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掛川城跡 登城日:(2000.08.26) 所在地: 掛川市 |
歴史 |
掛川城は、文明年間(1469〜89)、駿河の守護今川義忠は遠江支配の拠点として、家臣である朝比奈野泰熙に築かせたことがその始まりとなりました。 桶狭間の合戦(1560)により今川義元が織田信長に討たれると、永禄十一年(1568)に義元の子氏真は武田氏に駿河を追われ、掛川城に立て籠もりました。翌年、徳川家康はこれを攻め、長期にわたる攻防の末、和睦により開城となりました。その後、家康は石川家成を入れ、武田氏への防御拠点としました。 天正十八年(1590)豊臣秀吉は天下平定後、徳川家康を関東への移封を命じ、家康の旧領地には次々と配下大名を入封させていきました。掛川城には山内一豊が入り、城の大々的な改修をはじめました。又、天守を築いたのもこの時でした。 江戸時代には、掛川城は松平氏や太田道灌の子孫である太田氏など11家26代の居城として栄えつづけていきました。 しかし嘉永七年(1854)の大地震により天守閣など大半の建造物が大破しましたが、御殿、太鼓櫓などを除いて、そのまま再建されることなく明治維新を迎え、明治二年(1869)に廃城となりました。 ◆掛川城天守閣 掛川城の天守閣は、三層四階から成ります。六間x五間(約十二mx約十m)の大きさは大きい方とは言えませんが、東西に張り出し部を設けたり、入り口に付櫓を設けたりするなどして複雑な外観をかもし出しています。また、一階、二階に比べ四階の望楼部が極端に小さくなっているのは、殿舎ノ上に物見の為の望楼をのせた出現期の天守閣の名残と言えるでしょう。白漆喰塗り籠めの真白な外容は、京都聚楽第の建物を、黒塗りの廻り縁・高欄は大阪城天守閣をならったと見られています。 ◆掛川城御殿 掛川城御殿は全国でも珍しい現存する城郭御殿です。京都二条城や、高知の高知城なども同様の城として有名ですね。 建築様式は書院造りであり、畳を敷き詰めた部屋が襖によって仕切られています。現在の御殿は嘉永七年(1854)の大地震により、本丸から二の丸へと位置をかえ現在に至っています。 『掛川城跡パンフ』より
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資料 |
◆城主一覧
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私見 |
掛川城にやってきました。今までずっと新幹線の車窓からでしか見たことがなかったのですがようやく登城することができました。ちなみにここら辺は車を止めるスペースがありません。駅のロータリーでもいいのでしょうが、ここは近所の有料駐車場に入れることにしました。
まず天守閣を目指します。300円を支払って太鼓櫓をくぐると天守への急な石段を登っていきました。この掛川城、近くで見るとものすごい急な坂の上にあるのがよくわかります。建物自体はいかにも最近の復元建造物といった感じであまり時代考察なんて考えられてないのか?と感じました。しかし忍び返しや軒唐破風、火燈窓といったところは個性的です。中もあまり目を引くものはありません。(^^;う〜ん遠目に見たら結構良い風格を感じたんですが・・ しかし天守脇にある三日月堀跡や太鼓櫓はいいですね。とくに太鼓櫓の雰囲気はすばらしいです。 さらに、二の丸御殿へいってみました。ま、300円の入場券が天守閣、御殿共通となっていたのもあるんですが・・ しかし、予想以上に御殿は書院造りでいい感じに歳月をとっています。高知城本丸御殿ほどはくたびれてはないですが、さすがは一応現存建造物です。私は天守よりもこちらの御殿のほうが見ごたえがありました。 この掛川城は徳川時代以降からの城郭であり、今川時代の古掛川城は近所の天王山龍華院大猷院殿が建立されている小高い丘が城地となっていました。今回はこちらはパスしてしまいました。やはりこの日この掛川城で9つ目ということで心身ともにすっかり憔悴してしまったので静岡の宿を目指してしまうことにします。
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