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石垣山城跡登城日:(2005.08.06) 所在地: 小田原市早川字梅ヶ窪1383番の11番 |
歴史 |
史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2.5キロメートル、国道1号線から東へ約1キロメートルのところにあります。また小田原城まで僅か3キロメートルのところにあり、標高257メートルの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。 石垣山は、もと笠懸け山、松山などと呼ばれていましたが、天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか太閤一夜城などとも言われています。 秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師等を呼び寄せました。また自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう勧めたと言われています。この城は小田原攻めの本営であるというだけでなく、太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。 この城は関東で最初につくられた石垣の城です。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による野面積といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、度重なる大地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。 この石垣山は、土地所有者の松岡氏を始め地元関係者の御厚意いにより昭和六十二年公有地化することができ、現在歴史公園として整備されています。 ◆石垣山一夜城二の丸(馬場曲輪) ここ二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、中心部分、北へ長方形に張出した部分及び東の腰曲輪部分、これらの三つの部分からなっています。『新編相模国風土記稿』では二の丸として紹介されているが伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。井戸曲輪に行く道の直ぐ横には「櫓台跡」が残っており、他の曲輪にも「櫓台跡」が確認されています。 小田原合戦の当初に豊臣秀吉の本営の置かれた箱根湯本の早雲寺には、一夜城で使用した神奈川県指定重要文化財の「梵鐘」が残っており、どこかの櫓で使用されたと思われますが、現時点では、詳細は不明です。 ◆石垣山一夜城の構造 石垣山一夜城は、最高地点の天守台の標高が261.5メートルあります。小田原城の本丸より227メートル高く、また小田原城までの距離はわずか3キロメートルと近く、眼下に小田原城やその城下はもとより、足柄平野や相模灘、遠くには三浦半島や房総半島をも望むことができます。小田原城包囲軍の指揮をとるには最も適した場所といえます。 この城が、石垣山一夜城又は太閤一夜城と呼ばれるのは、築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと言われています。しかし、実際には約4万人が動員され、天正十八年の四月初めから六月下旬までの80日間が費やされました。 城の縄張りは南北方向に走る尾根を軸として、その最高地点に本丸と天守台を設け、南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪等が配置されています。このほか本丸の東には南曲輪等の小規模な曲輪群があります。こうした曲輪の配置については享保五年(1720)に小田原藩によって作られた絵図等でも知ることができます。 城道は、井戸曲輪の北方から二の丸を通って本丸へ至るルートと、南曲輪から本丸へ至る東口ルートのニ筋があり、いずれの城道も関白道へ通じていました。城内に入ると通路には枡形と呼ばれる屈曲した構造を持ついくつかの門がありました。門には瓦が用いられており、豪壮なその構えは秀吉の威信を示していました。 現在、石垣や曲輪などの遺構が確認できる範囲は出城から北曲輪までで、南北の延長は約550メートル、東西の最大幅は275メートルです。 ◆井戸曲輪跡 井戸曲輪は、石垣山一夜城二の丸(厩曲輪)北東側にあり、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られている場所です。井戸は二の丸から二十五メートルも下がったところにあり、今でも湧き出る水を見ることができます。この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれています。 石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭です。石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積みで、築城に際して西国から穴太衆と呼ばれる石工集団が派遣されていたことが文書に記されています。 井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めている部分で、その石垣の特徴を知る上で貴重な遺構といえましょう。 『石垣山城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
JR小田原駅方面から国道135号を早川駅方面へ走らせます。早川を渡り1本目の信号を右折すると石垣山一夜城への案内看板がでてきます。そこからは上りの道をただまっすぐ進むだけです。駐車場までの途中で道の脇に小田原攻めに参戦した武将(そうじゃないのもいたような・・)を紹介してくれていますので「次は誰が来るんだろう!」とわくわくしながら脇見運転となります(笑)。今回は会社の後輩が連れていってくれましたので安心して脇見しながらの登城です。 駐車場の前から登城道が続いています。大きな石がかなり崩れてしまっていますね。関東大震災で崩れたということを聞いていますがこれらがそうなんでしょうか。しかしただ崩れただけではなく、相当適当な組み方をしているように思えます。うっかり近くで見ていると上から崩れ落ちてきそうな場所も少なくないです。気をつけながら南曲輪の石垣を撮影したら登り道をあがっていきます。 二の丸に出ましたが、本丸にいくには向きを180度変えてさらに上を目指します。斜面には見事に石垣が残っています。本丸は二の丸から10メートルほどの段差のあるところにありますが、南側、そして反対側の西側にも帯曲輪のようにぐるりと回りを郭が取り囲んだ縄張りになっています。小田原城とは反対側にも石を配したあたりはさすが秀吉だなと思わせてくれます。 本丸は少し藪になっていますが枡形があり、その上は平坦な地形がかなり広く残されています。展望台が作られ、肉眼でも小田原城の天守を確認できますので、当時の感覚ではまさに丸見え状態ですね。また天守台までありますので本格的な近世城郭としての構えを持っています。「一夜城」と呼ばれますが、築造には80日余りをかけたと言われています。とても一夜にしてこの総石垣の城を作り上げるのは不可能ですよね。 本丸を後にして二の丸を通り、井戸曲輪へ向かいます。この城最大の見所であることは間違い井戸曲輪は、中央に掘られた井戸の周りをぐるりと石垣で囲われた曲輪です。現在も水を湛えるその様は今なお井戸としての役割を維持しようとしているようで、感慨深いものがあります。また何より素晴らしいのは井戸の周りだけではなく、曲輪全体が総石垣作りとなっている点でしょう。井戸の規模で驚かされたのは備前金川城でしたが、ここは井戸曲輪としての規模そのものに圧倒されてしまいました。 初めこそ荒々しい石積みと様子にさもありなんと思っておりましたが、ここまで見事な石垣ぶりと縄張りお目にかかれるとは予想外でした。
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