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准藩士屋敷跡


登城日:(2007.05.05)
所在地: 三方郡美浜町佐柿
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
当時の石垣がそのまま残る准藩士屋敷跡。  幕末の異国船の脅威に直面していた頃、開国姿勢を見せる幕府に対し水戸藩内では尊王攘夷の思想を持つ志士が過激な活動を起こすようになる。水戸藩の中で、二代藩主徳川光圀が始めた「大日本史」に影響を受け、強硬な攘夷論者が台頭するようになった。やがて「天狗党」と呼ばれるようになる。
 全国的に攘夷運動が活発となる中、元治元年(1864)、藤田小四郎が筑波山にて強兵した。一時は幕府軍に追いやられたが、再挙をかけて武田耕雲斎が京にいる一橋慶喜を味方にせんと、総勢1000名にもなる軍勢で西進していった。
 京へ向う途上で若狭へ迂回し進軍してきた天狗党であったが、幕府の追討軍の指揮をとっているのが一橋慶喜本人であることを知り、望みを絶たれたことを知りついに幕府に降伏することとなった。
 捕えられた天狗党は大量処刑の処分を受ける。そのうち命を繋ぎとめた者達110名は敦賀で謹慎、そして翌年赦免された。小浜藩では彼らを准藩士として扱い、佐柿の屋敷に住まわせた。やがて慶応四年(1868)、朝廷より水戸帰藩を許された。
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資料
 

私見
当時の石垣がそのまま残る准藩士屋敷跡。  史跡訪問者用に用意された駐車場のすぐ先に准藩士屋敷がありました。国吉城の麓に置かれたパンフレットにもこの准藩士屋敷についての記述がほとんどありませんので、現地でどういうものなのかを理解することはできませんでしたが、「天狗党」を大量処刑したのは実にすさまじいものだったことでしょう。
 現在は石垣が残っていますので、当時の屋敷を想像し彼らがどのような気持ちでここに滞在したのかを考えたりします。私には台場しか興味がない時代でしたが、少しずつ各地に残る歴史と繋いでいけるのは興味深いなと感じました。
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