西尾市歴史講演会「寺部城を考えるー城跡の堀と土塁」
講師:奥田敏春氏(岡崎市文化財保護委員・元愛知県教育委員会中世城館調査員)
日時:2013年12月15日(日)午後1時30分〜3時
場所:西尾市幡豆公民館 大会議室(西尾市寺部町林添89番地1)
定員:100名(予約不要)
参加費:無料
問い合わせ:西尾市幡豆歴史民俗資料館
444-0702 西尾市寺部町浜田69番地 Tel 0563-62-3102
美作平福の3城攻略
いずれも道無くGPS、赤テープ、選定鋏使用。
最初は平福の吉野川の南にある稗田山と「大乢城」。
橋を渡って左折、民家の脇に駐車。
1/25000地形図にある北側からの点線林道を終点まで詰めてそのまま谷沿いの山道を登る。
すぐに道は消え、倒木多数の谷筋を登る。
尾根の鞍部に飛び出すと片堀切。
右手の稗田山方向に土橋、郭、土橋。
ついでに稗田山三角点。
戻って先程の片堀切から南を見ると腰曲輪が下に見える。
左側の尾根を登って浅い堀切、郭。
更に登って削平の甘い主郭。
二つ目は平福集落の西側にある「妙見山城」(天王山城)。
グーグル地図に尾根まで登る道のしるし。
始点の集落北側の県道カーブの路側帯に駐車。
ほぼGPSでトレースしながら山道を民家裏を通ってバックする地点から登るも、まったく道らしきもの無し。
ガセネタのようだ。
谷を詰めてから南へ直登。
小郭、竪堀。
主郭の切岸の下を鞍部まで進むも鞍部は堀切無し。
主郭に上り甘い削平のほぼ単郭の主郭。
主郭に埋まった井戸の縁石。
北側の街道方向に腰曲輪。
倒木だらけの東側の尾根筋を降ると駐車した路側帯に出た。
三つめは集落東北側の「緑青山城」(平野城)。
平福郵便局100m東の市道に入り踏切を渡って直進。
神社裏の池の北側十字路に駐車。
北東に林道を入る。
城の西側の長い尾根から取り付く。
すごい笹ヤブの連続。
尾根を外さないよう東に進む。
ほぼ平らな長い尾根の終点まで約300m笹ヤブが続いた。
登りになってヤブが薄くなる。
三段の郭。
間歩(坑道)のような大竪穴が三つ。
土塁に平入り虎口。
不連続だが土塁は50CM〜1m弱。
L字に廻っている。
切岸は全体にしっかりしている。
織豊系陣城かと妄想。
ここと先日、織豊系かと妄想した美作市山口の比丘尼城間は吉野川を隔てて約800mの至近距離。
織豊系陣城ペアかと更に妄想が強まる。
南側にもう一つ虎口。
内桝形のようだ。
郭内の削平は甘い。
北側に竪土塁二つ。
北の尾根続きの鞍部に降りるも堀切無し。
少し登ると間歩の竪穴。
どうやら銅鉱山の試堀の跡のようだ。
次のピークは手が入っていない自然地形のようだ。
お久しぶりです。ぼちぼち城めぐりをして、ぼちぼち投稿してます。去年は大阪から少し足を延ばして山口県の岩国城、そして広島城を巡り、高知城、高松城、丸亀城を攻めて来ました。二条城や伏見城、大阪城に岸和田城もぼちぼち廻り、今年は越前大野城と金沢城も見る事ができました。金沢城は建築構造を3Dビデオ解説していて、その複雑さに感激しました。猛暑の中チャレンジしたため、途中でリタイアしそうになりましたが、お城の中はクーラーも入ってないのにとても涼しく、かなり救われました。
まだまだ、チャレンジして行きたいと思います。
美作市榎の赤松山(417m)登山のついでに3城攻略。
最初は美作市榎の「鷹ノ巣城」(標高327m)。
榎集落から東へ。
「美作国の山城」262ページの縄張図持参。
登城口に縄張図と城名看板。
墓地脇から取り付く。
選定鋏と赤テープ。
出郭の先で止め山の黄色いテープ。
キノコ採りをしていたおじいさんに挨拶して通過。
急登になって郭3段で広い主郭。
岩場を降って堀切。
石橋、土橋。
縄張図はここまでだが、赤松山(417m)に向かうため、そのまま細尾根の山道を東に進む。
小ピークの郭、土橋、小ピーク、土橋、土橋で主尾根取り付きの急登。
主尾根に出てT字路。
GPSの指示どおり左折。
しばらく進むと海田からの軽トラ林道分岐終点に出る。
軽トラ林道とつかず離れずの山道をぐんぐん進んで赤松山山頂。
帰りはピストンで駐車場へ。
二つ目は美作市金屋の「矢櫃城」。
ここも「美作国の山城」258ページから縄張図コピー。
登城路は縄張図のとおりだが、城の縄張はかなり違っている(大きく三つの郭群との情報)と事前調査。
GPS、赤テープと選定鋏活躍。
北の出郭から登りつくと単郭の伝二の丸に出る。
東に尾根を進んで尾根先の二段の三の丸。
1/25000地形図では小ピークになっているが、ピークは無し。
下に民家が見える。
二の丸にとって返して西側の主郭群へ降る。
鞍部に腰曲輪。
遅い昼食。
上ると郭二段で主郭。
帯曲輪は街道(北側)方向に主郭を二重C字形にめぐる。
主郭から南へ三段の郭。
二段目は両側に削り残しの土塁。
三つめは美作市山口の「比丘尼城」。
「美作国の山城」256ページに簡単な情報があるが実態不明。
山口集落の北側の尾根先から取りつこうと民家のおじさんに挨拶した所、「昔、うちの裏から登る道があった」との話。
家の裏の五輪塔群から竹藪を切り開いて進む。
赤テープ、選定鋏大活躍。
作業道が尾根まであったようだ。
内桝形虎口と間違えそう。
尾根に出て削平地。
左手尾根先方向に深い井戸。
右に軽く登って段々の郭。
主郭手前を横堀、土塁(土橋)、竪堀で遮断。
なにやら織豊系の匂い。
妄想が強すぎるか。
主郭の一部に低土塁。
一文字の1m切岸を降りると低土塁の郭、横堀。
ヤブの鞍部は特に加工無し。
登るとトーチカのようなC字形の小土塁のある平坦地。
盗掘された円墳か。
管理人様こんばんわ。
掲示板をお借りして、お知らせさせていただきたいと思います。
美作の中世山城連絡協議会様におかれては、2013年11月30日(土)に山城の祭典を開催される予定です。
当日は、津山周辺において宇喜多氏と毛利氏の戦いの中で作られた陣城について講演が予定されいます。
12月1日(日)医王山城と周辺の城郭群の見学会も行われるようです。
詳しくは中世山城連絡協議会様のホームページをご覧ください。
関西山城サミット2013 in 飯盛山城に参加してきました。
四条畷大学の講堂で、参加者は大よそ300-400名程度。
高年齢の人が圧倒的出来でしたが、なかなか好評でした。
サブタイトルは、「飯盛山城と文人 三好長慶」ということで、戦国時代の蓮歌の役割など、今まであまり聞いたことのない点がありました。
さて、この内容で一番気になったのが、千早城の廃城時期です。
千早城の廃城年は、1332年、畠山基国に攻められ千早城は落城したと思っていました。
しかし、今回高槻市立しろあと歴史館 中西学芸員の話によると、戦国時代に廃城になった、との発言がありました。「え、嘘やろ」と思いました。千早城はご承知のように、古代山城外で、本格的な山城。鎌倉時代の優良な遺構が残っている城と思っていました。
で、サミット終了後、慌てて中西学芸員に質問したところ、1446年、畠山義就軍が壺坂寺を出軍、「千破屋城」(千早城)、嶽山城、「押子形城」(烏帽子形城か)を奪う、とあり、1446年までは千早城は城として活用していた可能性が高いという事でした。
げ、まじかよ。
千早城、確かに古いタイプの城であるのは、間違いないのですが、鎌倉時代の城にしては、シャープなイメージは確かにあります。なーんだ戦国時代の城かー。ひょっとしたら、本丸にある櫓風の場所は、晩年の千早城は本当に矢倉のような見張り台があったかもしれませんね。
てな感じの、関西山城サミットでした。
あ、そーそー、今度高槻市立しろあと歴史館では、「-発掘 戦国武将伝- 高山右近の生涯」という特別展が開催されています。お城さんマークに、データを入れておきます。
残念ながら、特別講演会などは、ほぼ定員に達してもう参加できないそうです。
ただ、これに特別展図録が販売されています。私後ろから盗み目でチラチラ拝見しましたが、なかなか秀逸の図録ではないでしょうか。お値段も600円とお安いです。これは買いです。
では、では。http://www.city.takatsuki.osaka.jp/70th/kinenjigyou/1377146628733.html
いやーーーー、城郭研究者さまーーー、越水城、ご登城、有難うございます。
言ってくだされば、私が完ぺきに案内しましたのに。
越水城に関しましては、詳しく資料を持っています(というか殆ど資料が無いので、私レベルでも大体の資料を集めることが出来ます)ので、なかなか越水城に関しては、詳しいですよ。
> 今回はJR西宮駅から徒歩で散策
ありゃ、それはなかなか歩かないといけなかったのではないですか?車でお迎えに参上したのに。
> 「城ヶ堀町」を通過することになりました
この地名に関しては、城と関係がありそうですが、正直よく解っていません。
> いくら「外城」や城下町を持つ大規模な城だったとされる
> 越水城でもここまでのものかはねぇ。
外城に関しては、根拠が薄く、おそらく無かったか、あったとしても居館のような感じだったと思います。ただ、鷹尾城に関しては、「鷹尾城山城」と「芦屋城」も2つあり、芦屋城も複数あった可能性もあり、よく解りませんけどね。
城下町は、現在の西宮市役所周辺が有力です。
> 『戦国の世以来こんこんと清水が湧き、城や地名のもとと
> なった3ヶ所の泉こそ越水城を語り継ぐ証人』
越水城は小清水とも明記され、清水は恐らく、戦国からではなく、古墳時代から湧いていたと思われます。西国から上京する時に、多くの旅人が水分補給した場所かもしれませんね。だから、城の井戸というよりも、井戸に後から城が出来た、珍しいパターンだったと思います。
城ヶ堀公園は古墳があったらしく、多くの古墳時代の遺物が発見されています。越水城は、過去4回ほど、部分的ですが発掘調査がされていますが、現在の所、城と断定できる遺物、遺構は発見できていません。
越水城は、昭和初期まで、曲輪、石垣の一部、堀の一部があったと言われていますが、急速な宅地化の為、十分な調査が行われる前に、遺構は完全に破壊されました。
また、西宮にお越しになる時はご連絡ください。私が甲陽園城と共に詳しくご案内させて頂きます。
続きがあります。
鳥取県岩美町の「二上山城」をメインに岩美町内の5城探訪。
ヤブコギは出来るだけ避けたかったので、訪城記のある城を選択。
最初の「二上山城」は国道9号線の新井から南下、岩常集落にそびえる。
広域農道に入り、ヘアピンカーブにトイレ付駐車場。
そのまま広域農道を車で登り出丸経由登山道入口に駐車。
刈り払い道には木道崩壊にて立ち入り禁止表示。
木道ならばヘツッて通過可能とそのまま進む。
急登して展望所。
この上の出丸から山頂まで約1Km城郭が続く。
縄張図では城の総延長は1.2Km程度。
切岸の看板。第一堀切、郭。
木道の板の無い箇所を簡単にヘツッて第二堀切。
土塁、二の平(二の丸)、武者走り、一の平(主郭)とその先約200mまで行ってみる。
さすが因幡山名氏の居城。
二つ目は同じ岩常の「常智院砦」。
この周辺には「二上山城」を取り巻く小規模城塞が密集している。
常智院から右手山頂の神社へ。
神社までは山道が通じている。
神社裏に段々の郭。選定鋏と赤テープ。
堀切、郭、堀切〜竪堀。
細尾根の土橋道。
三つめは国道9号線の恩志の「岩山城」。
信号から南に入って、いかにも山城のありそうな山。
ゴミ置き場に駐車して登り口を聞く。
なんのことはない。
山の北端のゴミ置き場からロープ道をたどって直登するコース。
赤テープ、選定鋏。
少し古くなったロープに取り付く。
かなりロープ道が長い。
一般人には登頂困難のようだ。
郭が二段で長い主郭。
南端に櫓台。
一段下って大堀切、岩場の郭、堀切と続く。
城に向かう切岸で終わりのようだ。
城の両側は崖。
四つ目はすぐ近くの「上ノ山城」。
縄張図に従い国道9号線から神社の石段を登る。
三段目の社殿裏から主郭。赤テープと選定鋏。
主郭の南端に岩の櫓台と井戸らしき直径2mの穴。
大堀切〜竪堀。
郭、堀切、浅い箱堀、郭二段。
五つ目は岩井温泉の「岩井正谷口城」。
温泉の駐車場に停める。
ここは公園と化して遺構無し。
北に視界が開けて、国道9号線を隔てた北側の諸城が見える。
日帰り温泉いい湯だな。
鳥取県岩美町の「二上山城」をメインに岩美町内の5城探訪。
ヤブコギは出来るだけ避けたかったので、訪城記のある城を選択。
最初の「二上山城」は国道9号線の新井から南下、岩常集落にそびえる。
広域農道に入り、ヘアピンカーブにトイレ付駐車場。
そのまま広域農道を車で登り出丸経由登山道入口に駐車。
刈り払い道には木道崩壊にて立ち入り禁止表示。
木道ならばヘツッて通過可能とそのまま進む。
急登して展望所。
この上の出丸から山頂まで約1Km城郭が続く。
縄張図では城の総延長は1.2Km程度。
切岸の看板。第一堀切、郭。
木道の板の無い箇所を簡単にヘツッて第二堀切。
土塁、二の平(二の丸)、武者走り、一の平(主郭)とその先約200mまで行ってみる。
さすが因幡山名氏の居城。
二つ目は同じ岩常の「常智院砦」。
この周辺には「二上山城」を取り巻く小規模城塞が密集している。
常智院から右手山頂の神社へ。
神社までは山道が通じている。
神社裏に段々の郭。選定鋏と赤テープ。
堀切、郭、堀切〜竪堀。
細尾根の土橋道。
三つめは国道9号線の恩志。
信号から南に入って、いかにも山城のありそうな山。
ゴミ置き場に駐車して登り口を聞く。
なんのことはない。
山の北端のゴミ置き場からロープ道をたどって直登するコース。
赤テープ、選定鋏。
少し古くなったロープに取り付く。
かなりロープ道が長い。
一般人には登頂困難のようだ。
郭が二段で長い主郭。
南端に櫓台。
一段下って大堀切、岩場の郭、堀切と続く。
城に向かう切岸で終わりのようだ。
城の両側は崖。
四つ目はすぐ近くの「上ノ山城」。
縄張図に従い国道9号線から神社の石段を登る。
三段目の社殿裏から主郭。赤テープと選定鋏。
主郭の南端に岩の櫓台と井戸らしき直径2mの穴。
大堀切〜竪堀。
郭、堀切、浅い箱堀、郭二段。
五つ目は岩井温泉の「岩井正谷口城」。
温泉の駐車場に停める。
ここは公園と化して遺構無し。
北に視界が開けて、国道9号線を隔てた北側の諸城が見える。
日帰り温泉いい湯だな。
参加中です
「城郭放浪記」のホームページから資料プリント。
最初に岡山県新見市南の長屋地区にある「備中・石蟹城」訪問。
資料にあるように地蔵寺方向に入り、住宅の裏手の文字の書かれた石から登りつく。
選定鋏で刈り払い。赤テープを転々と設置して進む。
踏み跡がある。
進むと出郭のような平坦地。
更に登ると三段の小郭。
大堀切、土橋、切岸。
八段目の郭が主郭、石垣、城名碑。
主郭横の武者走りを西に進むと石列。
郭二段。
更に西に下るとJR伯備線の上の崖に出て退却。
延長200mはありそう。
「石蟹城」の東側の神社の尾根筋には土橋らしき遺構。
以前の「おかやまGIS」の1/5000地図だと「意蟹城」搦め手方向(西)まで山道の記載がある。
二つ目は500m南南東の「鯉滝城」。
地蔵寺の駐車場から南の水道施設。
ここまで車も入れる。
最初は快適な山道。
土橋、土橋、小郭。
こから急登を進んで選定鋏と赤テープで道を作りながら尾根筋。
細尾根に岩場が連続する。
所々小さな削平地。
壊れたテレビ受信アンテナのある石積み郭。
どんどん東に進んで主郭の平坦地。
壊れた社の材木と瓦。
ほとんど人手が入っていない。
三方は崖なので「石蟹城」の見張り場みたい。
地蔵寺の駐車場に戻って遅い昼食。
マムシが舗装の上にいる。
三つめは新見市正田の「角尾城」。
市道のヘアピンに駐車。
資料のとおり東側の廃屋の間からの舗装林道を西に進む。
舗装林道はカーブして北へ。
ここの分岐から無舗装。
どんどん進むと一旦下って、使われていない休憩舎。
少し登って、この先から山道に入る。
ここも選定鋏と赤テープ活躍。
二重堀切、広い単郭の主郭と城名碑、その先に二重堀切。
林道に出ると主のいない250ccのスクーターが停まっている。
よくこんな所まで入って来たなと呆れる。
笛を鳴らしてご挨拶。
備後境の岡山県高梁市備中町平川にある「備中・紫城」と「備中・金護山城」訪問。
「備中・紫城」は郵便局から北西に向かい、転々とある案内標識に従って次の交差点で北進してどん詰まり。
集落には登城者用トイレと駐車場。
登城口の標識から膝下の草を踏んで約100mで明瞭な山道。
鳥居から登ると二つ目の分岐で搦め手と大手に分かれる。
大手道に入り、郭、土橋、片堀切、右手に土塁、武者走り、見張り櫓。
土橋から切岸道を登ると土塁全周の三の段。
平入虎口、二の段、横矢、ほぼ方形の主郭。
看板には関ヶ原の戦まで毛利氏の家臣平川氏の持城として機能していたと書かれている。
搦め手は内桝形虎口。
搦め手道は先程の土橋へ(この道は切岸に沿っていて横矢がかかっている)。
ダム湖の上の絶壁の城だ。
一旦、南の平川集落まで戻り平川小学校脇から細い舗装道南下。
すぐに紫城の支城の「備中・金護(子)山城」登城口の石の鳥居と標識。
つづら折れの山道を登って郭二段で左右に道が分かれる。
右手の道は竪土塁の脇から主郭へ。
左手の道は土塁囲みの郭を経て二段で主郭へ。
主郭の西北西には大土塁兼櫓台と祠、大堀切でその奥は平坦地になっている。
平坦地に入ると左手に墓地と民家へ降りる山道。
更に進むも笹薮が濃くなって撤退。
今日の2城は道も明瞭なので少しの勇気で夏場でも可。
氷ノ山登山のついでに「播磨・波賀城」と「因幡・若桜鬼ケ城」訪問。
「播磨・波賀城」は宍粟市波賀の街の上にそびえる片方石垣の城址公園。
1/25000地形図を参考に山上の駐車場。
入口に受付、トイレ、洗面所。
堀切におびただしい石。
遊歩道を上って街から見える方向だけ作られた石垣とそのうえの近世風の再建二層櫓と塀。
櫓の上の主郭は狭い。
山腹の勾配はかなりきつく周囲の腰廓は見えない。
駐車場への帰り道、左手のピークに人手が入ったようなイメージで気になった。
「因幡・若桜鬼ケ城」も手抜きをして車で山上へ。
小学校ルートにある中世城郭部の土の城の部分はパス。
馬場から堀切、土塁、主廓部の石垣全周の近世城郭部へ。
イノシシ除けの電気柵設置工事中。
作業員にお願いして立ち入り禁止のトラロープをまたぎ、「行き止まり虎口」を探す。
伸びた草の中から小規模な石垣のへこみを見つける。
どうやらこれが「行き止まり虎口」らしい。
三の丸、二の丸等ひととおりめぐる。
この後、台風でものすごく荒れた林道を通って(落ちた枝と岩を除去しながら)氷ノ山の殿下コースから氷ノ山三の丸、氷ノ山頂上へピストン。
今日は登山の方が大アドベンチャー。
> 応募者多数で抽選だったようですが、ご当選されたようで
> 何よりです。
あ、抽選だったんですか。
しかし、当日席に若干の余裕がありました。
鞠智城、熊本県にあるいわゆる古代山城です。
この前、岡山に行った時に、鬼の城に見学した時から、古代山城は気になっている城です。
古代山城は、戦国の城には殆ど技術継承されていません。そこから短命で終わったと思われがちですが、鞠智城だけは長い期間、城郭として機能していたようです。
また古い城でありながら、かなり高度な築城技術を持っていたと思われます。
一度、鞠智城いってみたいですね。
それとは、別に伊丹城の堀、発掘調査説明会に行ってきました。
この2つに関しては、また別に記載します。
> 11/9,10の第20回全国山城サミットの詳細がアッ
> プされてました。うーん。
おーーーー、しかし内容を見てみると確かに「うーん」ですね。
テーマが「現代の城主が語る 山城の保存と活用」うーん。
そーゆー切り口も大事だと思いますが危機に行きたいというテーマでは、うーん。
うーん、うーん、うーん。
では、では。
> 管理人様と「ブレイズマンさんはTwitterアカウントをお持
> ちじゃないのかなあ?」みたいな話はしてました。掲示板
> よりは即応性がありますので。
そーなんですわ。持ってないんですよね。
実は、私以前にも書いていたかもしれませんが、フェイスブックをやっており、2つは情報発信できないという事で、持っていないんですよね。
城郭研究者さまは、フェイスブックでも情報発信してるのをこの前発見しました。思わず友達申請ボタンを押しかけましたが、ちゃんとご挨拶してからにしたいと思います。
> 根福寺城西郭の縄張図をネット上で見つけましたので、お
> 城さんマークにリンクしておきます。
有難うございます。そーか、西郭、西城主郭周辺、北は単発ですが、南側には畝状であったんですね。
次回行った時は、戦国武将さながらに、竪堀中を歩きながら西城主郭を目指しましょうかね。
そーいえば、辺りがそーとー暗くなっていたので、畝状竪堀の見学を諦めたのを今思い出しました。
> あと、失念していましたが、土丸城&雨山城の縄張図は『図
> 説中世城郭事典 三』にも載ってました(汗)。ただ、以前
> ご紹介した資料集掲載の方が詳しいです。
なるほど、了解しました。
続きがあります。
> はい。他の参加者様への個別回答でそのような説明をなさ
> ってました。
そーでしたかー。という事は、あの土橋めっちゃ高いところにあるんですね。
> お城さんマークに現地にあった説明板を撮影した画像をリ
> ンクしときます
この写真によりますと、掘り込みを埋めて土塁を作ったという事がよく解りますね。しかし、この土塁以前の掘り込みを作ってどのような防御的役割があるんでしょうかね?
掘り込みの堀底を歩いていたら、土橋にぶつかって、「行き止まりじゃ、ぼけ!」ってな感じなんでしょうか?
なんか、その辺の説明ってありました?
> 南北土塁から土橋への横矢です。
にぁ、にぁ、にぁ、にぁ、にぁんと。
土橋への横矢。はーーーーー、なーるほど。
私はてっきり城外の横矢と思っており、どーやっても横矢ってかからんやん、と思っていました。
そーか、城内に侵入し、あの土橋を渡ってくる敵に対し、一方では土橋の端を塞ぎ、時間をかけさせているところに、土橋に向けて、集中的に火縄銃や矢をあびせかけるという事ですね。土橋の敵を排除できたら、更に外側の敵を排除したらいいわけですからね。
移動は最小限で、まー、なんと効率的。ただ、という事はは、土塁の内側の施設を守る、もしくは土塁の内側に兵力を隠しそこから出撃する、というよりも、土塁の頭頂部が移動道路、攻撃起点となっていたかもしれませんね。
いやーーーーー、教えて頂き有難うございます。
疑問だらけだったもんで。大分すっきりしました。
寝坊はするものではありませぎん。この日は二度寝してしまってかなり焦りました。
> これより以前に、筒井城現説ネタ情報依頼もあったように
> 思いますが、
そーなんですよわ。ご承知のように、この日はキリシタン墓地の現説に行っていたので、筒井城はパスしましたが、ポリタンク先生は両方参加出来たんですか?どーやって?
また筒井城の現状についても教えて下さい。
続きがあります。
6月末に霄漢様グループに備中四ツ畝城に連れていっていただいてから約2月半、マダニ・熱中症・蜂のリスクがるので山に入ることはまかりならんとの飼い主の禁止令にてもんもんとしていたが、とうとうたまらず脱走。
総社市の正木山(381m)と尾根続きの「備中・荒平山城」(再訪)を西から攻略。
総社市街地を抜けて国道180号線から豪渓秦橋を西へ。
トンネルから回り込んで北側の大谷から尾根に出る狭い舗装路を上る。
道の左右から灌木が伸びて車体をこする。
「荒平山城」と正木山城の中間の路側に駐車。
最初は正木山の麻佐岐神社と三角点。
トレランスタイルの男女先客。
戻って東の尾根筋を「荒平山城」(連郭式)へ向かう。
途中、一丁ぐら古墳群。金毘羅神社。
堀切、土橋、小廓、大切岸・竪堀。
左手の道なりに上ると土塁のある三の丸の石柱。
進んで東屋のある二の丸(ここが主郭)。
木陰にトイレ。
まだ30度はある日差しに大汗。
しばらく東屋で休憩して車に戻る。
クルミの実の付いた倒木の枝を車で踏み越えて下山。
管理人様こんにちは。先日訪問させて戴きました東海林です
金蔵寺城へ6日(金)に登城することができました。城に関しては
播磨の家紋研究家(戦国山城を歩く)氏のプログに詳しく記載され
ていましたが、登城道は虫生集落の「安牟加神社」を目標にして南
に少し下がったところに金蔵寺城石柱が有りました。
石柱から東側へ舗装道路を300m進入すると駐車場があり登城口です。
登城口より林道を終点まで20分歩き、谷筋(沢筋)を20分ほど
歩き、谷の終点を尾根に登り左(北東)へ上がると直ぐ城域でした。
本当に素晴らしい城で感動しました。縄張図を書かれた西尾会長は
私と同年代(私は70歳)と思いますが、調査の為何度も登城され
た御苦労に頭が下がります。 近くの「亀ケ城」県史跡も切岸、堀と
遺構が素晴らしく、出石町の中村城も登りはカナリきついですが城郭
ファンの方であれば十分堪能できると思います。
簡単にご報告まで。
ナウです
ブレイズマンさん>
> 私も行ってたんですよー、サミットin烏帽子形城(笑)
>
> えーーーーーーーーーーーーーー、まじですか。
> なんか、いっつもニアミスですね。
確かにそうですね。
兵庫城の時だったような気がしますが、管理人様と「ブレイズマンさんはTwitter
アカウントをお持ちじゃないのかなあ?」みたいな話はしてました。掲示板よりは
即応性がありますので。
> えー、畝状竪堀群ってありましたか?
根福寺城西郭の縄張図をネット上で見つけましたので、お城さんマークにリンク
しておきます。書籍ですと『図説近畿中世城郭事典』(城郭談話会)と『図説中世
城郭事典 三』(新人物往来社)で確認できます。
あと、失念していましたが、土丸城&雨山城の縄張図は『図説中世城郭事典 三』
にも載ってました(汗)。ただ、以前ご紹介した資料集掲載の方が詳しいです。
では、失礼いたします。http://www.geocities.jp/dgdff233/nawabari/osaka/kompukuji/nawabari.htm
ナウです
取り急ぎ…。
ブレイズマンさん>
>「鞠智城 大阪シンポジウム」
残念ながら申し込んでません。
応募者多数で抽選だったようですが、ご当選されたようで何よりです。
では、失礼いたします。
> 大阪春秋 第149号(お城さんマークに出版元情報をリンク)
あははははは、私この雑誌購入し、自炊してiPadに入っていました。全然見ていなかったですね。P.66ですね。有難うございます。
> っていうか、後者は先日の会場で購入しました(汗)
げ、全然解りませんでした。
> 私も行ってたんですよー、サミットin烏帽子形城(笑)
えーーーーーーーーーーーーーー、まじですか。
なんか、いっつもニアミスですね。
今度は古代城ですが、「鞠智城 大阪シンポジウム」に参加予定です。
> 土丸城&雨山城、ぶっちゃけ、縄張図での印象以上にパーツ
> の見応えは期待できませんよ(大汗)。
これは多分南北朝期の城郭を改修して使用したから、見応えが薄いかもしれませんね。
> ここに行かれた後には根福寺城も是非〜。
にひひひひひ、実は根福寺城は行ったことがあります。
というか、根福寺城は大阪府下では珍しい大型の山城ですよね。
根福寺城はなかなか不思議な城で、芥川山城や飯盛山城などの大型の山城には、その山麓に家臣団屋敷跡があると思うのですが、この城はそれがどこなのか全く解りませんでした。
不思議な場所に、二段石垣があったりして、へんだなー、と思いながら歩いていました。
> 強烈な畝状竪堀群を拝む事ができますよ。
えー、畝状竪堀群ってありましたか?
あ、お城さんマークに「山城賛歌」のホームページを入れておきましたが、
「情報によるとこの先に縦掘群があるらしい」
とありますが、これですか?いやー、これは私も見逃しています。
勝龍寺城に関しては、後程書きますね。
では、では。
本岡様、丁寧な返答をありがとうございます。
ネット検索で調べていますと、家紋研究家の「うさくまの日々あっちこっち」様の
プログに「西尾会長」の先導でグループ登城された内容が記載されていました。
山岳寺院と山城が一体化した素晴らしい遺構の様で、登城道の状態は不明です。
今週の天候は不安定ですが探索したいと思っています。登城できましたらご報告します。
ありがとうございました。
ブレイズマンさん>
応答が大変遅くなり、申し訳ありませんでした m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m
まず始めに。「先生」は事実に反するのでやめておきませう(滝汗)
で、
> 東調査地区の質問
>
> 写真の手前ですが、資料には「深さ3mになるものと思われます」とありますが、
> 一番底の部分は本来土橋近くにあった、クランチ底になるという事でしょうか?
はい。他の参加者様への個別回答でそのような説明をなさってました。
> 西調査地区の質問
>
> 資料には「土塁構築以前の掘り込みを埋めた上層の土質と極めて類似」とある
> のですが、掘り込みを埋める前の構造はどんな感じだったのでしょうか?
お城さんマークに現地にあった説明板を撮影した画像をリンクしときます。
> 全体の質問
>
> 資料には「その配置関係から、横矢の機能を持つ構造と考えられています」と
> ありますが、この横矢とはどこにかけるつもりなのでしょうか?土橋なので
> しょうか?
南北土塁から土橋への横矢です。
勝龍寺城現説についてはこんな感じでよろしいでしょうか?
これより以前に、筒井城現説ネタ情報依頼もあったように思いますが、またの
機会でご勘弁を m(_ _)m(古い投稿分から先に書くべきだったかもしれません、
汗)
では、今宵はこのへんで失礼いたします。
ブレイズマンさん>
6/21現在で官報告示待ちっぽいです。同時になされた文化庁の報道発表をお城さん
マークにリンクしておきます。20頁目の「7 日根荘遺跡」です。
では、失礼いたします。http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/shiseki_shitei_130621_ver2.pdf
取り急ぎ…。
ブレイズマンさん>
PDFファイルのご紹介、有り難うございます m(_ _)m
> なにか有力な縄張り図が記載している文献があれば
手元に2つあります。
・大阪春秋 第149号(お城さんマークに出版元情報をリンク)
・2012年の関西山城サミット資料集
ともに出典は同じだと思います。後者は1頁丸々使ってて見易いです。
っていうか、後者は先日の会場で購入しました(汗)
私も行ってたんですよー、サミットin烏帽子形城(笑)
土丸城&雨山城、ぶっちゃけ、縄張図での印象以上にパーツの見応えは期待でき
ませんよ(大汗)。雨山城の土橋近くにある竪堀は(付近が藪々だったせいも
ありますが)個人的には人工物か天然物かの見分けがつきませんでしたし、
土丸城の天辺の郭の西側にある堀切も、苦労して降りたわりには「浅っ!」と
いう具合です。
ただ、このお城、その場に足を運んで、そこにお城がある意味を噛みしめると
いう楽しさはありましたね。土丸城物見からの眺望は抜群で気持ちよかった
です。
-> p.twipple.jp/v5mqI(スキーム部省略)
私はたまたま根福寺城に行くついでのお城を物色してるときにスマホのゲーム
にて名前を目にしました。そうしているうちに大阪春秋を買ったら、縄張図が
載っていた…。これは何かのお導き、行くしかないでしょ!ってことで行きま
した。ここに行かれた後には根福寺城も是非〜。強烈な畝状竪堀群を拝む事が
できますよ。ただ、くれぐれも土丸城&雨山城に行った後にしてください。
遺構のインパクトに差があり過ぎて、土丸城&雨山城のほのぼの(?)した
良さを感じにくくなりかねませんので(汗)
では、失礼いたします。http://www.shimpu.co.jp/bookstore/item/itemgenre/osakashunju/1463/
> おっしゃっているお城、土丸城&雨山城です。
あら。まじですか。
おーーーーー、有難うございます。これ大阪の結構南側ですね。
「土丸城&雨山城」全く聞いたこともない城でした。
お城さんマークに申請書類のPDFファイルがありましたので、入れておきます。
この書類には、
烏帽子形城跡(河内長野市)・・南北朝期
と記載されていますが、今のところまだその証拠は明確ではないんですけどね。
ましかし、この書類では、
「平成21 年度より泉佐野市教育委員会と熊取町教育委員会が合同で土丸・雨山城跡の文化財調査を実施し、和泉国屈指の山城である南北朝期から戦国期(1300〜1600 年頃)にかけての土丸・雨山城の全容が明らかとなった。」
となっていますので、南北朝期の城郭である可能性は高そうですね。
なるほどー。
大阪府も烏帽子形城がきっかけとなり、土丸城&雨山城も含めて、どんどん国指定史跡として申請してくれればいいですね。
ところで、ポリタンクさん、是非今度この城も行ってみたいと思いますので、なにか有力な縄張り図が記載している文献があれば教えてください。
では、では。http://www.town.kumatori.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/15/tutimaru.pdf
ブレイズマンさん>
他の件は後ほど反応するとして(滝汗)、取り急ぎ…。
おっしゃっているお城、土丸城&雨山城です。土丸城の武者隠しを御城さんマークに
リンクしときます〜。
では、ひとまずは失礼いたします。
ウキペディアさんによりますと、
> 楠木正成が築城した楠木七城のひとつで、上赤坂城の支城
> の山城である。
と記載されていますが、昨日のサミットに参加した報告では、烏帽子形城と楠木正成との関連は薄い、かもしれません。
皆さんも、見に行った方は幾度かの改修が考えられるとしても、非常に新しい城郭のイメージは持たれたかと思います。
河内長野市教育委員会が発行した「烏帽子形城跡」の中には、
「当時の記録は、現在のところ見つかっていません。発掘調査においても正成が活躍した時代の土器などは見つかっていません」
とあり、新しい証拠が見つかるまでは、烏帽子形城と楠木正成は薄いと思っていいのではと思います。
> まあ、オフィシャルに認定(指定)したりする場合は、
> すごく慎重に検討されるんだと思っていましたので、大変
> でしょうね。
戦国時代以前の山城は大変難しいとのことでした。作りが単純な城郭もありますので。
> 城好き目線では、「きっとそうなんだ」とかいろいろ妄想
> を膨らませて楽しめばいいと思いますけどね。
それで全然OKだと思います。
ただ、その一方で、仮に言われているほど、楠木正成が支城を持っていなかった?そもそも戦国時代以前に支城という考え方があったのか?という点に注目して、再度、楠木正成像を考え直すというのは面白いと思いますよー。
> 烏帽子形城に続くといえば、楠葉台場じゃないですか?
> ちなみに、古墳群として国指定されている城山古墳って
> 津堂城だという見方もできるのでしょうけれど(^^
情報有難うございます。
ただ、楠葉台場と津堂城山古墳は、すでに登録されているのではないですか?
しかし、今回楠葉台場初めて知りましたが、これはこれで面白うそうですね。幕末にこのような施設があったとは驚きです。
資料をお城さんマークに入れておきます。
大阪府の国指定史跡は、現在審査中の案件です。文科省に書類を提出しており、高槻市しろあと歴史館の中西学芸員が「城郭」と話していたと思います。
まだ、認証はされていません。ただ、大阪府は城郭の国指定史跡は少なく烏帽子形城は、山城としては78年ぶり、大坂城の次が烏帽子形城だったと思います。
それに続く城ですので、期待します。しかし、名前ぐらい覚えとけや、という感じですね。
どこやったけなー。
> 今度竹田城で山城サミットがあるとのこと。
> できれば、私も参加したいのですが、どのように参加でき
> るのか、ご存知でしたら教えてください。
あと、こちら解るようでしたら、教えてください。
では、では。http://www.nikkei.com/article/DGXNASHC2503M_W3A220C1000000/
山城サミットについては、近日記者発表するらしいです。
ってことで現時点ではわかっておりません。
ニュースを楽しみにチェックしていきましょう!
私も情報が入り次第、共有したいと思います。
では
後ですね、気になった点としまして、高槻市しろあと歴史館の中西学芸員の話としまして、烏帽子形城と楠木正成の関係性を調べるため、楠木正成との関連性が伝承されている城郭を23箇所調査したとのことです。しかしながら、城郭と認定出来たのは、そのうちの4城だけだったとのことです。
人工的な削平地だけで、城郭であると認定することは難しく、特に戦国以前の山城は、明確な遺構が判断できにくいとのことです。
うーーーーん、やっぱり、城と認定するのは難しいですねー。
あっそーそー、この時、さらっと言ったので聞きの逃してしまったのですが、大阪府で烏帽子形城に引き続き、平成に入ってから2つめの城郭が国指定史跡として、すでに書類を提出済みとのことです。なんか名前を言っていましたが、全く聞いたこともない城でした。
もしご存知の方は、教えて頂けたら幸いです。
後、高槻市しろあと歴史館では、10月5日から「-発掘 戦国武将伝- 高山右近の生涯」という企画展を実施されます。
お城さんマークに資料をいれておきました。高山右近は、今興味を持っている武将ですので、興味のある方は、是非。
それと、城郭研究家さま、ユーストでおっしゃっていましたが、今度竹田城で山城サミットがあるとのこと。
できれば、私も参加したいのですが、どのように参加できるのか、ご存知でしたら教えてください。
では、では。こんにちは。
そうでしたか。
まあ、オフィシャルに認定(指定)したりする場合は、
すごく慎重に検討されるんだと思っていましたので、大変でしょうね。
城好き目線では、「きっとそうなんだ」とかいろいろ妄想を膨らませて楽しめばいいと思いますけどね。
烏帽子形城に続くといえば、楠葉台場じゃないですか?
ちなみに、古墳群として国指定されている城山古墳って
津堂城だという見方もできるのでしょうけれど(^^
> 一乗谷はかなり整備されて、テーマパークのようでも
> ありますよね。
> 素晴らしい状態かと思います。
いやー本当に、芝生が綺麗に敷き詰められ、本当に美しかったです。
私が行った時は下城戸のある土塁を20名程度の人たちが、丁寧に下草を刈り、見やすい状態にされていました。なかなか整備が大変だと思いますが、大事に保存されており、好感が持てます。
有料化には賛否があると思いますが、一乗谷城は大変素晴らしい整備計画で、一乗谷城のレベルならば有料化も是非するべきではないかと思います。
一乗谷城も含め、福井の城ではいろいろと面白い発見も出来ましたので、また後程詳しく記載します。
で、今回、関西山城サミット2013、参加してきました。
烏帽子形城を中心に関西の山城というテーマでのサミットでした。
烏帽子形城に関しましては、河内国と紀伊国の国境線上で、合計6回の合戦があったのではと言われています。楠木正成関連については、遺物はいまだ発見されず、文献の記載もないという事でした。
で、前に話題になっていましたが「堀内障壁」ですが、「堀内障壁」についての話は全くなかったのですが、ロビーで販売していた「烏帽子形城跡」という本に、大坂城で発見された堀障子や畝掘形式ではなく、三重県にある力尾城と同じ、段差式の「堀内障壁」であるという事です。
えーーーーー、なんだー、という感じです。ただ、そうなるとなんでこの城に大坂城でも発見されていない、三重県、愛知県でのみで発見されている、「段差式堀内障壁」があるのか?という新たな疑問が残りますね。
後、私が気になった点として大阪市立大学の仁木教授が「キリシタン信仰が広がった訳」という点で、都市部では「豊かな経済、自由な気風」、「開明的な思考、新しいものに飛びつく」という気風がキリストの教えとマッチしたとの見解が示されていました。それと相対的なのが当時の日蓮宗だ、という事です。
なるほどー、と感心しておりました。特に関西の城と宗教は非常に密接に関係しているので、納得できる部分も多く、非常に関心を持って拝聴しておりました。
続きがあります。http://www.city.kawachinagano.lg.jp/static/kakuka/kyousha/history-hp/index.htm
福井県の城いろいろ行ってきました。
一番感動は、一乗谷城です。ただ、山城には行きませんでした。
で、明日ですが、「烏帽子形城跡と戦国時代の奥河内」というセミナーが開催されます。
情報提供しておきます。
では、では。http://www.city.kawachinagano.lg.jp/static/kakuka/kyousha/history-hp/index.htm
ブレイズマンさん、反応が遅くてすみません。
一乗谷はかなり整備されて、テーマパークのようでも
ありますよね。
素晴らしい状態かと思います。
「烏帽子形城跡と戦国時代の奥河内」の情報ありがとうございます。
気になるタイトルではありますが、私は残念ながら籠城中です。
楽しんできてください。
初めてお邪魔します。 東大阪在住の東海林と申しますが
「城めぐ」様に、金蔵寺城についてご教授を願いたく書き込
ませて頂きました。
「豊岡の城郭集成U」に記載されている内容では道は有るよ
うですが、虫生集落から直線で6q程と書かれています。
来週末より4日間で26城ほど廻る予定で、金蔵寺城も60分
程度で登れるので有れば是非登城したいと思っています。
もし、御存じの範囲で城の状態をご教授戴ければ有り難く存
じます。
誠に勝手なお願いですが宜しくお願い致します。東海林さま、初めまして。
書き込みありがとうございます。
管理人の本岡と申します。
私も近々豊岡のお城へ行こうかと狙っていたところですが
金蔵寺城の現状は分かりません。
お役に立てなくて申し分かりません。
どなたかご存じな方いらっしゃいましたら、情報をお願いいたします。 m(_ _)m
しかし26城も廻られるのですねぇ。
ピークは過ぎたとはいえ、まだまだ暑いですし
ダニなどの虫にもご注意くださいませ。
> 福井県の城に行かれるとのことですが、お勧めとまではあ
> りませんが、
いやー有難うございます。今回テーマは「加賀一向一揆」なんですね。
> 帰りに国吉城歴史資料館によってきました。
そーそー、私もここはチェックしております。情報有難うございます。
それとは、まったく別なのですが、黒田城。
城郭研究家さまも、つい最近登城したようなのですが、私も行ってきました。
ただ、その前にある場所に寄ったのですが、その方より「黒田城」は「黒田官兵衛の生誕地」とするのは、問題ではないのか。むしろ御着城周辺ではないのか。
また「黒田城」は、「城郭として成立していないのではないか」との指摘を受けました。
私は、「黒田官兵衛の生誕地」の地という事で、るんるん気分だったのですが、「えーーーーーー」とめっちゃ驚きました。
で、実際に登城してみると、その方の指摘がいつか当っているようにも思えました。
現在、こちらも登城しました、写真を整理しておりますので、どうゆうことかご説明したいと思います。
ただ、黒田官兵衛の黒田氏の源流はこの辺にあり、という事は間違いなさそうです。
恐らく、来年かけてもめる要因になりそうですね。
では、では。
追加の情報色々と有難うございます。
> 中世城郭辞典の筆者も書いておられるように、必ずしもあ
> の場所が、犬田城とは断定できませんが、楽しく読ませせ
> ていただきました。
そーそー、霄漢さんが慎重に記載して頂いており、また以前の私の書き込みにも、
> 犬田城は、霄漢さんの情報通り、近畿中世城郭辞典に記載
> があります。こちらには、
>
>「現在犬田城は遺構らしい遺構もなく、その場所も明らか
> ではない」
>
> この地域が本当に犬田城なのかどうなのかについては、不
> 明な点もありますが、なんらかの城郭があったのではない
> かと思われます。
犬田城は断定されてわけではありませんので、この点、注意が必要です。
> 現在は、開発が進み昔の面影が少なくなりましたが過って
> はもう少し城に関連するような地形がありました。
あっそーそー、それで思い出したのですが、以前[国土交通地理院に1948年の印田町周辺空中写真]を再度確認してみました。お城さんマークに写真を入れておきましたので、見てください。
これを見る限り1948年当時は、堀切A、および堀切B、そして屈曲した城道は存在していたようです。
1948年の空中写真をみると、犬井城の推定地は島のようになっていたかもしれませんねー。
で、現在高校の運動場の北側約半分程度は、谷のようなところを埋め立て整地にしたのではと思います。
もう一度「堀切Aの写真」を見てください。緑色の鉄板があると思います。これは、恐らくこの鉄板で土砂を止め、じつは昔は鉄板の向こうは谷が続いていたと思われます。
再度考えてみると、堀切Bに関しては、人工的な作事、堀切Aに関しては、堀切ではなく、自然の谷を利用した城郭、ともいえるかもしれません。
堀切Bだけならば、「応仁の乱末期」廃城説はあり得るかもしれませんねー。
皆さんどー思います?
> やはり犬田城は東側に通っている東高野街道との関連を考
> えなくてはならないと思います。
そーか、こんな場所で応仁の乱の最終決戦が行われたのか不思議だったのですが、高野山に続く道が近くに走っていたんですね。
それは、初耳でした。
続きがあります。http://plus.google.com/photos/108857793486279770251/albums/5911317889920811953
管理人様掲示板お借りします。
ブレイズマンさん今晩は。
中世城郭辞典の筆者も書いておられるように、必ずしもあの場所が、
犬田城とは断定できませんが、楽しく読ませせていただきました。
現在は、開発が進み昔の面影が少なくなりましたが過ってはもう少し城に関連するような地形がありました。
やはり犬田城は東側に通っている東高野街道との関連を考えなくてはならないと思います。
福井県の城に行かれるとのことですが、お勧めとまではありませんが、
7月28日に勝山の村岡山城に行きました。
当日は、地元の方たちが城跡の整備をされており気持ちよく見学ができました。
山上の城は、土塁、空堀がよく残り柳ケ瀬の玄蕃尾城に似た城でした。
8月14日は、美浜町の国吉城関連の岩出山砦に行きましたが、
帰りに国吉城歴史資料館によってきました。
麓の居館は整備が完了し、現在山上の城で発掘が進行中の様で
こに時期でも城は楽に見れるのではないかと思います。
とは別に近日中に福井県の城に行ってみたいと思っております。
どこかお勧めの城がありましたら、ぜひ教えてください。
では、では。
以前、
> そーなんです。ぴったりくる地形ではありますが、この城
> のビックウィークポイントは東です。東からの攻撃どーす
> んねん、という事です。
>
> しかし、わたくし、城郭研究家パート2としましては、今回
> 現地調査を行いまして、一つ面白い発見をしました。で、
> またしても大胆仮説を立ててみました。
としていましたが、写真の整理が出来ました。お城さんマークをご覧になって下さい。
犬田城は東側からの攻撃をどうするかが、ポイントです。
とくに、近畿中世城郭辞典では村野神社までは、城郭としては含んでありません。しかし、
一つヒントとなったのは、霄漢さん説では、
> 近畿中世城郭辞典では、村野神社は城域に含まれていませ
> んが、神社の所が比高が一番あり丘に対して谷が入り込ん
> でいるので私は城域に含んでも良いのではと考えます。
としているように、村野神社を城域として含んでおります。
で、私はどのように考えたか。
登高図堀切という写真を見て欲しいのですが、ここはひょっとしたら2つの堀切を作り、東側の虎口を狭くしたのではないかと思います。
写真Aとしているが、かなりでかい堀切です。写真Bは、それより小さい堀切です。で、皆さん、戦国の城をよく見回っていればお解りのように、虎口周辺には、神社であったりお寺であったりする施設がありますよね。東側の虎口はこの村野神社はそういった施設ではないかと思います。
実は、西に本誓寺がありますが、個々は昔「西口」と言われていたそうです。
またこの東虎口周辺は、直線道とせず、あえて屈曲させています。寺内町を城郭にした場合によく見られますが、ここも侵入速度をダウンされるために屈曲させているのではないかと思い、その中心地に虎口があると思われます。
霄漢さん説をそのまま納得したわけではないのですが、私は村野神社周辺に虎口があったのではと思っております。
ただ、私の説にも弱点があります。
特に写真Aに関しましては、近世にできた可能性があります。規模があまりにもでかいんですね。丘一つが削られてしまっていますので、かなり大規模な土木工事が行われたように思います。
これ、近世にできたならば、「すいません」という感じですが、堀切説が正しいとすれば、廃城直後の「応仁の乱末期」でないと思います。
これほどの大規模の作事が、「応仁の乱末期」では難しいと思います。ここまで大規模となると戦国時代に入ってからと思った方が無難です。
そこで、犬田城は「犬田城の戦い」で廃城になったのではなく、その後、城として使われたかは定かではありませんが、何らかの防御施設として使用し続けられたのではと思えます。
どーでしっしょろ。
何かご意見、反論がありましたら、コメント頂ければ幸いです。
続きがあります。http://plus.google.com/photos/108857793486279770251/albums/5911317889920811953
國松法子様
インターネットにて城名で検索するのが宜しいかと思います。
お久しぶりです!
先日、但馬 八木城(石城・土城)へ探訪してきました
めちゃ暑かった・・・
しかも、遠い・・・
しかし、あの城跡まで続く急勾配の山道はキツイかった
何回も何回も休憩を取りました
でも、あの本丸の石垣を見たら来てよかったと思いました
みなさんも、熱中症に気をつけて
城めぐしましょう
御油にある関口城址と豊川市音羽にある落合城址の情報がある人は教えて欲しいです。國松法子さん、はじめまして。
残念ながら関口城、落合城の情報がありません。
どなたか〜よろしくお願いします(^^;
−−−− 追記
地元の方にうかがってみたのですが、音羽に登屋ヶ根城というのがあり、別名を関口城というそうですね。
その東の慶忠院には、関口刑部の墓と伝えられる五輪塔があるそうです。
参考になりましたら・・。
先日、愛知県の亀山城址と古宮城址に行ってきました。近くに道の駅もあり、整備されていて、城址ですが観光気分で
なうです。
しかしここ城郭といっても大丈夫か?
> 私も行ってましたよ〜。すれ違ってたかもしれないです
> ね。
げ、まじですか。
実は、わたくしーーー、寝坊してしまいまして、30分遅れて到着してしまい、行った時にはもうすっかり説明がおわってしまって、ちんぷん、かんぷんでした。
> 調査前の竹林も趣きがあって好きでしたが、調査によって
> 高低差がわかりやすくなってましたね。
そーなんですよ。はやり発掘の為、一部遺構の破壊も行われており、しゃないなー、と思いつつも少し悲しい気分になっておりました。
で、ポリタンク先生。実は資料をじっくり読んでから、いくつか疑問点がわいており、覚えている範囲で結構ですので、お答えいただければ幸いです。
東調査地区の質問
ポリタンク先生の写真の手前ですが、資料には「深さ3mになるものと思われます」とありますが、一番底の部分は本来土橋近くにあった、クランチ底になるという事でしょうか?
西調査地区の質問
資料には「土塁構築以前の掘り込みを埋めた上層の土質と極めて類似」とあるのですが、掘り込みを埋める前の構造はどんな感じだったのでしょうか?
全体の質問
資料には「その配置関係から、横矢の機能を持つ構造と考えられています」とありますが、この横矢とはどこにかけるつもりなのでしょうか?土橋なのでしょうか?
いやー、やっぱり、寝坊はいけません。
ただ、家から京都までは結構かかり、もう少し遅めの説明会もして頂けらと思った次第です。
今後、ここは公園化するそうです。
どのようにこの複雑な土塁跡を展示するつもりなのか、今後楽しみです。
では、では。
この場では大変ご無沙汰しております(大汗)
ブレイズマンさん>
私も行ってましたよ〜。すれ違ってたかもしれないですね。
調査前の竹林も趣きがあって好きでしたが、調査によって
高低差がわかりやすくなってましたね。(お城さんマークに
画像をリンク)
では、失礼します。
行ってきました。http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20130803000032
犬田城行ってきましたよ。
霄漢さん、
> 道が狭いので神社の駐車場に車を止めて歩かれた方が無難
> でしょう。
情報有難うございます。本当に道が狭く、車が置くところがなかなかなく、いろいろ迷って、「神社の駐車場」という言葉を思い出し、ようやく停めることが出来ました。教えて頂けていなかったら、もっと迷っていました。
犬田城は、霄漢さんの情報通り、近畿中世城郭辞典に記載があります。こちらには、
「現在犬田城は遺構らしい遺構もなく、その場所も明らかではない」
と、この地域が本当に犬田城なのかどうなのかについては、不明な点もありますが、なんらかの城郭があったのではないかと思われます。同書には、
「基本的には犬田城は自然地形を活用した陣城」
とありますような、まーよーこんな城郭に適した場所があったなー、と思われるようなに城郭にぴったりくる地形です。
また同書に、
「防御上の課題となるのは、大地続きの東側である」
とあります。
そーなんです。ぴったりくる地形ではありますが、この城のビックウィークポイントは東です。東からの攻撃どーすんねん、という事です。
しかし、わたくし、城郭研究家パート2としましては、今回現地調査を行いまして、一つ面白い発見をしました。で、またしても大胆仮説を立ててみました。
一つヒントとなったのは、霄漢さんが、
> 近畿中世城郭辞典では、村野神社は城域に含まれていませ
> んが、神社の所が比高が一番あり丘に対して谷が入り込ん
> でいるので私は城域に含んでも良いのではと考えます。
と言っているように、東側にある村野神社の存在をどうするかです。
ここがポイントになりました。
今、現地写真を整理していますので、近日中に私の仮説を披露したいと思います。
それと、土井城と真田丸にも行ってきました。
こちらもなかなか楽しい発見がありました。
またご報告します。
では、では。
なうです
以前、霄漢さんに教えて頂きました、
犬田城と土井城
に今度行ってきたいと思います。
犬田城は、応仁の乱、最後の激戦地となった場所で、この戦いの後、実は日本で民主的な国家観がある地域が出現します。この民主的な国家観が日本では騒乱の時代となり、戦国時代に突入することにもなります。
戦国時代発祥の地とも思える、犬田城に今度行ってきたいと思います。
土井城も犬田城の支城ではないかと思います。
それはそーと、歴史秘話ヒストリア見ましたか?
真田丸。
NHKさんがレーザー地形図と、標高データ、絵図面を参照に復元CGを作成されていましたが、これが今まで言われていた半円形ではありません。わりと四角形に使い形で、しかも今まで言われていた真田山公園ではなく、むしろその西側の高津高校がその中心部だと思われます。虎口は三か所、北側、大阪城側には、更に出丸のような曲輪が描かれておりました。
たしかに急造で作ったとしては、半円形はなさそうですね。
お城さんマークに従来言われていた、半円型の真田丸の復元図をいれておきます。
かなかな今回の歴史秘話ヒストリア知らないことも多く教えて頂きました。
では、では。
にひひひひひひひひ、城郭検定試験、合格しましたよー。
これで、城郭研究家パート2と言ってもいいでしょう。
しかし、な、なんと70点ギリギリでした。
あのー城郭検定試験完ぺきに甘く見ていました。あと一問間違えていたら、不合格でしたのでめっちゃ危なかったです。
2級を受験しましたが、70点でちょうど400位ぐらいで、試験全体では750名程度の受験者がいたようです。
やっぱり上には上がいますね。
あっそーそー、城郭研究家さま。「暑〜い夏夜の山城ナイト」大変ごくろう様でした。
今回も大変素晴らしい会で、是非次回は関西でもやって頂きたいと思います。もー何回も言っておりますが。
実は、私当日参加させて頂きました。
なーんて、嘘ですよ。
ユーストでアーカイブが残っておりますので、お城さんマークに入れさせていただきます。
城郭研究家さまは「城はスポーツ」という項目に大変ご立腹だったようですが、私は、「あるある」と思いながら見ていました。なかなかプレゼンよかったと思いますよ。そーか、「キツツキ戦法」ってかなり長距離だったんですね。実際は難しかったかもしれません。
あれですね、やっぱり城郭研究家さまは、かなりハイスピードで登城してはるんですね。
今回は、全員そうですが、かなり斜めからのプレゼンが多かったですね。今回もなかなか面白かったです。
続きがあります。
管理人様はじめまして、『飛苦無』と申します。
いつも楽しく読ませて頂き勉強させて頂いてます!
実は管理人様及び皆さんにお聞きしたくて書き込みさせて頂きました。
実は仕事の関係で奈良県に転勤になり、奈良の城に行く機会が昨年末頃から増えた私でございます。そこで奈良県の城郭を中心に書かれて高尚な自論を展開されている某ブログ(結構有名ではないでしょうか)
を他県の時に読んで先行研究者の論を否定し自論を肯定し言いきるところなど凄いなと思っていたので、当然奈良での城探訪に使っていたのですが、実際行ってみると某ブログの考察及び遺構評価の稚拙さに驚いてしまいました。当然ではありますが先行研究者の判断が正しい事ばかりであります。
詳しく書くと個人攻撃になり兼ねないので、オブラートに包んでブログ名は挙げませんが、以前色々と問題(自作自演などで)を起こしたことのあるブログです。論文調で研究者の論を否定までして自論を展開しているのはカッコ良いのですが、私の様な者が見ても遺構評価がちょっと・・・と言う感じに思えます。皆様も経験されてませんか?そのブログは利用されてますか?
とりあえず夜明けを待って行ってきました。現地リポートしてますので興味のある方はご覧ください。
鳥取城フォーラム今日ですが、太閤ケ平やるんでしょうか、気象予報が少し怖いです。
鳥取城フォーラムの内容ですが鳥取城跡に関する資料の新発見についてとの案内が市のホームページに出てます。
明治になっての解体の新しい記録が兵庫県立博物館所蔵資料に見つかったようです。http://ameblo.jp/koudaya/entry-11571552150.html
忘れてた!!
幸田屋さん、こんにちは。
そういえば、鳥取城フォーラムがあるのをチェックしてたこと
すっかり忘れてました。
あと、賀露台場の情報、ものすごく興味があります。
拝見させていただきます!!
いつもありがとうございます。
で、拝見しました。
絵図の社地を賀露神社だとすると、鳥ヶ島との位置関係
も合わせて考えますと、確かに賀露神社あたりが気になりますね。
私はもっと北の道路付近を比定して終わっていましたが、
大変勉強になりました。
以前ここではとお話しした賀露台場ですが、昭和18年発行非売品の鳥取市史に中に別の資料が出てきました
台場名が違いますが、規模からして間違いないと思います
現地確認できれば再度報告します。
とりあえず拙ブログに資料のスキャンしたものを掲載しています。
「岡山県中世城館跡総合調査はじまる」の新着情報がアップされています。
興味のある方は是非「岡山県古代吉備文化財センター」のHPへ!!
梅雨の合間に神奈川県の「小机城」訪問。
新横浜駅の西隣にあるJR横浜線小机駅を下りてほぼ線路沿いに西に約700m標識に従って歩く。
縄張図は新横浜駅の三省堂で「関東の名城を歩く・南関東編」を入手。
第三京浜のガードの手前約50mの住宅地の間を登ると「小机城」の根小屋。
トイレ、水道完備。
大規模な横堀から西郭の草野球グランド。
北側の横堀底道に入ると整備された孟宗竹の林。
竹林には入れないように竹で垣根。
両側の竹の垣根の間の道を進んで東郭。
低土塁、矢倉台。
再び横堀を渡って横堀の上の土塁道。
一旦、東郭に戻って中央ルートから西郭に戻り横堀底道。
根小屋に戻ってくると二時間も見学していたようだ。
満足して宿に戻る。
訂正。
T氏から「備中・野路山城」と「備中・矢倉城」は毛利系の陣城ではないかとのご教授あり。織豊系陣城は訂正します。
T氏から備中・矢倉城の支城に当たる野地山城にも織豊系
土塁囲みがあるとの情報を頂き、吉備中央町上竹の「備中・野路山城」訪問。
納地に抜ける町道を上ると左手に「野路山城」への作業道。
作業道に入ると切岸と土塁の残骸らしき盛り上がり。
ヤブの中に遊園地の望楼みたいな建築物。
そのまま伐採地を登り詰めると約25m四方の土塁囲み。
平入虎口2箇所で{ }のイメージ。
大満足。
次に、下市の「備中・羽子田城」。
豊野小学校から北へ進むと「2t車以上通行禁止」看板の舗装道。
道脇から切岸を登ると竹林の平坦地、切岸、三方を低土塁で囲んだ主郭。
南に堀切、狭い郭、堀底に倒れそうな建物のある堀切と続く。
◆講演会&シンポジウム
日時 平成25年7月13日(土) 10:00〜12:30
会場 とりぎん文化会館 第1会議室
定員 150人 ※申込不要、先着順
内容
1.基調報告「鳥取城からみた城郭の近代史」
講師:佐々木孝文(鳥取市教育委員会文化財課)
2.事例報告:岡山城、松江城、米子城、但馬竹田城
3.シンポジウム「史跡整備の現状と課題〜近世城郭を中心に〜」
司会:中原斉さん(鳥取県立むきばんだ史跡公園所長)
4.まとめ
本中 眞さん(文化庁記念物課主任文化財調査官)
◆太閤ケ平現地見学会
日時 平成25年7月13日(土)15:00〜16:00 ※小雨決行
内容 太閤ヶ平《集合》〜現地周辺〜太閤ヶ平《解散》
定員 定員なし ※参加無料、申し込み不要
鳥取にお出でくださいhttp://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1330479878441/index.html
「備前・高山城」は 高松の苔様の2789「恋の城、高山城に行ってさました。」情報にて登城路を知り日曜日に攻略。
中電送電鉄塔巡視路を鉄塔めがけて登る。
山頂の二つのピークが城域。
竪掘を二つ横切って送電鉄塔。
ここから真上に登ると主郭の社跡。
尾根を南下して主郭のコの字形の土塁。
東に虎口、通路、竪掘、腰曲輪二段。
戻って、低土塁の郭、先ほどの通路はここに出ている。
切岸を降って、隣の小ピークに向かって二段の郭。
三段目が二の壇の主郭。
大きく一段下がると城の端に出て見晴らし最高。
延長約200mか。
二つ目は吉備中央町の「備中・矢倉城」
おかやま全県統合型GISの情報では「上下二段の同心円状の単郭。ほぼ六角形、井戸あり、虎口二」とある。
道の駅賀陽から北上して室納地区に進む。
室納の一番北側の民家脇(ここに駐車)から約300mで峠。
峠の矢倉城標柱から東尾根に山道を進むと山頂(標高588.6m)に横堀、高さ約4mの切岸。
切岸と帯曲輪は全周している。
登ると多角形の膝〜腰程度の土塁囲み。
東端にくちばし状虎口と石積み井戸。
もう一つの虎口は平入。
北と東の尾根筋は城郭としては使われていないようだ。
中央に神社跡。
文字の消えた説明看板。
郭の中はあまり削平されていない。
織豊系の砦のようだ。
霄漢様からいただいた「百田の陣城」の縄張図と吉備人出版の「鬼ノ城山塊登山詳細図」(12500分の1)を握って、T氏の車に便乗。
百田集落の最後の家に駐車させていただき、つづれ折れの林道を1.6Km先(池の手前約100m)東側尾根の織豊系陣城「百田の城」に向かう。
昨夜の雨で植物の葉は濡れている。
前回、林道からの取り付きの崖の手前から赤テープ設置。
左に登って前回の赤テープルートに合流。
おかやまGISでは城域は東西約250mになっている。
最初に前回訪問した西の砦を経由して初訪の東の砦。
時々パラパラと小雨。
赤テープを付ける。
T氏は縄張り測量。
小生は選定挟みで処々刈り払う。
尾根を遮断して北北東に折れた土塁。
土塁の端は切岸に折れ。
かなり長い単郭の陣城。
100m以上ありそう。
南南西は武者走り。
小尾根に郭段々。
両側は竪掘風。
所々に浅いタコつぼのような穴。
西の砦に戻ってT氏は縄張り測量。
小生は選定挟みで刈り払い作業。
北北東に向けて土塁囲み。
南南西はひな段式郭点在。
北側尾根筋の二重堀切から約250m程尾根筋を251mピークに向かう。
251mピークは郭と腰郭、切岸に見えたが城郭ではないとのT氏の見立て。
ここまで来たのでGPSを持ち出して、立石城(亀石城?)に行くことになり赤テープを付けながら尾根筋を進む。
尾根を北西に350mで中電送電鉄塔巡視路(送電・新倉敷岡山線コース)に出る。
ここから北東方向に道なりに進む。
半分削られた尾根に有棘鉄線。
地図には送電鉄塔26とあるが現地看板では25の脇を通過。
地図では西日本ポートリー足守農場への分岐。
養鶏場らしき建物が多数見える。
約250mで送電鉄塔巡視路と別れて尾根筋を東北東へ。
おかやまGISの「立石城(亀石城)」の城域に入る。
城域は約600mに渡っている。
堀切、切岸、土塁のある主郭。
百田の東西砦方向に顕著な切岸。
「立石城A(亀石城A)」だ。
段々の郭が降る。
そのまま尾根を進むと、尾根の北側は重機で削られている。
しばらくして三重堀切、切岸、土塁のある主郭と、その先の郭。
なんと「立石城B(亀石城B)」城域になって2城目だ。
岡山GISだと城域は、もっと先まで延びている。
ここまで来たから、後で悔やまないよう尾根先まで行くことに。
半分削られた尾根を更に進むと再び三重堀切、切岸、主郭。
その先の郭。
「立石城C(亀石城C)」だ。
結局、「立石城(亀石城)」は延長約600mにそれぞれ独立した三城からなっていることが判明。
帰りは元来た道の赤テープを辿って林道へ。
じめじめした梅雨時の汗と時々の降雨で衣服も泥だらけで濡れねずみ。
ルート上では毛虫に悩まされたが、超満足の一日。
国土交通地理院に1948年の印田町周辺空中写真がありましたので、お城さんマークに入れておきます。
> この丘の南側は谷が入り込んでいます。
> 現在は、宅地造成が進み人家がありますが20年前は、堀の
> ような田がつながっていました(50年以上前、村野駅の前
> の宅地が無い頃は小川が流れていたようです)
これを見る限り、南側だけではなく、北側も谷のようになっていますね。小川が流れていたかは解りませんが、50年前も畑のようになっています。この写真をみても村野神社も一体として見た方がよさそうです。
犬田城の戦いは、南北朝最後の大規模な戦いだったようで、城郭もかなりでかかったのかもしれませんね。
ご報告しておきます。
では、では。http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=167921&isDetail=true
> 犬田城についてお知らせします。
おーーーーーー嬉しいです。有難うございます。
> 城郭談話会の近畿中世城郭辞典に記載があります。
そーやったんですか。早速確認してみます。
> 左(東)に10m位の崖(竹藪)が見えます、
> この東に延びる丘が犬田城と紹介されています。
> 崖の上には、本誓寺さんがあり、東の奥には村野神社があ
> ります。
> この丘の南側は谷が入り込んでいます。
なるほど、これは印田町周辺という事ですね。
地図をお城さんマークに入れておきます。
犬田城も土井城と同様方形居館のような感じと思っていましたが、地図を見る限り丘城のような雰囲気ですね。また、本誓寺から村野神社までを城域とした場合、かなりでかい城ですね。南北朝の城というより戦国時代の城という感じがします。扇状地の先端部分という感じがします。
> 現地には、東海大学付属仰星高校を目指し、道が狭いので
> 神社の駐車場に車を止めて歩かれた方が無難でしょう。
了解しました。いろいろ有難うございます。
是非今度行ってみたいと思います。
では、では。
ブレイズマン さん
犬田城についてお知らせします。
城郭談話会の近畿中世城郭辞典に記載があります。
犬田城の比定地として、京阪電車交野線で枚方方面から村野駅の手前で、
左(東)に10m位の崖(竹藪)が見えます、
この東に延びる丘が犬田城と紹介されています。
崖の上には、本誓寺さんがあり、東の奥には村野神社があります。
この丘の南側は谷が入り込んでいます。
現在は、宅地造成が進み人家がありますが20年前は、堀のような田がつながっていました(50年以上前、村野駅の前の宅地が無い頃は小川が流れていたようです)
近畿中世城郭辞典では、村野神社は城域に含まれていませんが、
神社の所が比高が一番あり丘に対して谷が入り込んでいるので私は城域に含んでも良いのではと考えます。
現地には、東海大学付属仰星高校を目指し、道が狭いので神社の駐車場に車を止めて歩かれた方が無難でしょう。
ジーンズ産地で有名な倉敷市児島地区。
この辺りは山城密集地だが市街地で駐車困難な所が多い。
今回訪問の4城の縄張図持参。
最初に児島下の町の「熊の城」。
城の西側の切通し付近に駐車。
山道に少し入ってから尾根に直登。
すぐに堀切。
東側の斜面には畆状竪掘。
南西方向に段々の郭が続く。
戦争遺跡らしい直径4m程の丸い穴。
防空探照灯のようだ。
延長約60m位。
墓地の先には二連の送電鉄塔と変電所。
二つ目は田の口港の北西にある「田の口城」。
田の口港に駐車。
港から北北西約400mの信号交差点に戻り、東の路地にはいる。
麓から見えていた送電鉄塔。
ここから念のため赤テープ。
岩滝山の獅子岩への参道なので山道は整備されている。
畆状竪掘。
尾根に出て堀底道と合流。
左手(西側)に土塁がある。
尾根の北側は畑。
二つ目の送電鉄塔の尾根先まで行ってみる。
堀底道まで戻って東側の郭群へ進む。
切岸、帯曲輪、郭。
背後の山手は無防備。
獅子岩まで登り瀬戸内海の景色を楽しむ。
三つめは山中にある「仙隋城」。
仙隋山の東側の仙隋集落の池の土手に駐車。
舗装道路を西に歩いて次の池土手から山道に入る。
ここは赤テープ必須。
分岐に注意しながら西へ。
登って平らな「仙隋城」。
削平の甘い平坦地が続く。三角点。
直径3m程の丸い穴が一つ。
これも戦争遺跡らしい。
四つ目は竜王山(標高210m)の「味野西の城(西五山城)」。
児島足野城二丁目の高校付近に駐車。
市街地を南に進んで老人施設から山手へ。
変電所の分岐は直進。
朝日観世音菩薩まで急登。
尾根で左折。
点々と石仏。
山頂の郭に鳥居と碑。
竪掘のある岩場。
次のピークに三角点。
縄張図の先も段々の郭が北西へ。
延長約400m程度。
今日は晴天。
ペットボトル6本消費。
おーーーーーー、早速の反応有難うございます。
> 土井城以前から探していました。
お、そーだったんですか。
実は私もある方から「家の近所に土井城がありますよ」という事で、当初は「ふーん」という程度しか思っていなかったのですが、大阪府にあるという事で、「やー全く知らないわ」という事で詳しく教えてもらいました。
> 場所的には、天の川を挟んで犬田城を対岸に見る位置のよ
> うですね。
そーなんですね、ホームページには、
「犬井甚兵衛と言う者が屋敷を構えていたそうです。」
とありますので、犬田城とも関係が深いのかもしれません。
実は犬田城というのも今初めて知りました。
ウキペディアさんによりますと、犬田城の戦いというのがあったようですね。
犬田城は、中宮町とか印田町とか、いろいろな記載がありますね。
もし、犬田城に関しても、なんかご存知でしたら教えてください。
土井城はその名称から土塁で囲まれた方形居館的な城郭ではなのかなー、と思えます。
土井城、犬田城は、後の交野城と関係あるかもしれませんね。場所も近いし。
何か解りましたら、私もこちらに書き込みます。
では、では。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ブレイズマンさん今晩は。
土井城以前から探していました。
あの付近は城に行くことができない時に
自宅の近所なので散歩がてらに自転車で
うろうろしましたが見つけることができずにいました。
場所的には、天の川を挟んで犬田城を対岸に見る位置のようですね。
近日中に行ってみます。
ところで、私もさっき知ったばかりなんですが、大阪府に、
土井城
という城があったの知っていましたか?
私は全く知りませんでした。
お城さんマークに資料を知れておきます。
もしなにか、土井城についてご存知の方は教えて頂ければ幸いです。
では、では。
> 筒井城現説とキリシタン墓現説をハシゴした話とか色々あ
> るのですが
えーーーーーーーー、まじですか。
どーやって。すごいなー。
さてさて、今回はいよいよ岡山に行ってきました。まず最初に行ったのは、津山城です。
津山城は、森忠政によって築城された城で近世城郭の最終形に近い城です。
森忠政というのは、森蘭丸で知られた織田信長家臣団の最後の生き残りで、森氏の末っ子が18万石の領主として着任しました。この城18万石という小大名にはまったく相応しくない、堂々たる城郭で、大変お金のかかった城であったと思われます。
森忠政は、なぜこのような大規模な城を築城できたのかは不明ですが、徳川家康より築城名人として高く評価され、江戸城石垣普請や駿府城・丹波篠山城・丹波亀山城・名古屋城などに協力しています。
ひょっとして、森忠政も私同様城マニアで、分不相応な城を建てたかったのかもしれません。
城の雰囲気は、城名人として知られた藤堂景虎の居城、伊賀上野城にも似ています。ただ、津山城の方が新しい雰囲気はしますね。見応えたっぷりの素直ないい城です。
城全体として77櫓、本丸だけで31櫓が建っていたと言われており、はやりこれは過剰なほどの櫓です。
よく徳川家康がこのような城を認めたもんだ、と驚いておりますが、徳川家康もマニアには「しゃーないか」と甘かったかもしれません。
本当に素晴らしい城でありましたが、残念ながら廃城令によってすべての建物が取り壊されます。その後2005年に備中櫓が復元されることになりました。
続きがあります。
管理人様今晩は。
4月27日三重県伊賀市の行者山城について書き込みさせていただきました。
先日、友人が行ったところレンズキャップが落ちていたそうです。
メーカーはCanonです。
どなたか落としませんでしたか。霄漢さん、こんにちは。
レンズキャップ、落としやすいんですよね。
私も岡山の鍛冶山城で落としました。(知りませんか?)
あとメガネも別の城の崖下に落として苦労しましたが。
気を付けないといけませんねえ。
本岡様早速のお返事有難うございました、当方mixiにて岡山の山城巡りをメインでやって居りますが、たまたまサイト検索中このサイトを拝見しカキコさせて頂きました、やぶくぐり様の岡山の山城等色々と参考にさせて頂き大変有難く思っております。住まいは備前市なので備前廻りは制覇して居ますが県北の情報頂き大変助かっております。
ご無沙汰しています
あれから5年以上・・・・・写真・・・・・そのままなのですね?
まあ 目印には なるかも・・・・・ですが 目的地が まるっきり 別の場所ですよ(^v^;)大丈夫でしょうか?
みなさんが言われている「三村氏屋敷跡」は 私たちが言う所の「城の内(しろのうち)」という所です。
10数年前から「三村氏屋敷跡」の看板が設置してあります。
ご参考にしていただけたら 良いなと思います。
写真を投稿できたら良いのにな・・・・・・残念です。るんさん、書き込みありがとうございます。
また、ご指摘の件ありがとうございます。
弊サイトに掲載しております写真や本文は、私の不勉強から
残念ながら間違いもあろうかと思います。
間違いがありましたら確認してただちに訂正するつもり
ではありますが、スッポリ抜け落ちてしまっていたようです。
申し訳ありませんでした。
大変ご無沙汰しております。
筒井城現説とキリシタン墓現説をハシゴした話とか色々あるのですが、さて、どれ
から書き込めば良いやら(汗)
取り急ぎ…。
管理人様>
> ポリタンクさん
> 先日はありがとうございました。足の調子はいかがですか?中途半端だとまた
> 再発してしまうでしょうからじっくり養生なさってくださいね。またよろしく
> おねがいいたします。
いつも以上の亀モードですみませんでした(大汗)
お陰様で、足の調子はよくなっています。といっても、今年前半の山城行きは
ボチボチ環境的に厳しいかなと思いますので、この週末の高取城で〆ることに
なるかなと思います(汗)
こちらこそ、これに懲りずお付き合いいただけると幸いです m(_ _)m
では、失礼いたします。ポリタンクさん、こんにちは。
早くも(笑)、山城を封印ですか?
でも高取城も真面目に歩けば、かなり体力を奪われますけどね。
でもほんと高取城、お好きですねえ〜
始めてこちらにカキコ居れさせて頂きます、岡山県内にて山城巡りをやってます、管理人様宜しくお願いします。リュウ様、
はじめまして。
書き込みありがとうございます。
管理人の本岡と申します。
こちらでは岡山県の話題も多く出てきますので、
情報交換ができればいいなと思います。
今後ともよろしお願いいたします。
T氏から備中高松城攻めの毛利方拠点の足守・宮地山城と足守・立石城との間にあるおかやまGISに名無しの連郭式山城と記された城は何かありそうとのご教授を思い出し、岡山に出たついでに訪問。
足守集落から北に進み橋の手前を左折(西へ)。
西町経由で百田集落。
百田集落の西奥の最後の民家付近に駐車。
民家の人は城の存在を知らず。
舗装林道を北西に登る。
つづら折れの林道も舗装が無くなり、最近車も入った形跡無し。
ブランコ毛虫多数。
池の手前約100mから左手(東)の尾根に取り付く。
赤テープ、選定挟み活躍。
アメリカシロヒトリに注意。
山頂手前左手に水の手郭のような掘り込み。
すぐに山頂。
ほぼ全周の土塁囲み。延長約50mか。
処々に穴状の掘り込みがある。
南側に武者走り。
ひな段状の小郭が南面の斜面に点在。
どうやら単郭の織豊系の土塁囲みの陣城みたいだ。
仮称「百田所在城」としておこう。
東側の隣のピークは未訪。
北側の尾根筋に二重堀切。
そのまま北へ進むと段々の自然地形か人手が入ったか判別不能の尾根筋。
赤テープを次々に設置。
251mピークは小郭と付随する帯曲輪と切岸に見える。
その北も段々。
立石城との間の谷付近の尾根端までで引き返す。
立石城との間なので宮地山城は完全に孤立したようだ。
大阪出張のついでに大和3城攻略。
最初はタクシーの運転手に無理を言って(集落の細い路地の奥が目的地)マイナーな「若槻環濠」。
星野直哉氏の縄張図持参。
東西300m、南北100m程度。
天満神社に至る。
細い側溝みたいな掘が廻る。
二つ目は有名な「稗田環濠」。
東西260m、南北260m程度。
こちらは堀幅も広く(ほとんどの部分がブロック張りに回収されている。)、集落の周囲を廻っている。
駐車場も完備。
三つめは「大和・郡山城」。
外堀公園を廻って城門で下車。
内堀をぐるっと廻る。
石垣は高い。
西側の池を見て本丸の柳沢神社。
天守台は崩壊の危険があるので立入禁止。
石垣にさかさ地蔵。
歩いて柳沢家菩提寺、秀長菩提寺を経由してJR郡山駅に向かう。
時間が余ったので再びタクシーを捉まえて平城宮跡に足を延ばす。
歩行18,000歩。
やぶくぐりさん、こんにちは。
大阪出張ついでに大和とはなかなかの行動力ですね。
しかもタクシーを活用され、徹底した時間の有効活用とは。
秀長菩提寺もいかれましたか。
私は事前に連絡をとって、ご住職の楽しいお話をうかがった
ことがあります。
大和郡山は駅からレンタサイクルを使って1日かけて
外堀(石碑)めぐりをしましたが、意外と楽しかったですよ。
今晩は板主様、外城好きな皆様
最近メジャーになりつつある鳥取城包囲網の話題なので?
こちらをお借りして書かせていただきます。
「く」の字の堀は丸山城に関してはほとんど養父市教委の谷本さん著作の受け売りなのですが
鳥取城包囲網に関しては既存の城再利用ととらえ、丸山城もそう思っています。
包囲網の「く」の字の堀は秀長陣から竪堀を南に下った沢を左に上ると直ぐ右に城跡らしからぬ平地が見えてきますそこを登ると小さな竪堀が見え、尾根を越えると更に竪堀その竪堀を登ると最初に見た竪堀と結ばれています。
太閤陣東の虎口からUターンして鳥取城へ向かうルートには竪堀を挟んで方形の廓がならんで、先端の方形土塁に囲まれたエリアまで短時間で移動できる素晴らしい縄張りなのですが
ここと秀長陣との間のピークは山頂部の造作はそれなりにすばらしい、でも明らかに囲む廓は違います。
既存の城を再利用したものと思います。http://tottori.rojo.jp/tottori/maruyama.html
幸田屋さん、ご無沙汰しております。
何ども鳥取市内には踏み込んでいるのですが、なかなか
幸田屋さんにお目にかかれる機会がないのが残念です。
鳥取城周辺の陣城については、さらっと話題に入れる
ほどまだ頭の中にイメージできていませんので、あとで
図面を見ながら追いかけさせてもらいます。
鳥取城周辺はほんとアツいですね。
何度も通ってしまいます。
幸田屋さんお久しぶりです。
管理人様、掲示板お借りします。
早速反応させていただきます、「北北東尾根を頂点に「く」の字の堀」とは、アンテナに向かって上がってくる階段の両側にあるものだと思うのですが、
如何でしょう。
私は、これは両側を竪土塁で区切られた張出?と考えています。主郭(寺院跡の有る山頂の削平地)の北西の角にももう一か所あります。
この様な構造を、私は毛利方の陣城(たとえば鹿野の荒神山城等)でみられるものと考えています。
「秀長陣から竪堀を南に下り再度登った最初の陣の北北西の尾根にあるんです」とは、空堀が南に向かって登ってきて一旦南西に向かい再度南に向きを変えて郭にあたる所と思いますが、確かにこの山を歩くと古い山城の遺構ではないかと思う削平地が見られますが、地元の物でない私が何とも言えないのですが、単純に地形による制約の結果と考えていました。
このへの所は、幸田屋さんお教えいただきたいと思います。
よろしくお願いします。
霄漢さま鳥取の城ご紹介ありがとうございます
拙の丸山城案内貼り付けています
丸山城の疑問点に掲げています「北北東尾根を頂点に「く」の字の堀」ですが竪堀と堀切が合わさっていて上から見ると「く」の字に見える物が実は包囲網の中にもあります
秀長陣から竪堀を南に下り再度登った最初の陣の北北西の尾根にあるんです。
あれはかつて但馬山名の山城があの位置にあり、それを秀吉が改修したのではと考えています。あの砦を囲む廓は舌状で方形ではないです。
もし見たことのある方がおられたらご教示下さい。
私は2級から受験しましたが、大阪会場では205名の参加申し込みがあったようです。
前の受講者は、2会場に分けて行ったとのことです。3級と準1級の合同で行われ、おおよそ大阪会場だけで600名程度受験したのではないでしょうか。
第1回 日本城郭検定の概要をお城さんマークに入れておきましたが、2級は女性の受講者は1割程度だったと思います。あと、第1回 日本城郭検定の概要より少し年齢層は高かったように思えます。
今回は、9会場で開催されたようですので、前回以上の受験者数、合格者数がいてると思います。
前回は、3,2級合格者は大よそ2000名だそうです。
> 京都府中世城館跡調査報告書
おお大変いい情報有難うございます。これ気になっていたんですよ。
今度どこかで閲覧したいと思います。
では、では。
> 試験お疲れ様でした。難しかったですか?
いやーーーー、めっちゃむずかったです。あまく見ていました。
まずこの試験ですが、一応本を売るために考えられたシステムで、お城さんマークにあります、
・日本城郭検定公式問題集〈日本100名城編〉
ここにあります100門のうち、50門はこちらの問題集から出題されます。
一応、私、試験勉強をしましたので、この問題集に出題した試験は、ほぼ100%回答できました。そこはちょっと自慢です。
ただ、問題は残り50門ですね。
ここが異常に難しかったです。ブログを観察してみると、第1回目よりレベルアップしているらしく、皆様苦労されているみたいですね。
問題集は持ち帰る事がOKです。
問題の一例として
「岐阜城にあって天下統一を目指していた織田信長が、京都の往来に宿泊などでたびたび利用していた城はどれか」
というがあります。
2.長浜城と4.膳所城は新しい城ですので、織田信長が頻繁に宿泊したとは考えにくいと思います。後は、1.小谷城か3.佐和山城のどちらかになります。小谷城は浅井長政の居城ですので、弟の城に宿泊するとも考えられますが、岐阜城と小谷城は近く、小谷城は若干北上しなければならず、答えは当時まだ中世城郭の佐和山城ではないかと思います。
あとは、「三重の堀に囲まれた、石垣は笏谷石で造られいる城はどれか」なんちゅう難しい問題もあります。
一応自己採点してみました。
な、なんとギリギリ70点でした。
ただ、自己採点の回答が間違っている可能性もあり、また覚えている回答が間違っている可能性もありますので、実際のところ、微妙ではないかと思います。
> 結果はいつになるんでしょう。楽しみですね。
今月末にはわかると思います。
結果はご報告しますね。
続きがあります。http://www.kentei-uketsuke.com/shiro/books.html
ブレイズマンさん、こんにちは。
試験お疲れ様でした。
受験勉強もたまにはいいんじゃないでしょうか。
100名城だけに関する問題だと思っていたら、
必ずしもそうでもないのですねえ。
でもまぁなかなか覚えるつもりで本を読んだりすることも
少ないですから、受験という機会で知識を増やせるようになるのは
いいことですね。
管理人様今晩は。
続けて書き込みさせていただきます。
以前お知らせしました。
京都府中世城館跡調査報告書第1冊丹後編に続いて。
第2冊丹波編が刊行されました、一般には販売されませんが京都府の図書館で見られるようです。
第1冊丹後編は国立国会図書館関西館の書庫に入っているのを確認しました。
第2冊丹波編は福知山市、綾部市、京丹波市、南丹市、亀岡市、京北町の400城が報告されています。霄漢さん、こんにちは。
貴重な情報ありがとうございます。
近所の図書館ではきっと置いてないでしょうから
お目にかかれる機会はそうそうないのでしょうね。
販売してくれたらいいのに・・・ぼそっ・・。
管理人様今晩は。
鳥取の昼飯山城に行かれ事、読ませていただきました。
竪土塁は、南側に延びる尾根上に現状50m位残っています。
水道タンクの敷地の南の角にある電柱のところから降ります。
残念ながら尾根先は、下の住宅地の造成のために削り取られれました。
この削り取られたところに土塁囲みの郭がありました。
この竪土塁は高さ2mを超え立派の物です。
以前お知らせしまた、伝秀次の陣「山守の砦」は東にあるアンテナの立っている「山守東の砦」が道があるのでこちらに上り尾根を西に下がると楽かもしれません。
丸山城は、南側の住宅地の奥に登山道があります。
山頂には遺構があまり無い様なことが言われますが。北と西側に土塁などの遺構が残っています。
私たちは、鳥取の陣城調査には吉川経家墓所公園の駐車場をベースにして、ここから始まる遊歩道を登りました。
途中、五反田平の砦、秀長陣所がありますが、いずれもよく遺構がのこっています。
特に、秀長陣所から南に谷に向かって降りている空堀は見ていただくと私は感動ものだと思いますが。
ただ一人で行く事はあまりお勧めではありません。
吉川経家墓所公園の東の丘陵には、延長200m以上の土塁を伴う「下の丸」陣城があります。
伝「仙石権兵衛陣所」にもいかれたようですが、この尾根上にも陣跡が続きますが、
この尾根の最高所には食い違い土塁による虎口のある「高場ノ陣所」があります。
機会があれば行ってみたください。
今回、医王山城に行かれたとのことですが、その主郭から背後の山の稜線が見えたと思いますが、そこには医王山城を守るための毛利の城、烏ヶ仙城、塩屋ヶ城、梶間山城等があります。
それに対する宇喜多側の城が最近やっとわかってきました。霄漢さん、こんにちは。
ようやく昼飯山城に行けてよかったです。
しかし竪土塁は残ってたんですね!
うーん・・でもあの時は敷地内にどうしても踏み込まずになんとかしたかったので、しょうがないかなぁ。
といいますか、藪も気になってましたし。
冬場にまた周辺もあわせてチャレンジします。
本岡@城めぐです。
大変ご無沙汰してしまっておりまして、申し訳ありません。
また多くのコメントをお寄せいただきまして、ありがとうございます。
申し訳ないのですが、最新の話題で遅いレスとさせていただきます。 m(_ _)m
成田三河守さん
うわわ・・ありがとうございます(^^;
今後とも良しなに。
やぶくぐりさん
国指定となった三木の陣城めぐりですね。私も少し前に軽く観て回りましたが、綺麗に草刈されているところが多く、嬉しくなりました。
私はGW中は矢筈城、医王山城などに行ってきました。いやぁ〜いいお城でした。
医王山城は畝状竪堀のあたりも見やすくされているのがよくわかります。いいタイミングで訪問できたんでしょうね。
ブレイズマンさん
試験お疲れ様でした。難しかったですか?
結果はいつになるんでしょう。楽しみですね。
まるちゃんさん
一番好きなお城は姫路城ですね。最近になってじわじわと姫路城の良さを再確認させられています。丸亀城も好きですが、なかなかベストな角度で撮影が難しいなと思ってます。またうどんがてら再訪しようかと思ってます。今後ともよろしくお願いいたします。
霄漢さん
相変わらず精力的にあちこち行かれてますね。いずれも参考になります。
そうそう鳥取の昼飯山城に行ってきましたよ。城域に踏み込みやすかったのであまり気にしなくても大丈夫でした(^^)。写真に撮るのは難しかったですが、なかなかの遺構でしたねぇ。
城歩きマンさん
亥山城の情報ありがとうございます。福井県のお城情報ぜひぜひよろしくお願いいたします。今後ともよろしくお願いいたします。
番茶さん
城跡で心霊スポットというのはたまにありますが、私はあまり気にしていません。でも気になるのでしたら怖いですよねぇ(^^;。できるだけ誰かを巻き込んで連れていってください。
ポリタンクさん
先日はありがとうございました。足の調子はいかがですか?中途半端だとまた再発してしまうでしょうからじっくり養生なさってくださいね。またよろしくおねがいいたします。
高松の苔さん
備中高屋城の情報ありがとうございます。いつかは行きたいと思っているお城の1つですが、なかなか・・来シーズンを狙いたいと思います。
本岡様、こんにちは!
「城郭写真記録」の成田三河守です。
先日、「こんな城もあったんだ」をネットで注文して、
本日、届きました。
自宅から国指定史跡で最も近い
大給城も載っていたので楽しみです。
読ませて頂きます。
オジジ6人の予定が3人になったけれど「播磨・三木城」とその付城4城攻略。
T氏から頂いた縄張図と三木市教育委員会発行の「三木合戦を知る」を持参。
山陽道山陽インター付近で8:30に待合せし、家からだと往復6時間の移動と6時間の訪城で12時間たっぷりの一日。
最初は「播磨・三木城」。
城下橋の駐車場に車を置いて商店街から本丸方向に進む。
元和の一国一城令で破壊されていて遺構は少なく市街地化している。
本丸から二の丸、雲龍寺、首塚と進み「鷹の尾砦」を目指すも雲龍寺からの山道閉鎖。
一乗院も入りにくそうなので「宮ノ上の要害」もあきらめる。
観光協会にてパンフレット、書籍入手。
二つ目は三木ホースランドパーク内第6駐車場からキャンプ場を経由して「這田村法界寺山ノ上付城」。
乗馬優先標識に従ってハイキングコースを「朝日ケ丘多重土塁」経由で進む。
展望台の近くに標識。
主郭と二の郭の土塁囲み。
主郭の正面は平入虎口だが横堀と土塁で外桝形になっている。
北に雛段状郭群。
駐車場を第4に移動して三つめは「高木大山付城」と「高木大山土塁A」。
看板には展望台と記載。
四つ目は一旦街中に出て「高木大塚城」。
十字架のような外郭の土塁線。
猛烈な横矢が掛りそう。
全員感動。
桝形虎口になっている。
周囲の盛り上がりも土塁や櫓台。
まるで四稜郭みたいだ。
近代戦でも使えそう。
五つ目は竹中半兵衛墓所から秀吉本陣の「平井山ノ上付城」を目指す。
八幡宮に駐車してニセ標識に従い「平井山本陣」を目指して進む。
池土手から山道を進み舗装道へ(本当は舗装道路出会い付近に平井村中村間ノ山付城)。
更に進んで左折して送電鉄塔巡視路。
山頂の平坦地を降って鉄塔。
更に降って山陽道に突き当る。
やっと間違いに気付き巡視路入口に戻る。
そのまま東に進み右折してブドウ園。
ここで作業者に問い合わせて「平井山ノ上付城」の位置を確認。
ジュースの自販機でよみがえる。
西に舗装道を降っていくと二番目の池。
左側の尾根を見ると郭群。
谷筋にある山道に南に入りシイタケ圃場。
尾根に登り付くと雛段状郭群。
郭の形状から縄張図の西から二つ目の尾根にいることが判明。
主尾根の郭から東に約50mで主郭。
主郭のコの字形の土塁。
東に進んで半分低土塁の廻る櫓台。
更に東に進んで土塁囲み。
時計を見たら16時になっている。
あわてて撤退帰路につく。
なうです
今週日曜日、いよいよ試験が迫ってきました。
一応勉強はしております。
沖縄の城(グスク)では、本土で16世紀末に近世城郭が生まれる以前から優れた築城技術が発達した。その建造物はなにか。
答えは解りますか?
お城さんマークに2級の練習問題があります。
さて、城郭研究家パート2になるか?
こうご期待。
では、では。http://www.kentei-uketsuke.com/practice_test.asp?exercise_id=jkkt002
沢城に行ってきました。沢城は奈良県宇陀市の榛原澤にある城で、伊賀国とも近く、近世城郭の宇陀松山城の近くです。
先日のキリシタンの墓、そして高山城、そして沢城ということで、高山右近の足跡を辿って行ってきました。
同地域は、今でこそ山麓にある雰囲気のある喉かな土地ですが、当時は、近世城郭の宇陀松山城などがあることから、石高がそこそこある活気ある土地ではなかと思います。
> 5月3日
> 私も、大和宇陀の沢城に、15年ぶりに行ってきました。
にぁにぁなんと、私の前日に行っていたんですね。
沢城は元々、この地域の国人であった沢氏の居城だったようですが、松永久秀の家臣であった、高山友照、高山右近親子は、大和国進行に伴い、沢氏を追い出し、同地域を支配することになります。
人格者でキリシタン大名であった高山友照は、城内に礼拝堂や宣教師の宿泊施設まで整備していたということてすが、恐らくこの山城部分ではなく、麓の居館部分ではないか、と思います。
この城は、標高538mという高地にあります。さすがに、このような高地で生活するのは大変です。私も登城するのに苦労しました。普段は麓の居館で生活や政務を整え、戦闘状態になるとこの城に立て篭もる、という典型的なパターンではないかと思います。
このお城は、小さなお城です。ここでメインの戦闘を行うということではなく、避難所としての役割が強い城ではないかと思います。
> 相変わらずの薮で、主郭はほぼ入れませんでしたが出丸は
> じめ他は確認できました。
そーなんですよ。
私も、三の丸、二の丸、本丸という部分は、時間切れで、見学出来ませんでしたが、隠された部分にあり、出丸部分がメインの遺構です。
三の丸、二の丸、本丸部分と出丸部分では時間差があるように思え、本丸部分は沢氏、出丸部分は高山氏だったかもしれません。
出丸部分の構造は、高山城と高山向山城とは違い、どちらかと言えば、伊賀国の城郭構造を色濃く取り入れている感じがします。
登山道は非常に整備されおり、出丸部分は、発掘調査が行われたのか、所々、土嚢で補修されおり、巨大堀切は圧巻です。この堀切が3つ連なっています。
山麓にある山村は日本の原風景とも思える、とても雰囲気がある地域です。
高山親子は、その後摂津国の高山城に戻り、沢城は沢氏が奪還に成功します。
その後、織田信長が大和国に城館破却令を出し、沢城も廃城になったと思われます。
では、では。
風邪が長引いてもう3週間。
やっと登城可能となって美作国4城訪問。
最初は美作市右手中の「美作・右手城」。
「美作国の山城」190ページの縄張図持参。
民家裏の墓地から登ると小郭点々。
縄張図の竪堀・堀切は大部様子が異なる。
縄張図にあるその上の郭は見当たらない。
少し間を開けて主郭になっている。
寺城らしい。
二つ目は「美作国の山城」191ページの「美作・富坂屋敷」。
廃墟になっている梶並隣保館付近の路側に駐車。
墓地と民家の間の山道に入る。
墓地に竪堀。
郭続きの墓地から主郭に入り細尾根の郭が続く。
縄張図では堀切になっているが、片堀切。
登り尾根に郭、腰曲輪、土橋、郭で終わっている。
三つめは「美作国の山城」203ページにある奈義町馬桑の「美作・鎌倉山城」。
GPSを忘れたので、南側の林道の大堰堤脇の伐採馳から直登、赤テープ設置。
縄張図の標高が記されている尾根筋をひたすら登る。
標高510m付近に出郭みたいな平地。
そのまま快適な林地を登ると主郭横の腰曲輪に飛び出る。
支尾根にも郭点々。
東に移動して櫓台らしき高まり三か所。
段々の郭が降っている。
妄想か、低土塁が一部にある。
横矢もうまく掛りそう。
西側の郭群も見て回る。
こちらも横矢が上手く掛りそう。
四つ目は「美作の山城」209ページの「美作・奈義仙城」。
縄張図にある那岐山登山道Cコースの林道終点から道のイメージが書かれている方向へ進む。
適当に渓谷を渡る(本当は滝の連続する激アドベンチャーコース)。
渡河点に黄色ビニールテープ。
この辺りから赤テープ設置。
崖をよじ登ると郭群。
取りあえず主郭、細尾根を箱状堀切とその先まで行ってみる。
郭群を南に降って竪堀らしき窪みの上を通過。
尾根筋を降ってトラバース。
合流点の東側の黄色ビニールテープのある滝の上の渡河点通過。
再び崖をよじ登って那岐山登山道Bコース。
久しぶりに腕力だけでよじ登るロッククライミングを2回もしちゃった。
激疲れ。
うわさでは、大別当城、八巻城、奈義仙城を結ぶ那岐山下部登山道が近々できるとのこと。
期待してます。
あなたの好きなお城はなんですか?
僕は、ながーい坂を上ったら本丸がある丸亀城が好きです。
あなたも好きなお城を見つけてみたらどうですか?
5月の連休に行ってきました。
5月3日
私も、大和宇陀の沢城に、15年ぶりに行ってきました。
相変わらずの薮で、主郭はほぼ入れませんでしたが出丸はじめ他は確認できました。
5月4日
ネットのブログで紹介されています中山道藪原宿の近くにある土塁囲みのような変な物、
場所は長野県木曽郡木祖村大字藪原で中山道が鳥居峠を下がってきた斜面に有ります。
中心部のは大きさは15m四方、その外側に土塁があり長さが約25m。
18世紀ヨーロッパの堡塁(ボロジノの戦いでのロシヤが使った角面堡が有名ですが)
最初、ため池の考えが思い浮かびますが水を引き入れる様な沢は近くに見当たらりません。
山仕事でこのような物を作るのでしょうか。
他に、
妻籠城の、妻ノ上土塁も見てきました。
近くの家の人に確認したので物は間違いないと思います。
斜面に幅及び深50pの溝、その下側に幅1mの土塁(堤)が尾根を巻くように伸びています。
水路でしょう。
教育委員会が立てた看板には土塁とありますが、確認しているのでしょうか。
5月5日
高山市の尾崎城によりました。
平成10年まで発掘調査が行われ、現在公園になっていました。
比高50m位の尾根の上に、大きい郭2か所、それに付随する郭3か所からなり全長200m位です。
大きい郭は3m以上の切岸、切岸のうえには土塁、下は空堀状でその外に短い畝状竪堀(水抜きか?)
形態的には陣城かと思い行きましたが。
発掘調査の結果、15世紀の遺物が出ている様です。
城主の塩屋秋貞は永禄7年〜天正11年まで三木氏に従って武田氏と戦っています。
国道158号線がこの城の麓を南から東に松本方面に曲がっています。
毎年5月連休の旅行で乗鞍に行くときこの城下を通っていましたが、今年まで知りませんでしたが、「岐阜の山城ベスト50を歩く」をみて寄ってきました。
主郭まで、アスファルト道路が有りかなり破壊されていると覚悟していましたが、
主要部は案外保存されています。
丹生川村(教育委員会)の姿勢は評価できると思いました。
なうです
> 甲賀の城か岡山の城お勧めの城がありましたら是非教えて
> 頂けば思います。
甲賀の城か岡山の城、どちらにしようか迷っていましたが、
> 岩盤の上に石垣とはすごい。岡山に行った時には、行って
> みたいですね。天守も岩盤の上かー。
という事で、城郭研究家さまご推薦の備中松山城も含めていきたいと思います。
一番ワクワクしているのが、鬼ノ城です。古代山城見るのは、今回初めてです。戦国時代とは違いますが、石垣構造がどのようになっているのか、実際この目で見るのを楽しみにしております。
泊りでいきますので、もしご推薦のお城があれば教えてください。
備中高松城もいいですね。水攻め興味ありますし。
では、では。
千提寺西遺跡、キリシタンの墓の現地説明会に先日行きましたが、その後、高山右近に興味が出てきまして、高山城と高山向山城に行ってきました。
高山城と高山向山城は、高山右近が産まれた城ではないかという事です。
高山は大阪府能勢町にあり、大阪府ではありますが山深い地域です。高山右近の父、高山友照は、甲賀五十三家の一家、高山家ではないかと言われており、高山友照は甲賀忍者の可能性が指摘さています。
詳しい理由は全く解りませんが、甲賀からこの摂津国に移住し、この地域の名称になったと思われます。
確かに、この地域は「隠れ甲賀の里」という雰囲気がします。
高山友照は熱心なキリスト教徒で、千提寺のキリシタン墓の存在ともなんか関係あるかもしれません。場所もキリシタン墓と高山地域はそれほど離れていません。
高山の地域は、高山城と高山向山城という山城があります。
戦国期の山城と言えば、一つが居館、そして山に立てこもる山城の2つセットが一般的ですが、高山向山城は規模の大きさからいって本城、高山城は見張り城、燈火城的な役割ではないかと思います。
城の作りは大変単純なもので、大掛かりな防御施設はありません。かなり古いタイプの城だと思います。戦国期初期から中期という感じです。
甲賀の城という雰囲気はなく、摂津国の特徴が城によく出ています。
高山友照の生まれはよく解っていませんが、かなり前から同地域に居住していたのではないかと思います。甲賀忍者の城郭の技術は伝承されていないようですが、忍者の訓練にはもってこいの場所です。
高山右近は、この城で生まれた後、すぐに大和国にある沢城に移動し、そして織田信長が足利義昭を奉じて上洛した後、この高山城に戻ってきます。その後高槻城に移動することになります。
この周辺はいまでも少数な方々が在住し、農家をされておられます。お年寄りの方が多かったですが、元気に働いておられました。しかし、ひょっとしてこの方々も忍者の子孫かもしれませんね。
では、では。
管理人さん今晩は。
本日、賤ヶ岳の戦いの時佐久間盛政が入った行市山砦に行ました。
林道で前田利家の陣跡の別所山まで車で行き、後は登山道を1200m歩き到着。
相変わらず笹薮で覆われており全貌を見るのに苦労します。
規模は南北約50m×東西約20mで北東南には明確に土塁が残るが、
西側の土塁は、薮化と以前の伐採のの為で分かり辛い。
南側には、土塁で虎口受けの空間を作っている。
帰りに、林道の中間に以前訪れた時に気になった、
食い違いの堀切で防御した郭を確認してきました。
管理人様今日は。
前回に引き続き、伊賀の城の情報です。
伊賀市青山町諸木の行者山城。
久しぶりに今日行くと、主郭が全面刈りはらわれていました。
何のための伐採かわかりませんが、切った木はワイヤーを張っておろしているので植林かと思いましたが、
小さい木や枝は、裁断して現地に置いてあり、見晴らしがよくなった反面、
自由に郭内部を歩くことが困難になっています。
一部土塁の破壊も見られました。
行者山城は、北の諸木からの比高50m但し南の矢持集落からの比高100mの山頂にあり。
伊賀には珍しい、山頂の不定形の郭全周を低土塁で囲んでいます。
尾根がつながる主郭南北には当然あるべき堀切がなく、現状堀切のように見えるのは、
切岸の高さを確保するために掘り下げたもの思われる。
天正7年の北畠信雄による伊賀侵攻時の陣城と考えています。
いずれ植林されれば、見通し効かなくなるか、
植林されなければ、笹薮になり入れなくなると思われます。
行くのなら、今の内と考えます。
明日は、賤ヶ岳の行市山に行きます。
なうです
高梁から備中高梁川沿いに南下。
総社市美袋から橋を渡って「備中・下倉城」。
森本基嗣氏の「戦国山城を攻略する」の記事のとおり集落の南側の登城口からつづら折れの山道を登る。
尾根手前で堀底道。
堀切に出て右折。
見取り図持参。
長い削平の甘い長い郭。
二重堀切、小郭、主郭、降って郭、二重堀切、長い郭が尾根先まで続く。
尾根先手前に右手に竪掘。
民家近くまで竪堀に沿って軽いヤブを降る。
公民館の駐車場に飛び出る。斜面にイチリンソウ。
県道を歩いて駐車位置まで戻る。
二つ目にしようと豪渓方面に曲がって総社市見述・宍粟の「備中・志良計城」の東側の鞍田橋付近に駐車。
橋の西側袂の民家裏を北に100mで山頂まで中電道になるが
大きな飼い犬が頑張っている。
南東の尾根から攻略しようと南側の集落に入ると消防団員多数、指揮所のテント。
山頂への道を尋ねると山頂付近、山火事とのこと。
ここで地元の御老人に小生の登山者風のいでたちを咎められる。
「お前のような登山者たちが大勢で山を荒らす。今日のように山火事を起こす。お前たちは立ち入り禁止だ。今後は不審者として警察に通報する。」とのお叱り30分。
道を尋ねただけで犯罪者扱い。相手は怒り心頭の御様子。 君子危うきに近寄らず。
ほうほうの体で撤退。
「備中・志良計城」は立ち入り禁止とあいなる。
二つ目、三つめは「備中・伊与部山城」の西側の「備中・馬入堂山城」と「備中・木村山城」。
以前は大ヤブで立ち入り困難城であったが、最近、ヤマレコに馬入山・木村山の登山記録がアップされたのでルート図コピー。ついでに見取り図も持参。
倉敷市側の真備町四十二・別所地区北側最奥のヨット係留池の北の林道に駐車。
「備中・馬入堂山城」、「「備中・木村山城」共に延長200m程度の連郭式で尾根続き。
ハイキングルートの標識、ロープ多数。
快適なコースた゜。
付録に、数日前に霄漢氏の情報と池田誠氏の縄張図でどうしても行きたかった「備中・倉敷・南山城」訪城記。
高梁川の西岸の尾根先で旧真備町と船穂町の境のヘアピンカーブに駐車。
急斜面に土を削って階段道。
登ると竪掘、二重の土塁囲み、延長50m位い。奥の郭の土塁はかなり高い。櫓台付近で約5m。
折れ、横堀みたいな多重堀切。
この先50mにも横堀と櫓台があるように縄張図に書かれてある(時間の都合で行けず。)。
畝状竪掘。
同じ倉敷市の「備前・黒木城」みたいなマニアックな作り。
織豊系の城郭だ。
山道も出来ているし、訪城に最適。
数日前に鳥取県境でフキノトウを採ったのに、もう「美作・神楽尾城」周辺ではワラビ、タラノメ情報。
今年は神楽尾城内の草刈りがまだなのでカヤ、イバラ繁茂。
山菜採りのオジジ達を避けて近くの林道周辺で、一日山菜採り。
15Lザックに半分程採取。
初物としては大漁。
今夜は天ぷら三昧。
フキ味噌も作らなくちゃ。
はじめまして。去年から山城のブログをはじめた城歩きマンと申します。
福井県に在住しています。山城が好きで、地元はもちろん、県外のあちこちへ出かけて、登城散策を楽しんでいます。相互にリンクして、いろいろと情報交換したいですね。
私のブログ名は「越前・若狭の城と考古学」です。よろしく。
なお、各地のお城情報のところで福井県の分、拝見させていただきました。
「亥山城」はよく分からない、とのことでした。地元ではいやま、と呼びます。市街地化されて昔の遺構は分からないのですが、文献には堀口兵部、朝倉景鏡、二宮左近将監他が城主として出てきます。
福井の情報については、いつでもご一報ください。
明日から天候が下り坂の予報。
散らない内に連れて行けとのご命令にて花見のお供。
朝7時に真庭市別所の「醍醐桜」(樹齢約千年)(テレビに良く出る)。
この時期、一方通行になった山道を登って、近くの駐車場はほぼ満車。
カメラマン多数。
やっとのことで駐車して桜満喫。
帰りに道脇にカタクリの花自生。
津山市の「津山城」は全山桜満開、花吹雪。
城コスメの若者多数。
場所取りのブルーシートで寝ている人々。
焼き肉天国。
人波に酔う。
飼い主がリードを放してくれて鏡野町富西谷渡(旧富村)の「比久尼城」。
押坂乢から植林の尾根に取り付く。
赤テープ設置と選定挟み使用。
登ると林道の終点に出る。
林道を登って右手に追坂乢2号墳の標柱。
横穴式の石室が曝露。
そのまま約200mでT字路。
左に折れて約200mで林道終点。
イノシシのヌタ場。
林に入り道作りしながら登って尾根端に出る。
尾根筋の踏み跡を辿る。
堀切、切岸、削平の甘い主郭の小規模な砦。
「美作国の山城」133ページの縄張図を広げる。
削平の甘い腰曲輪の位置が図のような北側ではなく南側にある。
切岸を降りて小郭。
ここで城域は終わりだが、おかやまGISでは西の尾根筋に城域があるので探索のためピークを3っ進むも空振り。
いい汗をかいた一日。
最初にT氏からいただいた情報と縄張図を持って津山市新田の「美作・新宮城」訪問。
以前訪問した時には源平合戦神話に惑わされ、西側の一部しか見ていなかったので再訪とあいなる。
巨大な織豊系陣城らしいとのことにて東側の神社から赤テープを付けながら登り付く。
まもなく堀切。
二段の帯曲輪。
土塁、折れ、虎口は内桝形、外桝形、平入。
横堀、けっこう高い土塁。
広大な城域だ。
城の西北側にも広い削平地。
3時間も滞在して昼食。
次は美作市余野中の「美作・余野山屋敷」。
橋を東に渡って最初の民家の裏から山道を登る。
段々の墓地。
墓地上の段々は二段の帯曲輪らしい。
突端は横矢がきいている。
赤テープと選定挟み活躍。
尾根筋は笹ヤブになっていて、少し下がった帯曲輪を進む。
主郭は不明瞭。
尾根筋に土橋か境界土塁か判別不能の土塁。
植林地まで登るも上には遺構はないようだ。
防御正面しか作られていないのでどうやら陣城らしい。
すぐ近くの美作市余野中の「鷹取城」と「松本構」も立ち入ってみたが遺構は見当たらず。
これらの諸城は南側の美作市長谷内の尾根にある織豊系土塁囲みらしい「美作・比丘尼城」に直線1Km程で対峙する位置なので、かなり期待していたが外れて残念。
わーーーーい、よーやく観れます。
ぱちぱち。
お、城郭研究家様、登場です。あっスーツちゃうやん。
松山城、きれいー。石垣綺麗ですね。あーーーー、なんでか、城郭研究家様のカメラ目線からスタート。なんか不自然やぞ。攻める、ゆーゆー。
トナシ門、おー変わってる。初めて見た。それにしても、石垣綺麗でんなー。面が整っています。
建物遺構が残っている城なのかな?隠れ門、おーーーー、いいですね。
板塀落ちる?まじか?「ひとたまりありません」ほんまやー。
天主閣、ええー、別にいいと思うが・・・46番、気にしたことなかった。
天守から見た景色はいいですね。
次は丸亀城です。
どひゃー石垣だらけだ。石の城というんだ。三の丸の石垣は、石の大きさがレンガのようにすべて同じような大きさですね。4段の石垣か。
1K天守。ほんま、小さいなー。これも天守と呼べるからば、いろいろな城に天守があった可能性が広がりますね。
ん?おーーーー、牛肉ぶっかけうどん、めっちゃ、うまそー。
あー、フェリーのお乗りになっております、城郭研究家様、前からの風で、少しお髪の毛が後退・・・・いやいや、大丈夫です。ってなにが大丈夫やねん。
スーパー残念石・・・・笑える。
次は備中松山城。朝早くからご苦労様です。あ、城郭研究家様、前からの風で、少しお髪の毛が後退・・・・いやいや、大丈夫です。雪積もっていますね。
雲海かー。見えてきた?「いらっしゃらない」またかー。
えーーー、出るころから解っていたとは、さすが城郭研究家様ですねー。
岩盤の上に石垣とはすごい。岡山に行った時には、行ってみたいですね。天守も岩盤の上かー。
わーーーーい、面白かっだす。
観れてよかったです。
では、では。http://www.bs-j.co.jp/program/detail/18121_201303281700.html
筒井城の現地説明会も同日、同時刻にあったのですが、千提寺西遺跡、キリシタン墓の現地説明会に行ってきました。
まー城郭とは直接関係ないですが、高槻城や高山右近とも関係があり、ここは墓の丸とも呼ばれていたそうで、なにか城郭とも関係あるかもしれません。
まず、千提寺というのは茨木市にあった寺なのですが、大規模な土砂崩れにあい、今は全く存在しない寺となってしまいました。千提寺はどこに、いつ大規模な土砂崩れにあったのかは解っていません。寺というよりも、道場的なものであったと思われ、キリストとも何らかの関係があったと思われています。
ここは大変な山の中なのですが、イノシシが豊富であったのか、縄文時代の集落遺跡が発見されています。しかし、そこから平安時代まではぴたりと遺物が発見されなくなります。稲作文化となると、この土地も一旦見捨てられることになります。
しかし、なぜかはよく解っていませんが、深い山の中で平安時代に小さな集落が誕生しました。この周辺で2度目の文化圏が成立します。
茨木市は、皆様ご存知のように茨木城を初めて多数の城郭があり、千提寺のすぐ近くにも泉原城があります。時代は安土時代になってきますと、この辺は高槻城の領土となり、その城主はキリシタン大名の高山右近となります。
で、今回発掘されている千提寺西遺跡は、縄文時代の集落遺跡と山頂にある墓地から構成されています。
墓地の大半が仏教墓となっています。なんとこの墓地は明治時代まで使用されていた可能性もあるようです。
私この日はいっぱい人骨見ましたよ。さすが墓地ですね。学芸員の方がニコニコ笑顔で「現説があるまで人骨はそのままにしていました」と、おー、という感じです。
で、その中の4つだけが長方形の墓穴が見つかり、そのうちの2つから人骨が見つかり、この2つをキリシタンの墓と断定できるとのことです。ちょうどNHKさんのニュース映像にも写っています。
この日はすでに人骨は取り上げられ、詳しい検査に回されています。
人骨から解ることは、年齢と男女程度で、外国人か日本人の判定は難しいとのことです。
キリシタンの墓の発見場所は仏教墓と少し離れた場所にあり、まっくたのノーマークだった場所で、大変驚いたそうです。
この地域、隠れキリシタン里しても有名だそうで、これと今回のキリシタンの墓発見とは何か関係があるかもしれません。
後、もう2箇所、推定キリシタンの墓がありますが、こちらは仏教墓と混在しておりました。残念ながら今のところ人骨は出てこなかったようですが、この周辺には石仏、五輪塔などの下に、人骨が多数眠っており、50-60体はありそうな雰囲気です。発掘調査が本格的に実施するとのことです。
大変貴重な遺構が残る同地域ですが、新名神高速道路が出来るとのことで、この遺構は破壊されてしまうとのことです。まーそーでなければ、ここまで大規模な発掘調査は出来なかったので、なかなか難しいところですなー。
こんな山の中でこれほどの遺物が発見できたことに、学芸員の方も驚いておられました。墓地があるという事はある程度推定していたそうですが、ここまでの遺物は想像外だったそうです。
私、墓地ではしゃぎ過ぎたのか、気分が悪いです。ばちが当ったかもしれません。
この日の参加者は、最終的には500名の方々がお越しになったようです。
では、では。http://mainichi.jp/feature/news/20130321ddlk27040169000c.html
霄漢様の情報をを基に総社市の鬼ノ城ゴルフ倶楽部周辺の備中高松城攻めの織田方の陣城3城攻め。
吉備人出版の「鬼ノ城山塊登山詳細図」持参。
最初は奥坂の「小陣屋」。
鬼ノ城登山口の奥坂休憩所に駐車。
休憩所の東にあるNo.359送電鉄塔の上のピークを目指す。
休憩所裏から小橋を渡ってすぐにNo.359鉄塔の案内標識。
赤テープを付けながら巡視路に入って送電鉄塔に着くとすぐ上が「小陣屋」。
縄張図どおりの低土塁がきれいに廻る。
一部に石積み。
二つ目は南下して鬼ノ城の水城説のある鬼ノ城霊園のピークから平地の土手状の住宅街とその向こうの小尾根の神社(ここが鬼ノ城を守る水城説の場所)を望む血吸川の土手に駐車。
歩いて名越集落に入り、作業小屋脇の山道から名越峠を目指す。
赤テープを設置しつつ地蔵脇を抜けて選定挟みを使って名越峠から尾根を北に取り旧名越峠の土橋。
更に進んで名越峠から約400m付近でやっと「名越砦」に到着。
平入虎口、低土塁が廻る。
更に北に約200m程進んで97mピークを目指すもゴルフ場の電気柵が現れ柵内は削平されている。
柵に沿って約100m北進したが、遺構は無いものとして引き返す。
三つめは尾崎にある「尾崎城」。
山体の東側の果樹園脇に駐車。
農作業中の山主に立ち入りの了解を得る。
果樹園の中の住宅脇の電気柵に沿って登り、鹿除けの網の無い所からイノシシ除けのトタンを跨ぐ。
すごい笹ヤブに見えたがヤブの薄い所に踏み跡。
開けた林内を赤テープと選定挟みで進む。
尾根に出て右へ(北)。
すぐに土塁。
土塁に沿って登ると切岸、土塁囲み。
虎口は作業道で破壊されているようだ。
低土塁がある帯曲輪が廻る。
大満足で帰路に就く。
> 私は茨木でお互いの情報をここで記載する
ということで、行ってきましたよー。
なかなか面白かったです。まー城郭とはダイレクトには関係がありませんが、しかし高槻城の支配下にこの千提寺があったようです。
後程詳しい報告をしますが、NHK 大阪放送局さんでは、今回のキリシタン墓出土のニュースとして取り上げてもらっています。
NHさんでは、1週間程度で見れなくなってしまうと思いますので、今のうちにご覧ください。
しかし、この山、見れば見るほど墓地ではなく、山城にぴったりでしたよ。
では、では。
ナウです
全国の城跡巡りを始めて10年近くになる尼崎在住、番茶と申します。
歴史小説にはまり、安土城を見てさらにはまり、今では青春18切符で全国の城跡巡りをしています。
山城ではいろんな経験をしました。動物除けフェンスで下山できなかったり猪ハンターに銃口を向けられたり。
最近では行きたい城跡が遠方になりピーチ航空を利用しながらです。
今まさに、九州に行くべく、関西空港に向かっております。
そこで皆様方に質問、アドバイスをいただければと思いお邪魔させていただいてます。
佐賀県に「岸岳城」を候補にいれています。
ですが、地元では有名な心霊スポットらしいとのこと。
苦手なんです。びびっています。こうゆうの。単独行動だし。
皆様方はこうゆう城跡って行かれたことございますか?
城跡は昔は戦場。割り切らないといけないのか。
おーーーーー、筒井城現在も順調に発掘調査やっておられたんですね。
> 直径が2・5メートルに及ぶ巨大な井戸跡が見つかった。
> 調査している市教委によると、発掘調査で見つかった井戸
> としては全国最大規模。
おーーーー、まじか。
しかしなんで、こんな巨大な井戸跡があるでしょうか?筒井城ってそんなに城兵がいたってことなんでしょうか?それにしても本当に綺麗な石組み井戸ですね。
常識を疑う1,000枚以上のカワラケ。筒井城は、城割する時に、堀に神事にしようしたと思われる遺物を一緒に埋めたという事があったそうですが、1,000枚以上のカワラケとなると、これは神事のレベルを超えています。
うーーーん、何のためだったんでしょうかね。
> キリシタン墓 大阪・茨木、仏教墓と混在
私こちらにも大変興味があります。
> 目の毒な画像まで見てしまいました(汗)。
なんすか、その画像ってのは
> 明日の自主出勤、止めとくかあ?
ポリタンクさん奈良で、私は茨木でお互いの情報をここで記載するというのはいかがでしょうか?
それてにしても城郭研究家様がおっしゃるように、現地説明会多いですね。
では、では。
城めグマちゃんにも、流れていたのですが、大阪歴史博物館の古代山城 鞠智城展に行ってきました。
展示内容は、お城ちゃんマークにあのますように、
> 百済系銅造菩薩立像(レプリカ)をはじめ、パネルの展
> 示、ビデオ上映等により、古代山城の歴史や鞠智城の最新
> の調査成果をご紹介します
という感じです。全体的には、これという感じではありませんが、ただビデオ内容がなかなかの力作で、今回古代山城を初めてちゃんとみたのですが、戦国時代を髣髴する城郭でした。まず規模がでかい。石垣の技術が高い。鞠智城は石垣は無いのですが、周辺の古代山城の石垣は本当に素晴らしいですね。なんで、これが日本で継承されなくなったのか、全く不思議ですねー。
内容的には、同時期にやっていた、「天下の城下町」こちらの方が展示内容としては良かったですよ。見応えたっぷりです。図録も購入しました。
続きがあります。
以前、ポリタンクさんから教えてもらった縄張り図を片手に周山城に行ってきやした。
周山城は、京都府の京北地区にあります。京都府には沢山の城がありますが、山城に石垣がある城というのは、大変珍しく、前々から行ってみたい城で注目していました。周山城は明智光秀が築城したと言われています。
明智光秀は、反逆大名と言われることもあるかと思いますのが、皆さんはよくご存じのように、「イノベーター」です。従来、畿内にあった古い築城技術ではなく、石垣を初め、後の近世城郭に繋がっていく新しい城築技術をどんどん取り入れていきました。松永久秀と共に、畿内の近世城郭の祖と言ってもいいかと思います。
滋賀県にあります坂本城と京都府の亀山城の中間拠点として、この城が築かれたと思われます。周山城はこの地域の城山と呼ばれる標高485mの山頂に本丸を設け、尾根沿いに7箇所の曲輪を配しています。特に本丸には巨大な穴蔵構造をもつ天守台があり、この天守台が異様に大きく、また周辺には瓦が散在していましたので、ひょっとしたら3-4層構造の瓦葺巨大天守があったように思えます。
ただ、この城、破壊がかなり丁寧に行われいました。遺構の所々が綺麗に崩されています。明確な「城割」があったように思えます。当初は、明智光秀の家臣団の反撃を恐れて、豊臣秀吉が丁寧な城割を行ったのかな?と思っていましたが、後に資料には加藤光泰が入城したとありますので、現在の周山城は巨大天守も含めて、加藤光泰が改修した可能性はあります。城割はこの加藤光泰時代に行われたと思います。西曲輪にある高石垣だけが、破壊を免れていました。この石垣は、安土城などの石垣と大変よく似ており、石垣の初期型と思います。初期型でここまで高く積まれているのは、大きな感動です。
後、この城への山道などが非常に丁寧に整備されており、地元の方々、確か「周山城を守る会」という方々が、多大な努力があったと思われ、大変登城しやすい城でした。地元方々の愛情が感じられます。
歴史、遺構の質的に言っても、いずれ国指定史跡に選ばれればいいなー、と思いました。
2013/03/19(Tue) 17:04がちょうど下山しかかった時でした。
取り急ぎ...。
筒井城にて直径が2.5mの井戸跡が見つかったそうです。発掘調査で見つかった
井戸としては全国最大規模だとか。(お城さんマークにリンク)
こちらに投稿するために詳しいのがないか検索した結果、目の毒な画像まで
見てしまいました(汗)。明日の自主出勤、止めとくかあ?
では、失礼いたします。http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/report/machikado/003110.html
最初は美作市真加部の「美作・上の山城」。
美作国の山城183ページの縄張図コピー持参。
真加部郵便局北から西に入って家並みの裏の畑。
二の壇までは入ったが一の壇は猛烈な笹ヤブにて敗退。
二つ目は美作国252ページ記載の美作市楢原中の「美作・比久尼城」(この周辺は城名「びくに城」が多い)。
楢原中の集落から北への林道をたどり峠から西に入る。
今日は赤テープ無し。
選定挟みで適当に切りながら登る。
西に登ると山頂部の切岸。
前方後円墳(金焼山1号墳)と陪塚を加工して主郭と櫓台にし、周囲に帯曲輪を廻らせた陣城。
前方後円墳の頂部は玄室崩壊で穴が穿たれている。
すぐ北側の鞍掛城攻略に使われたようだ。
三つめは赤磐市稲蒔にある「備前・稲蒔城」。
稲蒔集落手前の吉井川沿の墓地脇に駐車。
山を見ると竹ヤブに刈り払い。
急登の落石防護施設脇を慎重に通過。
緩傾斜、急登、尾根出会い、急登。
選定挟みを使いながら207mピークを目指す。
小郭一段。
長い主郭、堀切、二の郭、小郭二段の延長約100mの連郭式。
麓に降りて往復2時間。
高松の苔さんへ
黄色テープありがとうございます。
GPS紛失さわき、ご心配をおかけしました。
備中高屋城の赤テープは、行きがけ道迷いだったので変な所にも付いています。
みなさん気を付けて下さいね。
なうです
井原市上野の公民館脇に駐車。午前11時。鶏舎脇の舗装道を歩く。鳥インフルエンザ流行以来、鶏舎は厳重に目張り、立ち入り禁止になっている。右斜め方向無舗装林道入り口。テープが点々と何種類もあり、間違えようがない。林道をどんどん進む。右に入る枝道を全て無視し左へ、左へさらに進む。倒木で通行困難になり、右側に植林方向にテープがあり細道がある。GPSはもう少し先を右折といっているが、悩んだ上右折する。ナビやGPSは多少の誤差があるので、という理由だが、道を間違える時はいつも早めに曲がる。年のせいで短気になっている。案の定細道は猛烈なやぶ。最初まで引き返すのが定石だが、またいらちのせいで、途中の枝道に引き返し、下方向に。やがて植林の細道も谷方向に下りていく。ここまできたら騎虎の勢い。定石を無視し尾根頂上へやぶこぎ。剪定ばさみで道を作りながら直登。アドレナリン沸騰。なかなか進まない。やっと支尾根だ。赤テープがある、助かった。ロスタイム1時間。赤テープの主に感謝。
細尾根の道。所々倒木で通行困難な箇所があるが、道はしっかりしている。テープも点々とある。山を越えて南下。城の北方、搦手から本丸をめざして上る。登ると五重堀切。城本体の北側にも畝状の竪堀。周囲に腰曲輪、犬走り。本丸より南西方向には三段の曲輪。本丸に、井戸。地元では、北西方向に脱出する抜け穴だとか。GPSとこの井戸で高屋城と確認。花崗岩の岩盤を掘削した立派なものだ。1時間弱の道のりが2時間かかっている。
帰りは、直登した箇所をそのまま尾根道を進む。V字型に林道に出る。分岐にはエグイくらい各種テーピング。このくらいの倒木をくぐるくらい、やぶこぎで直登するより随分楽だったのにと、いつもながら自分の短気さを反省。ナビやGPSより、地図にコンパスなアナログ人間は、知らない土地で、ナビにだまされて1日無駄にしたことがあったのでした。とはいえ便利なものができたものだ。30分で駐車場に戻って遅い昼食。午後2時。
[2806]のやぶくぐりさん、GPS回収おめでとうございます。備前の住人なので回収協力をしようと考える前の早業ですね。黄色テープは私の仕業です。現地についてから赤テープがないのに気がつき仕方ないので少し残っていた黄色テープを使いました。冬枯れの山では目立たないので使わないのですが。それにしてもご苦労様でした。
昨日失ったGPSをどうしても回収したくて下足守の陣城へ。
雨が少し降り出したが、レインウエアーに選定挟み装備。
選定挟みで道を広げながら進む。
「上土田20号墳の郭」から「下足守A陣城」を過ぎた辺りで道の脇のヤブにGPSが鎮座。
ここまで2時間半。
秀吉さんの御加護。
小躍りして回収。
雨足が強くなり、急いで駐車場所まで約1時間で駆け下りる。
管理人様
連絡が遅くなり恐縮ですが、私用にて掲示板をお借りすることをお許しください。
霄漢様
ご連絡ありがとうございます。そのような状態でしたら、図面が作りやすそうですね。近日中に参りたいと思います。このチャンスを逃すわけにはいきません(笑)松永様、構いませんよ。お城の情報交換ですのでむしろ
有難いと思っております。
管理人様
連絡が遅くなり恐縮ですが、私用にて掲示板をお借りすることをお許しください。
霄漢様
ご連絡ありがとうございます。そのような状態でしたら、図面が作りやすそうですね。近日中に参りたいと思います。このチャンスを逃すわけにはいきません(笑)松永様、構いませんよ。お城の情報交換ですのでむしろ
有難いと思っております。
管理人様掲示板をお借りします。
松永様
3月10日現在、郭内部はもちろん周りの空堀を含め周辺まで全くと言っていいほど笹はありません。以前は笹ヶ密集していた櫓状の張り出し部分も、非常に見やすくなっています。
訪れるのには絶好の状態です。
友人の話では、鹿が食い尽くしたとの事ですが、
であれば芽吹きの頃が過ぎれば、また元に戻るのでしょうか。
そう言えば、河口湖の北の御坂峠城も一回目(忘れもしませんオームの強制捜査の前日、上久一色村を通って行きました)
城全域が笹が茂りその上に雪が積もり、図面も書けなかった状態であったのが、2010年5月の連休に行ったときは全く笹がなかったことを思い出しました。
霄漢様
はじめまして。矢鉢山城についてご教示いただけたら幸いです。笹藪がなく…とのことですが、城域全体にわたって見やすい状態なのでしょうか?それとも主郭付近の一部分のお話でしょうか?
霄漢様
はじめまして。矢鉢山城についてご教示いただけたら幸いです。笹藪がなく…とのことですが、城域全体にわたって見やすい状態なのでしょうか?それとも主郭付近の一部分のお話でしょうか?
下足守4陣城のルートにGPSを置き忘れてしまいました。
どなたか拾った方は、このページに書き込んで下さい。
近頃忘れ物多し。
落ち込んでいます。
霄漢様から頂いた情報にて下足守の陣城を目指す。
森本基嗣氏の「戦国山城を攻略する」に記されたとおりの場所に10時に駐車。
赤テープ準備。
選定挟みを家に忘れた。
大きな池の東側を廻り込んで、小さな池3つ目の土手脇から尾根に登り付く。
黄色いビニールテープがある。
上土田20号墳は段々の郭に見える。
一旦降って登り返し、「下足守A陣城」。降って土塁。
イノシシのヌタ場から南に折れて約200mで「上土田大崎境の陣城」。
もっと南下してみると細尾根に片堀切が2つ、土塁、土橋、平坦地が点在。
イノシシのヌタ場に戻って少し東に「下足守B陣城」。
降って土塁地点から北上。
長い土橋。
赤テープ品切れ。
地図も落としたようだ。
進んで「南坂21号墳地点陣城」。
撤退を決意。
駐車場まで戻って16時。
6時間の山中彷徨、疲労困憊、足がつる。
南坂12・13号墳地点陣城は次の機会に。
高松の苔さんへ。
加那女岐山城に林道が延びたんですね。
赤テープの主としては仲間を誘って再訪したいですね。
情報ありがとうございます。
[2799] は高松の苔の仕業です。
苔がついてませんでした。すみません。最近あちこち転がるように城を訪問しているからでしょうか。
神林寺方面からの尾根筋と金破山の西尾根がタワになっている箇所に、国土地理院の地図の道の様に林道が新設されていると、山好きに教えてもらった。秋は、一帯がマツタケの留め山らしく昨年末訪問する予定が、早めの降雪でやっと訪問。惣方面から見て北を廻って裏側(西)尾根から上るルートになる。
真庭市惣のスーパーの駐車場に妻と車を置いて惣の集落を抜けて林道惣線に入る。林道の入り口は、分かりにくい。2.3度迷う。林道を進むと左手に谷間の渓流。渓流が林道の右側になった地点から一本目、左斜め方向への林道をやり過ごし、その次の林道を左手に入る。(この2本はいずれ先で合流するみたいだ。)すぐに右への作業道分岐を右方向へ。やがて新しい林道になる。今春、夏にもコンクリート舗装する予定か伸縮目地のエラスタイトが設置してある。右に谷を見ながら道なりずんずん進んで終点。こまで来ると、もう9合目。アプローチが長い。良く見ると堀切が切断されて断面が見えているじゃないですか。(泣)尾根と尾根を2本の掘切りで切断している。
ここから左へ山道。昨年秋のマツタケの留め山の立ち入り禁止の黄色テープが張られている。このテープをたどって堀底を上るようになる。ヤブもなく快適に進む。やがて西の郭。ここからは倒木がすごい。さらにテープをたどると、主郭三角点。またさらに親切にテープをたどると南連続竪堀にまで案内してもらえる。目印テープも大変な労力なのに、これだけ連続でテープを張るのは大変な作業。
三角点に腰を下ろし、妻のおにぎりを食べていて、ふと東を見れば点々と「やぶくぐりさん仕様」の赤テープ。たどっていくと東から下へ深い森へ。どうも山屋ではなく城屋さんの仕事のようだ。東からアプローチしたのだろうか。確信が持てず引き返す。一度も出会ったことはないけど、城屋さんの痕跡は良く見る。いのししと同じ?
管理人様今日は。
久しぶりに、伊賀の城の情報です。
伊賀「矢鉢山城」伊賀といっても伊勢(津市)との境に近い青山町に有ります。
低土塁と空堀に囲まれ、陣城と思われます。
北畠(織田)の伊賀侵攻の際築かれたものと考えます。
城は、メナード青山ゴルフの南に隣接(655mのマークのある山頂の西の尾根)
しており、場所はすぐ分かるが道はありません。
以前は、厳冬期を選んで15ホールの縁を伝わっていきました。(見つからないように)
郭の内部は、以前笹薮で土塁、空堀、虎口も分からず写真も図面もとることができませんでした。
今回、驚いたことに笹薮が全く無く、地面が完全に露出しており遺構を確認するにはベストの状態でした。
今日は、国土地理院の二万五千分の一の地形図で南からのルートを見つけ行きました。
ゴルフコースの入り口を過ぎ、田の中を東に進む道を獣除けフェンスの入り口を通らしてもらい、
道は池の縁を過ぎると南に方向を変えるが、沢を渡り斜面に踏み跡が東に続いているので進む。
bP6ホールの下に出るので、ここから谷を降りる。
南側の斜面に白のマークの檜伝いに踏み跡続いているので、砂防ダムを経て林道に出る。
林道を少し上ると、道が南に方向を変え登っていく。
約150m進むと尾根の上に出ると、東から降りてくる尾根と合流しているところがあるとので、
東に上っいく、ピーク二つを過ぎると城の西の端にたどり着ききます。
うぁ、鹿背山城の現地説明会が9日午後1時半にあったんですね。しまった、また見逃した。
朝日新聞さんの記事によりますと、
> 尾根を横切る堀切(深さ約4・6メートル)が見つかっ
> た。市教委が6日、発表した。V字形に削り込まれ、片側
> 斜面にくぼみをつけた「薬研堀(やげんぼり)」。幅約1> 0センチの底は歩けないほどで、敵の侵入を防いだとみら
> れる。市教委は「戦国期の山城の特徴がわかる」としてい
> る。
とあります。この「尾根を横切る堀切」という事は、横堀のような役割で、下から登ってきた敵を薬研堀に落とし込み、動けなくするという効果があったのでしょうか?
さすが、松永久秀さん。いろいろ複雑な事を考えますなー。
なぜか北海道新聞さんがこれに興味を持ち、
> 木津川市教委によると、城の周辺には当時、興福寺の荘園
> があり、城は寺の軍事的拠点として整備されたらしい。
と記載されていますが、おそらく薬研堀は非常に新しい城郭技術で、興福寺がこのような技術を持っていたとは考えにくく、やはり松永系の城郭技術を踏襲しているのではないでしょうかね。
あーあー、また追加の現地説明会やってくれませんかねー。
では、では。http://www.asahi.com/area/kyoto/articles/MTW1303072700003.html
城郭研究家様だけを城郭研究家とするには大変口惜しく、私も城郭研究家と呼ばれたーい!という想いを強くしました。
そこで、具体的な行動を起こすべく、この度私、ブレイズマンは、城郭研究家パート2を目指して、日本城郭検定、この2013年5月12日(日)15:00〜16:00の1時間、2級検定試験にお受験させて頂くことにさせて頂きました。
わーーーーぃ、ぱちぱちぱち。
皆様方のご声援、ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
話はがらりと変わりますが、
> え?そーなんですか?是非そのような情報があれば、特に関
> 西圏の情報があれば教えてください。
としていましたが、私も情報を一つ上げたいと思います。
上記お城ちゃんマークにありますように「近江戦国探訪:観音寺城の石垣を探検しよう」というのがあります。
3月20日
観光案内所「ぷらざ三方よし」
午前9時45分集合
という事らしいです。
六角氏の観音寺城は、具体的な交流は無かったと思われますが、政治手法や城郭手法などその後の織田信長に非常に大きな影響力を与えたのではないかと言われているお城です。
午前9時45分集合では、さすがにここからだと絶対無理ですので、今回はあきらめますが、もし興味のある方は、大変素晴らしい城ですので、行ってみてもよいかと思います。
では、では。
> おお、行ってこられたのかと思って喜んだのですが
> 違ってたのですね。
違っていました。ここからだと車で、片道3時間程度ですので、お気楽に行けるお城ではないですね。
> 私も行けませんでした。
> というか上郡町の歴史講演会に行ってました。
おーそーでしたかー。『上郡町史』の説明会みたいなものですかね。
『上郡町史』はありですか?われわれは「第一巻・本文編1」らへんがいいのではと思いますが。
> しかし今の時期はほんとに現説やらイベントが多いですね
> ぇ。
え?そーなんですか?是非そのような情報があれば、特に関西圏の情報があれば教えてください。
> たしかBSジャパン3月28日午後5時から再放送
> される予定だったと思います。
やったー!今度は絶対録画します。また日が近づけば教えてください。
> 全国遺跡資料リポジトリ・プロジェクト
大変いい情報有難うございます。活用させて頂きます。
大阪では、池田城の情報が多いですね。
そーそー、城めグマちゃんも言っておりましたが、「鬼ノ城築城は壬申の乱後」いやーーーー、びっくりですね。確か城郭検定の試験問題にも白村江の戦いとの記述があったのではないですかね?鬼ノ城に行ってみたいですね。どんな石垣なのかも身近で見てみたいですね。
城の歴史がひっくり返るかもしれませんね。
では、では。
フキノトウ採りに山廻り。
真庭市下河内土井谷周辺の林道を廻る。
去年はこの時期、高山城から尾根筋を二つの城郭を通って中の谷の土器尾城。
北西に尾根を降って逆巻城まで馬蹄形に山歩きをした記憶がよみがえる。
高山城の西隣の峰が何となく城山風に見えて鞍部から登り付く。
竹林の上の尾根は甘い削平地。
その北に二重堀切。
主郭。
一段下がって低土塁が境界土塁のようにある長い郭。
西側には武者走りのような道跡。
小郭から秋葉神社脇の広場。
一段上がって秋葉神社の郭。
神社の裏(北)に土盛り。
これが「おかやま全県統合型GIS」に記載されている船尾山古墳らしい。
参道が東側の林道に降っている。
麓に降りて住民に情報を聞くも城郭とは初めて聞いたとの返事。
中の谷山(450.9m)の土器尾城への登城ルートの入り口になる城郭のようだ。
「仮称・船尾山城」としておこう。
フキノトウを土産に、昼食に間に合うよう家路に就く。うわっ、またフキノトウ!!
やぶくぐりさん、こんにちは。
もはや山城遺構よりも、やぶくぐりさんの山菜情報が
楽しみになっている私です。
お城の情報はあとでじっくり読ませていただきますが、
どうしても最初にフキノトウに反応してしまいました。
そんな好物でもないのですが、いま無性に食べたいです。
それ以上に見つけて自分で採取したいです!!
ご無沙汰しております m(_ _)m
色々とご報告したことが溜まっているのですが、取り急ぎ...
珍しく早く目が覚めたので、ちょこちょこネットサーフィンをしていたところ、
『全国遺跡資料リポジトリ・プロジェクト』なるWebサイト(お城さんマークに
リンク)を見つけました。発掘調査報告書等をPDFで公開してくれていて、お城
のもあります。
元来石垣フェチな私などは『特別史跡彦根城跡石垣総合調査報告書』なんかは
涎が...。-> rar.shiga.nii.ac.jp/metadata/44(接頭辞省略)
各レポジトリサイト内で「城跡」をキーワードに検索したら、お城に関連しそ
うなものがヒットしますので、覗いてみるのも一考かと思います。
では、失礼いたします。(さて、二度寝しよかな、笑)http://rarcom.lib.shimane-u.ac.jp/
ポリタンクさん、こんにちは。
朝から何をやってるんですか(笑)。
でもこういうのはどんどん利用されるようになってほしいですね。
そうなればもっと多くの情報がアップされるのでしょうし。
ポリタンクさんのことですから、かたっぱしからダウンロードしたんじゃないですか?ふふふ(^^)
そういえば先月ご一緒した際に寄り道した件も、
こういう調査報告書を読んでて、その存在に気づいたのです。
思わぬ情報(というか情報の宝庫ですが)に出会えるワクワク感がたまりませんね。
情報共有ありがとうございました。
がーーーーーーーーーん。「日本の城を巡る旅、第2弾」ちゃんとセットしていたんですよ。
今日は別件があり、PM7:00には自宅には居ませんでしたので、ハードディスクに録画設定していました。
しかし、です。今見ると水曜どうでしょうはきっちり録画できていますが、「極旅4 達人と行くガイドに載らないマル秘ツアー」は録画できていないじゃないですか。
うそやーーーーー。悲しすぎ。
ありかなー、録画ではなく視聴になっていたのかなー。
私も、松山城、丸亀城、備中松山城どれも行ったことが無いですね。
小豆島にも石切り場だけではなく、城ありますよね。
はーーーーーーーーーー。
もし再放送、アーカイブ放送がありましたら、教えてください。
残念、無念、冷やそうめんです。
では、では。http://www.tv-tokyo.co.jp/sat/backnumber/20130302/
ブレイズマンさん、こんにちは。
なんと、観ていただけなかったんですね(^^;;
残念です。
たしかBSジャパン3月28日午後5時から再放送
される予定だったと思います。
可能でしたらご覧くださいませ。
がーーーーーーーーーん。「日本の城を巡る旅、第2弾」ちゃんとセットしていたんですよ。
今日は別件があり、PM7:00には自宅には居ませんでしたので、ハードディスクに録画設定していました。
しかし、です。今見ると水曜どうでしょうはきっちり録画できていますが、「極旅4 達人と行くガイドに載らないマル秘ツアー」は録画できていないじゃないですか。
うそやーーーーー。悲しすぎ。
ありかなー、録画ではなく視聴になっていたのかなー。
私も、松山城、丸亀城、備中松山城どれも行ったことが無いですね。
小豆島にも石切り場だけではなく、城ありますよね。
はーーーーーーーーーー。
もし再放送、アーカイブ放送がありましたら、教えてください。
残念、無念、冷やそうめんです。
では、では。http://www.tv-tokyo.co.jp/sat/backnumber/20130302/
ブレイズマンさん、こんにちは。
なんと、観ていただけなかったんですね(^^;;
残念です。
たしかBSジャパン3月28日午後5時から再放送
される予定だったと思います。
可能でしたらご覧くださいませ。
極旅「にっぽん名城めぐり第2弾」出演、
おめでとう御座います。今回は現存天守の旅ですね。
メニューに小豆島の石切丁場を入れるあたり、
極旅らしい感じが出てますね。
まさか小豆島の後に備中松山城まで行くとは…。
私は丸亀城も備中松山城も行ったことがないので、
行きたくなりました。
訪城先もかなり考えたんでしょうね。http://www.geocities.jp/shiro20051212/
成田三河守さん、ご無沙汰しております。
極旅をご覧くださったのですね。
ありがとうございます。
あの日は野球を見ている人が多いだろうなと思ってました(^^;
小豆島はぜひともご紹介したかったので、ちょっと無理が
あったかもしれないと思いつつも、行程に入れさせてもらいました。
今回の訪問先は、かなり考えましたよ。
でも結局は無難なところに落ち着いたといった見られ方
をされてしまうかもしれませんけれど(^^;
今度も機会があればまた1つでいいので私の本当の
お奨めを潜り込ませたいと思っています。
前回の竹田城、今回の天狗岩丁場みたいに・・。
ではでは。
城郭研究家さまは、ツイッターでいくつか現地説明会の情報をあげて頂いております。
私もひとつ、水口岡山城です。
中日新聞の情報によりますと、
> 水口岡山城跡第一次発掘調査で「虎口(こぐち)」と呼ば
> れる城の出入り口付近の石垣が出土したと発表した。
ということです。
水口岡山城、実は私行ったことがあります。
この記事で驚いたのが「水口岡山城跡第一次発掘調査」とあり、あんなに有名な城が、今回が初めての発掘調査とは驚きです。水口岡山城は現在は公園として使用されており、公園設立時に発掘調査をしなかったんですね。
古水口城とも呼ばれていますが、城の形状は全然古い印象はありません。壮大な城で、大変規模の大きな山城です。むしろ新しさを感じることが出来る城です。
記事を抜粋すると、
・虎口は七、八メートル四方の枡(ます)形
・四〜五段の石垣が積まれ、高さは一・五〜二メートル程度
・石垣の内側に詰めた石(同10〜40センチ)が露出
・上部から石垣を崩し、崩壊させていた
・本丸だけでなく大手道まで石垣が築かれた
という事で、枡形、四〜五段の石垣、栗石、大手道まで石垣等など、桃山時代前期によくある非常に特徴的な石垣の構造ではないかと思われます。
実は、この枡形、色々な資料に、枡形の虎口跡が詳しく記載されていましたので、私も行ってみましたが、当時は草ボーボーで枡形か何形か全く解りませんでした。
しかし、その虎口を石垣で防御していたとは驚きですね。その石垣も残念ながら、破壊されているようです。
> 城跡の国史跡への指定を目指し、二〇一三年度は城の天守
> があった場所付近を発掘調査し、天守の規模や構造の解明
> に乗り出す
おーまじですか。是非国指定史跡に登録されるといいですね。
> 現地説明会は3月3日午後1時半。近江鉄道水口駅から徒
> 歩20分。市立水口小グラウンドに駐車する。
いやーーーー、是非行きたいんですけどね。別件があって3/3は行けません。どなたか行った方がありましたら、詳しく教えてください。
甲賀は、忍者の城を含めて水口岡山城にも行ってみたいですね。
では、では。http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20130228/CK2013022802000012.html
ブレイズマンさん、こんにちは。
おお、行ってこられたのかと思って喜んだのですが
違ってたのですね。
私も行けませんでした。
というか上郡町の歴史講演会に行ってました。
水口岡山城の石垣は見に行ったことはありましたが
今回のポイントはまた確認してみたいと思います。
しかし今の時期はほんとに現説やらイベントが多いですねぇ。
それでは
城主の備前児島の住人飽浦(佐々木)信胤はお妻という恋人のため北朝から南朝に鞍替えし、太平記22巻にある「恋の忠臣」としてもてはやされた人だ。信胤は尊氏の有力者高師秋の手から洛中三美人の一人お妻をつれて備前・飽浦の高山城に帰り、小豆島で旗揚げし武運つたなく敗死したという。およそ岡山人の県民性からして、恋に全てを懸ける男というのを彼以外知らない。
彼の城、小豆島の星ヶ城・皇踏山城など訪問した時、島にはお妻の墓や信胤をまつる社があり、また各地に伝説が残っていて、本貫地岡山より有名で人々に慕われているのに驚いたことがあり、一度は訪ねたい城だった。
高山城の登山ルートは、陸からの電力会社の管理道を登るのが一般的らしいが、岩場の急斜面があり(国土地理院の地図では等高線が切れていて岩場になっている)私には無理。国土地理院の他の2本のルートも消滅してしまっていた。また、山好きに聞くと、池の奥からやぶ漕ぎするルートと、電力会社の標識から20分の面白くないルートとどちらにするか聞かれ、迷わず後者のルートを聞いた。
県道45号飽浦の信号を金甲山方面へ南に曲がり、1本目の右への道を山に登る。3、4箇所の産廃施設を過ぎ、最後の「I建設」という産廃施設に着く。133への細い道がまだ続いているがここの前に132、133への標識がある。この産廃施設は第4土、毎週日曜が休みなので、道の端に駐車できる。営業日は大型車が狭い道を走るのでお勧めできない。
さて、132の鉄塔に着き(ここは眺望が抜群)131の鉄塔に向う道を行けば難なく南峰、やや下って北峰。南峰本丸には倒れた天照大神の碑があり、すぐ近くには表面には何も記されていない祠がある。信胤とお妻をまつったものだ。
帰り道、処分場周囲に散らかるゴミを見て、自然を愛する山好きが面白くないと言ったのは、このことかと思った。麓の郡の南小路に案内板はないが飽浦三郎左衛門信胤の墓があり、地元の人も負けずに信胤を慕っている。高松の苔さん、こんにちは。
佐々木信胤関連では先日、星ヶ城を訪れました。
また安田集落にある安田城も行ってきましたよ。
高山城は全然知りませんでしたので、いい勉強になりました。
「電力会社の標識から20分の面白くないルート」
は山を愛する気持ちからの表現だったのですね。
私も信胤を偲びに行きたいです。
2月の山城会は備中へ。
朝9:30備中成羽の「山崎氏陣屋」(成羽陣屋)前駐車場待合せ。
今回はオジジ4人。
「山崎氏陣屋」を半周して「鶴首城」(標高338m)への登山道へ。
途中に東屋。
更に登って太鼓丸の東屋。
鞍部に辿り着いて小休止。
出城の二の丸へは今回行かず。
登山道を登って主郭群。
主郭は石垣全周。
虎口から主郭の平坦地。
七の壇まで周回。
山を降って「山崎氏陣屋」の残り半分を廻る。
全長276m。内部は小学校、役所、美術館。
3つ4つめは高梁市川上町七地の「備中・国吉城」と「小城山城」。
七地への自動車道を登り、「小城山城」の脇を抜けて「国吉城」手前に駐車。
一旦歩いて戻り、「小城山城」への尾根を選定挟みを使いながら登る。
堀切、切岸、郭が二段。
毛利氏が備中兵乱で「国吉城」を攻めた時の陣城らしい。
戻って、「国吉城」側の二郭の小ピークを見てトイレ脇から「国吉城」への堀切、切岸、土塁。
直ぐに国吉神社の平坦地。
先に進んで戦国時代風の櫓。
フキノトウが出ている。
けっこうな量で皆で山分け。
五つめは高梁の市街地から約3KM国道180号線を南下して、備中広瀬駅の上の「広瀬固屋城」。
駅から南側の踏み切り脇の無住のお寺に駐車。
お寺の裏山の墓地から八十八ケ所廻りの石仏道を通って山道を進む。
赤テープを要所に設置。
ものすごく長い竪掘脇の道。
竪掘はほぼ直線なので荷揚げ用かと妄想。
道が無くなり切り開きながら直登。
尾根に出て左へ。
三角点のある郭。
一部盛り上がり櫓台。
更に尾根先に進んで、風化したテレビアンテナのある二段の郭。
石積が二箇所。
城名が固屋(小屋)なので、物見程度ならこなんものかと自分に言い聞かせる。
尾根道は更に北西の神社方向に続いているようだが、ここは元来た道を戻るべきと衆議一致。
麓のお寺まで戻ると、犬連れの地元の方に出くわす。
イノシシかと思ったとのこと。
全員へとへとで帰路につく。
今夜もフキのテンプラとフキミソ。
やぶくぐりさん、こんにちは
今回のお城は私がわかるものも含まれていましたので
イメージしやすく拝見いたしました。
しかしやっぱり気になる「フキノトウ」(笑)。
実は先週もやぶくぐりさんを見習って、フキノトウが
見つからないかなと思って城に行っていましたが、
全然見つからず。
悔しい思いでした。(^^;
今回の居館見学会の様子が神戸新聞に掲載されておりましたので、皆様にもお知らせしておきます。
神戸新聞さんの方もかなりきれいに栗石の写真が撮れていますね。
曲輪跡には、アスレチック施設が数年前まであり、その時にかなり地表面を削られており、礎石、竪穴、遺物も発見されなかったようです。
あと「別城郭として考える必要があるのではないか」の節にはひとつ弱点があります。
播磨国では1581年豊臣秀吉の命により、大規模な城割りが行われます。なぜ今回の居館跡が城割りを免れただけでなく、新城までできるようになったのか、その辺の理由付けは必要であるかな、と思えます。
残念ながら、長水城の良質な史料は殆ど残っていないとのことです。
では、では。http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/alacarte/201302/0005746447.shtml
実は、書きたいこと一杯なんですわ。
> 余談ですが、『大阪春秋 第149号』は「買い」でしたよ
> ー。内容は次のとおり
> ですので、ご覧になって判断してくださいませ。
とあったように、私これ買いました。確かにこれ「買い」でした。
レス頂いてながら、書き逃している事満載なのですが、今日は、先日の長水城の居館跡現地説明会の模様のご報告をしておきます。
で、私、城郭ド素人研究家、もしくは、城郭研究家さまパート2としまして、今回発見された居館跡は、
「これって、居館跡じゃねーんじゃねーかー」
と大胆仮説をご披露したいと思います。
当日は大変多くの方がお集まりで、神戸新聞の発表によりますと200名程度の人たち来られたようです。大変寒く、小雪舞う中での説明会でした。
私が撮りました写真を公開しておきますので、お城さんマークをご覧いただければと思います。
この地域は播磨守護、赤松氏の領土で、その家臣団である宇野氏がこの城を築いたとされています。宇野氏は赤松氏が低迷すると守護代となりましたが、毛利氏と通じていたため、豊臣軍から攻撃を受け落城、宇野氏も亡くなってしまいます。
この居館跡は、砂防ダム工事の重機搬入の道路工事の為、破壊されてるという事です。発掘調査は続きますが、遺構は早速来週より破壊の方向で進んでいくという事です。はやり良好な状態で見れるのは今日で最後でした。3月25日で発掘調査は終了する予定でしたが、どうも延長される可能性もありとのことです。
未発見の城か?と思っておりましたが、日本城郭大系を見てみると今回の発掘調査地域も長水城の曲輪として指定あり、正確に分かったのが今回初めてという事だと思います。
で、この居館跡やっぱり変でした。
普通、山城の居館というのは、行政の中心が居館で、戦闘になると山城にこもるというのが通例で、居館にはそれほどの防衛施設はありません。しかし、今回発見されたのは正確には居館跡というより、それに付属する櫓台と呼ばれる防御施設です。新聞発表を見る限り物見櫓程度のものを思っていましたが、まったく違います。
石垣で完全防御しており、櫓も瓦葺の櫓であった可能性があり、櫓ではなく、天守の可能性もあります。昔は天守公園とも呼ばれていたそうです。
写真を見てもらえば解りますように、調査資料の想定居館跡は、小学校をひとつ飲み込む程度の広さがあり、これを全部居館とするのは無理があります。また詳しい調査は出来ていないのですが、この小学校を囲むように土塁があったという言い伝えがあるそうです。
また石垣を観察する限り非常に新しい印象があります。宇野氏時代の物ではなく、豊臣系の石垣の感じがしています。石垣の複数の専門家に見て見らったところ、石垣の石が大きく、場合によっては「文禄」まで下ることを検討しておく必要があるのではないか、との指摘を受けたという解説がありました。
また石垣の背後には裏込め石が非常に丁寧に敷き詰められていました。これは豊臣期の石組み構造と酷似しております。私は結局背後の長水城には登城しませんでしたが、解説して頂いた方によりますと長水城の石垣とは違う印象があるとのことです。
この櫓台は、物見櫓程度の櫓ではなく、石垣をぐるりと取り巻き、瓦葺の本格的な天守の可能性もあり、守る気満々の本格的な櫓台です。それにその居館としては、想定居館跡が正しいとすれば、かなり馬鹿でかい広さのある居館であり、居館とするには不自然な感じがします。
そこで私のとんでもない仮説としましては、
「大手の近くにあることから当初は長水城の居館として建設されていたが、その後豊臣氏が播磨国を支配すると、この居館跡を大規模に改修した可能性があり、長水城の居館とするのではなく、少なくても最終形は別城郭として考える必要があるのではないか」
てのはいかがでしょうか?
まー残念なのはこの櫓台、天守台は破壊されてしまうんですよね。全部を残すことは難しいかもしれませんが、なるべく残す方向で検討してもらたっなー、と思いました。
また今回は断念したのですが、長水城のも是非登城したいと思います。
では、では。http://plus.google.com/photos/108857793486279770251/albums/5845611183939358545
ブレイズマンさん、こんにちは。
現説行かれてたんですね。
羨ましいです!!
この日に仕事が入ってしまっておりまして
とても残念でした。
いろいろとネットで拝見した石垣を見た印象では
やはり在地のものではなく、ブレイズマンさんが
書かれているように、改修された別モノであると
想像します。
瓦も出てましたので、瓦葺の建物もあったのかなと
思いますしね。
ここが残らないのが実に残念です。
なんとか今後も残される方法はないものか・・・。
管理人様今晩は。
今日2度目の山田城。
前回はカメラ故障で取れなかった写真が目的。
土曜日に雪が降ったようで土塁に薄らと雪がかぶっていた。
その上を足跡が点々と残っていた、虎口、土塁付近に集中していたので、
山仕事の人ではないような気がする。
いろいろ探したが、城に至る道はなく直登するしかないようです。
今回は、前のルートとは変え城に直登。
神宮神社の前の道を進み看板に里山手料理とある料理屋さんの横を通り、
約150m進むと地蔵さんがあり、この先に栗林に行く道がある。
栗林を上り詰めると谷があり、
この谷を直登すると尾根に出ると、西側に折れのある切岸が見える、ここが下の郭の先端。
冬枯れもあり非常に見やすい状態でした。霄漢さん、こんにちは。
能勢山田城は近々訪れようと狙っておりますので
大変参考になりました。
直登も好きですし(^^
いやぁ・・楽しみなお城のようです。
やぶくぐりさん、いつも情報とテープをありがとうございます。またよろしくお願いします。
[2777]で高松の苔さんの情報をいただき、早速備前吉永町北方の「東山城」訪問。
高松の苔さんありがとうございます。
1/25000地形図とふーむ氏の縄張図持参。
書き込み通り赤テープを足しながら谷を詰めて登城。
晴れ間に時々雪が舞う天気ながら遠望良好。
二つ目は吉永町板屋の「ろんき城」。
板屋の集落から橋を渡り林道奥の池を目指す。
集落を東に抜けた所で林道に枯れ枝が垂れ下がり車両通行不能。
ここから板屋鉱山跡を通って奥の池の中程まで約1Kmを歩く。
イノシシの足跡多数。
池の中程から林道を離れて急こう配のヒノキ林を直登。
入口でGPSをセットしていたら選定挟みを置き忘れてしまう。
赤テープを点々と設置。
栗の厚く積もった落葉で木に摑まりながら登る。
主尾根に出て踏み跡。城とは反対方向(東)の出丸まで行ってみる。
尾根が約20m落ち込んでいる。
ここで道は無くなり引き返す。
西へ進んで岩場の急登。
腰までシダの茂った甘い平坦地。
標高240.1mの三角点。
平坦地は二段になっているようだ。
和気の衣笠山城みたいなイメージ。
見張場みたいだ。
帰りは元来た道を辿って林道出会いへ。
選定挟み回収。
三つめは吉永町神根本ある「医王山城」。
八塔寺への県道を北に進んで神根本の郵便局前を過ぎて最初の右手にある橋のそばの路側帯に駐車。
八塔寺川を東に隔てて(株)タック機材センター。
「おかやまGIS」によると恵比寿橋を渡って突き当りの山から城域になっており、八塔寺川に突き出た岩壁のピーク(最高所)が主郭のようだ。
山との突き当り約20m右から林内に入る。
点々と赤テープ設置。
ヤブも無く見通しの良い急こう配を直登して最初のピーク。
土橋風の細尾根。
二つ目のピークを過ぎると左手の斜面に竪掘らしき溝が二つ。
三つめのピークを過ぎて、一部ヤブも出てきて、ほとんど遺構の無い城かと不安になる。
尾根分岐から左に曲がり四つ目のピークを目指す。
正面に平入り虎口。
左手は竪掘。右手は低土塁の腰曲輪。
城は三段になっている。
城内に入り、右手の腰曲輪先に竪掘。
竪掘は堀底道になって上の腰まで土塁の廻る帯郭に出る。
反撃用の秘密の通路と妄想。
最初の虎口に戻って坂虎口から腰までの土塁の廻る帯郭に入る。
城内は歩きやすく横矢も良くかかりそう。
ここの切岸は高さ約2mで直切りになっている。
この城は背後が崖になっており、入口を土塁囲みで防御して、入口のパーツが畆状竪掘と異なってはいるが、美作湯郷温泉東の三倉田城と似たイメージだ。
帯郭の土塁は城を半周している。
主郭に出て川に出ている見晴らし最高の岩場まで行ってみる。
城域は約50m四方程度。
素朴な城と思い込んでいて、思わぬひろいものをした気分。
やぶくぐりさん、こんにちは。
高松の苔さんとやぶくぐりさんが行かれた後は
かなりわかり易くなっていそうですね(笑)。
医王山城の情報ありがとうございます。
おかげで妄想で城攻めができました。
ここはぜひとも訪れてみたいと思っていた城です。
ありがとうございます。
来ました。なうです
城郭研究家さまの「城めグマツィター」に
> あちこち現説ラッシュですねえ〜。山城オンシーズンだと
> いうのにまったくもって悩ましい
えー、そんなあんの?あったらこちらにも情報流してよ、と思っていたら、長水城の現地説明会があるんですねー。
居館跡にも関わらず、石垣や櫓があるとは驚きですね。
> 長水川の砂防工事に伴い、県教育委員会が昨年12月から
> 調査。
ということで、見に行かないと破壊されてしまう可能性ありですね。
どーしましょう?
他にも書きたいこと満載なのですが、取り敢えず本日の情報ですが、こちらにも記載しておきます。
他にも「現説ラッシュ」の情報お持ちの方がおられましたら教えてください。
では、では。
管理人様>
> ポリタンクさんのご指名がありましたので
無茶振りしてすみませんでした(汗)
私は人の切れ目を狙おうとしたせいか、20分ではちょっと足りませんで、後から
「あー、あそこのアップを撮ってねえ!(泣)」という状態になってます...。
ご指摘の家紋も、それだけをアップにして撮影してなかったりとかしてまして、
とほほ。
まあ、何にせよ、良い機会に恵まれて幸いでした。
Twitterの方で、『「なんで入れないんだ?応募なんて聞いてないぞ!」と詰め
寄ってるおじさん』のことを取り上げられていましたね。Webサイトにアップ
されている情報なので少々逆ギレなんじゃないかとは思いますが、悔しい気持ち
そのものは理解できます。悔しさをぶつける相手を間違えているかなと思うだけ
でして...。ただ、競争率2倍ちょっとというのは、私も意外と少なかったなと
思います。Twitterの方でもご存知でないお城好きな方がそこそこいらっしゃい
ましたので、周知方法については問題があるかもしれませんね。(主催者側から
したら、応募が多過ぎるのも困りものなのかもしれませんけど。)
では、失礼いたします。
「日本の城」をテーマに”歴史ミステリーへの知的好奇心”と”癒しの旅”を融合した、BS朝日の人気番組『坂東三津五郎がいく 日本の城ミステリー紀行』シリーズが、映画館の大スクリーンで蘇ります。
日本各地の城をピックアップし、史料や証言、再現映像、CG等で、城の造り、背景の歴史、武将たちの謎、合戦のドラマやミステリーを浮き彫りにする歴史探訪シリーズ。
第2回目は、「信長の城革命」です。
軍事や政治の面で類まれなる手腕を発揮した信長。築城でも革命児といわれ、今では当たり前と思える、天守、石垣、瓦葺き屋根などを初めて本格的に城郭に取り入れ、近代城郭の礎を築きました。
今回は、信長が居城とした清洲城、小牧山城、岐阜城、そして安土城。信長が城に何を求め、城をどう進化させていったのか、信長の城革命と、天下布武への道を辿っていきます。
上映後のスペシャルイベントでは、戦国時代史の第一人者・小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)による戦国時代の城の謎をさらに掘り下げる貴重なトークショーも実施します。
この機会にぜひ、信長の城にどっぷり浸かっていただける歴史ロマンの世界をご堪能ください。
日時:2013年2月24日(日)19:00開場/19:30開映
※1回限りの上映です。
会場:ユナイテッド・シネマ豊洲
詳細は弊社HPを御覧ください。
みなさまのお越しをお待ち申し上げます。
山好きが、国土地理院の地図の山道から吉永・龍泉山に登ったという話を又聞きし、尾根伝いに備前・東山城に登れると、色気を出してトライ。吉永小学校奥の與七郎谷霊苑に駐車。霊苑の一番奥から地図にある林道を登る。少し行くと春日神社方面からの林道とT字路で、出会う。右に倉吉地区方面へ少し下り、右手に墓地が見え出す左側に、「龍泉山登山口」のピンクの小さな道標が木に取り付けられている。側溝沿いの小道が続く。やがて側溝が小川に合流するあたりで左へ、砂防堰堤をまくように山道。山屋が、テーピングと芝刈りで、山道は明瞭。やがて枯れた谷川のガレ場を登っていく。尾根手前で平坦地と石仏。コの字型の石組みが残る。
ここで龍泉山への道と分れ「つづら・北方へ」の道標方面へ直進。山屋の道と別れてめっきり目印が減る。やがて尾根へ。谷筋に直進が葛籠地区、明瞭な山道はもうない。ここから左へ上っていく。テーピングをしながら上る。「北方へ」の道標。途中、数年前の2.3種類の色あせたテープに気がつく。また、新しく剪定バサミで刈られている箇所も。最近先客があった模様。東山城ピークを超えて北方地区へ山屋さんが上ったか?腰までのシダ、岩場。2つの郭。そして本丸。やはり、最近に刈り払っている。写真が撮り易い。三角点。
北の郭へ。2段。そして岩場。急勾配の北方への道。戻って、西側へ北から南へ続く細い犬走り状の帯郭。
南の郭へ。ここは数年未踏状態。剪定バサミとテーピング。シダの林。北側に細い帯郭。7段の郭。低い土留め状の石組2箇所。虎口。そして岩場。絶景!この岩場も微妙に足場があるようだ。岩場を上り下りする力はないのでここで引き返す。2重テープ。
山道つくりもなかなか大変。やぶくぐりさんのようには行かない。これも数ヶ月後にはなくなるのかと思いながら駐車場へ下山。高松の苔さん、こんにちは。
大変そうな山城攻めですね。
写真をあとで確認したら何が写ってるかわからない
ってことになってそうですね(^^
でもなかなかの良い山城の雰囲気は伝わってきました。
「数ヶ月後にはなくなるのか」というフレーズが何とも
せつない印象です。
お疲れ様でした。