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椎の木屋敷跡


登城日:(2005.06.08)
所在地: 刈谷市城町1丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
宅地の中にこじんまりと庭園が残されています  この椎の木屋敷は、刈谷城の谷を隔てた東北に位置し、椎の木が数多く茂り、いつの代からか椎の木屋敷と呼ばれていた。藩政期には霊地として一般の人の出入は禁じられ中央に五輪塔が数基あったという。
 初代の刈谷城主水野忠政のむすめである於大の方が岡崎城主松平広忠に嫁いで竹千代(家康の幼名)を生み、のち離縁になって刈谷に帰されこの地に住まわれたが、これも政略のための犠牲であった。
 ここ城外の地にあって、木々を渡る風の音に小鳥の声に、於大の方は世の無常を感じたことであろう。
 於大の方、やがて阿久比の久松俊勝に再嫁された。これも私情ではなく時の政情の上にたたされたと伝えられている。
 明治四年、井野氏がこの土地を譲り受けて、庵堂を設け、大部分を庭園として古い昔の面影を残したが今は宅地化されその趣を失った。
 刈谷市は、市制三十周年記念事業としてこの土地の一部を譲り受け、慈母の鏡である於大の方を顕彰し、由緒ある旧跡として保存する事とした。

『椎の木屋敷跡案内板』より

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資料
 

私見
於大の方の像です。  刈谷城の西南に接する丘陵地の上に於大の方の屋敷跡とされる椎の木屋敷がありました。ちょっと路地を入り込んだ分かりにくいところにありますので近所の方に聞いたほうがいいと思います。その前に刈谷城三の丸跡でもある資料館に顔を出して、冊子やら資料を物色するのもいいでしょうね。
 私は横山光輝氏の徳川家康が好きで特に1巻の誰もが他人を思いやる姿に何度も涙したものです(^^;。於大の方がここにいらっしゃったのか、と感慨無量になりながらそっと手を合わして静かにこの地を去りました。
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