
現在は住宅、商店などが所狭しと立ち並ぶ天満一帯ですが、一時とは言えここに天満宮会所から大川の川岸までの東西7町、南北5町の範囲に寺内町が形成されていたとは想像することは難しいです。石山合戦により本願寺を追い落とした後に築城された大阪城。その城下町を形成するための街づくりのためにかつての敵を再び呼び戻し、人集めに使うとは秀吉も恐ろしい人ですね。
寺内町の中のどこに本願寺御坊があったのかは二つの説があります。一つは天満宮より少し南へ下ったところにある滝川公園です。ここには江戸時代に興正寺があり、京都へ退転した本願寺の跡を継いだという伝承が残っていることからだそうです。そしてももう一方が現在の造幣局がある辺りと考えられています。寺内町の空間的復元を考慮したということでよくわかりませんが、大川そばであったということは元禄八年の「公私要覧」のうち大坂破損奉行について書かれたくだりが決め手の一つとなり、現在は造幣局説が有力だと考えられているようです。(『天満本願寺跡発掘調査報告T、U』参照)

さて、かつての町中を散策してみます。天満宮そばから南へ下りて滝川公園に行ってみます。そこに興正寺跡の石碑が置かれています。そして大川沿いに東へと歩みを進めます。この時期はちょうど桜の通り抜けをやっていますので造幣局へいくことができるのでした。しかしすごい人出で、かなり気づかれしますね。
造幣局の南側一帯は発掘調査により豊臣期の屋敷跡が見つかっています。写真でしか見ていませんが、石垣造りで門跡がよく分かるものでした。残念ながら本願寺には一切の防御施設が認められなかったようですので石垣なんてなかったでしょうね。ということで何を見に行ってるのかわかりませんが(笑)、桜の写真もたまに撮りつつ、造幣局を通り抜けてきました。結局、発掘調査では決定的な証拠として本願寺御坊の場所が特定できるものは出なかったのですが、現在の天満の町が形成する元となったのがここなんだなと思うとなかなかぐっとくるものはありました。(^^;