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阿閇城跡登城日:(2013.07.15) 所在地: 加古川市別府町西脇2丁目 |
歴史 |
阿閇城は加古政顕の領する小城であったとされるが、詳細は不明である。天正六年(1578)羽柴秀吉が三木城を攻めた際に、政顕は別所方として三木城に入城した。阿閇城は小城ながらも海上ルートの監視に適していたため、秀吉は毛利から三木城への物資の流入を防ぐためにこれを押え、織田方についた別所重棟を城に入れた。 同年四月、雑賀衆を含む約八千人の毛利水軍が阿閇城へと迫った。これに対し秀吉は小寺官兵衛に兵五百で向かわせ、毛利勢を撃退することに成功した。この戦報は信長にも届き、この時の信長の感状の内容が『黒田家譜』に残されている。 同八年(1580)終に三木城が落城し、秀吉は城下の鎮静を図るともに西播磨の平定、そして姫路城へと本拠を移した。その際、不要となった城を壊すよう命じたが、その中の一つ阿閇城も津田小八郎の手によって廃城となった。 『阿閇の里』播磨町刊/播磨町の民話と郷土史』播磨町立図書館刊参照
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資料 |
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私見 |
阿閇城の名前は播磨灘物語にも書かれていましたので知っていましたが、どこにあったのかは分かりませんでした。三木合戦に関する資料にも、信長公記にもその名はありません。ほんとにあったのかな?と思っていたくらいです。しかし黒田家譜には詳しい記載があったのですね。ということで改めて場所を考えてみることにしました。 この付近にあったとされるお城を調べてみますと、別府城、本庄構居などはありますが阿閇城はありませんね。別名のように扱っているものもあり、なんとも心もとないです。現在、別府は加古川市にあり、阿閇は播磨町内と分かれていることもさらに複雑にしてくれます。しかし元々は阿閇荘がこの辺り一帯を指していましたので、その中の別府(村)にあったお城ということが名称がいくつもある由縁なのでしょう。現在、阿閇城の発掘調査は行われておりませんのでその痕跡は見つかっていません。また、埋蔵文化財包蔵地の登録もされていない状態です。ということで、ここから先は完全に想像の世界です。つまりお城めぐりの醍醐味というわけです。 信長の感状には「阿閇要害」、秀吉から官兵衛にあてたものには「別府表」とあり、同じことを指しているのにほんとややこしい人たちですね。そうした混乱もあり、阿閇城の比定地として諸説あることもやむを得ない状況でしょう。播磨町内では、周囲に濠があったとされる蓮花寺や、福勝寺、はたまた多木化学の工場敷地内にあったとみる説などがあります。 一方、加古川市内の説には秀吉の「別府表」から別府町に着目し、字名として”屋敷”と伝わる場所を比定しています。さらにそこには周囲に堀跡とみられる水路が現在も残されています。現在、宝蔵寺が建つ地点の東側の一角、西脇戎神社が建つあたりが阿閇城があった場所だったのではないかというのです。私は『播磨町の民話と郷土史』に書かれている別府町西脇の場所を城跡なんだと思うことにします。改めて付近を散策してみましたが、城跡らしき痕跡は一切見つかりません。何もありませんが、ここに至るまで様々な想像や妄想を膨らませられたことが何よりの楽しみとなりました。
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