城めぐドットコム HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

水城

水城跡


登城日:(2007.10.12)
所在地: 大宰府市大字吉松他
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
水城東門の礎石 東門跡付近から西へ水城が伸びています。 ◆水城跡
 水城は664年に築造された土塁で、663年白村江の戦いで敗北後、大野城や基肄城などと共に築造された防衛施設です。土塁はここ国分側の丘陵と住宅街になっている正面の吉松丘陵との間1.2キロメートルを塞ぐように造られた人工の盛土です。土塁の下には樹木の枝葉が敷かれています。これは敷粗朶工法といい、基礎の滑りを抑える工法で、調査で確認された枝葉を見ると落葉樹に葉が付いていること、果実が未成熟であること、葉の大きさなどから初夏(5月初旬〜7月)に敷き込んだと推測されます。
 その敷粗朶の上に盛られた土塁は、質の異なる土を交互につき固める版築工法によって造られています。土塁は大きく2段に造られ、幅77メートルの平坦な土塁(下成土塁)の上に、幅23メートル、高さ5メートルの台形状の土塁(上成土塁)が造られています。博多側にテラスが設けられていることは、防衛上不必要と考えられ、急角度の上成土塁の地滑り防止の為に造られた押え盛土と考えられています。
 現在水城跡周辺には住宅が迫ってきていますが、土塁を挟んで博多側(向かって右側)には幅60メートルの外濠があったとされ、大宰府側(向かって左)には内濠があったと考えられています。
 眼下には県道と市道が通っていますが、手前の市道付近を奈良時代に官道が通り、大きな礎石がある付近に東門があったと考えられています。
 正面に水城跡を眺めると、真正面に遠く背振山を望み、水城の中央付近を御笠川が流れ、鉄道・高速道路・国道が横切っていることがわかります。九州自動車道については、この水城跡の隙間(御笠川付近)を通過する計画が出された際、景観の問題が議論され、トンネル工法や迂回させる方法などの代替案が検討されました。しかし、御笠川や鉄道の地下を通過することでの安全上の問題、さらに多額な費用がかかるなど様々な理由から、ほぼ当初の計画どおりに決まりました。ただし、景観に配慮し、道路の高架の高さを水城跡の頂部より低くすることになったのです。よって、現在見るような低い高架が造られ、地面すれすれに高速道路が通っているのです。
「国土画像情報(カラー空中写真)昭和56年度」より ◆特別史跡水城跡の調査成果
 ここは特別史跡水城跡の西門の跡です。水城は西暦664年博多湾側から攻め入ることが予想された唐・新羅軍に備えて造られた防御施設ですが、東と西に二つの門がありました。
 平成六年〜八年に九州歴史資料館によって西門の周囲が発掘調査され、当初建てられた西門が八世紀前半と八世紀中頃以降の二回建てられたことがわかりました。はじめは実戦に備えた簡易な門でしたが、三回目の門は敵の侵攻の恐れがほぼなくなり、見かけを重視した二階建て風のりっぱなもん(楼門)になったようです。
 また、門の両側にある土塁の断面では版築と言って、粘質土と砂質土を交互に積んでよく締め固めた様子が観察されました。
 さらに、この調査では、西門から鴻臚館までほぼ直線的に伸びる官道(古代の国道)の跡も見つかりました。しかし、土塁前面にあるとされていた濠がこの官道より東側では見つかりましたが、西側では見つかりませんでした。
 一方、土塁の西側付け根部分の高台では、望楼(見張り所)の可能性のある建物が見つかりました。
 まだ謎の多い水城跡ですが、発掘調査によっていろいろなことがわかってきました。

『水城跡案内板』より

【戻る】

資料
 

私見
今なお見事な土塁がよく残っています。 水城の西門跡  663年に白村江にて大敗を喫したわが国。唐と新羅の逆襲に備える為各所に慌てて山城を築城しました。また大宰府を防衛する施設として水城も築造されました。相当慌てて造ったんだろうなと想像していたんですけれど、この水城実によく手がこんでますね。まずその規模の大きさにびっくりです。申し訳ないのですが現地に来るまではよく知らなかったので立派な土塁が造られたんだと思っていただけでした。しかし実は外側に水堀があり(しかもその幅が60メートルって・・・!)、その水位を調整するように木樋という調整施設もあるという緻密さには驚きです。また土塁にしても段差のあるテラス状の構造でなおかつあの面倒くさい(笑)版築工法ですから、どれだけ丁寧な仕事してるんでしょうか。ほんとに慌てて急ごしらえの仕事なのかなぁと思ってしまいます。またこれだけの土木工事をやってしまうところがすさまじいですね。
 水門も東西にそれぞれあったようで、東門跡の礎石がちょうど大野城で見たものと似ていました。西門跡は発掘調査された時の案内板がありましたが完全に埋め戻されています。しかし今もその近くで発掘が行われていたのですが、また新たな発見があればいいですね。実は作業してる方の話が聞けないかと思い、しばらく近くで観察してたのですが隙がありませんでした(^^;。

 そういえば水城には周辺にもいくつかあるようで、小水城と呼ばれているんですね。
水城の構造 ・天神山(福岡県春日市大字上白水)
東西約70m、高さ3m、幅20mの規模をもち、南北方面にもあったとされる。
・大土居(福岡県春日市大字上白水)
東西約75m。堀も発掘された
*ほか春日市内では大字小倉と春日にもあったとされる
・基山(佐賀県基山町)の小水城として「関屋土塁」、「とうれぎ土塁」がある。
『特別史跡水城跡』大宰府市教育委員会より
 また岡山の鬼ノ城の南側麓にもこれら水城と似たような遺構がある話があります。たしか版築も見られたようでひょっとしたらと夢広がるのですが、中世の遺構も出土したようでそうそうすぐに結論が出されてないようです。(実は私が知らなかったりするだけかもしれませんが・・)
 中世山城、幕末の台場とその好みに脈絡がない私ですが、最近古代にも興味がでてきてしまいました。困ったものです。
【戻る】