Check |
鹿野城跡登城日:(2000.05.05→2010.01.03) 所在地: 鳥取市鹿野町鹿野、鹿野城跡公園 |
歴史 |
◆亀井茲矩と朝鮮半島 鹿野城主亀井武蔵守茲矩は1557年に出雲国(島根県玉湯町)に生まれた。茲矩は山中鹿介らと結託し、尼子氏再興を目指し山陰各地で毛利氏と戦う。後に豊臣秀吉の鳥取城攻めに参加し、その功によって鹿野城主となる。 茲矩は大変豪壮な武将で、秀吉が「もはや出雲をやることはできなくなった。他に欲しい所はないか。」と尋ねたのに対し、「琉球を下さい」と言い、その大胆な発想を褒め讃えて「亀井琉球守」と軍扇に書いて与えたという。また茲矩は狭い日本には飽き足らず、朱印船貿易により大きな利益を得て、領内の開発を行った。 同時期に、茲矩は秀吉の海外大陸進出計画の朝鮮遠征に加えられた。秀吉の朝鮮遠征は順調に成果を上げていった。しかし朝鮮救国の全羅左道水使・李舜臣が亀甲船を率いて戦陣に加わると情勢が一変した。李舜臣は朝鮮半島の唐浦に茲矩の軍が駐泊しているところに奇襲攻撃をかけ、その攻撃を受けた茲矩の水軍は全艦焼失し全員陸へ逃れた。この時、茲矩は秀吉から貰い受けた軍扇を失った。その軍扇は朝鮮救国の虞侯・李夢亀が拾ったと言われている。 茲矩はその後、陸上に逃れて各地を転戦する。その道中に虎を生け捕りにし、秀吉にその虎を献上して大変な評判となった。また、茲矩は鹿野城の改築にあたり、朝鮮櫓、オランダ櫓を城内に建立し、懐かしの地の風物を偲んだ。 この戦を日本では文禄・慶長の役と呼び、朝鮮半島では倭乱と呼んでいる。 1578年羽柴秀吉が亀井茲矩等を先駆として、毛利氏の支城となっていた鹿野城を攻めおとし、羽柴軍山陰攻めの前線基地の役割を持ちました。亀井茲矩は鹿野城の城番を命ぜられ、翌年の秀吉の再出陣までの間、鹿野城を守るのみでなく、近くの諸城を攻め落し、これらの功により城主に任命されました。関ヶ原の戦いの後、世の中がおちつくと、茲矩は城の大拡張を行いました。古い鹿野城は山頂に近い部分だけの山城でしたが、山麓を中心に本丸・周囲に薬研堀、内堀、その外側に外堀をつくり近世の城として面目を一新しました。その一方でまえからの山城を整備しました。城は、仏教思想にもとづく「王舎城」の名が、また、櫓には南蛮貿易を物語る「朝鮮櫓」「オランダ櫓」の名が残っている。 ◆城址の由来 天文十三年、鹿埜入道以下三百余人が、尼子晴久に攻められて、この城で討死したことが、陰徳記に見えている。 後、山名源七郎、三吉三郎左衛門、進藤豊後守等を経て、亀井武蔵守茲矩が豊臣秀吉の命によってこの城を監し、後ここを居城として、気多、高草二郡を治めた。 亀井氏は領内の殖産興業につとめ、朱印船貿易にも手を染めたが、嗣子豊前守政矩の時石州津和野に移封せられ、その後は松平新太郎光政の家臣日置氏の采邑となった。 日置氏が光政と共に備前に移るや、城は頽壊し、坊街も年々にさびれた。 更に、寛永十四年、天草の乱の後、諸国の古城を毀壊すべき令が発せられた際、この城も悉く石壁を毀ち、今見る荒蕪の丘墟となった。 その後、故有って松平石見守輝澄(石入公)がこの地に左遷され、山麓に二十余年を過ごしたといわれる。 ◆西の丸御殿跡 鹿野城跡の山城部分の曲輪の中で一番広い曲輪であり、入口(東の山側)付近に井戸があったという。曲輪の西半には南北七間半(約十六メートル)東西八間(約十七メートル)に礎石の配列が残っている。 これは初代藩主亀井茲矩の隠居所(西の丸)の跡といわれ、本瓦葺の書院造りの殿舎が建てられ、また海外の珍奇の材で一室を構えたという「唐木御殿」もここにあったのだろう。 ◆天守台 天正九年(1581)、羽柴秀吉から気多郡を拝領(一万三千八百石)し、鹿野城主となった亀井武蔵守茲矩は、慶長五年(1600)の関ヶ原の功によって高草郡を加封され、三万八千石となりました(二代政矩のとき五千石を加え四万三千石となる)。茲矩は、新田開発、植林、治水、殖産興業、御朱印船貿易等、実に注目される治世を行いました。 鹿野城(王舎城)の大改修は、この頃(慶長六、七年から十二、三年まで)のようで、お城山の山頂(約150メートル)に天守を築いています。 現在の天守台跡を見ると10メートル四方の礎石列の外側二メートルに七間(14メートル)四方の外側線と、その基底部に根石が残っており、この七間四方の石垣の上に本瓦葺・入母屋造の三層の建物がそびえていたと推定されています。 『鹿野城跡案内板』より
|
資料 |
【地図を表示する】
|
私見 |
鹿野城は山頂に天守を有する山城部と、麓に二重の水堀を有する近世城郭として亀井氏が拡張したものです。現在は城の北側に二重の水堀を見ることができますが、郭は学校施設が建てられています。駐車場もあり、また案内板や遊歩道も整備されているので大変訪城しやすくなっています。さらに城の北には城下の風情が色濃く残っており、散策するのも楽しいですね。 そして山城の方にも遊歩道が整備されていますので、ゆっくり歩いても10分ほどで山頂に着きます。しかし私が訪れたこの日は雪が思いのほか残っていました。斜面を滑らないように慎重に登っていくしかないのですが、これが意外と疲れるものなんですね。それに大半が雪に覆われていますので、地表に残る遺構がほとんど確認できないという最低なコンディション(^^;。しかし天候はあらかじめ予測できませんのでやむをえませんね。せっかく来たのだからと新雪に足跡をつけつつ山頂を目指します。とは言え鹿野城は随分以前に一度やってきています。ですので今回は天守台付近の石垣跡や堀の様子をピンポイントで見て回ろうとやってきたのです。天守台跡は綺麗に礎石だけが雪の中に顔を出していましたのが助かりました。そして雪で足場が見えにくい斜面に回り込んだところ、なんとか確認できました。石垣の隅石部分でしょうか。とりあえず目的は達成できました。しばらくすると少し吹雪いてきましたので、慌てて退散。でも山麓部はぐるりとみることはできました。正月だったせいか誰もいなくて雪と城を独り占め状態でしたが、平日だったら学校がある関係でこんなに落ち着いてみて回れないのでしょうね。かつては石垣が多用されたそうとう威圧感溢れる外観だったんだろうなと思われる鹿野城ですが、今はすっかり落ち着いた周りの風景に溶け込んだ城跡公園ですね。
|