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御着城跡登城日:(2003.04.28→2011.02.26) 所在地: 姫路市御国野町御着 |
歴史 |
御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。永正十六年(1519)小寺政隆が築城、則職・政職と継承され天正六年(1578)か七年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉吉年間(1441〜44)にはすでに構居が設けられていたとされ、明応年間(1492〜1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能をもつ城郭として機能していた。 昭和五十二〜四年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われた事が判明。中世の人びとの生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。 宝暦五年(1755)の「播州飾東郡東御野庄御着茶臼城地絵図」には城の中核に本丸と二の丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれている。現在、御着城跡の中央を東西に国道二号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館がある。 ここの墓所には、黒田孝高(よしたか)(官兵衛のちの如水)の祖父・重隆(しげたか)と生母(明石氏)の2人がまつってあります。 黒田家は御着城主小寺家の家老となり、重隆の時から姫路城を守って姫路城主となりました。姫路城主は子の職隆(もとたか)、孫の孝高とつぎましたが、天正八年(1580)秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は国府山城(妻鹿)に移りました。職隆の墓所は妻鹿にあります。のちに黒田家は筑前福岡の城主となったので、どちらの墓所も地元では「チクゼンサン」と呼んでいます。 ここの墓所は、1802(享和二年)に資材を九州から運んできて造られました。廟屋を持つ立派なもので、周りの龍山石の石塀から内部は、昭和五十六年に姫路市指定史跡となっています。 姫路藩が文政十一年(1828)にこの地より南西二百メートルの旧西国街道の天川に架橋した総竜山石製の太鼓橋。全長二十六・六メートル、幅四、四五メートルで、高さは約五メートルで橋脚五本。印南郡石工瀬助・仲右衛門の作。姫路藩儒者近藤顧一撰の銘文が刻まれている。橋の東北詰めには高札場があった。昭和四十七年九月九日の出水で中央部橋脚が崩れ橋桁が落下したため撤去し、昭和五十三年十月現在地に移設保存した。高さは地形に合わせて低くしてある。地形中央部の低いところは御着城の濠跡。 『御着城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
何度目かの御着城です。来るたびに綺麗になってきていると思います。最初は城址碑しかない何もないところだと思っていましたが、発掘調査で堀跡があったんだとか、「播州飾東郡東御野庄御着茶臼城地絵図」に書かれた城の様子を見ていますと、実は北と東に四重の堀が、西と南には天川を利用した二重の堀を持つ惣構えのお城だったんですね。どれだけそれを現地で想像するかが御着城の楽しみの1つかもしれません。古くより交通の要衝だったことで栄えていた御着、今は黒田官兵衛に縁の城の1つとして訪問される方が増えるといいですね。
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