HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

田原城跡
登城日:(2000.08.26)
所在地: 渥美郡田原町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
空堀の先は石垣をあがっていきます 駐車場の先は空堀跡でした。  田原城は、戦国時代初期の文明十二年(1480)に、戸田弾正左衛門尉宗光によって築城されました。戸田氏は五代68年間、田原城を拠点とし、全盛時には、全三河湾を制覇しました。
 その後、田原城は、戦乱の中、駿河の今川氏の城代が四代19年間、松平元康(家康)の家臣本多氏が二代26年間、在城しましたが、豊臣秀吉による家康の関東移封により、本多氏も関東に移ったため、吉田城主池田輝政の家臣伊木清兵衛が田原城代となりました。現存する田原城の遺構のほとんどは天正の終わりから分禄にかけて、伊木清兵衛によって、整備されました。築城当時、三方を海に囲まれた要塞堅固な城は巴江城ともいわれました。
 関が原の戦い後、伊豆下田より戸田土佐守尊次が禄高1万石で移封され、以来十二代206年間は三宅氏が城主となりました。
 廃藩置県後の明治五年(1872)、田原城の建物一切が、解体撤去され、田原城はその歴史を閉じました。

『田原城跡案内板』より

【戻る】

資料
◆城主一覧
城主名 城主在年間
戸田弾正左衛門尉宗光 文明十二年(1480)〜明応八年(1499)
戸田弾正忠憲光 明応八年(1499)〜永正六年(1509)
戸田左近尉政光 永正六年(1509)〜大永六年(1526)
戸田弾正少弼宗光 大永六年(1526)〜天文十一年(1542)
戸田孫四郎尭光 天文十一年(1542)〜天文十六年(1547)
天野安芸守景貫 天文十六年(1547)頃
朝比奈肥後守元智 天文十七年(1548)頃
岡部石見守輝忠 永禄四年(1561)頃
朝比奈肥後守元智 永禄五年(1562)〜永禄八年(1565)
本多豊後守広孝 永禄五年(1562)〜永禄八年(1565)
本多彦次郎康重 天正五年(1577)〜天正十八年(1590)
伊木清兵衛忠次 天正十八年(1590)〜慶長六八年(1601)
戸田土佐守尊次 慶長六年(1601)〜元和元年(1615)
戸田因幡守忠能 元和元年(1615)〜正保四年(1647)
戸田伊賀守忠治 正保四年(1647)〜寛文四年(1664)
三宅土佐守康勝 寛文四年(1664)〜貞享四年(1687)
三宅備前守康雄 貞享四年(1687)〜享保十一年(1726)
三宅備後守康徳 享保十一年(1726)〜延享二年(1745)
三宅備前守康高 延享二年(1745)〜宝暦五年(1755)
三宅備後守康之 宝暦五年(1755)〜安永九年(1780)
三宅備前守康武 安永九年(1780)〜天明五年(1785)
三宅能登守康邦 天明五年(1785)〜寛政四年(1792)
三宅備前守康友 寛政四年(1792)〜文化六年(1809)
三宅対馬守康和 文化六年(1809)〜文政六年(1823)
三宅備前守康明 文政六年(1823)〜文政十年(1827)
三宅土佐守康直 文政十年(1827)〜嘉永三年(1850)
三宅備後守康保 嘉永三年(1850)〜明治二年(1869)

私見
そして美しい水堀跡です。 二の丸櫓です。  豊橋市の吉田城の次に渥美郡田原町にある田原城を目指すことにしました。259号線をそのまま南下するだけなので迷うことはないでしょう。
 しかし、田原町内にはいってもまったく田原城の案内が出てきません。おっかしいなぁと思いながら車を走らせていると、目の前に道の駅がでてきましたので、そこの観光案内板でようやく田原城の位置がわかりました。道の駅から少し北上した田原中学の横にそれはありました。
 田原町博物館と巴江神社を城域内にもつ田原城は、二の丸櫓と空堀、石垣、水堀など遺構は豊富です。私は博物館の無料駐車場に車をとめ、そこから城内に入ることにしました。ちょうど搦め手側からとなっています。空堀のなかから城内に入り込むという形が非常に珍しいなと思いました。石段をあがると右手に二の丸櫓や、城郭風建造物となった博物館があり、左側には巴江神社があります。右側がきれいに整備されているのに対して、左側は城跡らしい雰囲気を十分残しています。
【戻る】