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聚楽第跡
登城日:(1999.11.10)
所在地: 京都市上京区一条堀川千本丸町周辺
京都市下京区 西本願寺
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
聚楽第跡地にある松林寺。 天正十四年(1586)、豊臣秀吉は旧平安京大内裏跡地に、聚楽第の築城をはじめた。聚楽第には各地の諸大名の屋敷も集められ、豊臣政権の京都における官庁として進められることになり、翌天正十五年正月に完成した。さらに翌年には、後陽成天皇の行幸が盛大に執り行われ、豊臣秀吉の勢威はますます天下に知れ渡るようになった。
その縄張りは「京都図屏風」や「寛永洛中絵図」などにより、本丸西北隅に天守閣を置き、その北に北の丸、南に南の丸、本丸西の南寄りに西の丸があったことがわかっている。また、「聚楽第図屏風」によれば天守閣は、外観四層、上三層分には破風と花頭窓を備えた高爛付望楼型天守の様相が描かれている。
やがて、秀吉は政治の中心を伏見へ移すようになり、聚楽第も解体されて伏見城の資材とされてしまい、廃城となってしまった。
しかし、各地に移築された建造物といわれるものがいくつか残っている。大徳寺の唐門や、西本願寺の飛雲閣などがそうである。
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資料
 

私見
撮影禁止なので背後から・・ 毎年恒例なのかはよく知りませんが、今年も京都は普段は公開しない寺社を特別公開と称して、いくつかの文化財を見せてくれています。それが最終日ということで11月10日に行ってきました。目的は西本願寺の飛雲閣です。聚楽第の遺構らしいという代物です。
まずは跡地を見てみようということで、私は聚楽第があったとされる場所を歩いてみました。「千本中立売」というバス停で降り、東方へ約5分ほど歩いたところに正親小学校が見えてきます。そこら一帯が聚楽第跡地です。石碑があるはずだったのですが、私は見つけられませんでした。そのかわり、どこかの大名の屋敷跡だったという小さな石碑だけは見つけることができました。(う〜ん、誰だったっけなぁ。島津だったような気もするが・・・)たしかに聚楽第があったのでしょうね。
そこから南へ進路を変え、同区裏門通にある松林寺に着きました。見た目こそ何の変哲もないお寺なんですが、表門と本堂の落差が2mほどもあります。どうもその差が聚楽第の外堀の跡だと言われているようです。全然そんな風には見えませんがまぁそんなもんですね。(笑)
とまぁネタ振りはそれくらいにして、いよいよ国宝飛雲閣を拝観にいくことにしました。「西本願寺前」でバスを降り、西本願寺の中を進んでいきます。なんか建て直しをしているところもあって、「なんでこんな時にやってるんや?」と思いましたが、別にどうでもいいんで真っ直ぐ飛雲閣に向かいます。800円の拝観料を支払い、古めいた門をくぐりぬけました。「!」す、すごいっ。いきなり周りの西本願寺の雰囲気を更に重厚にした威厳のある雰囲気に包まれてしまいました。庭園や茶室、唐門のついた木橋など実に手入れの行き届いています。
しかし残念なことにここは一切の写真撮影が禁止されています。せっかく公開しているんだから写真くらいいいじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうねぇ。これではHPに載せられないじゃないですかっ!
とまぁ、なんともやりきれない思いだったのですが、飛雲閣自体は予想以上の素晴らしさです。三層の書院造りの建物で、唐門や花頭窓を備えた豪壮なつくりと、左右が対象にならないようにというおもしろい発想と、玄関口であるとされるところに入ろうと思えば、目の前に広がる池のなかを舟で進んで近づかなければならない構造、など奇抜な発想を好む秀吉の趣向に近いのかなと想像を逞しくさせてくれます。
最後に、どうしても写真がほしかったんで裏へ周り込んでなんとか飛雲閣をうしろからながら写真に納めることができました。別に写真を撮ってもいい場所だったんですけどなんかアセッてしまいましたよ。
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