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松山城登城日:(1999.4.25 → 2009.09.23) 所在地: 松山市丸之内 |
歴史 | ![]() ![]() ![]() ![]() ◆松山城二之丸史跡庭園 松山城の二之丸は、本丸を防備するための施設で、南と西側には内堀があり、高い石垣と強固な櫓や門、それらをつなぐ塀によって周囲が囲まれていました。二之丸邸は、蒲生忠知の時代(1627〜1634)に完成し、明治五年(1872)の火災によって消失しました。 二之丸跡は、国指定の史跡で、昭和59年に発掘調査が開始され、3ヶ年の年月をかけて、江戸時代における貴重な遺構群を検出しました。その遺構は、記録したうえ覆土して、大切に保存されています。 ![]() ![]() 昭和59年より発掘調査が行われ、大井戸が発見されました。井戸の東半分が床下になり、その上を囲炉裏で火をおこしていた「焚火之間」が覆っており、その基礎部分が大井戸の底に木組みとして残っています。井戸の石段を上がったところにある一段低いところが、床下通路跡です。火災の際には、木桶で水を汲み上げ、それぞれの階段から通路を経て迅速に火災現場に運搬するという、松山城二之丸御殿の消火システムはこの時期においては、全国的にも例を見ない「優れもの」であったようです。 一日に一寸水が湧くと言われていますが、現在は基礎の木組みを見せやすくするため、ある程度の量を保つよう自動排水しています。 規模は、東西18メートル、南北13メートル、深さ9メートルで、石積みは乱層積および段積になっていることが明らかになりました。 大井戸の東半分は井戸の中に三列各三本の柱が縦横に貫を通して組まれ、その上に邸がせり出して建てられていました。その基礎部となった格子状の木材は現在も残っています。 古絵図には三ヵ所の階段を描いたものもあり、汲み上げた防火用水を床下を通って火災現場に運ぶ仕組みになっていたと思われます。 『松山城案内板』より
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() 松山城は賤ヶ岳7本槍の一人、加藤嘉明が築城したお城なのですが、完成前に会津に転封となってしまいました。その後を継いだ蒲生忠知が二ノ丸などを完成させ、さらにその後に入部した松平定行が五重の天守を三重にし、現在の原形となったわけです。 ![]() ![]() さてここからは門が連続で続きます。揚木戸門跡、そして大手門に着くと一気に奥へ視界が開け、楽しくなってきますね。先に見える石垣の上に太鼓櫓が、さらに遠くにある大天守も見えています。ここは間違いない撮影ポイントです。そして緩やかなスロープを登っていくと中ノ門跡、180度折り返して戸無門をくぐり、左折して筒井門へと次から次から曲げられ、かつ上から常に狙われている構造には圧巻です。往時にはこのルートではとても攻め込められませんね。 さらに太鼓門をくぐる際も左右から狙われ、おまけに上から石も落ちてくるのですから恐ろしい城です。(今は落ちてきませんよ、念のため・・) ようやく本丸につきました。山上部分は本丸が大部分を占めているのも面白い構造で、南北に細長い形状となっています。 松山城の天守は三層と、近世城郭の天守としては小ぶりですが小天守や櫓が廊下でつながった構成をしていますので非常に堅牢で、非常に安定感があります。天守群がある本壇内に入るには南側に設けられた枡形から一ノ門をくぐらないといけませんが、当然ながらここも小天守、一ノ門南櫓、筋鉄門東塀、大天守などから一斉砲火を浴びることになりますね。なお、正面にみえる筋鉄門東塀は石垣と塀との間に柱が横たわってあり、内部から操作すれば塀ごと落としてしまえるんだとか。そこまでするのか・・と松山城のすさまじすぎる防御力にただ驚きいるばかりです。 天守群の内部は季節や時間帯によってはかなり渋滞するようで、この日もなかなか進まない混雑ぶりです。おかげで何気に外に視線をやってみますと、鬼瓦の紋が三つ葉葵が見えました。なるほど確かにそうなんですね。 ![]() ![]() ひとしきり、山上の城を堪能したあとは麓の二ノ丸庭園にも行ってみることにします。松山城は山上の城と山麓の居館部分とがセットになった平山城の構造となっています。庭園ということなので、あまり期待しないまま入場料の100円を支払い、入ってみましたがイメージしていたものと随分違っていて新鮮でした。手前の奥御殿跡には流水園という水路が巡らされた見た目に涼しげなものとなっており、奥には表御殿跡には建物がいくつか復元されています。そして何より大井戸が発掘され、復元されていたことが一番の驚きでした。これだけでも100円は安いですね。お奨めです。この日はなんと庭園内で結婚式後の撮影をやってました。お城で結婚式かぁ・・羨ましい。
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