
この地は但馬、播磨の国境にあり、北は天領(幕府直轄地)生野銀山に接した交通の要所のため寛文四年(1664)五月、徳川家康の外戚に当たる池田能登守政直公(祖父が家康の娘督姫、祖父は姫路藩主池田三左衛門輝政)が福本一万石を与えられ因幡国(今の鳥取県)
鹿野より入部されて以来明治維新まで約200年間神崎郡北部の政治、経済の中心となったところです。
建物は小藩のため陣屋形式で現在の大歳神社境内全体が藩邸跡で社殿のところには藩主御殿があり、又神社参道の両側には家臣の屋敷約100戸が整然と立て並び武家屋敷と町家は竹林による天然の防護柵で区切られておりました。当時の面影を残すものとしては月見燈篭が浮かぶ藩邸跡の庭園及び国道添いに残している武家屋敷数軒、防護を目的とした竹林等があります。
又、これより北方300メートルのところには藩主池田家の菩提寺一関山徹心寺があり寺の奥まった杉木立の中には歴代藩主八代の墓があります。墓に池田の姓のほか松平の姓を刻むものがありますがこれは慶長十四年に輝澄公が家康公に謁見し松平の姓を賜ったためです。
この地は明治維新まで約200年の間神崎郡北部の政治経済の中心でした。現在の大歳神社付近一帯が陣屋形式の藩邸跡です。陣屋の面影は本殿の南側に残っている池付近に往時の庭園がしのばれます。木々の間に池が広がり、その中の細い道で結ばれた島に月見灯篭があるすばらしい、回遊式庭園地である。又陣屋の構造は播磨のほかの小藩と違い、藩主の屋敷と侍屋敷を一体として竹矢来を組み防衛の体制をかためています。大歳神社は廃藩後大正二年に福本字や真似から移されたものです。