大宰府政庁跡登城日:(2007.10.12) 所在地: 太宰府市観世音寺4丁目 |
歴史 |
古代、西海道と呼ばれた九州一円を統轄していた大宰府は外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていた。その機構は中央政府に準じ、地方機関としては最大規模の行政組織を有していた。 発掘調査によると、七世紀後半に掘立柱建物が建てられ、八世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備される。この建物は藤原純友の乱によって焼き打ちされたが、十世紀後半には立派に再建された。 現在見ることのできる礎石は、この再建期のもので、左上図は発掘調査の成果をもとにして復元したものである。これらの建物は藤原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」とうたっているように壮大なもので、当時としては中央の都の建物にも劣らぬものであった。 正殿は重層風につくられ、屋根は入母屋ないしは寄棟造りであったと思われる。 このような政庁を中心にして周囲は、数多くの役所が配置され、その規模は平城・平安の都に次ぐ「天下の一都会」であった。 ◆大宰府政庁正殿跡 ・正殿跡とは 大宰府の長官である帥が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要な役割を果した場が正殿である。大宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統轄していた。宮都での元旦拝賀を参考にすれば、大宰府でも元旦には管内諸国から国司らが集い、正殿に座した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。 ・発掘調査でわかったこと 政庁の建物群は3期(T〜V期)にわたって変遷し、T期は掘立柱建物、U・V期は礎石建物が採用され、中・南門の建物についてはU期とV期がほぼ同じ規模と構造だったことが判明している。近年の調査では、正殿も他と同様にU・V期の基壇(建物の基礎)が同一規模で建替えられていたことが明らかになった。この建替えの原因となった941年藤原純友の乱による火災を示す焼土や炭をV期整地層の下部で確認した。さらに、基壇の下層でT期の掘立柱建物・柵・溝等を発掘した。これら建物群はいずれも規模が大きく整然と配置され、周囲を柵と溝で区画していることが判明した。すでにT期の段階から儀礼空間を意識した配置だったと考えられる。 ・正殿の建物 残された礎石からV期の建物は正面7間(28.5メートル)、奥行4間(13.0メートル)の平面規模がわかっている。また基壇の正面と背後には3つの階段が取付き、正面を除いた周囲の礎石には壁を設けるための加工が施してある。柱は直径が約75センチ、これをのせる礎石は巨大で、しかも円形の柱座を3重に削って装飾している。こうした調査成果と正殿の役割から考えると、建物は寄棟の大屋根と庇を別構造で組み合せ、朱塗りの柱と白壁で仕上げた外観、そして内部を吹抜けのホールのような空間にした建築だったことが想定できる。屋根には左のような恐ろしい形相の鬼瓦が飾られていた。 ◆蔵司地区官衙 大宰府には実務を行う19の役所があったことが知られている。その多くは政庁の周辺に設けられていたと考えられる。政庁の西側に位置する丘陵は、現在、字名から「蔵司」と呼ばれている。 「蔵司」は、もともと西海道(九州)九国三島(後に二島)の綿・絹などの調庸物(税)を収納管理する役所である。集められた調庸物は一旦ここに納められ、その後一部は都に進上された。 後方の丘陵上に礎石建物(倉庫)1棟が存在することは早くから知られていたが、1978年・1979年これらの築地や建物は、8世紀〜11正期前後にわたって営まれており、「蔵司」を構成する建物の一部であることが明らかとなった。 『大宰府政庁跡案内板』より
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資料 |
私見 |
大野城から岩屋城へと移動し、眼下を見下ろしていると緑色に見える大きな広場になにやらテントが一杯建っているのが見えました。まさかなぁ・・・と思いながら下山すると心配が的中してしまいました。 大宰府政庁跡でお祭りがあるようです(-_-;。えぇーー!!史跡の上にシートを敷いて露店を出して飲み食いするのか?と驚いてましたが、まぁ姫路城の三ノ丸広場も憩いの場となってますし、同じようなものかなと勝手に自分を納得させました。すぐにテントをすり抜けつつ撮影できる場所を探してみます。 意外と難しかったですよ・・・恐るべしです。慌てて退散するようにして写真を撮ってその場を後にしました。千年以上前の政治の中心地が今は市民が集まる場所として利用されているというのは考えようによってはアリですね。いい活用方法かもしれません。(ってどこでもやれるものじゃないですよね)
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