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勝瑞城跡 登城日:(2001.02.10) 所在地: 板野郡藍住町勝瑞、見性寺 |
歴史 |
![]() 天文二十一年(1552)に守護の細川持隆は、執事の三好義賢と対立して謀殺され、その後は戦国大名三好氏の居城として栄えた。天正十年(1582)に阿波へ侵攻した土佐の長宗我部元親との間に攻防がくりひろげられ、城主十河存保は敗れて讃岐に退去した。当地に三好三代の墓もある。 天正十三年(1585)に入部した蜂須賀家政は、徳島城の早期築城をすすめるため、廃城となた勝瑞城から石材や建造物の一部を持ち去ったという。 城跡は旧本丸の部分といわれ、いまは三好家の菩提寺である見性寺が下克上の舞台竜音寺を吸収し、その境内となっている。 中世城郭は、山城が圧倒的に多い中で、中富川の水運を利用した平城の勝瑞城は、全国的に貴重な城郭として注目されている。なお見性寺に伝わる三好長輝と長基の画像も県有形文化財に、また徳島藩の儒員で四国正学といわれた那波魯堂の撰になる勝瑞義家碑は町の参考資料に選定されている。 ![]() 天文二年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実権を奪った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。 勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市としても全盛を誇った。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が立ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていた。本丸の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。 天正十年(1582)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。八月二十八日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に篭城したが九月二十一日、讃岐に退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。 その後、天正十三年(1585)の蜂須賀家氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。 周囲を濠に囲まれた当地は本丸跡で、昭和三十年二月七日に徳島県の史跡に指定されている。城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。また、見性寺が所蔵する絹本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は徳島県の有形文化財に指定されている。 「勝瑞城跡案内板」より
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資料 |
私見 |
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