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四稜郭跡 登城日:(2002.10.27) 所在地: 函館市陣川町59 |
歴史 |
明治二年(1869)春、五稜郭にこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣屋を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約三キロの緩傾面台地にも洋式の台場を急造した。 これが四稜郭である。 四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空壕をめぐらし、郭内(面積約2,300平方メートル)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。 なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約200名と付近の村民(赤川・神山・鍛冶村)約100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれている。 明治二年五月十一日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。 同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開始した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。 五月十八日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。 『四稜郭跡案内板』より
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資料 |
私見 |
同じ函館市内にありながら、五稜郭とは扱いもその知名度にも天と地ほどの差がある四稜郭。私にはそこまでの差を理解できるほどの勉強ができてませんのでよく知りませんが、しかしいってみると「まさかこれほどまでとは・・」と驚かされるほど綺麗な状態で保存されているのにびっくりしました。五稜郭とは規模が違うものの、逆に人の目で見て一望でき、たしかに四つの角があること、そしてすべて土塁で守られていることが確認できるこちらのほうが直感的に、迫力が直に伝わってくる気がして気に入りました。 郭のすぐ外側をぐるりと土塁が防御し、そしてそのすぐ外側には浅いですが掘跡がありました。また馬隠しのような土塁もあります。また内側には四つの角を交差するように通路のようなものがあったようで、まるで戦争のための要塞と言いますか、むしろ陣城といってしまったほうが私には理解しやすかったです。案外言いえてるのかも・・? しかし、旧幕府軍が占領した五稜郭の抑えとして建設したというこの四稜郭ですが、ここもまた西洋式なんですねぇ。この当時はこの築城法が主流だったのでしょうか。まぁ武器もかなり進歩してますしねえ。 なんか、ナスカの地上絵のような造形を連想させてくれる五稜郭、四稜郭ですね、私にはそんな印象を受けました。
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