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鶉古城跡
登城日:(2003.05.04)
所在地: 邑楽郡邑楽町鶉新田字小城
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 土塁と空堀跡が残る鶉古城  鶉新田字小城にある。多々良沼に突出した「荒間崎」と呼ばれた半島部に築かれた城である。城名については葵下坂といわれた幕府御用鍛冶康継二代の弟が、この地に住み脇差に「鶉古城打」という銘を残しているところから江戸初期、すでにこの名称が使われていたものであろう。
 城跡西南端に当たる入口の道路付近から、半島部を横断するように北に向かって直線にのびる、高さ三メートル、長さ二百五十メートルほどの土塁と、その西側に沿って空堀がある。
 元弘三年(1333)五月、北条高時が鎌倉に滅ぼされたとき、その弟の僧彗性・荒間朝春らはともに逃れて来て、ここに築城。応永年間(1394〜1428)には多々良四郎忠致の居城となり、さらに戦国時代を迎えると、館林城主の重臣で下野国小曽根郷八形(足利市高松町)城主小曽根政義は小田原北条氏の来攻に備え、兼帯で当城を守備した。しかし、天正十八年(1590)館林落城に伴い廃城となり鶉古城二百五十余年の歴史を閉じた。今はわずかに残る塁濠と、先端浮島に安置してある南北朝期と推定される墓石の一部が、辺りの風景とともに往時の繁栄を物語る。

『鶉古城跡案内板』より

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資料  

私見 鶉古城址碑  浮島弁財天へ向かって突き出たような形になっている部分に鶉古城跡がありました。ゴールデンウィークの休日ということもあり駐車場は満車状態、人もかなり出ていましたが私はバイクなのでささーっと(笑)、城址碑脇まで簡単にたどり着くことができました。案内板と城址碑があり、その奥に横に長く続いている土塁と、その奥に空堀あとがはっきりと残っているかなり良好な状態です。
 ですが、バーベキューやキャッチボール、水遊びなどわいわい騒ぐ人たちのなかで城跡をめぐる自分の姿に久々疑問を感じつつ(笑)、すぐにその場をあとにしました。
 「往時の繁栄を物語る」といってもこれだけ周りが賑わってちゃちょっと想像しにくいって・・。
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