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松前城跡
登城日:(2002.10.26)
所在地: 松前郡松前町字松城
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 復元三層天守閣  今から約700年以前の鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代の終り頃には和人政権の拠点となり、その後、武田信広(松前家始祖)がコシャマインの乱(1457)を平定し、蛎崎家を継ぎ、その子光広(松前家二世)以降代々福山館ができるまで大館に城を築いていた。五世慶広の時、松前氏に改め、幕府より蝦夷地における支配権を認められ松前藩が成立。
 十七世崇広が徳川幕府から北辺警備の命を受け、高崎藩の市川一学の設計により安政元年(1854)に日本最後の旧式築城として完成したもので、約七万六千平方メートルを有する堂々たる城郭であった。特に城内に砲台を備え、一見簡素に見える天守閣も、火器戦争には最も頑丈な意匠構造で、従来の日本式に西洋式が加味されている点は、全国的にも特異な城である。その背景には、ロシアの南下など外国船の日本侵略を防ぐ目的があって、松前藩は北辺警備の重大な役割を果たしていた。
 現在の天守閣は、昭和三十六年に再建されたものである。

◆福山城(松前城)本丸御殿修理概要等
 福山城(松前城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城で、近世に築城された北海道唯一の城郭である。松前家五世慶広が、天正十七(1589)年徳山(大館)の居館焼失を機に、慶長五年(1600)年福山の地で築城に着手し、同十一(1606)年完成した。
 蝦夷地の中心として威容を誇ったこの城は、嘉永三(1850)年幕府の命により取り壊され、高崎藩士市川一学の縄張により、直ちに全面的な改築に着手し、安政元(1854)年完成をみ。
 その後十数年を経ずして、明治維新後の戦乱により廃墟と化し、さらに明治八(1875)年に天守(三重櫓)・本丸御門・同東塀等を残して壊された。昭和十六年これら三棟は、国宝に指定されたが、同二十四年本丸御門を残して他の建物が焼失し、指定を解除された。同二十五年文化財保護法の施行により、本丸御門は重要文化財に指定された。
 本丸御門は昭和二十四年に屋根葺替部分修理を行っているが、修理後三十五年を経て、屋根銅板が磨耗し、雨漏りを生じるようになり、また昭和五十八年の日本海中部地震により、柱の傾斜等が生じたため、屋根葺替部分修理を実施した。実施に当っては松前町の直轄工事とし、設計監理を松前町教育委員会文化財課が担当した。 本丸表御殿玄関 ◆旧福山城本丸表御殿玄関
 慶長十一(1606)年に完成した城は、当時これを福山館と称していた。しかし、寛永十四(1637)年城中から火を出し、多くの建物を焼失、同十六年これを修築した。
 その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。
 明治八年、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門、表御殿は残った。表御殿は松城小学校として充用され、明治三十三年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和五十七年まで利用されてきた。

『松前城跡案内板』より

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資料  

私見 天守閣裏手  新千歳空港からレンタカーを飛ばして、松前までやってきました。時間は夕方の5時ごろですがあたりはすっかり暗くなっています。松前城は資料館になっていてすでに閉館になっていたんですが城門は開いていましたのでそそくさと(笑)入城して薄暗がりのなかを写真を撮りまくりました。資料館となっている松前城天守閣は昭和三十六年に復元されたものですが、かつては日本式と西洋式が混在した特異なものだったんですね。いったいどんな姿だったんでしょう。
 また本丸表御殿が京都の伏見城の一部から移築したんだとか・・なんでこんなところまで持ってきたのか不思議ですが、にわかには信じれらないです。
 あと、この松前は天守がある裏手には広々と公園や、屋敷跡散策できるところがいろいろ用意されています。ですからこんな暗がりじゃなく明るい昼間だったらもっと楽しかったんだろうなぁと思いつつまた函館方面に車を飛ばしました。
 しかし、あーー画像の手直しが面倒(笑)。
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