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柳川城跡 登城日:(2005.03.21) 所在地: 柳川市大字本城町88の2番地 |
歴史 |
柳川城は、永禄年中(1558〜1569)蒲池鑑盛によって本格的な城としてつくられたもので天然の要害である。 水の利を充分にいかした平城で掘をめぐらし、扉の開閉によって城内の水が増減できるようになっていた。 鑑盛の子鑑漣に至り天正八年(1580)龍造寺による数ヶ月に及ぶ攻撃に耐え、柳川城攻略を挫折させた。 翌年龍造寺により佐賀に於いて謀殺されその一族もすべて殺害され応永以来の蒲池一族は滅亡した。 天正十二年(1584)大友勢の筑後攻略にも柳川城には一指だも染め得なかった。(耐え忍んだと同意?) 天正十五年(1587)立花宗茂が豊臣秀吉の九州平定に際してその功により筑前立花城より十九才で当地にうつされたが慶長五年(1600)関ヶ原役において西軍にくみしたため在柳わずか十三年にして解任された。この後に岡崎城主田中吉政が筑後一円三十二万石余の領主として入国し柳川を居城とするに及び石垣を更に高くし天守を築き従来にも増して防備を厳重にした。 戦国動乱の二度に及び攻撃にも陥落しなかった本城は、ここにおいていよいよ天下の名城としての名声をたかめた。 当時人々が(柳川三年肥後三日肥前久留米は朝茶の子)と言ったのは柳川城の堅固さを如実に物語ったものといえよう。 元和六年(1620)田中吉政の子忠政に後継なく断絶したため奥州棚倉一万石より十二万石の領主として立花宗茂が再度当地に入国した。以来明治維新を迎えるまで二百五十年間立花藩の居城であった。 明治五年(1872)正月十八日夕刻火を発し慶長以来威容を誇った天守閣も一夜にして焼失した。 石垣については明治七年(1874)の大風により海岸堤防が決壊したためその補強に転用された。 昭和三年(1928)の開田後柳川商業高等学校(現在の柳川高校)、柳城中学校が建てられ現在に至っている。 柳川城は永禄年中(1558〜1569)蒲池鑑盛によって、近世の城郭の基礎となるものが整備され、蒲池氏が滅んだ後に、天正十五年(1587)立花宗茂が入城しました。 その後、慶長五年(1600)関ヶ原の役に功をたてた岡崎城主田中吉政が、筑後一円の領主として入城すると、天守閣を備えた本格的な近世城郭を築きました。天守閣は約8メートルの石垣の上に築かれ、5層からなり、高さは約35メートルであったといわれています。本丸・二の丸の外周には城湟がめぐらされ、現在一部は川下りコースとして利用されています。 戦国の動乱の2度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった柳川城は、水の利を生かした名城として知られ、田中氏の断絶後は、元和七年(1621)立花宗茂が再び城主となり、以後、立花氏十万九千石の居城として、明治維新を迎えます。 しかし、明治五年(1872)1月18日、この天下の名城も失火により焼失し、石垣も海岸堤防の補強に使用されるなど、現在は、柳城中学校の校庭の一隅に小丘と石垣の一部を残すのみとなっています。 『柳川城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
柳川城がある柳川市は市内に入ると至るところに幅広の水路がめぐらされていることに驚かされました。すっかり現代の中に埋没しかかっていますが、遺構は中学校脇にある石垣と、川下りルートにある、水門跡です。水門を開閉することで掘の水位を変えていたとされる門には石垣がよく残されています。また、城の外側の堤防が内側より低くつくられており、有事の際には水位が増せば攻め手側が水浸しになるという仕掛けになっているのには感動です。この地にこられたら是非川下りを体験して水位からの目線で城跡をめぐられることをお奨めします。 そんな川下りの途中で青空に号砲があがりました。合併の調印が済み、新柳川市が誕生したのですね。なんともメモリアルです。 そういえば・・・・柳川といえばどじょうと思っていましたが当地に行ったらうなぎばっかり。勘違いだったのかな、と思った柳川だったのでした。(^^;
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