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松山城

松山城


登城日:(1999.4.25 → 2009.09.23)
所在地: 松山市丸之内
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
来たー!という瞬間 松山城天守  松山城の創建者は、加藤嘉明である。嘉明は、永録六年(1563)に三河国永良郷賀気村に生まれた。父広明は徳川氏譜代の武士であったが、六歳の時に美濃国で逝去した。孤児となった嘉明は諸国を流浪し、やがて羽柴秀吉に見出されて、その家臣となった。二十歳の時賤ヶ岳の合戦に加わり、七本槍の一人として武勲をたてたことはあまりにも有名である。その後従五位下、左馬助に補せられ、文禄の役の戦功によって伊予国正木(伊予郡松前町)六万石の城主に封じられた。その後慶長の役(1597)においても活躍し十万石に加増され、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに徳川家康に従軍し、その戦功が認められて二十万石となった。そこで嘉明は、同七年(1602)に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を、その周辺部に城下町を築くため、足立重信を普請奉行に命じて工事に着手した。
乾櫓と野原櫓 天守群で囲む内部  翌八年(1603)十月に嘉明は家臣および正木の住民とともに居を新城下に移すこととなり、初めて松山という名称が公にされ、その後も工事は継続された。当時の天守閣は五層で偉観を誇っていた。嘉明は松山にあること二十五年、寛永四年(1627)に会津へ移った。その後へ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上ノ山城から入国し二の丸の造営を完成した。在城僅か七年のち寛永十一年(1634)八月参勤交代の途中京都で病没し、嫡子がなかったので断絶した。その後、寛永十二年(1635)七月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山城主十五万石に封せられて以来世襲して明治維新に至った。なお天守閣は寛永十九年(1642)に三層に改築されたが、天明四年(1784)落雷で焼失した。文政三年(1820)から再建工事を企画し、三十五年の歳月を経て、安政元年(1854)に復興した。これが現在の天守閣である。標高132メートルの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二の丸、山麓に三の丸(堀ノ内)を置いた。広大な規模を持ち、姫路城和歌山城とともに典型的な連立式平山城である。

◆松山城二之丸史跡庭園
 松山城の二之丸は、本丸を防備するための施設で、南と西側には内堀があり、高い石垣と強固な櫓や門、それらをつなぐ塀によって周囲が囲まれていました。二之丸邸は、蒲生忠知の時代(1627〜1634)に完成し、明治五年(1872)の火災によって消失しました。
 二之丸跡は、国指定の史跡で、昭和59年に発掘調査が開始され、3ヶ年の年月をかけて、江戸時代における貴重な遺構群を検出しました。その遺構は、記録したうえ覆土して、大切に保存されています。
大井戸遺構 松山城二ノ丸庭園 ◆大井戸遺構
 昭和59年より発掘調査が行われ、大井戸が発見されました。井戸の東半分が床下になり、その上を囲炉裏で火をおこしていた「焚火之間」が覆っており、その基礎部分が大井戸の底に木組みとして残っています。井戸の石段を上がったところにある一段低いところが、床下通路跡です。火災の際には、木桶で水を汲み上げ、それぞれの階段から通路を経て迅速に火災現場に運搬するという、松山城二之丸御殿の消火システムはこの時期においては、全国的にも例を見ない「優れもの」であったようです。
 一日に一寸水が湧くと言われていますが、現在は基礎の木組みを見せやすくするため、ある程度の量を保つよう自動排水しています。
 規模は、東西18メートル、南北13メートル、深さ9メートルで、石積みは乱層積および段積になっていることが明らかになりました。
 大井戸の東半分は井戸の中に三列各三本の柱が縦横に貫を通して組まれ、その上に邸がせり出して建てられていました。その基礎部となった格子状の木材は現在も残っています。
 古絵図には三ヵ所の階段を描いたものもあり、汲み上げた防火用水を床下を通って火災現場に運ぶ仕組みになっていたと思われます。

『松山城案内板』より

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資料
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私見
大手門跡 聳えるように建ってますねぇ  松山城を訪れるための登城口はいくつかあるのですが、一般的には東雲口のロープウェイやリフトであがるのがいいと思います。しかしこの方法は駐車場代もかかるということやせっかくの山上にあるお城への達成感を味わえないことが難点です。今回は二ノ丸庭園そばの駐車場(無料)に停め、県庁裏から歩いて登城することにしました。ほかにも古町や黒門口の登城道がありますが、全国的にも珍しい登り石垣を見ながらの登城ですと、このルートが最適です。でもよく考えたらまだロープウェイやリフトを使って登城したことがなかったので、一度は使ってみたい気もしますが。
 松山城は賤ヶ岳7本槍の一人、加藤嘉明が築城したお城なのですが、完成前に会津に転封となってしまいました。その後を継いだ蒲生忠知が二ノ丸などを完成させ、さらにその後に入部した松平定行が五重の天守を三重にし、現在の原形となったわけです。
下へ落とせるようになっている筋鉄門東塀 乾櫓  木々の中をコンクリートで整備された登城道を登っていくことは全く苦にはなりませんが、上を見上げるとちらちら見える石垣が気になるのがつらいですね。山城ならいざ知らず整備された近世城郭で道を無視して登っちゃいけないような気がして遠慮がちになってしまいます。しかしそうこうしているうちに、ロープウェイ、リフト客らと合流する尾根上に出ました。標高132メートルの山上にある松山城は、結局その標高差を感じさせない簡単な登城でした。
 さてここからは門が連続で続きます。揚木戸門跡、そして大手門に着くと一気に奥へ視界が開け、楽しくなってきますね。先に見える石垣の上に太鼓櫓が、さらに遠くにある大天守も見えています。ここは間違いない撮影ポイントです。そして緩やかなスロープを登っていくと中ノ門跡、180度折り返して戸無門をくぐり、左折して筒井門へと次から次から曲げられ、かつ上から常に狙われている構造には圧巻です。往時にはこのルートではとても攻め込められませんね。
 さらに太鼓門をくぐる際も左右から狙われ、おまけに上から石も落ちてくるのですから恐ろしい城です。(今は落ちてきませんよ、念のため・・)
 ようやく本丸につきました。山上部分は本丸が大部分を占めているのも面白い構造で、南北に細長い形状となっています。 松山城の天守は三層と、近世城郭の天守としては小ぶりですが小天守や櫓が廊下でつながった構成をしていますので非常に堅牢で、非常に安定感があります。天守群がある本壇内に入るには南側に設けられた枡形から一ノ門をくぐらないといけませんが、当然ながらここも小天守、一ノ門南櫓、筋鉄門東塀、大天守などから一斉砲火を浴びることになりますね。なお、正面にみえる筋鉄門東塀は石垣と塀との間に柱が横たわってあり、内部から操作すれば塀ごと落としてしまえるんだとか。そこまでするのか・・と松山城のすさまじすぎる防御力にただ驚きいるばかりです。
 天守群の内部は季節や時間帯によってはかなり渋滞するようで、この日もなかなか進まない混雑ぶりです。おかげで何気に外に視線をやってみますと、鬼瓦の紋が三つ葉葵が見えました。なるほど確かにそうなんですね。

連立式天守 北側の登り石垣  さて登り石垣も見に行ってみましょう。乾門を抜けて左手の斜面を降りてみます。洲本城竹田城にあるような荒々しいものを想像していましたが、ここの石垣はその石量もですが、小さな石で構成されて全体に整えられたような状態で下へ降りています。調べきれていませんが改修されてるんでしょうか。
 ひとしきり、山上の城を堪能したあとは麓の二ノ丸庭園にも行ってみることにします。松山城は山上の城と山麓の居館部分とがセットになった平山城の構造となっています。庭園ということなので、あまり期待しないまま入場料の100円を支払い、入ってみましたがイメージしていたものと随分違っていて新鮮でした。手前の奥御殿跡には流水園という水路が巡らされた見た目に涼しげなものとなっており、奥には表御殿跡には建物がいくつか復元されています。そして何より大井戸が発掘され、復元されていたことが一番の驚きでした。これだけでも100円は安いですね。お奨めです。この日はなんと庭園内で結婚式後の撮影をやってました。お城で結婚式かぁ・・羨ましい。
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