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大阪城跡登城日:(08.10.25→11.01.22 →2012.03.25) 所在地: 大阪市中央区大阪城1番1号 |
歴史 | ![]() ![]() ![]() ![]() 大手門枡形は、大坂城の正門の防御施設として、特に立派な石垣で築かれている。大手門正面の見付石は表面積およそ29畳敷(48u)、推定重量108トンもあり城内第四位の巨石である。また、左手の巨石はおよそ23畳敷(38u)、85トンで第五位にあたる。これらの巨石はいずれも、豊臣時代のものではなく、徳川時代の大坂城再築の時に、瀬戸内海の島々から運ばれてきたものである。担当大名は、最初は熊本藩主加藤忠広でのちに久留米藩主有馬豊氏が築き直した。 ![]() ![]() 大阪城の大手口を守る重要な隅櫓の一つで、元和六年(1620)に創建されたもので、昭和三十六年(1961)の解体修理の際、土台の木材から「元和六年九月十三日御柱立つ」の墨書が見つかり、この建物の棟上げ式の日がはっきりした。現存の城内古建築物の中で乾櫓とともに最も古いものである。名称の由来については織田信長軍の石山本願寺攻めの時、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、あの櫓さえ落とせるなら銭千貫文与えても惜しくはないと話し合ったというエピソードが伝えられている。 構造形式:ニ重二階本瓦葺 面積:一階199u 二階143.32u 延342.32u 昭和三十六年解体修理 ![]() ここは、もと二の丸南部への出入口にあたり、左右の石垣の間に南仕切門と呼ばれる城門があった。右側の石垣の上に、太鼓を蔵する小さな二層櫓があり太鼓櫓とよばれていた。創建は寛永五年(1628)である。この太鼓は平時には時刻を知らせ、戦時には将士の召集や出陣の合図に打ち鳴らされた。明治元年(1868)の城中大火で焼失した。 ![]() ![]() 構造形式:二重二階本瓦葺 面積:一階217.21平方メートル 二階138.68u 延355.89u 昭和四十一年解体修理 ![]() ![]() ![]() 豊臣時代にも本丸の正門は桜門と呼ばれていた。桜の馬場という地名も知られている。おそらくこの付近に桜の並木があったと思われる。桜門は、徳川時代の本丸再築の寛永三年(1626)に築かれたが、明治維新の城中大火(1868)で焼失した。現在のものはその後明治二十年(1887)に再築されたものである。なお、門の両側の塀は明治維新のとき焼失したままになっていたものを、昭和四十四年(1969)の桜門修理の際、復元されたものである。 構造形式:高麗門本瓦葺、柱真々5.15m 昭和四十四年解体修理 ![]() 本丸の正門を守る重要な枡形で、特に立派な巨石が用いられている。桜門枡形にも大手口と同様、多聞櫓があったが、明治元年(1868)の城中大火の際に焼失してしまった。この桝形の築造は寛永元年(1624)岡山藩主池田忠雄(姫路の池田輝政の三男)が担当したもので、備前(岡山県)産の良質花崗岩が用いられている。正面の石は蛸石と呼ばれる城内第一位の巨石で、およそ36畳敷(60u)推定重量130トンもあり、左側のは振袖石といい、およそ33畳敷(54u)120トンで城内第三位の巨石である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 『大阪城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
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![]() 掃除の範囲はちょうど内堀が空堀となっている部分となりますので、西の丸側から南へと進み、桜門を越えて、東側のエリアへと続くわけです。このボランティア募集のWebページに「空濠内の雑草の除去・運搬や空き缶・ペットボトル等の収集」とありましたが、とんでもない作業が控えていましたよ!ほんと雑草がしゃれにならない量です。こんな人数で大丈夫か?と不安にはなりましたが、お城を自らの手で綺麗にできるという喜びが体を突き動かしてくれました。(^^; ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() これだけ狭いエリアに名だたる武将らが必死に石垣を積み上げていたのですねぇ・・・。 ![]() 最後に再び命綱をつけて階段を登りきったあとで堀底を振り返ってみました。すっかり綺麗になったそこには所々に刈り取った雑草が積み上げられていました。よくみれば80の文字ができあがっています。大阪城天守閣復興80周年の記念イベントらしい粋なはからいですね。一部の人にしかわからないその文字をとっても誇らしげに眺めていました。
![]() ![]() JR環状線大阪城公園駅で降りると、大阪城ホール脇を抜け、青屋門を通ります。濠に使われている石垣にいくつか紋が入れられているのが確認できます。このあたりの石垣は不ぞろいな石で積みこんであることから江戸時代以前のものなんでしょうか。復元された青屋門を通りすぎ右折してすぐに極楽橋を渡ります。まずは天守閣へ、といった攻め方ですね。まわりに数十台の観光バスがとまっており、予想以上の観光地ぶりに驚きです。極楽橋をわたるとそこはもう本丸内部なのですが、本丸だけで他の城地ほどの大きさですね。枡形があり、天守があるのはさらに奥です。 でも不思議なことに本丸内で似顔絵を書いてくれるおじさんが商売しています。3分500円で似顔絵を書いてくれるのか、安いな。という周りの声が聞こえてきたのですが、違うでしょ。そんなところで商売していいんだろうか・・・(笑)。 さて天守の下にやってきました。天気がよく日の光を反射させて、遠くから見えていた以上にきらびやかな天守です。派手すぎて私はちょっと嫌いですね(笑)。大千鳥破風が縦に二つあり、それぞれに金シャチがのっています。また側面も同様に金シャチが輝いています。名古屋城みたいに途中までエレベータでいけるようになっていましたが、今日は動いてないようです。 最上階は岐阜城を思わせるような望楼型のつくりです。たしか内部は近代的な博物館だったと思いましたので中にまで入るのはやめときました。まぁそれに人も多かったですしね。大阪城って言えばこの天守閣のことを想像する人が多いんでしょうけど、ちょっとこれは私にはいただけません。さっさと元来た道を戻って極楽橋をわたり、左折します。まわりの櫓を一通り見てこようというコースです。 ![]() 大手門から入城し、多聞櫓、六番櫓を見ていきます。六番櫓横、修道館の手前にすごいものを発見しました。石山本願寺跡推定地という石碑が建てられています。感動しました。そうかこの辺がそうなのか・・と見渡したものの何もありませんがそんなことは関係ありません。石碑があるだけでいいのです。私個人的には1粒で2度おいしい、って感じな城攻めになりました。 豊国神社を抜け、一番櫓を見て、二の丸を出ます。そして梅林へはいりかけたところに大きな石柱碑があります。脇にある案内板にはまたしても本願寺の説明が!そしてよく見ると顕如上人の供養碑がたてられています。ここでも推定地となっているようです。うーーん、さっきのとはだいぶ離れてるけど・・まぁ本願寺自体大阪城の母体となるほどの大規模なもんだったはずだし・・まぁいいでしょう。これらの説明は別途石山本願寺跡にて説明しましょう。(笑) ってことで珍しく長文になりましたが、すっかり大阪城を堪能して帰路につきました。 あ、大阪城の歴史を書くのを忘れてる!ま、いっか知ってるでしょ(笑)。 ![]()
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