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大洲城

大洲城跡


登城日:(2006.08.13→2012.11.11)
所在地: 大洲市大洲
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
大洲城から見おろした肱川 肱川から見上げた大洲城  肱川が蛇行する小高い山上に城が作られた歴史は古い。元徳二年(1330)に宇都宮豊房が伊予国守護に任じられた際に翌年、地獄嶽城を築城した。城の名となった由来はこの山に地蔵が祀ってあったからだという。
 やがて、宇都宮氏の家老であった大野直之が城主となり、さらに戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞隆が次々と城主をつとめ、最後の加藤氏になってから明治維新まで大洲六万石の居城として繁栄を続けた。
 宇都宮氏が地獄嶽城を築城した以前には、比志城という城があり文治元年(1185)に阿波の田内則能が河野通信の比志城を攻めたとある。これがのちの地獄嶽城となるのかは想像の域を出ないようだ。
 地獄嶽城がのちに大津城と呼ばれるようになり、それがやがて大洲城となったのは加藤泰興の代であった。

『日本城郭体系16』新人物往来社刊参照


 大洲城苧綿櫓
苧綿櫓  苧綿櫓は城山の東南山麓肱川左岸石垣上に建てられている。昭和三十二年六月十八日、二重二階の櫓と棟札二枚が重要文化財の指定を受けた。
 大洲城の創建については諸説もあるが、1596年から1617年(慶長元〜元和三)にかけての造営と推定される。苧綿櫓がその頃からあったかどうか明らかでないが、加藤家所蔵の1692年(元禄五)の古地図に記載されているのを見ても、元禄以前に存在していたことは明白である。
 現存の苧綿櫓は棟札にあるとおり大破したので、1843年(天保三)に改築されており、実戦的と言うよりもむしろ装飾性が強く、袴腰形石落し、北側の出窓等に表れている。石垣は安山岩を使用した割石乱石積、法勾配及び反り付きで、鯱は大洲藩お抱え瓦師原八兵衛の作である。
 その後の改築は、大洲市が国庫の補助を得て、1958年(昭和三十三)8月1日着工、1959年(昭和三十四)7月31日に竣工、現在に至っている。

 大洲城天守閣の礎石
発掘された天守の礎石  平成十六年に完成した大洲城天守閣の復元に伴って、平成十一年から天守閣跡の発掘調査が実施され、その調査により礎石と呼ばれる石が6個発見されました。礎石とは建物の柱の下に置かれた石のことで、建物を支える土台になります。発見された礎石の位置は天守閣復元図の柱の位置とほぼ一致し、大洲城天守閣の礎石であることが明らかになりました。大洲城天守閣の礎石は全部で16個あったと想定されますが、発見された6個以外はすべて抜き取られていました。礎石に使われた石はすべて緑泥片岩と呼ばれる石材で、フジツボが付着したものがあることから、肱川河口の長浜周辺の海から運ばれてきたものと思われます。
 こちらには復元された大洲城天守閣の平面図を原寸大で再現し、6個の礎石を移築して展示しています。正方形に表現した部分が天守閣の柱の位置になり、礎石は発見された位置に置いています。
 天守閣の大きさは、南北11.82m、東西13.79m。

 天守閣の下にあった大型建物
移築展示された石  天守閣跡の発掘調査によって、天守閣が建てられる以前の古い地層から、天守台のやや南寄りの位置に巨大な石列が発見されました。天守閣が建築された際に一部は壊されたようですが、天守台の中に埋め込まれた状態で比較的よく保存されていました。この石列は建物を支えた基礎石と考えられています。天守台のさらに外側にも石列は続くことから、現在の天守閣よりも一回り大きな建物の基礎石であろうと思われ、その大型の建物とは大きさからみて天守級の建物ではないかと考えられています。現在の天守閣が建てられる前に、一時期古い天守級の建物が存在したと考えられるのです。
 現在、石列は復原された天守閣の床下にそのままの状態で保存されていますが、復原工事の際にやむを得ず3箇所は取り除く必要があったため、取り除いた3個の石をこちらに移築し展示しています。
 石列は、発見された部分で長さ東西15m、高さ1.5m。

 井戸丸と石垣の修復
 大洲城の本丸は、上段と下段とに分かれ、井戸のある下段の曲輪を井戸丸と称しています。井戸丸の西側には本丸下段の門とそれに付属する多聞櫓が建っていました。さらに南側には独立した二層の櫓が一棟ありました。
 この井戸は、本丸にある唯一の井戸で、直径約3.8mあり、国内でも最大級の本丸井戸として知られています。
 天守台の石垣は、過去の地震で何度か修理した記録が残っています。工事着手前の発掘調査では石垣の内側にさらにもう一列石垣が検出されており、現存する天守台の複雑な築造過程の一端が明らかになりました。
 天守解体後に天守台上部の石が取り除かれており、今回の復元工事に合わせて石垣を部分的に修復し、もとの高さまで積み直しています。

 高欄櫓
高欄が美しい櫓  高欄櫓は大洲城の中で唯一、二階に縁と高欄のある櫓で、ここからは城内が一望のもとに眺められます。現在の高欄櫓は、台所櫓同様、安政四年(1857)の地震で大破し、万延元年(1860)に再建されたものです。昭和四十五年(1970)に台所櫓とともに解体修理を行いました。

 大洲城三の丸南隅櫓
撮りにくい三の丸南隅櫓  南隅櫓は、大洲城三の丸の外堀に面した部分に位置している。二層二階建で、外壁には袴腰形の石落しが三ヶ所に見られる。
 当初の建築年代ははっきりしないが、享保七(1722)年に一度火事で焼失しており、44年後の明和三(1766)年に再建されている。当時は財政難で費用を切りつめて再建された様子が記録に残っている。

 大洲城は、地蔵獄・亀ヶ岡城・大津城などと呼ばれ元弘年間以後は、宇都宮氏八代の拠点であったが、その後、戸田・池田・藤堂・脇坂・加藤の諸氏が城主となった。現在に連なる近世城郭として建造整備されたのは、藤堂・脇坂両氏が城主であった慶長年間とみられている。元和三年(1617)加藤貞泰が領主として米子より入部し、以後、廃藩まで加藤氏十三代の居城となった。
 城は、丘陵の上部を本丸として、東に肱川、北に久米川、西と南は堀をめぐらしているが、その外側南部は守りの要として南隅櫓を明和三年(1766)に築城された。
 櫓は、二重二階櫓、本瓦葺となっており、内部は一室である。出窓はなく、外部両端に袴腰形石落としがあり、内部は総壁である。窓格子は化粧とし、軒木垂(1文字)は忠実に塗籠めにしている。

 旧加藤家住宅主屋
旧加藤家住宅主屋  主屋は、旧大洲藩主の加藤家が大正十四(1925)年に建築した木造二階建ての住宅。大名屋敷の名残を残した格調の高さを有する和風建築でありながら、西洋風のモダンさも備えた建物である。
 昭和五十年代には、映画『男はつらいよ』の舞台となり、本住宅の正面玄関や正門、裏門などが撮影に使われている。
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資料 【地図を表示する】
 

私見

大洲城本丸から南を見下ろす 御門番長屋と天守  今回は、数人のお城好き仲間と一緒に大洲城へやってきました。天気が良かったら最高だったのですが、雨がないだけ良しとしましょうか。お約束の肱川からの見上げる構図と苧綿櫓を撮影すると、改めて回り込んで登城していきます。前回訪れましたのが6年前ですが、なんだかいろいろときれいになった気がします。天守台の礎石や建物跡があったとする展示は初めて見たような・・・。また一部はまだ工事中だったりして今後のさらなる整備にも期待がもてそうな大洲城ですね。
 本丸の天守、高欄櫓、台所櫓などは相変わらずでしたが、改めて頂部から見渡すパノラマの景色は素晴らしいですね。前回は肱川や苧綿櫓などに気を取られていましたが、南側の住宅街に視線を下していきますと外堀跡が学校のグラウンドとして残っていることに気づかされます。そういう目で見れば外堀のラインや内堀の跡も残っているように見えますね。現在の暮らしの中に埋没している城跡の痕跡に気づいた時に、初めてお城が浮き上がって見えてくるケースがありますが、まさしく大洲城がそのパターンです。
南隅櫓二階から南を眺める  感じ入りながら、路地を歩いて南へと進路をとります。前回確認し忘れていた南隅櫓を撮る為です。撮影が難しいとは聞いていましたが、なんと公園化されており「お殿様公園」なんていう名称がつけられていたのには驚きでした。(そういえばそんなことを耳にしていた気もしますが・・)。そして無人の南隅櫓の中に入ることができるなんてビックリ!折れそうな薄い階段を慎重に登っていくと二階にもあがることができます。なんと贅沢な状態なんでしょうか。ここはもうちょっと管理に気を使っていいと思うのですが(^^;
南隅櫓の二階から南を見下ろすと外堀跡のラインと石垣のラインが実によく把握することができて素晴らしいですね。大洲城に来られたならば、是非ともチェックしていただきたいポイントだと思います。
 現存天守の松山城宇和島城との間にあって、評価が少し下に見られがちな大洲城だとは思いますが、私はぜひとも時間をかけてみてもらいたい名城だと思います。

見上げた上に見える天守に”高まる” 下台所跡  大洲城が現在のように四階四層の天守となったのは、大洲市市制50周年事業として2004年に再建された時からです。真新しい天守ですが木造天守として実に忠実に再現されていますので見ごたえ十分です。まずは肱川越えに撮影をすますと、肱川橋を渡り、右折し市民会館の駐車場に車を停めます。すでに城内に入っていますので、二の丸の石垣があり、すぐに登ると高欄櫓と連結した天守がすぐに見えてきます。この高欄櫓とあわせて台所櫓は現存する櫓として重文に指定されています。
 本丸から肱川を見下ろすと芋綿櫓が目に入ります。南側に少し離れたところにある三の丸南隅櫓ともどもうっかり忘れてしまいそうなところに建っていますがこれらもしっかりと見ておきましょう。
 大洲城下は狭い路地が残るかつてを偲ばせる雰囲気を色濃く残っており、観光としてぶらつくにもいいですね。ポコペン横丁も楽しそうでアリマス(笑)。

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