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岡崎城跡
登城日:(2000.04.23→2009.02.21)
所在地: 岡崎市康生町、岡崎公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
岡崎城の南から東にかけて水堀が残っています。 岡崎城天守。松はセットですね。 室町時代中期の康正元年(1455)に三河の守護代西郷弾正左衛門稠頼が築城、大永四年(1524)に家康の祖父七代清康が入城し、以後約350年松平氏の居城として三河節活躍の拠点となりました。
明治四年(1871)の廃藩置県により、明治六年(1873)から明治七年(1874)にかけて城郭は取り壊されてしまいましたが、昭和三十四年(1959)に三層五重の天守閣と井戸櫓・附櫓が86年ぶりに復元されました。

◆岡崎城大手門
岡崎城大手門。名前が変わるらしいですね  この大手門は、岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として建設したものです。
 本来の岡崎城大手門は、現在の浄瑠璃寺の南(北東約200メートル)にありました。
 江戸時代の記録によれば大手門は「桁行十間 梁行二間四尺」でした。

◆徳川家康公銅像
徳川家康の像。 徳川家康の産湯の井戸。 天文十一年十二月に十六日(西暦1542年)岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長五年(1600年)天下分け目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。以後持前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基礎をも作り、元和二年四月十七日(西暦1616年)75才でこの世を去った。
 この銅像は昭和四十年家康公350年祭を記念して建てたものである。


◆しかみ像
家康のしかみ像 本多忠勝像  世に云うしかみ像『徳川家康三方ヶ原戦役画像』は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画です。このしかみ像は、かの画像をもとにして製作された石像です。
 元亀三年(1572年)十月三日、二万七千の大軍を率いて甲府を出発した壮年武田信玄は、遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、十二月には家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に青年家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。
 自戒の像である「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を創り上げる礎になったと云われています。   岡崎城西側の空堀跡  岡崎城坂谷門の石碑  岡崎城の西側石垣  岡崎城の南側にある水堀  刻印が残る石垣  『岡崎城跡案内板』より

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資料 【地図を表示する】
◆城主一覧
西郷 稠頼  
西郷 信貞(松平信貞)  
松平 清康 1524〜1535
松平 広忠 1535〜1549
徳川 家康 1560〜1570
松平 信康 1570〜1579
田中 吉政 1590〜1600
本多 康重 1601〜1611
本多 康紀 1611〜1623
本多 忠利 1623〜1645
本多 利長 1645
水野 忠善 1645〜1676
水野 忠春 1676〜1692
水野 忠盈 1692〜1699
水野 忠之 1699〜1730
水野 忠輝 1730〜1737
水野 忠辰 1737〜1752
水野 忠任 1752〜1762
松平 康福 1762〜1769
松平 忠粛(*ちょっと字が違う) 1769〜1777
松平 忠典 1777〜1790
松平 忠顕 1790〜1821
松平 忠考 1821〜1835
松平 忠民 1835〜1869
松平 忠直 1869〜1871

私見
北側から見た岡崎城天守。 岡崎城天守の北側石垣に見える鏡石  岡崎城は9年ぶりでした。お城のすぐ横にある宿を取ったので早朝からの城攻めが可能です。グラウンド側から城へとあがる付近一帯が工事中でしたが整備されていくのでしょうか。工事エリアを覗きこむようにして回りこんで大手門へと向かいます。
 まだ真新しさが抜けない大手門ですが、実は場所が違うんですね。聞くところによればそれを受けて近々名称を変更するとか。100名城のスタンプラリー直前でやればよかったのにと思いましたが、何にせよ誤った認識を与えないように改善していこうとされる姿勢は素敵です。
 そして岡崎公園内へ。まだ天守はよく見えませんね。かわりに家康像が3体と本多忠勝がいました。関係ないですが、この岡崎公園って「日本の都市公園100選」、「日本のさくら名所100選」「日本の歴史公園100選」にも入ってるんですってね。選ばれすぎです。でも早朝なのでささっと通過し、城の遺構や縄張りを確認することに専念することにします(笑)
 岡崎公園を抜けると堀があり、またその先にも堀があります。丸く弧を描く姿にしびれますね。天守へと続く橋が明らかに近代に付けられたものとして存在していますが現在は通ることができません。よく見れば天守の石垣には鏡石らしき巨岩がありますので、かつてはここに木橋が架けられていたのでしょうか。この辺一体は近世城郭らしからぬ狭くてごちゃっとした感じで個人的には好みです。
伊賀川に面する坂谷門跡 岡崎城の特徴的な丸い堀跡  このままストレートに行かず一旦外れて、右へとルートをとります。現在の岡崎城は西には伊賀川が、そして南には乙川(菅生川)が流れており、堀の役割をはたしています。実際、伊賀川は堀だったようですね。石垣造りの門として坂谷門が伊賀川を向いていますよ。そこから川沿いに歩きながら天守が一番よく見える角度を探します。以前訪れた時は松に泣いたのですが、今回は松ありきでなんとかよく見える構図を360度回ってみることにします。南側の水を湛えた濠を眺めつつ、本丸へと続く坂道を登っていっていますと、突然車がすごい勢いで本丸から飛び出してきました。驚きましたが、ここ車が通っていいんですねぇ。この後でも遭遇しましたが、本丸内の段差をものともせずに車が本丸内を通過していっていますよ。こういうのもほかの近世城郭だと考えにくいような気がします・・。あと、南側から入ってくる石垣門の中の石に1つだけ刻印がありました「逆卍」でしたが、龍城神社のものなのでしょうか。ほかの石垣で刻印が見つけられませんでしたがいつのものなんでしょうね。
 さて、いよいよ天守の写真をと意気込んでみましたが、9年前と代わり映えしない出来でした(^^;。やっぱりここは難しいですね。
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