HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

小倉城跡
登城日:(2005.03.21)
所在地: 北九州市小倉北区城内
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
南蛮作りとして有名な復興天守です。  細川忠興は、慶長五年(1600)関ヶ原合戦の功により、豊前国全域と豊後国二郡を領する三十万石(検地高三十九万九千石)の大名として入国、中津城に在城した。居城を小倉に移すため慶長七年これまでの小倉の城を廃して新しく築城をはじめ、その年の十一月、小倉城へ移った。
 城の中心は、天守閣のある本丸と松ノ丸、北ノ丸で、これを囲むようにしてニノ丸、三ノ丸を配した。
 天守閣の外観は五重、内部は六層(現天守閣は、四層五階)である。これは、五重目の内部が上下二段に分かれているためで、五重目の下段までは、白髪が塗り込まれ、上段は黒塗りで張り出しになっている。また天守閣の屋根には、破風がなく、当時この天守閣は、唐作りと称されていた。
 城のすぐ東を流れる紫川を天然の濠とし、この川をはさんで東西に曲輪を設け、城下町をつくった。城郭の総構えは、約八キロメートルにもおよび、これを濠で囲み、街道に通じる八ヶ所の門を設けた。
濠もよく残されていますね。  寛永九年(1632)細川氏は、肥後国に移り、替わって播磨国明石城主であった譜代大名の小笠原忠真が小倉城に入り、十五万石を領した。
 第二次長州征討戦の慶応二年(1866)八月一日、小倉藩は、田川邸に撤退する際、小倉城に火を放ち、城内の建物は、ことごとく灰じんに帰した。なお、天守閣は、天保八年(1837)の大火で焼失、以後再建されなかった。
 現在の天守閣は、昭和三十四年鉄筋コンクリートで、再建されたものである。

『小倉城跡案内板』より

【戻る】

資料
 

私見
大手門跡の石垣  小倉城へはJR小倉駅からでも歩ける距離ですが、西小倉駅が最寄りとなります。濠や石垣もよく残されていて、復興天守とのバランスも悪くないと思いました。ちょうどこの日は前日の福岡地方を震度6弱の地震が襲ったため、天守への立入りは禁止となってしまっています。
 天守の写真は意外と苦労させられますね。南側には木々が邪魔をして、大手門越しの天守はいまいちです。写真をとるなら庭園側に回り込むのがベストじゃないでしょうか。石垣も綺麗に入りますのでいい絵になります。
 そういえば、小倉城城内にある八坂神社が妙にひっかかりました。ピンクのハートの垂れ幕やピンクのハート型の鐘が古めいた神社とは明らかに違和感があるのです。どうも恋愛の神様みたいな感じにしたいのでしょうけど、ここって効果あるんですか?再訪の検討をしたいと思います(爆)。
【戻る】