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中道子山城跡 登城日:(1999.05.23) 所在地: 加古川市志方町 |
歴史 | ![]() ![]() 嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱において赤松惣領家は断絶したとされ、とそれは同時に中道子山城の城主であった繁広の運命も同じくしたものであったであろうと考えられています。しかし、其の後応仁・文明の乱(1467〜1477)の時に赤松政則が赤松家を再興し、それに従軍した孝橋繁景(繁広の子)が中道子山城に復帰しました。 その後、赤松家の中で次第に力をもつようになってきた重臣の浦上氏や、出雲の尼子氏、摂津の三好氏などと熾烈な死闘を繰り返していきました。 やがて天正年間には、羽柴秀吉の攻撃をうけて落城したとされています。 神戸新聞総合出版センター「ひょうごの城紀行(下)」より
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資料 |
私見 | ![]() 約十分ほどでしょうか、二の丸跡という標識がある場所にでました。現在私は山の南東の尾根を登っています。そしてこの二の丸を先頭にしてこの方面の曲輪群が顔をならべているはずです。(私にはよく分かりませんでしたが。)随所に古い石垣を草の合間から確認することができました。 約五分後、山頂に着くとそこから左右に曲輪群は分岐して広がっています。右手、すなわち山の北東部には深い堀切で分けられた本丸があります。現在は短い草が生えそろった広場になっているだけです。 再度中央部分に戻り、こんどはさきほどとは反対にある北西部分です。こちらは三の丸跡と大きな二重の堀切が掘ってあります。 思い出したように眼下に広がる播州平野を見渡してみます。非常に遠くまで見晴らしがきくことにびっくりしました。赤松氏はここで永い間播磨に睨みをきかしていたのでしょうね。ここ中道子山城が山全体を覆った城の構えを見て本格的な山城であることが本当によくわかりました。
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