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長篠城跡
登城日:(2000.08.26)
所在地: 南設楽郡鳳来町長篠/td>
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
駐車場を降りるとすぐに空堀跡。  天正三年(1575)五月、武田勝頼軍一万五千が、徳川家康の将奥平貞昌以下五百が守るこの長篠城を包囲して攻防約十日、織田信長三万・家康八千の援軍は、五月十八日西方四キロの設楽原に到着して陣を築く。武田軍は二十日長篠城の囲みを解いて設楽原へ進出、二十一日は夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入し壮絶に戦うが、数千の銃撃にさらされ歴戦武勇の将士の多くを失った。勝頼は数騎に守られて敗走した。

◆豊川本流(寒狭川)と、宇連川の合流点の断崖上にあり、本丸・帯郭・野牛郭・巴城郭・瓢郭・弾正郭等、総面積約10ヘクタール。
●本丸の土塁と堀の一部を今に残し、戦国末期の城郭の姿をよく見せている。
●永正五年(1508)今川氏の将菅沼元成築城。
●天正三年(1575)11月徳川家康は、奥平貞昌を城主に任命し城郭整備。五月、武田勝頼の猛攻に耐える。
縄張り図。ものすごい要害ですね。 ◆要害の長篠城
 <要衝>
 長篠の地は豊川をさかのぼって約25キロ、長野県、静岡県北部に通じる道中にあり、このあたりから平地は山に移っていく。江戸時代の豊川舟運も長篠城を越えるところで終点となる。
 戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪い合ったいわゆる境目の城であった。
 <要害>
 長篠城の南面は宇連川、西は豊川、ともに50メートルの断崖である。なお本丸の西北は矢沢の険しい谷である。平地への面を水堀と土居、そして外郭は柵又は塀で囲んだ。平地へ移ってきてもできるだけ天険を利用した戦国末期の典型的な築城である。
 <土居と堀>
 この正面に見えるのは、本丸の土居と柵で天正三年の姿を残している。右手に門と板橋があり、続いて土居と堀が伸びていたが江戸時代に崩されて今はない。
 堀の土はかきあげられて土居にした。堀には水を引き入れた。土居と堀は直線に進まず直線に近い出入りがある。この形はやがて近世の城郭へ移り変わる姿を見せている。

長篠城跡案内板より


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資料
◆長篠城址史跡保存館
 現地に残された武具や出土品参戦将士子孫からの提供品、他に古文書などを収蔵し、長篠の戦いの全容を展示資料で見ることができる。
●奥平氏籠城の血染めの陣太鼓
●鳥居強右衛門磔死の図(落合左兵次指物写)
●火縄銃(3〜30匁)各種、弾丸・用具その他
●長篠合戦図屏風(尾張徳川家所蔵原寸復元)
●具足・武具その他

入館料  *(団体二十人以上)
大人    210円  *160円
中、小学生 100円  * 50円

◆年表:
城主年代説明
菅沼元成

俊則
元直
1508(永正五) 今川氏親の武将として、ここに城を築く。それより、長篠菅沼氏と呼ばれた。
  奥平氏作手村
・山家三方衆 田峯菅沼氏設楽町田峯
  長篠菅沼氏鳳来町長篠
貞景 1561(永禄四) 今川義元死後、松平元康(家康)に属する。
  1569(永禄十二) 徳川家康にしたがい掛川城(今川氏)を攻め、貞景は天王山で戦死。
正貞 1571(元亀二) 天野景貫、秋山信友に責められて降参、武田信玄に属する。
  1572(元亀三) 武田軍山県昌景に属し三方原の戦いに参加。
  1573(元亀四、天正元年) 信玄死去、徳川家康長篠城を奪回、正貞は徳川へ内応の疑いで信州小諸に入牢。(奥平氏は武田軍より離脱、徳川氏に走る。)
奥平(信)貞昌 1575(天正三) 家康、奥平貞昌を城主に任命、城兵500人、武田勝頼以下1万5千人長篠城包囲攻撃、設楽原決戦
  1576(天正四) 長篠城を取り壊し、新城市へ移築

私見
本丸跡地。 長篠の合戦の地にやってきました。今回の目玉のひとつでした。思っていた以上の天険に守られた長篠城跡に加えて、まわりには勝頼が陣取った医王寺山などもう遺構だらけですね。関が原を思い出してしまいました。
 今回は時間がなかったので長篠城跡だけにしましたが、再度じっくりと鳳来町一帯を散策しようと思います。あ、そうそう長篠といえばやっぱり鳥居強右衛門ですよね。日本一ふんどしが似合う武士です。(笑)ここはそんな彼が目印です。
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