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洲本城跡
登城日:(1999.04.24→2005.07.24)
所在地: 洲本市小路谷
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
東の丸付近の古い石垣 南の丸南東部の石垣。拡張されているのがよくわかります。  三熊山(高熊山)の山頂付近、北斜面及び北部山麓一帯に分布する城郭遺構地域で広さは278459.9平方メートル。
 洲本城は、約五百年の歴史があり、城に関連した史実を年代順に見ると次のようになる。

永正年間 (1500年間初頭)由良炬口に進出してきた、紀州熊野水軍の安宅一族が大阪湾付近の要として洲本城を築城し始める。
天文五年(1536) 阿波国守護三好元長の三男、冬康、淡路安宅氏の養子となる。三好氏の上京作戦の布石となる。
天文二十三年(1554) 三好四兄弟(長慶、義賢、冬康、一存)洲本会議 永録三年(1560) 三好兄弟、第二回洲本会議にて天下制圧の打ち合わせをする。
永録七年(1564) 安宅冬康河内飯盛城で兄長慶に暗殺される。
安宅信康・清康、洲本・由良城を守る。
天正九年十一月(1581)織田信長の命により羽柴秀吉淡路を追討。
安宅清康、開城して信長を安土に訪れ帰国後病死し、これにより淡路安宅氏滅亡。
 安宅氏時代の洲本城は土塁と堀により砦を守る中世山城なので、織田軍の鉄砲隊には対抗できなかった。
天正十年(1582)四国の長宗我部氏畿内進出を計り、淡路土着の水軍の将菅平衛門に洲本城を占領させる。
 六月、山崎の合戦に向かう秀吉は、武将の仙石権兵衛、石井与次兵衛を洲本に差し向け、洲本城を償還させる。
 八月、仙石権兵衛秀久洲本城主となり、四国攻めの準備で洲本城を修築、水軍を強化し始める。
天正十三年(1585)秀吉の四国攻めがはじまる。弟秀長、養子秀次が戦指揮をとる。 六月十八日、洲本城より出陣、福良渡海。
仙石秀久、讃岐で奮戦し、戦後高松城主となる。十一月、脇坂甚内安治(中務少輔)洲本城主となる。
 洲本城の本格的な修築がはじまる。現在の遺構は殆どが脇坂氏在城中に修築したものである。
東の丸斜面にある竪堀 その間安治は水軍の将として、以下の通り従軍している。
天正十五年(1587)九州攻め
天正十八年(1590)小田原攻め
文禄元年(1592)朝鮮の役(壬申倭乱)
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは、東軍へ寝返り家康側で奮戦。
慶長十四年(1609)伊予大洲五万三千石に移封。
 仙石、脇坂時代の洲本城は、大阪城を護り、秀吉が西南方へ進出する拠点の城として、また水軍の戦闘指揮処としての本格的築城の行われた時代である。
 関ヶ原の戦い以降の家康にとっては、洲本城は不必要な城となった。寧ろ廃城にすべき城であった。そこでこの城を長年腹心の藤堂高虎に預け、普請を中断放置せしめた。
 慶長十六年(1610)姫路城の池田輝政に淡路を領知せしめ、輝政は3男忠雄の領地とした。忠雄は由良城山城を修築し、洲本城を廃城とした。
寛永八年(1631)由良は淡路の東南隅にあり、土地も矮小で城下の経営も出来ないことを理由に、前年幕府に申請して承認され、洲本の地に城地を移転するようになった。移転作業は、寛永十二年まで続いた。山上の城郭は使用せず、山裾に居館、石垣をを設けて城郭としたが、「お城」の呼称をせず「お居館」と呼ばせた。城下町は、洲本川・千草川の地形を利用し、本格的に縄張りされている。
 この状態が明治五年(1872)の廃藩置県まで続いた。 山頂付近、北斜面は公園地として洲本町へ払い下げられ、山麓の城地は裁判所、検察庁、拘置所、淡路文化資料館用地になっている。

『洲本城跡案内板』より

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資料
 

私見
本丸の高石垣  6年振りに洲本城にやってきました。大手門まで車であがれてしまいますので楽チンですね。駐車場からは景色がいいのでまわりはカップルばかりです(--;。今回訪れた目的は前回確認できなかった”登り石垣”を見ることです。あとはやはり石垣を堪能することです。
 南の丸の高い石垣にまず圧倒されます。石垣が拡張されているので稜線が二重になっていますが、これは脇坂の頃のものでシノギ角といいます。そこからルートを右にとり、日月池脇をすぎて東の丸を目指します。このあたりは南の丸とは違い、粗い粗割石が使われた背の低いもので天正期の石垣ですね。
 東ニの門を過ぎ、武者溜をさらに東一の門を抜けてその脇の藪に突入します。いよいよここから斜面を平行移動しながら斜面に広がる遺構を確認していきます。当然ながらデートがてら城にやってきたカップルはこんなことはしません(笑)。大きな竪堀がよく残っているのがわかります。洲本城はこの東の丸から本丸天守台までの斜面の間に竪堀や登り石垣などの防御施設が施されています。ただでさえ急な斜面なのに実に手がこんでいますね。
 藪蚊の襲撃に辟易した頃には東の丸東面の高石垣の真下にきていました。ここも拡張された石垣で、かなり高く積まれています。なぜか丸い巨石がごろごろしているのが不思議でしたが、もともとこんな石があったんでしょうか。実は東側の登り石垣は蚊の襲撃でげんなりしてしまいましたので諦め(爆)、西側の登り石垣を見ることで良しとすることにしました。来た時とは反対のルートで南の丸へ。
西側斜面にある登り石垣 木が邪魔です・・模擬天守  南の丸から見る本丸南側の石垣は見事です。総石垣造りと言われる真骨頂ですね。
 ひとしきり石垣を堪能したらそのまま本丸の南虎口を行かず、西へと進み搦手へ。そこからまた藪に飛び込みます。西側斜面は日がよく入るので東側に比べかなり居心地がいいです。蚊もいないので言うことなしです(笑)。すると、ありましたよ!登り石垣が。ちゃんと斜面を登っているじゃないですか!綺麗な階段を形成しているように段差が作られた石垣は二十数段もあるようです。脇坂氏時代の山麓部にある中務屋敷と山頂部の城とを結ぶその様は、まさに洲本城の大きな見所の一つですね。現在はその急斜面ゆえにかなりの崩れを見せており、あまり接近して下から見上げていると石が崩れてくるかもしれませんので危険です。
 ようやく本丸に着きました。すでに汗だくです。ここは一般的な散策コースでしょうからデート中の方もいらっしゃいます。本丸は北側に天守台がありますが、大天守台と小天守台の2つの天守台がつなぎ櫓台で結ばれている連結式天守の構造を持っています。その上には有名な展望台がありますが、なんと私が参照している本には一切これについては書かれていません。認めてないんでしょうか(爆)よくこの模擬天守について悪くいう人がいますが、斜面に広がる遺構についてを語る人は少ないような気がします。もっとうまくアピールすれば洲本城の価値が見直されるのになぁともったいない気がしてなりません。
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