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吉崎御坊

吉崎御坊跡


登城日:(2006.05.04)
所在地: あわら市吉崎
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
昭和五十年の国土地理院空中写真 本願寺吉崎別院(西別院) ◆念力門の由来
 この門は天正十九年(1591)豊臣秀吉が京都の西本願寺に寄進したもので元治元年(1864)「蛤御門の戦い」の時、兵火から本願寺の堂宇を守った由来により「火消門」ともよばれた名高い門であります。
 昭和二十四年(1949)十一月西本願寺より御下附(当時輪番福井正善寺住職、巨橋義信師)百余名の信徒によって京都から二百五十粁(約六十里)十六台の荷車で念仏のかけ声と共に運ばれたものです。
 なお、念力門の名は西本願寺第二十三世、勝如上人によって命名されました。
 ちなみにこの石碑の裏面には次のように刻まれております。

『由来』
 「本願寺北の総門は天正十九年豊太閤の寄付なり元天狗門と名く元治元年奇蹟に因りて火止の御門とも称せらる。
 昭和廿四年 巨橋輪番本山にて乞て下付を受く 斎藤、平田両氏外百余名吉崎念仏報謝団を組織して荷車十六輌を以て之を運載せり、偏に祖恩を思ふて嶮難六十里を忍び専ら念仏を称えて風雨の九日を耐ゆ霜月の中の五日壮行を完遂せり、嗚呼偉なる哉、翌、四月竣工す。光明尊師親しく之を落す。念力門とは勝如宗主の名くる所なり。」

 本堂
 大きさ十一間四面、総欅材による紫辰殿造。延宝六年(1678)に建立し寛政七年に焼失、寛政九年(1797)に再建され今日に至る。
 文明七年(1475)蓮如上人吉崎御退去の後、幾人かの弟子たちによって遺跡を守り又道場が設けられた。その内、山下道場が発展したものが今日の吉崎御坊だと伝えられている。
 堂内には、本尊阿弥陀如来を安置し、極彩色の彫刻によって荘厳されている。
 どうぞ心静かにお参りください。

『本願寺吉崎別院案内板』より

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資料
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私見
吉崎御坊跡への登城道。この先が大きく折れている 本願寺吉崎別院の念力門  吉崎御坊は、文明三年(1471)七月、吉崎浦にある千歳ヶ峯(御山)の先端に建立され本願寺八代蓮如が移ってきました。その規模は約三千坪となり、国の指定史跡となっています。この周囲には九千坪の山地には多屋坊が建ち並び、宿泊者が後を絶たなくりました。そうなると店屋も次第に増えてくることとなり、この地に寺内町を形成していったのです。当時の吉崎御坊は『吉崎御坊復元図』を見ていただくとして、現在は良くわかりません(^^;。現在の山頂部は公園化されており、蓮如上人の像や、蓮如上人の御腰掛け石などが残されています。かつては城郭寺院として防備を固め、また構造上にもその様相を感じ取れていたのでしょう。駐車場から北大門跡へと続く登り道の「くの字」に曲げられた部分こそ、城でいう”折れ”のように攻めるに難く、守るに易いといったところなのでしょうか。
 吉崎御坊は当時の加賀守護職をめぐる富樫氏の内紛に巻き込まれるようになり、事態を収拾した政親に味方しました。しかしそれで終わることなく、今度はその政親方と門徒方との衝突が避けられないようになってきます。(『吉崎御坊の歴史』国書刊行会刊参照)時の為政者から見れば、非常に恐ろしい存在だったのだろうとは想像ができます。状況をこれ以上激化させないため蓮如は文明七年(1475)、吉崎御坊を離れることとなります。その後山科に坊舎を立てることになるわけです。
 御坊は、加賀一揆を平定した朝倉氏によって永正三年(1506)破却されてしまいました。
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