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花尾城跡登城日:(2007.10.12) 所在地: 北九州市八幡西区大字熊手 |
歴史 | ![]() ![]() 平家滅亡後、宇都宮朝綱の次男家政は鎌倉幕府の命により遠賀山鹿庄に下り、山鹿氏を称したのち、その子時家は地名資時に麻生庄野面庄、上津役郷を割譲。よって資時は麻生庄に本拠をおき麻生氏を名乗った。 この城の築城年代は定かでないが、南北朝時代と推定されており、その頃は麻生山とも呼ばれたという。 ここでは中世に、いくたびかの合戦があったが、なかでも文明十年(1478)麻生氏の家督をめぐって、惣領家弘家と反惣領派家延との内紛は知られており、このとき山口の大内政弘が弘家を授け、当城にこもる家延を攻めたため、家延は和議を乞い城を開けた。 その後の麻生氏は家氏のとき、豊臣秀吉の九州征伐のあと天正十五年(1578)筑後に所替えとなり、三百数十年にわたる当地でのその歴史をとじた。 『花尾城跡案内板』より
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資料 |
私見 | ![]() ![]() 明応年間(1492−1501)には大内氏に属するようになり、時の当主麻生家春が山口へ出仕中に病死したことから麻生氏の家督争いが起こります。花尾城には家春の嫡男である遠江守家信(延)が立つ一方、大内氏は山口にて元服した家信の異母弟上総介を後嗣とするよう迫りました。これを不服とした家信が花尾城に籠ると、大内氏は中国勢三万の兵を差し向け、花尾城を攻撃します。これがよく知られる花尾城攻防戦です。 結局花尾城は三年間この攻撃に耐え、ついに大内側から和睦を持ちかけ、家信は遠賀荘の地を得て岡城主となり、花尾城を退きました。代わりに上総守が入城し、家督を継ぐことになりました。 下って天文年間(1532−55)には、大内義隆の家臣相良武任が城主となるも、永禄年間(1558−70)には又麻生氏が返り咲き、麻生左衛門大夫鎮里が城主となります。しかし永禄十年(1567)に本家の山鹿城主麻生摂津守隆実と不和となり、合戦ののち花尾城は落城しました。その後花尾城は山鹿麻生氏によって修築されますが、天正十五年(1887)の豊臣秀吉による九州征伐の折に筑前国は小早川隆景の領有となり、長きにわたる麻生氏の統治は終わりを告げました。(『日本城郭体系18』新人物往来社刊参照) ![]() ![]() 黒崎駅から南東方面へ約2キロほどのところにある同公園へは途中不安になるような細くて薄暗い道を通っていくことになりますが、突き当たりに3台ほど置ける駐車スペースがありました。小雨のしかも早朝という時間帯にもかかわらず既に先客が来ていました。そこで幸いなことに雨があがり、改めて城の神様に感謝です(^-^)。 左の登山道を歩いていますと右手斜面上に曲輪跡なのでしょうか、石塁が見えます。暗すぎて写真ではうまくとれないのが悲しい。・・・その先で道が分岐していますので、右折し斜面をあがっていくことにします。上り詰めた平場が櫓台となっており、ここから東西に尾根筋上に四の郭、三の郭、二の郭、主郭と続いていきます。それぞれの郭を結ぶ道はよく整備されていますので移動も簡単です。しかし斜面には藪がありますので部分的にしか下の様子を垣間見ることができません。それでも竪堀が畝状に存在していることくらいは確認できます。これが3年間も戦いぬいたのかと思うと感慨無量です。 ![]() ![]()
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