしょうか?
何やら、この疑問は、廃城が江戸時代・明治時代に近隣からどのように扱われていたか、という問題につながるような気がして、個人的にすごく惹かれました。
もし、仮に、和田家に関連ある墓がずっと、残っており、近所の人がメンテナンスしていたならば、ロマンを感じますね。
ところで、
芥川山城を拠点とするあたり、長慶公は相当、すごい人だったのだと思います。大坂と京を結ぶ結節点のみならず、芥川山城の裏には、原の盆地が控えており、
亀岡・長岡にも抜けれる。逃げ道も確保されているし、懸崖絶壁の山の入り口かと思いきや、田畑が回りを囲んでいる。名城だと思いました!
その後、このあたりから、茨城の山奥に、江戸時代、隠れキリシタンが潜んでいたことを重ねると、非常にロマンが炸裂しますね。
長文失礼しました。
今後も、たまに訪問して、楽しませていただきます。大野南淀さん、こんにちは。
芥川山城への愛があふれる感じがよく伝わってきましたよ。
小学生の頃に見られていたお城も改めて見てみると
随分違って見えて、新鮮じゃないでしょうか。
私が単に忘れっぽいだけかもしれませんが。
ご質問のお墓の件は私は存じ上げません。
確かにかつてそこにいた武将や縁の方のものだとロマンを感じますね。
今後ともよろしくお願いいたします。
一昨年秋に中世山城の祭典で津山市が発刊した「美作国の山城」が1,000部再販されたとの情報が地元新聞に掲載されました。
462ページ1冊1,000円で津山市内の書店等で販売しているとのことです。
前回は、あっという間に売り切れ。
今回も早いもの勝ちかな。
やぶくぐりさん、こんにちは。
「美作国の山城」はやぶくぐりさんもよく活用されていますが、いい本ですよね。
再販されてよかったです。
でも美作にそれだけ多くの方が行ってるのかなと思うと・・。
やっぱり現地に行って、お金を使わないといけませんね。
私も意識してがんばります。
地元のことについてネットサーフィンしているうちにたどりつきました。
リンク集に登録させていただきました。
よろしくお願いします。淡路島リンク集さん、はじめまして。
ご丁寧にありがとうございます。
淡路の城情報はまだまだありますのでたまに追加いたしますね。
今後ともよろしくお願いいたします。
はじめまして、各地の研究会に出没してます”忍”と申します。
名前どおり、城郭研究の縁の下的な存在です。
これからも情報を頂に参ります。
失礼致します。忍さん、はじめまして。
書き込みありがとうございます。
管理人の本岡と申します。
あちこちの研究会に参加されているとのこと、
見聞きされました中で面白い話がありましたら、また教えてください。
私も各地の研究会の皆さんの会報で助けてもらっていることが多いですので、参加されている方には頭がさがる思いです。
今後ともよろしくお願いいたします。
ブレイズマンさん>
> 石垣というより、曲輪留めに使われた石組みという感じですね。
平群町での紹介も同じ見解です。(リンクあり)
あと、信貴山城の現地案内板を撮影したものが残っていましたので、ちょっと
加工したもののURL(スキーム部省略)を補足として下にご紹介しておきます。
p.twipple.jp/3995d
#補足というか、これが真打ちかも・・・
甲陽園城の話は着々と情報収集等をされていますね。ブレイズマンさんの知的
好奇心と行動力には頭が下がります。
では、失礼いたします。http://www.town.heguri.nara.jp/manabu/bunkazai/bunkazai04_33.html
ポリタンクさん、こんにちは。
大変見やすい地図で助かります。
先日も近くまで行っていましたので、寄ろうかなと
思ったりもしたのですが・・あぁ信貴山城は遠いw
諏訪原城を主目的に静岡へ行くつもりでしたが、寝坊等で愛知方面に変更しま
した。行程は次のとおりです。
小牧山城 -> 犬山城 -> 岐阜城 -> 加納城
走行中に急遽考えたので、ほとんど観光ツアーみたいな行程です(汗)
◎小牧山城
犬山城に行くまでの時間潰しのつもりで行ったのですが、舐めてました。
山腹の横堀や山麓の土塁(断面見学つき)など、楽しい散策となりました。
小牧市歴史館(模擬天守)下は発掘調査中でした。2/4に歴史講座の特別編と
して発掘現場を見るというのがあるようです。因に、歴史講座の講師は中井均
先生です。往復葉書での申し込みで期限は1/10消印有効・・・
◎犬山城
18年ぶりの再訪です。ただ、前回はトヨタ博物館メインで来たついでだった
ので、まじまじと見るのは初めてかもしれません。(ヨタハチや2000GTなどの
写真は残っているのに、犬山城天守の写真は行方不明・・・)
昼前だとちょっと駐車場に入るのに時間がかかりました。ただ、帰る時は更に
悲惨な混み具合でしたけど。混んでいるといえば、城内も結構そうでして、
天守最上階へ上がる階段は狭いので上り下りでちょっと待ちました。天守と
いえば、石落としが飾りだったことに今回気付きました。
ライン橋への行き方を尋ねたら地図付で「対岸からの眺めも乙。今日は天気が
いいからグーよ!」と太鼓判を押してくれた駐車場の方、この場をお借りして
お礼申し上げます m(_ _)m
◎岐阜城
本当は現在進行中の発掘調査が終わってから行こうと思っていました。
駐車場の場所を間違えて金華山ドライブウェイを縦走する羽目に(土日や祝祭
日はロープウェイ方向へ下れない、泣)。まあ、結果的に後から行くつもり
だった(写真撮影目的:リンクあり)岩戸公園方面に出たので、いいか。
信長居館跡を見学後、時間稼ぎでロープウェイを利用。軍用井戸を見学した後
模擬天守から眺望を堪能しましたが、寒かったです・・・
◎加納城
岐阜城天守移築の伝承を思い出したので、この際だからと寄りました。移動
途中に大手門跡の石碑前を偶然通過、加納公園南側に駐車。
北側入口にあった配布用資料によると、発掘で堀障子が確認されたそうです。
(南側入口にあった資料を取り忘れました、泣)
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
小牧城いいでしょ!
たまに発掘やっていますが、もっと城跡として評価されて
もいいと思ってたんですよ。
犬山、岐阜と贅沢な城充ぶりで羨ましいです。
でも何気に訪問された4つのうち2か所ですか、
発掘調査中というのも面白いですね。
ちょうど時期的なものもあるのかもしれませんが、
また何か発見があるかもしれないと楽しみになりますね。
寒空の中の岐阜山上はさぞかし寒かったでしょうね。
お疲れ様でした。
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
ボーイング787に搭乗して羽田から横浜、港の見える丘公園。
山下公園側から階段を登るとフランス公使館跡。
遺跡の説明板にフランス軍駐屯地の地図。
300人程駐留していたそうだ。
幕末の生麦事件を思い出す。
中華街へ出てから堀跡に沿って散歩。
横浜居留地の広大さを実感。やぶくぐりさん、相変わらずの大変遅い反応ですみません。
たまに横浜に行かれていますね。
堀跡というのはフランス軍駐屯地のでしょうか?
その辺は一度は歩いていたはずなのですが、全然
知りませんでした。
やっぱり興味をもって見ていないといろいろと見過ごしているようです・・。
今年もよろしくお願いいたします。
> 先端部曲輪とその南の曲輪の境目の切岸東側からさらに降
> りますと・・・、ありました!石垣!(お城さんマークに
> 写真をリンク)
おーーーー、すごい。とーとー見つけましたね。
拝見しました。これを見ますと、石垣というより、曲輪留めに使われた石組みという感じですね。
龍王山城や滝山城の石組みとも似ていますね。
さてさて、
>> 図書館などで探せば、工事前の大正13年前の開墾前の甲
>> 陽園周辺の地図があったかも
>
> そうですね!
>
> 何か見つかるといいですね。
ということで、図書館で早速調べてきました。今回、
明治20年と明治44年
の2つの地図を調べました。
で、これをみるといくつか面白い事が解りました。まず、現在の甲陽園周辺の地図をお城さんマークに入れておきましたので、こちらをご覧ください。
1.阪急 甲陽園駅周辺は大きな広場のようになっていた
2.甲陽園本庄町がある「大池」があり、となりに甲陽園小学校がありますが、甲陽園小学校は池の中です。勿論、夙川学院高校、夙川学院中学も明治時代にはありません。
3.地図からは、甲陽園周辺の人家はなさそう
4.人家があるのは、獅子ケ口周辺。で、現在の獅子ケ口町ではなく、北名次町周辺に人家がある。
5.今や北西宮と南西宮をつないでいる、西宮の幹線道路となっている県道82号線は、明治時代は存在しない道路。どうも夙川の西の側沿いに道路があり、こちらがメインな道路となっていた模様。
6.明治時代には、
獅子ケ口 ⇔ 神呪寺
広田神社 ⇔ 神呪寺
というメインの道路が2つあった模様。
獅子ケ口 ⇔ 鷲林寺
という道路もあった模様。
甲陽園城推定地ですが、獅子ケ口 ⇔ 神呪寺、広田神社 ⇔ 神呪寺の両方の道路の交差点上にあることが解りました。
で、甲陽園城の推定地に明治時代の地図にはなんか書かれていたか?ですが、これがまた書くの長くなりそうなので、後日書くことにします。
もう少し調べたいことがありますので、楽しみにしておいてください。
では、では。ブレイズマンさん、じわじわきてますね。
これはもう長期戦ですからゆっくり取り組まれてください。
時々いろんな城に行きながら(^^
iPhoneちゃん、3G圏外だと(当たり前ですが)物凄く電池消費が激しかったです。
城内徘徊予定2時間程度だから大丈夫だろうと高を括って残30%程度で家を出たの
ですが、徘徊中に圏外になることを考慮していませんでした。予備バッテリ持参で
なかったら、『FieldAccess』でのロギング中に力尽きるところでした。
一時エアプレーンモードにしましたが、それだとGPSが利かないのでその間のログは
一直線。モバイルデータ通信だけオフにしても圏外で電話のために基地局を探そうと
足掻くでしょうから節電としては意味がない・・・(そもそも地図はキャッシュ済
なのでモバイルデータ通信はオンでもオフでも一緒。)
「油断大敵」という言葉が身に染みました。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、iphoneを使いこなされてますねぇ。
信貴山も圏外なんですね。
まぁそれはしょうがないとしても、バッテリー消費を
なんとか抑える手立てが欲しいところですねぇ。
年始のまっとうなお城巡りとして行ってきました。
宝清院の下、大谷池のそばの空き地に駐車。以前来た時は満車でしたが、
今回は大丈夫でした。
まず、高安山方面へ向かいましたが、進行方向から犬たちらしき鳴き声が
けたたましく響き渡っていたので途中で退散。石垣があるらしい尾根筋を
目指し、見事に削平された曲輪や急峻な切岸に惚れ惚れしながら尾根筋の
先端まで到達です。
二の丸にある縄張図で示された位置よりも北ながら、念のために先端の
下から石垣を探し出しますがやっぱりありません・・・。先端部曲輪東
側面にも降りましたがない・・・。先端部曲輪とその南の曲輪の境目の
切岸東側からさらに降りますと・・・、ありました!石垣!(お城さん
マークに写真をリンク)
上記の行動軌跡のスクリーンショットが下のURL(スキーム部省略)です。
ど真ん中が石垣の場所です。
p.twipple.jp/99bJd
尾根筋最初の堀切まで戻って松永屋敷がある尾根筋へ移動。これまた
急峻な切岸がお出迎えです。こちらの尾根はさらに綺麗に削平されて
います。ある程度北に行ってから、虎口とも堀切の先なのか判断がつか
ないところまで戻り、そこから南東に進んで最初に通った道まで戻りま
した。
二の丸や本丸にも寄ろうかと思案しましたが、中央公民館で只今安売り
真っ最中の『平群町史』(6000円->1050円)を購入する時間を確保する
ため断念。無事購入し、昨年末に訪れた椿井城を横目に見ながら帰りま
した。
これでもかと言わんばかりの土木作業の跡を目の当たりにして、昼食抜き
ながらもお腹一杯になりました(笑)
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
まっとうな(笑)お城巡りといわれるだけあり、なかなか
読み応えがありますね。
信貴山城に行く際の勉強になります。
それにしても平群町史の安売りぶりには参りました。
ネットででも買えるなら飛びつきたくなる値段ですね。
中身はいかがでしたか?
確かにまっとうなお城めぐりで、お腹一杯な感じでしたね。
お疲れ様でした。
> 素晴らしいフットワークですね。
> 山口でしたら高嶺城は是非いってみてください。
おーーー了解しました。高嶺城は大内氏関連の城ですよね。是非行ってみたいと思います。
また行って来たら報告しますね。
大内氏関連の事を調べたいと思っても、なかなか関西では難しいので、山口県にはいつかいってみたいと思っていたんですよ。
> 西宮市史や、地元の図書館にしかなさそうな狭い範囲の
> 歴史文献なんかもあたってみられてはどうでしょうか。
西宮市史は、もう端から端まで完全に読破しています。ただ、甲陽キネマ撮影所の部分に関しては、見ていなかったのですが。
あっそーそー西宮市史で思い出しましたが、西宮市史には、越水城が天守があったと記載されているのを知っていましたか?
実は『細川両家記』の永正18年(1521年)2月17日、伊丹城で「天守」という言葉が出てきます。天守という建物はそれ以前にもあったかもしれませんが、日本で初めて、確認できる文献上で「天守」という言葉が登場します。
で、西宮市史では、伊丹城との関連性を指摘し、天守が建っていた可能性を示唆しており、仮に天守が建っていたら、越水城の最北部分に天守台らしきものがあった可能性があるんですよ。
この辺の詳しいことを調べられてるブログを発見しましたので、お城さんマークも参照してみてください。
> あとは近所に住むお年寄りとか。
あの地域は、大正時代に西宮町議会議員の勝部さんというかたが、大規模に買収しました。おそらくそれ以前には、人家と呼べるものは殆どなかったと思われます。大正7年に、甲陽土地株式会社が、この地域を買い取り、その後甲陽キネマ撮影所を設立しました。この撮影所は昭和初期に廃業になり、
> 実はまったく知らない会社ではないので・・ごにょごに
> ょ・・。
さんの会社に土地の権利が一部移ったと思われます。
一応、その辺まで調べました。
従いまして、昭和初期以前について、私以上に同地域にして詳しいお年寄りは、殆どいないと思います。新興住宅地の悲しい所です。三木城周辺には、いっぱいいていいなー、と思ったりします。
> そうですね!
>
> 何か見つかるといいですね
経過はまた報告します。
> たしか今井町は年末に発掘関連のニュースがありました
> ね。
> 私は未訪ですので、またオフシーズンの夏にでも行ってみ
> たいところです。
私は管理人さんのツイッターみて、「オゥ」と思ったんです。
ぜひ行ってみてください。雰囲気のある、いいとこでしたよ。
では、では。http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55412673.html
> 焼土層のお話ですが、今回の場合は「ゴミが燃えた跡を建> 物が燃えた跡だと勘違いしそうだ」ということですか?
> あるいは「焼けた建物がゴミのなかに埋もれてしまって移
> 動してしまったために?、焼土層も移動した」
> ということなのですか?
えーーーーー、ここは前回投稿した、
[2447] 東大寺大仏殿の戦い
[2448] 発掘現場の地図
も一緒に見て頂けたらと思います。
> これは一説で他の可能性も考えられます。
とありますように一つの可能性としてお聞きください。
前も申しました通り、東大寺大仏殿は過去3回大火事にあっています。
・1180年の南都焼き打ち
・1508年、原因不明の火災
・1567年の東大寺大仏殿の戦い
1508年以前には、講堂、僧坊、食堂と今の大仏殿と匹敵するぐらい、大きな建物が3つほどありましたが、1508年、原因不明の火災が無くなってしまい、その時の焼土層もありました。その後この周辺にはまったく建物が再建されなかった可能性があります。
しかし、なぜか再建されていない、1508年以後に、より分厚く焼土層が積み上がっているのが今回発見されました。私の写真で、
P1020409.JPG
というがあると思いますが、1508年より建物が無いと思われた1567年の方が分厚く焼土層が積み上がっているが確認できるかと思います。これはなぜか?ですが、建物が再建されていた可能性もあります。ただ、学芸員さんの説明では、大仏殿が焼けた燃えカスがあり、大仏殿より低い今回の発掘地点に人為的に移動して捨て、その上に土をかけた可能性がある、という話です。
普通、焼土層は、殆ど移動することはありません。燃えたら燃えままですが、今回は神仏ということもあり、僧侶などが後片付けしたかもしれませんね。
お城さんマークにある記事にある、
「礎石の間にこの時期の焼土層(約5〜15センチ)が残っていた」
「大仏殿の焼けた瓦など炭混じりのがれき層(約5〜30センチ)が出土」
と記載されていますように、建物が無い焼土層が建物があった焼土層の倍近く積み上がったのは、その辺に理由があるのかもという事です。
真相は不明ですけどね。
続きがあります。http://www.asahi.com/national/update/1205/OSK201112050090.html
ブレイズマンさん、ありがとうございます。
>大仏殿が焼けた燃えカスがあり、大仏殿より低い今回の発掘地点に人為的に移動して捨て、その上に土をかけた可能性がある
へぇ〜、面白いですね。
詳しく聞いてしまうと、やっぱりその場にいたかったなと思いますね。
私も学芸員さんに話をうかがってみたいです。
管理人様>
> 初城詣でが飯盛山城
暗かったので、お城見学は無理でしたけどね・・・。野営中の兵隊の気分は
味わえるかもしれません。
吐く息が白くはなりましたが、本郭ではほぼ無風状態だったので助かりました。
> FSIRO WESTさんに連絡をしていただければ、送ってくださるとおもいますよ。
早々の返信有り難うございます。近々問い合わせてみます。
ものすごくマニアックな地元ネタ、興味津々です。
では、失礼いたします。夜の飯盛山城ですかぁ。
いいですね、きっと自分だけのスペースみたいになってるのでしょうね。
「お米が見ていた〜」は実はまだ製本されたやつは見てないんですよ。
私も早く観たいです(笑)。
12月はギリギリまでやってたので関係者の方には
随分ご迷惑をかけてしまいましたのです。
管理人様を始め、皆様明けましておめでとうございます。
今年もいろいろお世話になると思いますが、懲りずに宜しくお願いいたし
ます m(_ _)m
管理人様>
> twitterも開始されたことでもあり
私の場合は文字通り「つぶやく」だけなので、情報発信とか高尚なことは
できませんので(汗)
> 城めぐTOUCH・・そろそろデータ更新します
楽しみにしております。
そういえば、「お米が見ていた 異説・三木合戦」という本を執筆された
そうですが、FSIRO WESTさんにメールで注文できるのでしょうか?
と、ここで話は変わりまして、今日またもや夜の飯盛山城に行ってきました。
今年の初城めぐ、といいたいところですが、実は、明日から始まる仕事への
英気を養うための夜景観賞目的です(汗)
楠公寺さんへ行く道ですが、一部綺麗になっていますが、逆にさらに荒れた
箇所もありました。これ以上荒れたら私の車(標準で無駄に顎がアントニオ
猪木)では無理だなあとか思いながら、おっちら車を走らせました。
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんばんは。
初城詣でが飯盛山城とはいいですね。
私なんて本岡氏の中世居館跡・・いややめときます(笑)
FSIRO WESTさんに連絡をしていただければ、送ってくださる
とおもいますよ。
三木合戦は私が暖めていたものを披露した格好になっているのと、
ものすごくマニアックな地元ネタですので、一般うけする
ものになっていないのがなんなのですが・・(汗)
私も明日からはじまる仕事のために少しリハビリが要りそうな気がしますが、寝ないと・・(^^;
2012年
あけましておめでとうございます。
管理人の本岡です。
昨年は後半ほとんど活動できずに悔しい日々を過ごしておりました。
反応も遅くなってしまって申し訳ありませんでした。
今年もマイペースでやっていきますので、変わらぬご愛顧をよろしくお願いいたします。
干支にちなんで、今年はドラゴンにご縁のある年になりそうです。
皆様明けましておめでとうございます。
本年もお城関係をふくめ、いろいろと情報交換をさせて頂ければと思います。
私は、管理人さんと違ってとっぴょーしもない、びっくりするような仮説をたてたりしますが、いろいろとご批判をして頂けばと思います。
> 初詣は、橿原神宮かな。
ということで、実は奈良県橿原市今井町に1/1、出向いてきました。関連記事をお城さんマークに入れておきましたので、ご覧ください。
関西は、安土・桃山時代、石山本願寺、顕如の影響が強く、大阪以外にもあるゆる場所に宗教都市をもっており、今井町も称念寺を中心として、天下三宗匠となった今井宗久らが作った寺内町、環濠城塞都市です。
残念ながら、記事にあるような外濠部分は完全に埋め戻されておりましたが、埋め戻された部分は土が変色しており、15mが実感しました。やっぱり大きいですよ。で、土塁はまったくありませんでした。
またお正月ですので、施設はクローズでしたが、街中を散策しました。私は富田林の寺内町も訪れたことがありますが、富田林の寺内町と比べて、近代的な建物が少なく、寺内町の雰囲気が現在でもよく残っています。道路は、鍵の手形の道路が多数あり、近世城郭の城下町と似た部分があります。しかし、道幅が非常に狭く、近世城郭の城下町に比べれば古い、という印象もあります。
で、あと富田林の寺内町と違い「称念寺」が中心施設とは思えないほど、小さかったです。寺内町でありながら、惣村として、今井宗久などの商業側の力が高かったかもしれません。
今井町は、他の奈良にある筒井系などの惣村とは違う雰囲気があり、雰囲気のある寺内町で、いろいろと整備されおり、一度皆さんも行かれることをお勧めします。
残念ながら、環濠城塞都市でありますが、城塞としての防御施設は鍵の手形の道路以外では、殆ど確認できませんでした。富田林はすこし残っているような感じがします。
私も、今度は各施設がオープンしている時に再訪したいと思います。
では、では。http://www.nara-np.co.jp/20111122102717.html
ブレイズマンさん、新年1発目が寺内町とは
渋いですね。
今年もよろしくお願いいたします。
たしか今井町は年末に発掘関連のニュースがありましたね。
私は未訪ですので、またオフシーズンの夏にでも行ってみたいところです。
何か別の作業をやってるとつい反応が遅れがちとなって
しまう私ですが、今後ともよろしくお願いいたします。
管理人様
「将監城」興味を持って頂いた様なので、もう少し詳しくお知らせします。
ブログで紹介されていますのでそちらを見ていただければ登り口などわかると思います。
私もそのブログで知りました。
「将監城」は京都府綾部市と福知山市の境、甲ヶ岳と高嶽の間の谷間にあります。
甲が岳は守護代内藤氏の城、高嶽は城があるといわれていますが私が登った所では山頂部分には城郭遺構は確認できません。
但し山頂直下に堀切と見られるものはあります。
「将監城」はこの高嶽より北東に下る尾根先端にあります。
東に開いたV字形の尾根で北側の尾根に居住性の高い郭が作られており、
V字形の尾根の外側に竪堀があり、竪堀は単純に掘っているのではなく、斜面の状況によって変化を付けています。
最大の見どころは、通常腰郭を作りその下に竪堀を作りますが、
主郭に取りつく手前では、横堀を作りその下に竪堀を並べています。
まるで畝掘の見本市のようです。
竪堀は、ブログでは20本程度書かれていますが、私が確認したところ、100本程度あります。
竪堀以外にも、高い切岸や今でも水を湛えている井戸(当時の物かどうかわかりません、落ちたら怖そうです)などあります。
「将監城」のある高津の谷は、入り口東を「高津八幡城」西を「段の城」で守られており、
この2城以外に新たに、「段の城」の尾根続きに一か所、「将監城」から高嶽に通じる尾根上に一か所の城を確認しています。この様な状況から、
ここから先は私の空想ですが、「将監城」は単純に甲が岳城の支城ではなく、守護代の権威を背景にした将監をなのる
大槻氏の城が「将監城」でこの谷間の中に城下集落を作っていたのではないかと考えています。霄漢さん、こんばんは。
反応が遅れがちな管理人、本岡です。
今年もよろしくお願いいたします。
将監城は以前ご紹介いただいた際に軽くWebで調べて
ヒットしたページの縄張りで興味をもちました。
このオンシーズン中に行きたい城の1つとしてチェック
させていただきました。
ありがとうございました。
それは、大正13年に甲陽園には、
甲陽キネマ撮影所
という撮影所がありました。動物園、運動場、劇場という娯楽施設があり、丘を削り池を埋め立て、道路などインフラが整備したとのことです。
お城さんマークをご覧いただければ解りますように、今の甲陽園と少しイメージが違います。当時は大吊り橋があったそうで、今は全く想像すらできません。
で、ひとつ、ぴんときたのですが、という事は、図書館などで探せば、工事前の大正13年前の開墾前の甲陽園周辺の地図があったかもしれません。少なくても大正時代の当時の甲陽園の地図を見れば、なにか甲陽園城の痕跡があるかもしれません。
今は正月ですので、正月明けに早速図書館に調べに行きたいと思います。
なんか、お城とはどんどん離れていっているような感じがしますが、中井先生に相談するにしても、地図を見てからにしたいと思います。
では、では。http://nishinomiya-style.com/upload/blog/post/101110satueisho.jpg
>図書館などで探せば、工事前の大正13年前の開墾前の甲陽園周辺の地図があったかも
そうですね!
何か見つかるといいですね。
私も姫路や三木、明石などでは近いことをやってました(^^;
> しかし、「現地所有者から現状」ということで、実は所有
> 者さんとコンタクトを取っております。あの場所、現在駐
> 車場となっており、整地するために残土を端によけ、土塁
> 風になってしまった可能性も否定できませんので、まずは
> その確認を先にしておきたいと思います。
> また、経過はお知らせしますね。
ということで、実は地権者さんとコンタクトを取っておりました。
実はあの場所、ある企業さんの持っている土地で、その企業というのは、お城さんマークに入れておきましたので、そちらを参照してみてください。
で、いろいろと調べて頂いたのですが、結論から申し上げて、
「不明」
とのことです。
この企業さんのお話によりますと、
1.土地を購入したのは、昭和20年ころ
2.その数年後、土地を利用して社員寮を建設
3.10年前に社員寮が無くなり、現在は更地となっている
とのことでした。
で、土塁に関しては記録がなく調べようがないとのことでした。
あっ、そーそー、今回の件で、一つ新しい発見をしました。
続きがあります。http://www.shiraishi.co.jp/calcium/
ブレイズマンさん、こんばんは。
はははは、地権者さんのWebサイトですか。
実はまったく知らない会社ではないので・・ごにょごにょ・・。
西宮市史や、地元の図書館にしかなさそうな狭い範囲の
歴史文献なんかもあたってみられてはどうでしょうか。
あとは近所に住むお年寄りとか。
なかなか大変な手間だと思いますが、がんばってください。
管理人様 遅い反応ですいません。
アンテナから秀次の陣ですが、恐らく、繋がっていたのを堀で切ったと思われ、北側に土橋がありそこを通過したら楽です。幸田屋さん、ご無沙汰しております。
今年もよろしくお願いいたします。
貴重な情報ありがとうございます。
先月もふらっと鳥取に行っていたのですが、あいにくの
雪で断念しました。(もったいない・・)
また次回訪問した際には再度挑戦したいと思います。
下記アドレスですが、お城さんマークのアドレス
http → https
に変更して頂ければ見れるのではないかと思います。
> 『気分はコクジン』復活してる〜!
おーほんとですね。いろいろ問題はあったようですが、復活はホンと、嬉しい限りです。
あそこまで徹底的に調査されているホームページはそうは見当たりません。是非今後も大和国の城郭関係に素晴らしい調査を続けて頂ければと思います。
さて、ところで、私ですが、山口県に城めぐりに1月後半に行きたいと思っています。
なぜ、山口県か?
それは、越水城とも関係が深い、
管領代 大内義興
の故郷に行ってみたいと思ったからです。大内義興は織田信長に比べれば、大変マイナーな存在ですが、戦の天才ではないかと思わせる武勇が数は多くないですが、いくつか残っています。
大内義興の居館、大内氏館にも行ってみたいと思っているのですが、山口県でお勧めの城がありましたら、ぜひ教えて頂ければと思います。
後は、以前管理人さんのツイッターで書いていたのですが、橿原市今井町の寺内町にも行ってみたいんですよね。
私は、越水城関係について、いろいろ調べておりますが、石山本願寺とも関係が深く、その衛星宗教国家、堀や土塁もある今井町にも興味しんしんです。
初詣は、橿原神宮かな。
では、では。http://gfi402.web.fc2.com/narakokujin.htm
今度は山口ですと!
素晴らしいフットワークですね。
山口でしたら高嶺城は是非いってみてください。
あとは城だけじゃなくて、お寺などゆかりの地をめぐる
のもいいかもしれませんね。
いい城めぐりを。
> これは大勢の方が押し寄せそうな現地説明会ですねぇ。
私が訪れた時は、2回目の説明会で、あいにくの雨だったという事もあったかもしれませんが、大よそ40名程度の人が集まっていました。
さすが奈良中心部という事もあり、西洋人風の人も何名か来られていました。
城関係の人は殆どみあたらず、大半は寺院関係の人たちで、松永関係の質問をしきりしていたのは、私だけでした。
> 下水道工事ということは、見つかったものは破壊されてし
> まうのでしょうか?
詳しくは、解りませんがその可能性はあります。ただ、発掘調査に伴いまして、遺構もかなり破壊しております。残念ながら無くなる方向ではないかと思います。
> 後程、写真UPします。
ということで、少しでも雰囲気が解ってもらえればと思い、報告会時の写真をUPします。前回同様、
htt@://
部分を削除していただき、
https://box・・・・
という部分から始めて頂ければ、写真が閲覧できると思います。
今回の発掘調査で理解したことは、焼土層が見つかると、そこに建物が建っていたと思われがちですが、実は、
「東大寺大仏殿の戦いで焼け落ち大仏殿をこの周辺をゴミ捨て場のように使用した可能性があるとのことです。」
とあるように、焼けた建物が移動することもある、ということは稀ですが、そのような例もあるとのことで、必ずしも
焼土層≠建物が必ずそこに建っていた
ということが解りました。
続きがあります。ブレイズマンさん、こんばんは。
写真ありがとうございます。
おかげ様で確認できました。
焼土層のお話ですが、今回の場合は「ゴミが燃えた跡を建物が燃えた跡だと勘違いしそうだ」ということですか?
あるいは「焼けた建物がゴミのなかに埋もれてしまって移動してしまったために?、焼土層も移動した」
ということなのですか?
細かくてスミマセン(^^;
>> いっちょ、やっちゃいますか。
> 密かに楽しみにしてますよ。
にひひひひひ、実は中井先生にお聞きする前に、管理人さんから、
> 地元の聞き取り、文献、あと現地所有者から現状の
> 地形の経緯が何か情報があるかもしれませんし。
というアドバイスをうけ、「地元の聞き取り、文献」に関しては、西宮市が大坂城の石垣調査でわりと徹底的に調査が行われたようですので、新たな発見は難しいと思われます。
しかし、「現地所有者から現状」ということで、実は所有者さんとコンタクトを取っております。あの場所、現在駐車場となっており、整地するために残土を端によけ、土塁風になってしまった可能性も否定できませんので、まずはその確認を先にしておきたいと思います。
また、経過はお知らせしますね。
> 三ノ宮東城に行かれたんですね。
> 間に合ってよかったです、ほんと。
あんな立派な城が見れなくなるとは、残念です。ぎりぎり見れてよかったです。
> 私も近所にあったはずの三木合戦の付城群や兵糧道をネタ
> に最近本を書きましたが、
えーーーーーー、管理人さんまた本を執筆されたのですか?素晴らしい。発売されたら教えてください。
> 残念ながらお城は評価対象に入っていなかったかと。
あらーーー、まじですか。
まー豊臣秀吉が改修したかは不明ですが、南北朝時代には立派な城があったようですから、評価の対象にしてもいいと思うんですけどね。
続きがあります。ブレイズマンさん、こんにちは。
年をまたいだ遅いコメントですみません。
今年もよろしくお願いいたします。
現地主さんにコンタクトをとられたんですね。
私も最近はできるだけやっていますが、思わぬ情報を
得られることもあり、ありがたいと思っております。
また進展があれば教えてください。
楽しみにしております。
三木の本はですね・・冬のコミケに出展するためのものでした。
おそらくネットで販売することになるのかなと思いますので
その際はまたお知らせいたします。
ちなみにその前に書いたコミケ用の本は以下のURLにあります。
「戦国名像ハンドブック全国版」
http://shop.comiczin.jp/products/detail.php?product_id=8174
それでは。
庚申山城ネタを何気に検索していたら発見!
URLは以前のままみたいですね。これから再構築されるようなので楽しみです。
なお、関連ブログでは奇しくも椿井城が取り上げられていました。
それと、この場をお借りして・・・
管理人様>
[2428] お城用に集めたiPhoneアプリ
> 城めぐTOUCHも地図データのキャッシュが利用できるんですよ。(^^;
使いこなせてなくてすみません & 情報有り難うございます m(_ _)m
では、失礼いたします。ポリタンクさん、いつもありがとうございます。
twitterも開始されたことでもあり、今年もよろしく
お願いいたします。
奈良のお城の情報は密かに応援しつつ、勉強させてもらおうと思っています。
それと・・
城めぐTOUCH・・そろそろデータ更新しますので
もうしばらくお待ちください。(^^;
最初に備中・井原市の井原運動公園野球場の東の尾根にある「鎌田城」訪問。
井原野球場の広い駐車場に車を置く。
尾根に登ると、墓地が延々と続く。
城域は全て墓地化。
二つ目は広島県との県境にある「滝山城」。
井原市田上集落の奥にある池の土手に駐車。
そのまま西に林道を進み、作業道から尾根筋に出る。
ここから約200mは背丈を超える笹とイバラの猛烈なヤブ。
200m進むのに2時間。
縄張図が無かったら撤退していたかも。
城の東側の切岸を南側から進むも笹の密集に敗退。
切岸を北側から反時計回りにヤブこぎ。
二の郭と書かれている部分の切岸の端を進む。
二の郭の西端から主郭に入り、縄張図のa地点を目指す。小さな石柱。何も彫られていない。
d地点の上に出ると下に大きな溜井が二つ。
溜井に降りてb地点の3の郭の石垣確認。
帰りはe地点の岩場の下をトラバース。
腰曲輪点々。
猛烈なヤブこぎに辟易して、北側の標高90mラインを東に進み、小さな谷筋を北に急降下して民家の脇の墓地に出た。
駐車位置まで山裾の道をぐるっと廻り込む。
三つめは「すくも山城」。
集落脇の小城だ。
東側から縄張図に記載されていない道が頂上の祠まである。
雪が舞っているので、ここらで退却とする。
やぶくぐりさん、年をまたいだコメントでごめんなさい。
今年もよろしくお願いいたします。
しかしこの季節になっても激しい藪が残っているところは
いつ行ってもダメですね。しかも茨の藪なんて・・・。
大変お疲れ様でした。
投稿くださったその日は雪の中の城にいっておりましたが、
最初は楽しかったですが、靴びしょびしょ、遺構が見えないと
全然いけません。
私は今年もあまり冒険しない城攻めがいいようです。
町長さんが当日の様子をブログにアップされていたので、お城さんマークにリンク
しておきます。
では、失礼いたします。http://blog.goo.ne.jp/manben_2009/e/dbaebe1ea3de53b3ff0c8a65c3cf7c1c
ポリタンクさん、
町長さんのブログ素晴らしいです!
>椿井城跡・信貴山城跡整備構想を立案中
楽しみです。
木々の伐採、登城道の整備や保全もがんばっていかれるようですね。
私も現地を訪れたら道の駅で買い物しようと思います(^^