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川之江城跡登城日:(2006.08.12) 所在地: 四国中央市川之江町、城山公園 |
歴史 |
南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方、河野氏の砦として土肥義昌が延元二年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。 興国三年(1342)北朝方、細川頼春が讃岐より七千の兵を率いて攻めてきた。 義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ちのびて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死している。 細川氏の領有後、河野氏に返され城主は妻鳥友春になった。元亀三年(1572)阿波の三好長治が攻め入ったが、撃退している。 土佐の長宗我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長宗我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝氏に命じて城を攻めとらせた。天正七年(1579)前後のことと思われる。河上但馬守は轟城の大西備中守と戦い、打たれたという話も残っているが、天正十年(1582)長宗我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。その時、姫ヶ嶽より年姫が飛び込んで自殺したという悲話伝説も残っている。 天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時最終的に廃城になった。数々の攻防は川之江が地理的に重要な位置にあった為の悲劇ともいえる。 戦国の世も終った寛永十三年(1636)一柳直家が川之江藩28600石の領主になり城山に城を築こうとしたが寛永十九年(1642)病没。領地は没収されて幕領となり、明治に至ったため、わずか六年の「うたかたの川之江藩」で終った。 『川之江城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
川之江城(仏殿城とも)川之江港を見下ろせる城山の上に築かれていました。城山には車であがることもできますので簡単に登城が可能です。天守は犬山城風な模擬天守ですのでそれだけ撮影すればOKかもしれません(笑)。私には同じく模擬の櫓門が結構よく作られているのに感心してしまいました。あと、涼櫓は2時間程度の目安で貸しきることができるとか。昼間が千円、夕方から夜(21時まで)にかけては二千円になるようですが、何に使うんでしょう(笑)。すごく気になりますが、私同様気になる方は四国中央市さんに問い合わせてください。
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