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茶臼山城跡
登城日:(2004.12.12)
所在地: 赤穂市坂越
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
坂越浦城の裏山山頂が城跡です。  茶臼山城は、嘉吉の変(1441)に赤松氏を攻め落した山名持豊がしばらくここに居たとされている。坂越浦城の出城としての役割だったのではないかとも言われている。

◆和田備後守範長公一族五霊位の墓所
 建武中興(南北朝六百六十余年前)の直後、「源氏の武家政治」の復活を志す足利尊氏は、「国民の福祉」を優先する後醍醐天皇の信頼を裏切り、九州に逃れ二十万の大軍を催し、都へ向けて東上しました。備前熊山の城主児島高徳公の義父、和田範長公は、尊氏方へ恩賞の勧誘を断り、勤王の旗印を掲げ大義名分を重んじ、後醍醐天皇に合流しようと坂越浦へたどりつきました。熊山城の夜戦で重症の高徳公を妙見寺の僧に託し、八十三騎の手勢を率い那波浦を駆け抜け、赤松円心の追手勢と十数回の合戦の末、力つき、延元元年四月二十二日、阿弥陀が宿の辻堂で一族五名自害討死しました。敵将宇野重氏は大日寺で懇ろに葬礼を指示し、遺骨を郷里へ送り届けました。(太平記)
 昭和五十五年四月十八日、此の地で五基の五輪塔を発掘、地輪石を原状の儘保存、当時の住僧が遺骨を埋葬した事を考証しました。
 墓所内の五輪塔は左側から、和田備後守範長公、今木太郎範季公、今木次郎範仲公、中西四郎範顕公、松崎彦四郎範代公のお墓です。
 平成七年六月二十二日、岡山の施主家のご芳志により、新五輪塔五基が奉納されました。

『現地案内板』他

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資料
 

私見
眼下には生島の美しい景色が広がります。  坂越浦城跡である公園脇の案内図では右に宝珠山への登山道がくねくねと続いています。そしてその先には茶臼山城という文字が!前回見逃していたんですね。早速登っていくことにします。
 車はどうしようか悩んだのですが、私は徒歩であがることにしました。途中、児島高徳や和田範長の墓石もあり、歴史を感じながら登っていきます。しかし、最後まで車であがってしまうことも可能な道でしたのでささっといってしまうのもアリでしょうね。山上にはNHKの電波塔がたち、城跡であることを感じ取るのは難しくなっています。元々、坂越浦城の物見台程度のものだったんでしょうかね。
 生島が美しく見えますので天気がよければ最高の景色を楽しむことは保証します。
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