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大野城跡登城日:(1998.11.21→2010.08.17) 所在地: 大野市城町、亀山公園 |
歴史 | 越前大野城跡は、大野盆地の西側に位置する標高約250メートルの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城跡です。織田信長の武将、金森長近により天正年間(1573〜1593)の前半に築城されました。 越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、天守閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。 江戸時代の絵図には、本丸に望楼付き2層3階の大天主と2層2階の小天主・天狗櫓などが描かれています。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み」といわれるものです。 江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永四年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛政七年(1795)に再建されました。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました。 金森長近公は織田信長に仕え、諸将と共に越前を平定し功により天正三年この地に封を受く。初代大野領主として亀山城を構え区画井然世に誇るに足る城下町大野を建設し、産業の開発民心の作興に意を用いること十有余年、今日に見る繁栄の基礎を築く。同十四年転じて飛騨に封ぜらる。晩年襌に親み享年八十五にして伏見に歿す。時に慶長十三年八月十二日、爾来凡そ四百年、今大野市制の実現に当り公を追慕するの念愈々深し。茲に有志相計り公の銅像を建てその遺徳を後世に伝う。 昭和二十九年七月一日 『大野城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
平成22年に大野城が金森長近が築城してから430年となる事を祝して、同年10月に430年祭が開催されました。そこでその整備が整う直前のタイミングを狙って久々に再訪してみました。すでに前回訪問時の様子はまったく記憶になく、ただ雪が積もった中でとても寒かったという程度でしたが、さすがに今回はよく綺麗に整備されている事がわかります。南側の大きな駐車場に停めると、赤、ピンク、水色の幟が賑々しいお祭り気分を盛り上げてくれているのを気づかされます。 右手には真直ぐ伸びた水堀が復元されていますが、かつての外堀の一部である「百間堀」です。往時は城の南方を流れる新堀川と繋がっていたようですので、随分と幅が広いものだったのでしょう。堀底も石垣も明らかに近年造られたものとわかる状態ですが、それでもなかなかの存在感があります。 そして、山上に見える天守を目指して坂道をあがっていきます。そういえばここは冬期間閉鎖となるんですよね。前回訪れたのが11月で閉鎖前だったのでしょう、きっと貴重な雪景色のお城を拝めていたのですね。 登城道は安心して登れる傾斜ですが、急ぐ人にはショートカットできるルートも用意されており、なかなかいい整備をされています。急がない方は途中で右に逸れて、江戸時代に使われていた百間坂を進んでください。やがて土井利忠公の銅像が見えてきました。金森長近が築城し、結城秀康が越前を治めたところまではよく知られている大野城ですが、天和二年(1682)から土井利房が城主となってからは明治維新まで土井氏が治めていたのです。そして遊具がある場所はスルーし、山頂部へ。 やっぱりいいですねぇ、野面の石垣。青い空と木々の緑と実によく合った開放感あふれる本丸です。そして三方に広がるような形状の中央には二層三階の天守と、脇に小天守がこじんまりしています。しかしそのおかげで一層石垣が引き立っているように見えます。昭和43年に寄付によって推定復元された天守ですが、そんなに違和感なく造られているなと感じます。そして何より天守から見下ろす市内の眺望が素晴らしい。近世城郭はこうでないといけません。 そうそう大事なことを忘れるところでした。天守を出るとさらに奥へと歩みを進めると大野城を築城した金森長近公の銅像も造られています。土井利忠公のものよりも台座が高くなっているように感じるのはそれだけ地元の方に崇め奉られている存在であるからなのでしょう。しかし像の表情はというと、刀こそ持っているものの深く刻み込まれた額の皺や坊主頭の風体はまさに「おじいちゃん」という感じです。剃髪後の姿を表現されているのかもしれませんが、こう見えても後に飛騨高山を落としている現役バリバリな戦国武将です。高山城にある馬上の勇ましい銅像と比較すると面白いですね。ここ大野城ではかわいいキャラクターの1つとしても使われていますので、おじいちゃんキャラとしてユルい感じがいいんでしょうかねぇ。
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