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岩屋城跡登城日:(2007.10.11) 所在地: 太宰府市大字観世音寺 |
歴史 |
◆岩屋城跡(本丸跡) 岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種によって築かれた。同十二年彼は主家大友宗麟に叛き城を追われ、代って吉弘鎮理(後の名将高橋紹運)が城主となった。紹運は天正十四年(1586)九州征覇を目指す島津5万の大軍を迎え撃ち、激戦十余日、秀吉の援軍到着を待たず玉砕し落城した。 『岩屋城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
福岡県太宰府市の四天王寺山にある岩屋城は、文明十年(1480)頃、大内氏によって築城されたのがはじめとされています。その後豊後の大友宗麟が天文年間に宝山城を築いた際に築城されました。同城からは太宰府市内を一望でき、気持ちがいいですね。私は大野城を先に見てから、そのまま下ってきました。 主郭部のすぐ下を車道がつくられてしまっているので、破壊されていることは想像していたのですが、現状の様子と縄張り図を見てみるとそれほど破壊による焼失はなさそうな気がします。頂上にある主郭には有名な石碑『嗚呼壮烈岩屋城址』が置かれてあり、この石碑を見ただけでちょっと感動してしまいましたのは私だけでしょうか。 さて、そこから南方面に一段落ちた削平面が見られます。また、逆側には土塁が残っていますが、中央部だけ高くなっており左右が低くなっている形状です。これは曲輪の成形時に削り残したんだとか。その土塁を越えると堀切があり、そこから先はややこしい状態でわかりにくくなっていました。と、ここまでが主郭部です。そして、車道を挟んで南西尾根上には二の丸、三の丸が広がっており、二の丸には高橋紹運の墓がありました。私はあまり時間がなくてゆっくりできませんでしたが、かなり良好に遺構が残っていそうです。 軽く見渡してすぐに退散しましたが、あとで『研究論集31』(九州歴史資料館刊)を見てみると、なんと城域は現状の地表面から評価すると倍くらいに広がっているようなんですね!主郭から見て、南方、そして南東の尾根にも城郭遺構が多数残されていることが縄張り図に書かれています。部分的に後世の造成によるものかもしれないと見えるところもありますが、それでも私には衝撃でした。城域が広がりすぎてしまうと700名あまりで戦うには不利になりますので、岩屋城の戦いの際にはどうだったかは疑問ですが、しかし史料として大野城の太宰府口付近に砦があったりと、広範な陣取りで戦ったのは間違いないのでしょう。 改めて大野城と岩屋城を再訪したくなってきます。
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