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竹中氏陣屋跡
登城日:(2004.10.09)
所在地: 不破郡垂井町岩手
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
櫓門と石垣 ◆竹中半兵衛重治
(1544年〜1579年)
 重治公はこの地の菩提山城を本拠とし、智謀神の如しといわれた名軍師で、木下藤吉郎に三顧の礼をもって迎えられた。信長に仕え、秀吉の懐刀となり、形影相伴って各地を転戦し、知恵袋として活躍した無欲の武将であった。播州三木城攻略中惜しくも三十六才の若さで陣没した。墓はここより北五百メートルの禅憧寺にある。

◆旗本竹中氏陣屋跡
 竹中重治没後、嫡男重門は関ヶ原の役には徳川家康に味方し五千石を安堵さ恩賞を賜り旗本となった。この頃、菩提山城を下り、ここに陣屋を構え領地を支配した。
 現存する木造白壁塗りの櫓門稍破損している門扉・門をはいって正面にあるめかくし石垣・濠・石垣などが当時の面影を留めている。

『竹中氏陣屋跡案内板』より

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資料
 

私見
水濠です。 目隠し石垣から見た櫓門  竹中氏陣屋跡は櫓門、石垣、水濠、土塁など多くの遺構を残す城跡でした。現在は、城域内南側に幼稚園、小学校が立ち、破壊されてしまっていますが、北側は良好な状態で残されています。
 まずはじめに櫓門に感動なのですが、内側から見上げると白塗りの壁が少しはがれておりそれが余計に歴史の重みを感じずにはいられませんでした。竹中半兵衛の像はうまく写真が撮れず真っ黒(--;。
 さて、櫓門をくぐると正面に石垣の間仕切りがあります。「めかくし石垣」って言うんですね。北海道の陣屋でこれの土塁版を見ましたが石垣で綺麗に残っているのは嬉しいですね。普段は外部から幼稚園の中を覗かれないようになっているんです(笑)。
 門内は以前は枡形になっていたらしいのですが、現在は「一文字土居」が残る、とあります。どこのことだったんでしょうか?うーん・・。
 北側に立つ民家の裏手から小学校校舎の裏手までぐるりと城域だったようで土塁が残っていたようです。私は藪の中を少し確認しただけでしたのでよく見てません。それにしても、近世陣屋の遺構でここまで保存されているのは珍しいんじゃないでしょうかねぇ。
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