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松前城跡登城日:(2006.08.13) 所在地: 伊予郡松前町大字筒井 |
歴史 | ![]() 湊川の戦に楠木正成を討った功により、砥部の豪族大森彦七が松前城主を兼ねたが、やがて荏原の平岡氏と交替する。正平年間(1360年頃)穴草入道、同出羽守らが松前城にいたが、南朝方で九州に赴いていた河野通直が大兵を率いて松前浜に上陸、松前城を攻略した。 以後、松前城は河野氏の本拠湯築城の西方海上防衛の出城となった。その後、河野氏の武将栗上因幡守通宗、同但馬入道通閑らが松前城にいたが豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻し来り、松前城攻防の激戦が幾度となく繰り返された。 天正十三(1585)年豊臣秀吉の四国征伐があり、河野通直は侵攻軍総帥小早川隆景の軍門に降って栗上氏らと共に安芸竹原に退去した。 ![]() 慶長五年(1600)関ヶ原の戦に嘉明は東軍に従って出征したが、留守に毛利勢3000が三津浜に上陸、河野氏の残党と松前城をうかがったが佃十成らの勇戦により撃退した。関ヶ原の功により二十万石となった嘉明は慶長八年(1603)松山城に移り松前城は廃城となった。 天保以降二の丸を耕地化し、余り土を盛った所が現在地である。明治四十二年耕地整理により様相は一変し大正十一年十一月二十三日龍燈の松が倒壊して松前城をしのぶものがなくなった。 大正十四年十月記念碑を建立し、昭和四十四年町指定史蹟となった。 『松前城跡案内板』より
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資料 |
私見 | ![]() 加藤嘉明が松前城から松山城へ移る際、松前城の資材をよく活用したらしいですが、なかでも松山城の乾櫓、筒井門などはその時の移築物として知られています。 それにしてもあまりにも寂しい状態ですねぇ・・・・。
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