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敦賀城跡登城日:(2006.05.03) 所在地: 敦賀市結城町、三島町1丁目 |
歴史 |
◆真願寺案内板 大谷吉継(吉隆ともいう)は、豊臣秀吉に仕え、天正十三年(1585)刑部少輔となり、敦賀五万石の城主となって、街や港の整備発展を計った。 慶長五年(1600)九月豊臣家のため、徳川家康と関ヶ原に戦ったが敗れて四十二才で自刃した。世の人々は「吉継は衆を愛し、智勇を兼ねた正義の賢人であった。」と讃えた。(名勝言行録) 吉継の拠った敦賀城は、結城、三島の両地にわたり、重層の天守閣を持っていたと伝えられているが、元和二年(1616)一国一城の定めで取りこわされたが、当寺にその礎石が残っており、その跡を偲ぶため、城内西北のこの地に本県出身の文学博士平泉澄先生の題字によって碑を建立した。 天正十一年(1583)、蜂屋頼隆が五万石の敦賀領主となり、旧笙ノ川河口の左岸に敦賀で初めての平城を築いたが、同十七年に頼隆が病死すると、領主は豊臣秀吉配下の大谷吉継と交代した。吉継はこの城を整備拡充するとともに町も整えていった。三層の天守閣をもつこの城は現在の結城町と三島町一丁目にまたがるものであった。慶長五年(1600)年、関ヶ原の合戦で西軍に属した吉継は敗れて自刃した。元和元年(1615)の一国一城令によって城は破却された。 寛永元年(1624)、小浜城主の京極忠高が敦賀郡を加増され、同十一年には酒井忠勝が小浜藩主となり敦賀の支配にあたった。そのため旧敦賀城の中心部に藩主の宿泊休憩所となるお茶屋(陣屋)町の支配や警察・裁判を行う南北の町奉行所、農村から年貢を取り立てる南北の代官所を設け、目付一名、町奉行二名、代官二名が常駐し、配下の足軽や同心とともにその任務にあたった。 明治四年(1871)、廃藩置県によって、若狭一国と当時の敦賀・南条・今立三郡を県域とする敦賀県が誕生し、その県庁を旧陣屋に置いた。同六年に足羽県を統合すると庁舎が手狭となり、庁舎を旧奉行所跡に新築移転した。同九年八月に敦賀県が廃止されて滋賀県と石川県とに分割されると、敦賀は滋賀県に属した。同十四年に旧敦賀県を管轄地域とする福井県が誕生するが、県庁が敦賀に戻ることはなかった。その後この地には警察署・裁判所・敦賀病院などがかわるがわる建てられ、結局明治四十二年に敦賀尋常高等小学校が神楽町から新築移転して現在の敦賀西小学校に引き継がれ、今に至っている。 このように近世から近代にかけて敦賀の拠点であったこの地について、わたしたちは結成二十周年を記念してここに顕彰いたします。市民の皆様にあっても歴史を活かしたまちづくりの礎として役立てて頂けますなら、望外の喜びでございます。 『敦賀城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
敦賀城にやってきました。蜂屋頼隆が築城し、大谷吉継が拡張した三層の天守閣があったとされる平城ですね。場所は敦賀西小学校と、その北側にある真願寺あたりとされています。車に乗ったままドライブスルーできそうな状態なのですが(笑)、小学校の脇に碑と幟があります。また、小学校北側には城の堀跡とされる小さな川が流れており、そのすぐ南に真願寺があります。ここにも案内板と碑、そして境内には礎石が置かれていました。さらに、西方にある来迎寺に移築された敦賀城中門を見ることができました。 まるでスタンプラリーのようにピンポイントで遺構とされる点をめぐっていてもいいのでしょうが、この敦賀城は意外と広い城域を感じながら一帯を歩いてみるのをお奨めします。
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