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山科寺内町(山科本願寺)跡登城日:(2008.06.21) 所在地: 京都市山科区西野阿芸沢町など |
歴史 |
ここは、戦国時代の中ごろ(1468〜1532)、本願寺教団の本山として繁栄した。自治と自衛の町「山科寺内町」のほぼ中央にあたる。いま中央公園にみられる小山は、かつての寺内町の平和な生活をまもるために町全体をめぐっていた「土居」の一部である。 昭和四十八年夏、この団地の建設に先立って発掘調査が行われ敷地の中央から南北方向の土居と濠の跡(合わせて幅32メートル)が検出された。それは寺内町の内部を区画していた遺構である。この土居は、すぐ北側で直角に折れて西へ向かい、いま西野の旧集落の中に保存されている土居につづくらしい。この西南の一郭は、500年前の本願寺の御影堂や阿弥陀堂が建ち並んで「御本寺」とよばれた。その反対側、公園にある土居との間「内寺内」には、各地の末寺の出張所(他屋)や本願寺の坊官の屋敷が並び、この敷地の北に接する道が寺内町のメインストリートだったと考えられる。 その他、敷地の東北部にはその道に面していたらしい大がかりな建物跡、濠跡の東側には、東西20メートルにわたって積まれた石垣とそれに平行する柵列跡、さらには砥石や鉄滓(てっさい)を伴出した鍛冶場の石垣炉など、いずれも内寺内域から発掘されたものである。また生活に欠くことのできない井戸の石組も発見されている。また、遺構の上には全面にわたって、山科寺内町が焼き打ちにあって亡んだことを示す焦土が堆積しており、それにまみれて出土した甕や小皿やすり鉢の破片は夥しい数量にのぼった。 このように、この付近一帯には、戦国の乱世を生き抜きそして亡んだ山科寺内町の跡が確実に埋もれています。いま公園の中と新幹線をはさんで南北につづく土居と濠の跡は、そのことを私たちにものがたってくれる貴重な文化遺産なのです。 (国土交通省の「国土画像情報(カラー空中写真)昭和49年度」を転用) 『山科寺内町跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
山科寺内町は文明十年(1478)蓮如がこの地に移ってきて、御影堂や阿弥陀堂などを建立しているうちに周辺に人があつまってくるようになり次第に寺内町を形成していったのでしょう。のちの天満寺内町ではそうした本願寺の集客力というのか、寺内町が形成されることを見越して秀吉が利用したものでしたが、この時も賑わいを見せていたことでしょうね。 しかしなぜここまで見事な土塁が必要だったのかというところは想像でしかありませんが、単に町としての営みだけではなく、周辺との緊張関係から城郭としての性格が必要なんですね。 のちに天文元年(1532)に六角定頼や法華宗徒らの攻撃により落城する山科寺内町(山科本願寺)ですが、現在もよく残っている土塁の高さから当時の威容をうかがい知ることができます。当時は土塁の外側には濠をめぐらせており、かなり堅牢な平城だったようです。山科中央公園で土塁を堪能したら、濠跡を感じつつ蓮如上人の廟所も訪れてみてください。またさらに東方には蓮如の隠居所として南殿跡が国指定史跡として残されています。
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