城めぐドットコム HOMEへ Check   Twitterでつぶやく     

竹田城

竹田城跡


登城日:(1998.08.14→2007.3.17)
所在地: 朝来市和田山町竹田
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
本丸奥にある天守台に乗って、二の丸を見下ろしたところ。 花屋敷跡から見上げた本丸。  竹田城は嘉吉年間(1441−43)に、守護大名の山名持豊(宗全)が有力家臣のひとりである太田垣に築かせた城である。そのころの竹田城は砦(小規模な要塞)に近かった。最近の調査では、現在のような壮大な石積みの城郭になったのは、廃城時(慶長5年、1600)にごく近い時代と考えられている。 竹田城の縄張りは、最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、大手口を防御する枡形部に沿う北千畳部とからめ手口のある南千畳を双翼とし、さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一郭がある。 また、城郭の周囲には現存の石垣より古い時代の遺構である竪堀も確認され、複合遺構として今後の総合的な調査・保存が必要となっている。 規模は南北約400m、東西約100mである。 (昭和18年9月8日、国史跡に指定)
 竹田城遺構の見せ場は石垣にある。この石垣は構築技法からみて、穴太積みを採用している。穴太積みとは、近江国(現滋賀県)坂本を中心に発達した石垣構築法の総称であるが、積み方から言えば野面積み石垣といえよう。野面積みとは、加工をほどこさない自然石をそのまま積んだもので、すき間が多く、一見して粗雑に見えるが水はけがよく、崩れを防ぐ。 竹田城の場合、石垣が築かれてから約400年経つが、一部の復元箇所を除いて当時のままの姿を今日に伝え、石積みのもつ深い味わいはたとえようもない。
本丸遠景 えぇ・・っとどこだったっけ(笑)

『竹田城案内』より

【戻る】

資料 【地図を表示する】
 
 
   年表
永享 3 1431 山名持豊(宗全)竹田城構築に着手する(口碑)
嘉吉 3 1443 竹田城が完成する。初代城主に太田垣光景を配す
応仁 1 1467 山名持豊、管領細川勝元と対立。挙兵し京都で交戦(応仁の乱
応仁 2 1468 細川方の軍勢朝来郡に侵入。景近2男、宗近らこれを夜久野が原に破る
文明11 1479 太田垣宗朝3代城主となる
大永 1 1521 太田垣宗寿4代城主となる
天文 7 1538 太田垣朝延5代城主となる
天文11 1542 朝延、生野奥山に銀山を開く。山名祐豊支配する
弘治 2 1556 朝延、祐豊から銀山の領有権を奪い取る
永禄12 1569 羽柴秀吉、2万の軍勢で但馬を侵攻。生野銀山から此隈山城まで、10日間で18城を陥落させる
天正 1 1573 毛利の但馬侵攻の気配を感じ、朝延毛利方へ投じる
天正 5 1577 秀吉、但馬を侵攻する。竹田城を攻略して弟の木下小一郎(秀長)を城代とする
天正 6 1578 秀吉、再び小一郎(秀長)を城代として入れる(「信長公記」)
天正 8 1580 秀吉、弟小一郎(秀長)に命じ但馬へ侵入。秀長、竹田城を陥落させ城を修築し人数を入れおく。この時点で、太田垣氏の竹田城支配は終わる。桑山修理太夫重晴、竹田城主となる
天正13 1585 赤松広秀、竹田城主に封じられる(2万2000石)
慶長初期   現存の竹田城、このころに完成する
慶長 5 1600 関ヶ原の戦い。広秀、西軍に属しその責任を問われ鳥取市真教寺にて自刃、(10月28日)竹田城廃城となる
【戻る】

私見
素晴らしい眺望です 登城したのが8月14日の炎天下だった。暑い。駐車場から城までがとにかく大変だった。ひたすら急な階段(木材などを埋めて多少上りやすくはしてあったものの)を上り続ける。しかもその間は絶え間無く照り付ける太陽の下にさらされ続けてである。15分ほど登ったあたりで花屋敷跡と書かれた場所に出る。そこからは大した傾斜はないものの雑草が茂った中を歩くことになるので蛇には要注意である。いきなり目の前にそびえたつ石垣を沿ってぐるっと回るとそこは二の丸、そして本丸へと続く巨大な石階段が構えてある。本丸には6畳ほどの天守跡を示す石垣の土台があるだけである。天守跡へ登ってみると城の全容がほぼ手にとるようにわかるようになる。北と東にのびた『くの字』型の城跡は元の姿がはっきりとわかる程度に残っている石垣で十分堪能できた。

雲海に浮かぶ南千畳 雲海に浮かぶ北千畳  久々にやってきた早朝の竹田城には雲海が立ち込めていました。下から見上げても石垣が見えません。そこでJR「和田山」駅裏にある登城口から登っていくことにしました。先の台風の被害により車による登城ができなくなっているためです。ま、歩いてあがってもたいしたことありませんでした、というか一刻も早く雲海の上に出たいというその思いだけが私を突き動かしていたのかもしれません(^^;。
 いざ本丸の上に立ち、そこからの景色は想像をはるかに上回るすばらしいものでした。柔らかそうな白い雲海が少しずつ流れていく様と、その上に悠然と存在する石垣。そしてそれが少しずつ表情を変えていくのですから全然見飽きることはありません。
 残念ながら少し到着するのが遅かったせいで、十分な時間を楽しむことができませんでしたが、また再度訪れたいと思ったのでした。
 春先に竹田城へやってきました。今日は遠方から知人が来られるタイミングにあわせてお城オフの開催となったのでした。オフとは言ってもやっぱり好き勝手にばらばら行動してしまう城好き達(笑)。私も実は内心狙っていた場所へと向かいました。しかし一人では不安でしたのですでに経験者の友人に導かれて向った先は、北千畳の北西方面の枝尾根上にある「登り石垣」でした。彦根城洲本城にもあるのでご覧になられた方もいらっしゃるかもしれません。この竹田城にも登り石垣が見られるのです。その前に北千畳下にある井戸跡も確認しました。ここは草で覆われてしまっているのでわかりにくいですが、近づくと石垣で作られていること、井戸中へは石段が組まれていることなどがわかります。ちょうど石垣山城にある井戸曲輪内の井戸が思い出されます。といってもあんなにすごいもんじゃないですけど(^^;。
急斜面上に配置された登り石垣 急斜面上に配置された登り石垣  登り石垣はそこから20〜30メートルほど下にあります。思ったよりは行き易かったですが、実際に見に行こうと考えていらっしゃる方は十分注意してくださいね。慎重に木々につかまりながら下へと降りていきます。するとなるほど見えてきましたよ!石垣が尾根上に段々となっているのが。
 石垣は今にも崩れ落ちそうなので無茶して上に乗ったりしないでください。とは行っても脇を進むのもかなり困難です。一番の悩みは「どうやって写真にうまくおさめようか」ということだと思います。でもここの石垣は洲本城よりも明るい場所にありましたし、比較的撮影はしやすいと思います。またその下には櫓台のような削平地とそれを支える石垣が見事に残っているのに気づかされます!何度も竹田城には来ていましたがここまで見に来たのは初めてでした。
 ここから下にはわずかな道筋があるように見て取れました。西側麓には殿城があったとされています。それが山麓にある城主の居城だとすれば、それへと繋がるルートなのかもしれませんね。そういった探索はまた次の機会とすることにして、今回は登り石垣だけで十分堪能させていただきました。
【戻る】