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中道子山城跡 登城日:(1999.05.23) 所在地: 加古川市志方町 |
歴史 |
志方町の東、通称「城山」に中道子山城が作られたのは永正十五年(1558)で当時播磨一帯を領していた赤松円心則村の子、氏則が城郭として使用したのがはじまりであったようです。が、一方で「播磨鑑」や「播城志」などの記述によると赤松繁広が築城したものとなっているものもあります。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱において赤松惣領家は断絶したとされ、とそれは同時に中道子山城の城主であった繁広の運命も同じくしたものであったであろうと考えられています。しかし、其の後応仁・文明の乱(1467〜1477)の時に赤松政則が赤松家を再興し、それに従軍した孝橋繁景(繁広の子)が中道子山城に復帰しました。 その後、赤松家の中で次第に力をもつようになってきた重臣の浦上氏や、出雲の尼子氏、摂津の三好氏などと熾烈な死闘を繰り返していきました。 やがて天正年間には、羽柴秀吉の攻撃をうけて落城したとされています。 神戸新聞総合出版センター「ひょうごの城紀行(下)」より
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資料 |
私見 |
志方城、天神山城に続き加古川市志方町三番目の攻城となったのは本格的山城として脚光を浴びるようになってきた中道子山城です。いつものように車で麓まで近づきましたが、あと山頂まで約4キロというところで「関係者以外立ち入り禁止」と標識が出ています。おまけにその道は車がようやく一台通れる程度の細い道路です。約15分ほどしばらく立ち往生してしまいました。強行すべきか、はたまた歩いていくべきか。そしてそんな迷いも嘘のように思い切りアクセルを踏みこんだ私は山道を快調に登っていきました。「自分は城関係者だし」(笑)。なんの言い訳にもならないことをその時は真剣に考えながら、運良く車は約2キロを走りすぎ、山道前までたどり着くことができました。そしてそこにすでに2台の先客がいることを知った私は深い安堵に胸をなで下ろすと目の前の整備された木と土の階段を駆け登っていきました。 約十分ほどでしょうか、二の丸跡という標識がある場所にでました。現在私は山の南東の尾根を登っています。そしてこの二の丸を先頭にしてこの方面の曲輪群が顔をならべているはずです。(私にはよく分かりませんでしたが。)随所に古い石垣を草の合間から確認することができました。 約五分後、山頂に着くとそこから左右に曲輪群は分岐して広がっています。右手、すなわち山の北東部には深い堀切で分けられた本丸があります。現在は短い草が生えそろった広場になっているだけです。 再度中央部分に戻り、こんどはさきほどとは反対にある北西部分です。こちらは三の丸跡と大きな二重の堀切が掘ってあります。 思い出したように眼下に広がる播州平野を見渡してみます。非常に遠くまで見晴らしがきくことにびっくりしました。赤松氏はここで永い間播磨に睨みをきかしていたのでしょうね。ここ中道子山城が山全体を覆った城の構えを見て本格的な山城であることが本当によくわかりました。
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