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野田城跡
登城日:(2000.05.26)
所在地: 新城市野田td>
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
城内を堀切がめぐっています 城のだいたいの縄張りがわかります  元亀四年(1573)1月、上洛をねらう武田信玄は、宇利峠を超えて三河に進入してきた。菅沼定盈の守るこの野田城を攻撃するためであった。
 野田城は小城であるが、そなえが固くなかなか攻めこめない。そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。
 定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。

 この城は、永正五年(1508)に築城されたと伝えられる。菅沼定則・菅沼定村・菅沼定盈等がここを居城とした。
 城郭は南北に長く、北より三の丸・二の丸・本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。
 戦国時代、今川・武田・徳川などによって幾度も争奪戦が繰り返され、天正十八年定盈が関東へ移封されるまで続いた。

「野田城跡案内板」より

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資料
 

私見
本丸城址碑  野田城は、作手の奥平、田峰、長篠の菅沼氏らと同様に松平氏と武田氏の両勢力にはさまれた弱小豪族らが活躍した奥三河の城郭です。規模こそ小さいものの城の南側は川と断崖に守られた堅固な山城だったようです。縄張りはその堅固な壁に平行した形となって三の丸・二の丸・本丸が続いてます。特に二の丸と本丸との間には堀切がしっかり残っているのがよくわかります。
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