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神辺城跡 登城日:(2000.05.04→2007.12.08) 所在地: 福山市神辺町川北 |
歴史 |
神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北戦争争乱)で戦功をあげた朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武二(1335)年築城したと伝えられています。
以来神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康・上杉顕能・渋川義兼・山名時義が守護となり一時期を除いて山名氏の備後支配がつづきそれぞれ守護代が居城しています。 戦国時代には杉原理興・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄・毛利元康が、江戸時代には福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ福島時代に完成をみています。 元和五(1619)年の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓楼や門などが取り壊され移築されたといわれています。実に二百八十数年もの間、神辺城は備後国の中心的役割を果たしてきた城です。 『神辺城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
神辺城は7年振りの登城となります。以前書いた登城記を1日でも早く削除しないと(^^;と思っていたお城の1つです。12月は下草もなく、又整備もされているようでかなり見やすい状態でした。
駐車場を降り、毛抜堀の写真を1枚。(うーん、なぜこれを見ても遺構がないと書いていたのか・・?(大汗))そのまま登城ルートに従い歩いていくと、右手斜面上に石がごろごろしているのが見えました。そういえば本丸南斜面には石垣があったなぁと聞いていたのを思い出しました。 石垣のことは後回しにし、まずは周囲の眺望を楽しみます。視界に入る里山や丘陵部にはたいてい城地であったとか。さていつ制覇しましょうかねぇ(^^;。また地表面のうねりがなんとも言えない迫力があります。備後の中心的役割を果たしていたのも納得です。 段差をあがり、最高所の本丸に到着しました。特になにもないですが、さきほど見えた石を確認するため南側斜面へ滑り降ります。すると・・・すぐに見つかりました。ほとんど一段の列が一定ラインを保っているように見えますが、ほとんどは斜面を落ちていったもののように見えます。その中でも一番よく確認できるものでは2段に重なり合っているものがありました。おそらく現在ではこれがもっともいい状態の石垣なんでしょう。 本丸から北側へと続く郭に井戸があり、綺麗な削平地が尾根先まで伸びています。そこから本丸のほうを振り返るとその斜面の見事さに圧倒されます。神辺城の魅力を語る上でこの切岸は筆頭に来るんじゃないかと思うほど見事です。又、そこからもとの駐車場へのルート途中に栗石らしき小石が多く斜面の土中に埋もれているのが確認できました。このあたりは石垣が取り除かれたのでしょうね。今もそれを感じさせてくれるままの状態なのも素晴らしいです。
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