福井・石川・岐阜の三県にまたがる白山(標高2702メートル)は、富士山や立山とともに古くから信仰の山とされてきました。「越の大徳」といわれた泰澄大師は、養老元年(717)この地の「林泉」(御手洗池)で神託を得て白山を開き、平泉寺を創建されました。平泉は中宮平泉寺とも呼ばれて白山信仰の中心地となり、越前馬場として栄えるようになりました。中世には、白山神社境内を中心に48社36堂6千坊が建ち並び、また多くの荘園を持って強大な勢力を誇っていました。源義経・弁慶らの一行も、この平泉寺に立ち寄ったと伝えられています。ところが
一乗谷の朝倉義景が滅んだ翌天正2年(1574)一向宗徒の一向一揆勢が乱入して、一山ことごとく焼失してしまいました。11年後顕海僧正が平泉寺を再興され、江戸時代には平泉寺から白山にいたる広い地域を、平泉寺の白山社領として支配しました。明治5年(1872)には白山は石川県になり、平泉寺の支配から離れることになりました。これより先の神仏分離令により、明治3年(1870)平泉寺の寺号を廃して白山神社になりました。
参道の石畳、直立する菩提林の老杉、白山の神が現れたと伝える御手洗池、大拝殿の礎石、本社前の大石垣は、全盛時代の平泉寺の面影を残しています。また、六百数十年前に建てられた楠正成の供養塔、永平寺奉納の石灯篭、拝殿の奉納額などが歴史の古さを伝えています。社務所の「旧玄成院庭園」は室町末期に細川高国により造園されたといわれ、国の名勝に指定されています。白山国立公園の一角をなす白山神社の境内一帯は、「白山平泉寺城跡」として国の史跡となっています。杉木立に囲まれた神域は、青苔におおわれて静寂をなし、白山信仰の霊場として、いまなお多くの崇敬を集めています。
『白山平泉寺城跡案内板』より