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郡家城跡
登城日:(2004.07.19)
所在地: 津名郡一宮町中村土井
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
天守、と呼ばれるところ  郡家城(田村氏館とも)は、淡路一宮の祭主家として来島しここに居を構えたのがはじまりとされている。やがて豪族化するほどに力をつけた田村氏は足利氏次いで三好氏に仕え、巧みに存続していた。天正八年には阿波の一宮成助・篠原右京進が連合して十河存保との争いが激化した際、阿波の勝瑞城に入った十河存保を助けるため田村康弘が兵を進めたことが記録されている。
 がやがて天正十年(1582)六月に羽柴秀吉の淡路攻めにより滅亡した。

『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
土塁も残っています。  郡家城跡は、郡家川と河合川が合流する地点の東側にある城山にありました。念のために付近で農作業されている方に「郡家城はこれですか?」と聞くと「そんなもんは聞いたことがない。」ときっぱり言われてしまいました。でもよくよく聞いてみると「この山はな、城山と言ってわしが子供の頃はよく登って遊んだもんだ」て・・。城山って言ってるのに城跡という発想はないんですね(笑)。五輪塔もいくつかあったという情報も得て勇気百倍、躊躇なく藪の中に身を躍らせます。
 この城山は比高はあまりないのですが、藪の中に入ってみますと思っていたほど草がなく、地形がよくわかるようになっています。城域を南北に分断するように大きな堀跡に加えて、いくつかある削平地には土塁も残っています。堀の西側の削平地は「天守」と呼ばれていたそうです。ここで天守という言葉が出てくることに驚きました。
 遠めにはただの藪山ですが、実は川をうまく防御に用いるなどこの規模にしてはかなり堅牢なものじゃないでしょうか。 
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