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大可島城跡 登城日:(2003.10.27) 所在地: 福山市鞆町古城跡、円福寺 |
歴史 |
1342年(康永元年)四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘で合戦となりました。大可島城にこもる南朝方の守将桑原伊賀守はじめ将兵達は全滅しました。1349(正平四)年足利尊氏の弟直義の養子直冬は四国探題として大可島城にいたこともありました。その後、戦国時代、村上水軍の一族が大可島城を拠点に海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。 ◆桑原伊賀守重信一族墓域修復碑姪 桑原重信一族この地に逝きて六百有余歳墓石散逸し、墓域荒廃す。 そもそも桑原家は代々備後国服部永谷に住し椋山城主たり。元弘の頃備後一の宮櫻山慈俊と共に後醍醐帝に仕え、南朝の忠臣として歴戦し、建武の中興には従五位下刑部少輔に任ぜられ、沼隈郡山南石浦城主となり鞆城代をも兼ね、南北分るるにのぞみても、あくまで南朝に属し、遂に大可島合戦に一族と共に死す。その後裔一族各地に残り今に至る。先祖を偲び同族相計りて、大可島城址の墓域を修復し、残存せる墓石を集めここに祀る。 『大可島城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
鞆城跡である鞆歴史民俗資料館から南へ目をやると道路をはさんで向かいにも高所となったところが確認できると思います。現在円福寺が建っている大可島城跡です。大可島城はかつては島だったのですが、どうやらその道路のところで分断されるようです。 円福寺へはまっすぐに伸びた石段を登っていき、境内にある案内板と音声ガイド(10円だったかな?利用してませんが)があるだけです。が、南西側の一段低くなったところには桑原氏の後裔の方の手による碑と五輪塔が守られていました。南北朝の世に激しく燧灘で船戦を繰り広げた両軍。風に流された南朝側が鞆に上陸し大可島城を占拠した。が、折りしも味方である伊予勢が引き上げてしまったため、石浦城主桑原伊勢守重信は取り残されることになってしまい、ここで最後を遂げることとなりました。 円福寺の東側はわかりにくいですが、仙酔島をはじめ美しい景色が広がっています。波は穏やかで鮮やかなブルーが心を落ち着かせてくれますね。
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