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金ヶ崎城跡


登城日:(2006.05.03)
所在地: 敦賀市泉
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
月見御殿から見た敦賀の海 金ヶ崎城月見御殿跡  金ヶ崎城は「太平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。
 南北朝時代の延元元年(1336)十月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏冶の居城であったここ金ヶ崎城に入城。約半年間足利勢と戦い翌二年三月六日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。
 戦国時代の元亀元年(1570)四月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起こして徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城に残り殿を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられる。またこの殿での危機を救ったのは家康で、後の天正十四年(1586)家康上洛にあたり、秀吉は金ヶ崎城での戦いの救援に謝意を表したとされている。すでに十五、六年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ヶ崎の戦いはその後の二人の関係に大きな影響を与えたといえる。
焼米が出土した郭。激戦の跡が伺えます  現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせる。また、最高地(標高86メートル)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎古城跡の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。ここからの眺めは素晴らしく天候がよければ越前海岸まで望むことができる。

『金ヶ崎城跡案内板』より

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資料
 

私見
金ヶ崎城の二の城戸 金ヶ崎城の二の城戸  金ヶ崎城は金ヶ崎宮脇に整備された登城道がついていますのでおそらく夏場でも安心して散策できると思います。お城の縄張りは神社境内に設置されたジオラマ(地元の高校作)を参考になりますので、そこでしっかり頭に叩き込んでから登城するのがいいでしょうね。
 少し登ると鴎ヶ崎と呼ばれる数メートル下に下りる平坦な場所を見下ろすことができます。ここは幕末には台場が置かれた場所だったようです。そして階段を登りつめ、左右に分かれている道を左にとると金ヶ崎城内もっとも高い場所にあたる月見御殿跡に到着です。ここからの景色は見事ですね。またその急峻な断崖には足がすくみそうでした。ここまでそんなに凝った構造や堅牢な山城遺構が見つかりませんでしたのはやはり自然のこの地形によるところが大きいのでしょうね。
 しかしそれでも元の分岐点より天筒山城方面へと進んでいくと、大きな堀切が3つも続いています。三の城戸、二の城戸、一の城戸とありますがそれぞれ当時は相当深いものだったでしょう。今でも十分にそれが想像できるほどには残っていますね。
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