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加納城跡
登城日:(1999.4.11→2006.4.22)
所在地: 岐阜市加納丸ノ内他
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
本丸内の状態は完存といえますね。 加納城は石垣がよく残っていますね 美濃の守護代であった斎藤利長が文安二年(1445)に守護土岐氏の川手城の抑えとして築いたのがはじまりである。その後、斎藤氏が代々居城としたが、やがて長井規秀が斎藤氏の名跡を奪い斎藤左近大夫利政と名乗り、稲葉山城に居城するようになったので、加納城は廃城となった。
 慶長六年(1601)徳川家康は娘婿の奥平信昌を廃城になっていた加納城に入れ、岐阜城を破却し、建物、石垣などをもって加納城を改築させた。
 以後、城主は歴代大久保氏、戸田氏、安藤氏と代わり、宝暦六年(1756)に長井直陳が三万二千石で入城してから、子孫が相次いで明治維新を迎えることになった。

『加納城跡案内板』より

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資料

私見
でも・・どの石垣が積みなおしなんでしょうか(汗) 私の中で加納城の評価が一新した瞬間でした。  7年ぶりに加納城を訪問しました。以前は城めぐりを始めたばっかりということもあり、なんとも情けない「城跡らしくない」とかほざいてる私でしたのでまったくもって恥ずかしい限りです(-_-;;
 加納城は美濃守護の斉藤利国が拠った明応年間の頃がもっとも活躍したのではないでしょうか。近隣の船田城、革手城などとの緊張は文明美濃の乱、船田合戦とも言われていますね。現在は本丸を中心とする部分のみが残されていますが、それでも当時の雰囲気を実によく残しています。石垣には積み直しもあるようですが、それでもこれだけの状態を平地の民家が立ち並ぶ中に保存されているあたりは地元の方のご協力や行政のご苦労もあったことだろうと推測されます。
 この日は岐阜駅から歩いて付近を散策しました。ほかにもいくつかマイナーな城跡を訪問し、地元の高齢者にお話をうかがってみると、なぜかこの加納城を中心とした話になっていることが興味深かったです。岐阜城じゃないんですね(^-^)。
 加納城は斉藤道三が台頭したときに一旦廃城となりましたが、慶長以後は本多忠勝が修復し、それが今日にいたっています。かつては三階櫓もあったようですが、それを復元してみてはどうだろうかと思うのは私だけでしょうか。って・・無理があるか。(^-^;
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