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国吉城跡


登城日:(2007.05.05)
所在地: 三方郡美浜町佐柿、城山
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
国吉城、本丸跡に残る櫓台状の高まり 中腹にある伝二の丸跡。奥にあるのが食い違い虎口  美浜町指定史跡国吉城址は、若狭国守護大名武田氏の重臣であった粟屋越中勝久によって弘治二年(1556)に築かれた中世の山城である。通称”城山”の最高所(標高197.3メートル)を本丸とし、北西に延びる尾根上には段々の削平地(曲輪)が連続し、その先端に丹後街道が通る椿峠があった。尾根の斜面は切り立って急であり、守り易く攻め難い城であった。実際に、永禄六年(1563)から数年におよぶ勝久と越前朝倉氏との戦いにおいては、城を守り通して名声を内外に轟かせ、その活躍は『若州三潟郡国吉籠城記』などの軍記物にまとめられた。元亀元年(1570)越前攻めのために木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や徳川家康らを伴って国吉城に入城した織田信長は、城を守った勝久を褒め称えたと伝わる。
 その後、天正十一年(1583)に入城した木村常陸之介定光は、椿峠を越えた丹後街道が集落の中を通るように道筋を付け替えて町割りを行い、佐柿の町を興した。江戸時代に入ると国吉城は廃され、寛永十一年(1634)に若狭国の領主となった酒井忠勝は、町奉行所と藩主休息所として御茶屋屋敷を置いた。以降、佐柿は三方郡の中心、丹後街道の宿場町として繁栄し、現在も当時の景観を色濃く残した古い町家や寺社が現存している。
伝二の丸跡の食い違い虎口 ◆本丸跡
 ここは、国吉城の本丸跡で、大正時代に立てられた城址碑がある。東西約70メートル、南北約30メートル、南隅に土塁が残るほか、北西側と東側に出入り口(虎口)がある。虎口付近や斜面の周囲には大量の石が散らばり、所々に積まれた痕跡が残ることから、往時は周囲に石垣を廻らしていたと思われる。また、城山の所々に板碑や墓石が散乱しており、城址碑の脇に一部が集められている。これらは国吉籠城戦の際、粟屋勢が周辺から集め、攻め登る朝倉勢に向かって投げ落としたものと伝わる。
 本丸からの展望は大変良く、東は山東の諸集落と、若越国境であった三国山、野坂岳、旗護山と敦賀半島が一望できる。北は若狭湾と天王山、西から南にかけて佐柿の町並みと新庄を除く美浜町のほぼ全域、遠く三方五湖や三方町の山々を見ることができ、当時から四方への展望が開けた立地であったことが判る。

『国吉城跡案内板』より

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資料
 

私見
本丸下にある堀切  山麓の居館跡を堪能したらもう「登るしかないでしょう」という状態でした。もともとはここに来る予定じゃなかったのですが、地元の力の入りようにすっかり心を動かされました。整備された階段を登っていくと、伝二の丸跡として、中腹に郭跡が残っています。ここがまたすごいですね。土塁が食い違いの虎口となっています。また下草や余計な木もありませんので郭の周囲にめぐらされた土塁の上に上ると全体がわかる様になっているのは嬉しいポイントです。現地で土塁だと思って写真に撮ってもあとで見たら「何これ?」みたいなのが少なくないのが山城ですからねぇ(^^;
国吉城本丸の西部にある虎口あたり  伝二の丸跡を後にしてそのまま整備された山道を登っていくと右手に本丸の高まりがあり、堀切が間の目に残っています。左に進むと尾根上に連続した郭が5つ続いています。こちらにも土塁が残っているのですが、私はじっくり見に行きませんでした(--;。
 本丸跡とされる頂上部は三角の形状を成しており、北西側に枡形を思わせる遺構も残っています!また、この辺りは石垣が崩落した残骸であろう石がごろごろしていますね。本丸は城内で最も広い面積を誇っていました(最大幅が40メートル)。奥には櫓台跡らしき高まりもあり、その先には堀切が切られています。
 木々が綺麗に切り取られている効果がここでもはっきり出ていました。遺構も見やすく、また眼下に広がる眺望も素晴らしい。越前と若狭の国境を守る要害として申し分のない城だったことでしょうね。この国吉城は夏場でも比較的訪城しやすいと思いますので、ぜひとも近くを通られる際にはふらっと立ち寄ってみられることをお奨めしますよ。(でも直射日光にはご注意を。)
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