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熊谷氏土居屋敷

熊谷氏土居屋敷跡


登城日:(2011.07.31)
所在地: 広島市安佐北区三入南1丁目
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
 熊谷氏と三入荘
高松山城の麓に位置する屋敷跡  承久の変(1221)で勝利をおさめた鎌倉幕府は、戦功のあった武将たちを西国各地の守護・地頭に任じた。武蔵国熊谷郡(埼玉県熊谷市)の熊谷氏は、安芸国三入荘(現在の大字大林、桐原、上・下町屋付近)の地頭に任ぜられると、間もなくこの地に移り伊勢が坪に城を築いた。その後室町期に入ってから戦略的により優れた高松山に本拠を進め、麓に屋敷を構えた。また、この屋敷と根之谷川をはさんで向かい合う位置に一族の菩提所・正法山観音寺を営んだ。
 土居屋敷跡
 伊勢が坪城から高松城に本拠を進めた熊谷氏が、天正十九年(1591)毛利氏に従って広島に移るまで、平生使用していた屋敷・政庁跡である。背後に高松城(海抜高度339m)をひかえ、前面の根之谷川を天然の堀とした要害の地にある。屋敷跡の広さは約20アールと推定されるが、現在は、わずかにL字型に残る石垣にその跡をとどめる。なお、正面中央付近の「切りかけ」は門跡と考えられている。また、この付近一帯の字を土居というが、これは有力な地方豪族の屋敷を中心とした中世の集落が、この地に存在していたことを物語るものである。

『熊谷氏土居屋敷跡案内板』より

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資料
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私見
門跡とされる石垣の切り欠け  山陽自動車道「広島IC」を降りて国道54号線を北へと進めていくと、いかにも城らしい山が右脇に聳えているのがわかります。高松山城です。今回はそちらには行かず、少し通り過ぎたあたり「土居橋西詰」を右折し、根之谷川を渡ります。狭い道ですので駐車スペースの確保が重要です。そして屋敷跡は200メートルほど北方やや奥まったところにありました。高松山北西麓に現在も石垣が残っているのが嬉しいですね。その規模約20アールということですので、現在ちょうど駐車場となっているあたりが屋敷跡なのでしょうか。また山裾のほうにいくと高松山城への登城道が示されています。夏場にこんな比高のある山にいく気力はありませんが、ほんとうはセットで攻めたいところです。
 改めて石積みを見てみますと、大きな石が多く使われているのですね。一瞬吉川元春館を思い浮かべましたが、やはりその石垣とは全然違います。石垣がよく残されているのはいいのですが、指定されている史跡がどこまでなのかがよく分らないのがちょっと残念な気はします。
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