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正法寺の陣跡登城日:(2006.04.22) 所在地: 岐阜市薬師町 |
歴史 |
霊薬山正法寺は、十四世紀中頃、美濃の守護土岐頼康によって、革手城の北に建立された、禅宗法燈派の寺院である。開山は、法燈派のひと嫩桂正栄(どんけいしょうえい)(五山派において五山・十刹につぐ寺格)であったことが確認され、多くの塔頭(たっちゅう)とともに、広壮な規模を誇った。 応仁文明の乱(1467〜1477)により、一条兼良・雪舟等楊・足利義視などの当代一流の文化人や有力者が多くこの地を訪れ、文化の花が開いた。 明応四年(1495)船田合戦が始まると、正法寺は戦場となり、被害を受けた。その後、永禄(1600年頃)には、加納城築城のため、寺地内の土石が採取されたと伝えられる。 このように正法寺は、土岐氏の衰亡とともに衰微、現在は薬師堂が往古をしのばせるだけである。 『正法寺跡案内板』より
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資料 |
私見 |
正法寺に陣を構えられたのは土岐成頼が守護であった応仁の頃でした。成頼には長子政房がいたのですが末子である妾腹の元頼に跡をつがせようとしたために混乱が生じてしまいました。中国の古典からよくあるパターンですね。 成頼は守護代斉藤利国の家臣である石丸利光をたのみ、利国を謀殺したのですが失敗。ついには軍をあげての互いににらみ合いが始まってしまいます。石丸は船田城に、斉藤は加納城に、成頼は革手城にそれぞれいたのですが互いの距離は数百メートルという指呼の距離ですから当時の緊張ぶりは想像をはるかに超えるものでしょうね。実際私はこの日、それぞれを自転車で巡ってみましたがその距離の近さには驚きです。そんな風雲急を告げる明応四年(1495)、石丸方が築いたのが革手城すぐ北で加納城との間にある正法寺の陣でした。しかし結局は尾張の織田氏の協力を得た斉藤氏方の勝利となり、石丸は船田城を焼き、近江の六角氏をたよって落ちてゆきました。(日本城郭体系6「船田城」項参照) こんなに近かったらほんのわずかな動きでも相手に伝わるだろうに大変だったろうなぁと思います。今は周囲も完全に宅地ぶものはありませんがその位置関係が分かるだけでもかなりリアルに感じることができますね。
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